雨傘運動後の香港――無力感が覆うまで

香港の社会運動に元気がない。6月4日、毎年恒例の天安門事件追悼集会の参加者数は警察発表で1.7万人と、2008年以来の少なさとなった。返還記念日の7月1日のデモも、警察発表では9,800人と、「50万人デモ」とも称された2003年以後で最少となった。

 

79日間にわたり公道を占拠して民主化を求め、一部では中国にとっての「天安門事件以来の危機」などとも言われた「雨傘運動」から、わずか3年余りである。2014年の雨傘運動後の社会運動や若者の政治参加は、2016年に一度ピークを迎えている。しかし、その後急速に勢いを失った。このような展開となったのはなぜなのか。そして、この先の香港はどうなってゆくのか。

 

 

雨傘運動への「非常識な」対応

 

2014年8月31日、中国全人代常務委員会は、2017年の実施が計画されていた香港行政長官普通選挙において、出馬できる候補者を共産党が支持する3名程度の者に事実上限定する制度を導入することを決定した。18歳以上の永住権保有者全員に投票権のある「普通選挙」とは言いながらも、実際は候補者がすべて親中派という中国式の「ニセ普通選挙」に抗議して、9月28日に始まったのが「雨傘運動」である。

 

運動参加者は公道にバリケードを組んで交通を遮断し、12月15日まで道路上に座り込んだ。これは香港にとって前例のないスタイルの抗議活動であった。しかし、その一方で、雨傘運動はさまざまな面で、香港の従来の「デモ文化」を踏襲したものであった。

 

まず、非暴力が強調されたことである。雨傘運動は、もともと公道に静かに座り込む「セントラル占拠運動」として計画されていた。運動は、ガンジーやキング牧師などが実践した非暴力の抵抗「市民的不服従」を指導的理論として掲げていた。政府が真の民主主義を香港に与えない場合、1万人を超える市民を動員して、違法にセントラル地区の車道に座り込み、政府に圧力をかけるが、警察には抵抗せず逮捕されるというというのが、当初の構想であった。

 

実際には、警察が催涙弾を発射したことで現場は混乱し、静かな座り込みではなく、バリケードを組んで抵抗する形式の抗議となったが、それでも、警察の催涙スプレーに傘を広げて耐える姿から「雨傘運動」と名付けられたことが示すように、「和理非(平和裡・理性・非暴力)」をかけ声に、暴力は慎むのが参加者のコンセンサスであった。結果的に、運動が香港全体の治安に与えた影響は小さく、死者を出さずに終わった。これは香港らしい運動であった。香港は「デモの都」とも称されるほどに、頻繁にさまざまなデモが行われてきたところである。しかし、例えば、2003年の「国家安全条例」反対デモの際も、50万人とも言われる規模のデモでありながら、「ゴミ箱一つ倒されなかった」とも言われるほど、秩序ある平和裡のデモが展開された。

 

次に、政府に圧力をかけて譲歩を引き出すという戦略である。香港にはまともな民主主義はないが、言論・集会・結社などの政治的意見表明の自由は広く認められてきた。このため、選挙の代わりにデモで民意を示すのが香港スタイルであった。実際、2003年のデモは「国家安全条例」を廃案に追い込み、2012年に当時14歳の中学生・黄之鋒(ジョシュア・ウォン)を指導者に展開された「反国民教育運動」は、「洗脳」と批判された愛国教育の必修化を撤回させるなど、大規模デモが発生すれば、政府はそれなりに民意をくみ取って譲歩するというのが常識であった。

 

このため、運動も当初は政府との対話と譲歩を求めた。彼らには政府を倒すような意図はほとんどなかった。このため、西側メディアが当初運動を「雨傘革命(Umbrella Revolution)」と名付けたのに対し、運動参加者は革命を起こす意図はないとして、自ら「雨傘運動(Umbrella Movement)」という呼称を使用しはじめたのである。

