新政策「持続可能なタイ主義」とは何か――タイ軍事暫定政権の狙い

「持続可能なタイ主義」を実施する必要性

 

タイでは、2014年5月のクーデタ後に2007年憲法が破棄されて以降、暫定憲法による統治が続いていた。暫定憲法の第44条によって、プラユット首相は三権(行政権、立法権、司法権)を掌握してきた。そのためプラユット政権下では、様々な政策や人事異動が第44条を使用して実施されており、世界的にも昨今稀にみる強権的な独裁状態となっていた。2017年4月に新恒久憲法が制定されたが、経過規定により、次の総選挙実施後に新内閣が組閣される前日まで、暫定憲法第44条の効力は生き続けると定められている。

 

このようにプラユット首相は国家権力を独占しており、わざわざ末端レベルまで役人を派遣して、国民の「引き締め」を行う必要はないようにも思われる。なぜ今、同政策を実施する必要があったのだろうか。

 

 

<総選挙実施への圧力と人気取り政策の限界>

 

2014年5月のクーデタ以降、約4年間に渡り統治を続けているプラユット政権であるが、総選挙を実施して民政移管せよという圧力は存在する。とくに今年に入ってからは、タムマサート大学の学生や教員らを中心としたグループが、早期の総選挙実施を求めて、幾度も激しい抗議デモを繰り返すようになった。

 

抗議デモの参加者は、政府による厳しい言論統制などもあり限定的な数に留まっている。しかし、日本をはじめとする海外メディアがデモを報じたり、ソーシャルメディアなどを通じてデモの様子が拡散されたりすることによって、政府に対する総選挙実施の圧力が徐々に強くなりつつある。

 

 

写真3(早期の総選挙実施を求める活動家グループ:筆者撮影)

 

 

今年2月、プラユット首相は来年2月に総選挙を実施する旨を明言した。多くのタイ人は依然として総選挙実施について疑いの目を向けているが、選挙委員会は3月2日から3月末まで新政党の登録受付を行い、97の政党が登録を行った。

 

2017年憲法の規定では、最初の上院議員については実質的に現政権が任命権を持つ。また首相については、民選の下院議員から選ばれる必要はないと定められている。そのため、総選挙実施後もプラユット首相が非民選首相として権力の座に戻って来るのではないかと懸念する声が多い。しかし、プラユット首相が総選挙後に首相に返り咲くためには、下院に議席を持つ政党の協力が必要となる。

 

2017年憲法の規定を確認してみよう。首相の選出については、(1)選挙前に各政党が提出する首相候補者(3名まで)の中から下院が選ぶと定められている。また何らかの理由で下院が首相を選出できなかった場合は、(2)上下両院の3分の2以上の票を持って、政党が提出した候補者リストに掲載されていない人物を選ぶことが出来ると定められている。最初の上院は250議席、下院は500議席と定められており、上院の議席数は全体の3分の1を占める。しかし、(1)のケースであれ、(2)のケースであれ、下院に一定数の議席を持つ政党の協力が不可欠となる。

 

そのため、現政権は自らの影響力を及ぼすことができる新しい政党を送り込むだろうと言われてきた。パラン・プラチャー・ラット党がそうであると指摘されており、総選挙実施後に下院で十分な数の議席を抑えるために、他党の政治家をリクルートしていると噂されている。

 

しかし、タイの政治史を振り返ると1950年代以降、過去の軍事政権は幾度も親軍政党により下院をコントロールしようと試み、そして失敗に終わってきた。バンコクで絶対的な政治権力を持つ軍事政権であっても、地方での選挙戦を統制することはできないのである。そのため一部のタイ人研究者からは、今回も同様の試みは失敗に終わるだろうと指摘する声が出ている。

 

また「福祉カード」をはじめ、数々の人気取り政策を実施してきたにもかかわらず、今年1月にバンコクで実施された世論調査では、「プラユット首相を首相に選ぶか」という質問に対して、36.8%が「はい」、34.8%が「いいえ」と答えたと報じられた。また3月には政党の人気について世論調査が実施され、1位がタックシン派のタイ貢献党、2位が民主党、3位が若い実業家が設立して国民の間で話題となっている「新しい未来党」であった。