 

しかし、民主化問題の決定権を持つのは香港政府ではなく、北京の中央政府である。北京にはこの手は通じなかった。北京の全人代の既決事項に属する選挙方法案について、香港政府が譲歩を行う権限はなく、学生代表は北京を訪問して直談判することも目指したが、ビザが下りずに渡航できなかった。運動は北京から完全に無視されたのである。これほど大規模な運動を無視するというのは、香港の従来の常識にはない事態であった。

 

 

新たな運動の誕生

 

もともと香港の民主化は、イギリスが返還直前に始めたものである。中国は香港の民主化には否定的ではあったが、イギリスとの交渉の末、中国は民主化を返還後引き継ぐことを約束した。1990年に中国が制定した香港基本法には、将来香港の行政長官(政府トップ)と立法会(議会)を普通選挙で選ぶと明記されているのである。

 

この約束を信じ、民主的な香港として祖国に復帰するという「民主回帰」が、香港民主派の四半世紀にわたる目標であり、その実現のために北京に抗議したり、圧力をかけたり、交渉したりするのが民主派の戦略であった。しかし、雨傘運動が完全に無視されたことで、北京との交渉は不可能であることが露呈してしまった。民主派は長年の努力が報われなかったことに失望すると同時に、事実上、戦略を失ってしまった。

 

しかし、若者たちはこの先を考え始めた。2017年の「真の普通選挙」が消えた後、雨傘運動の指導者たちは、次なる目標を2047年に据えた。返還後50年間は変えないとされた「一国二制度」の「期限切れ」の年である。その後の香港がどうなるかについて、明確な規定はない。黄之鋒らは、香港で住民投票を実施して、将来について香港人が自ら決定する「民主自決」を提唱した。2012年に反国民教育運動を成功させ、雨傘運動でも中心的な役割を果たした黄之鋒の組織「学民思潮」は、2016年に「香港衆志」という政党を結成した。彼らは「自決派」と称される勢力を構成した。

 

一方、雨傘運動の非暴力路線から逸脱する者も現れた。雨傘運動の背景には、中国との急速な経済融合が進んだことで、不動産の暴騰や大陸買い物客向けの店の異常な増加など、市民生活に支障が出ていたことへの不満もあった。「香港優先」を訴え、大陸人を排斥する運動も、雨傘運動後に激化した。香港を自らの「本土」であると主張する「本土派」は、2015年に「本土民主前線」を結成した。彼らは雨傘運動の主流派の「和理非」は生ぬるいと批判し、彼らとは一線を画して「勇武抗争」を掲げた。2016年旧正月には本土民主前線は九龍半島の盛り場・旺角で警察と激しく衝突する騒乱事件を起こし、暴動罪で逮捕者を出した。

 

さらには、直接的に香港の独立を言い出す者も現れた。もともと、香港には本格的な独立運動は存在しないと言われてきた。しかし、雨傘運動後、香港各地に「香港獨立」の落書きが目立つようになった。2016年3月、香港初の香港独立を主張する政党と称して、「香港民族党」が結成された。

 

こうした自決派・本土派・独立派の新団体のほとんどは、雨傘運動経験者などの若者によって率いられている。旧来の香港民主派の、共産党は批判するが中国を愛しており、中国の民主化を求める一方で尖閣諸島問題や歴史問題で日本を強く批判するという姿勢とは異なり、自決派・本土派・独立派は香港人としてのアイデンティティを強く持ち、自らが中国人であるという意識が希薄で、中国に対しては批判的というよりも、そもそも関心がない。いわば、「若者の中国離れ」である。

 

これら新興勢力は、香港は中国の一部であるということにこだわる民主派に対して概して批判的で、ときには民主派を親中派以上に罵倒するなど、感情的な対立をもたらした。一方、これまでにない選択肢を若者に示し、若者を政治に引きつけた。【次ページにつづく】

 

 

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