 

 

<民主党の裏切り?>

 

過去の例から、今回も親軍政党による下院の統制が難しいとなると、頼みの綱は、アピシット元首相とチュアン元首相と擁し、2006年クーデタおよび2014年クーデタにおいて軍との協力関係が噂される民主党である。

 

ところが最近になって、プラユット政権と民主党の間に、総選挙後の首相の座をめぐって亀裂が生じ始めている。とくに、総選挙実施への道筋が見えてきた今年4月以降は、アピシット元首相やチュアン元首相から厳しい発言が相次いでいる。

 

アピシット元首相は「すべての党員は党首を支持すべきである。プラユット首相を推す者は他党へ行ってもらう」(1)「現政権の過去4年間の成果は、国を平和に(静かに)しただけである」(2)と述べ、民主党が総選挙後にプラユット首相を支援しないことを明言した。またチュアン元首相も「プラユット首相は、政治家は悪い人々だと言うが、兵士にも悪い人々がいる」(3)と述べ、プラユット首相による政治が攻撃に対して、真っ向から反発を示すようになった。

 

民主党は、南部に強い地盤を持っており、高い人気を誇ったタックシン首相のタイ愛国党であっても南部の選挙区を切り崩すことはできなかった。そのため総選挙実施後に、民主党が南部を中心に一定数の議席を獲得することは確実であり、同党から首班指名において「不支持」を明言されたことは、プラユット首相にとっては大きな痛手であろう。

 

【注】

(1)https://www.posttoday.com/politic/news/546417

(2)https://www.posttoday.com/politic/news/547877

(3)https://www.posttoday.com/politic/analysis/548301

 

 

<政権内部の亀裂>

 

また政権内部でも亀裂が走っている様子が伺われる。

 

昨年11月に、労働大臣(元陸軍)が辞任した。原因については、同省の人事を巡って労相とプラユット首相と対立があったと噂されている。本来、高官の人事は閣議において決定されるべきであるが、プラユット首相は第44条を使用して人事異動を行った。その件に対する反発だろうと推測されている。

 

今年2月には、民間人出身の教育大臣が、プラウィット副首相(元陸軍)の汚職疑惑について批判を行い、謝罪に追い込まれるという事件が起こった。つづいて3月には、選挙委員会委員と政権との間の衝突が原因でプラユット首相が第44条を発動し、独立機関である選挙委員会の委員を解任するという騒動が起こった。4月には、財務事務次官が人事異動を不満として自ら辞任した。また同月には、プラユット首相と閣僚らがタイ正月の挨拶に枢密院議長の自宅を訪れた際に、プラウィット副首相が同行していなかったことも注目された。

 

暫定憲法第44条により三権を独占するプラユット首相であるが、政権内部には徐々に亀裂が走り始めているようにも見える。人気取り政策の限界、民主党の離反、政権内部の不調和など、プラユット首相にとって好ましくない事情が重なりつつある中で、総選挙実施への圧力が高まってきている。このような状況下で実施中の「持続可能なタイ主義」政策は、より直接的な国民の統制を試みるとともに、官僚組織それ自体の引き締めも狙いのひとつなのかもしれない。

 

 

今後の行方

 

今後のタイ政治は、どのような方向に進むのであろうか。持続可能なタイ主義の実施から伺われる軍事暫定政権のスタンスは、あくまで政治権力を手放す気はないという姿勢である。村落にまで入り直接的に国民を統制しようとする試みは、冷戦期を彷彿とさせる。現在の政権の思考は、1960年代や70年代の「開発独裁」の時代にまで先祖返りしているようにすら感じられる。

 

プラユット首相は来年2月の総選挙実施を明言したものの、中国の台頭、東南アジア諸国の強権化、軍事暫定政権に対して早期民政移管を指示してきた前国王の崩御、タイ国民の間の深刻な分裂といった状況を勘案すると、総選挙の実施および民政移管については確定的だとはいえない。

 

 

【参考文献】

 

玉田芳史「ポピュリズムと民主主義」『タイ国情報』51巻5号(2017年9月号)、10-26頁。

 

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