2018.09.26

雨傘運動後の香港――無力感が覆うまで

倉田徹 現代中国・香港政治

国際 #香港#雨傘運動

香港の社会運動に元気がない。6月4日、毎年恒例の天安門事件追悼集会の参加者数は警察発表で1.7万人と、2008年以来の少なさとなった。返還記念日の7月1日のデモも、警察発表では9,800人と、「50万人デモ」とも称された2003年以後で最少となった。

79日間にわたり公道を占拠して民主化を求め、一部では中国にとっての「天安門事件以来の危機」などとも言われた「雨傘運動」から、わずか3年余りである。2014年の雨傘運動後の社会運動や若者の政治参加は、2016年に一度ピークを迎えている。しかし、その後急速に勢いを失った。このような展開となったのはなぜなのか。そして、この先の香港はどうなってゆくのか。

雨傘運動への「非常識な」対応

2014年8月31日、中国全人代常務委員会は、2017年の実施が計画されていた香港行政長官普通選挙において、出馬できる候補者を共産党が支持する3名程度の者に事実上限定する制度を導入することを決定した。18歳以上の永住権保有者全員に投票権のある「普通選挙」とは言いながらも、実際は候補者がすべて親中派という中国式の「ニセ普通選挙」に抗議して、9月28日に始まったのが「雨傘運動」である。

運動参加者は公道にバリケードを組んで交通を遮断し、12月15日まで道路上に座り込んだ。これは香港にとって前例のないスタイルの抗議活動であった。しかし、その一方で、雨傘運動はさまざまな面で、香港の従来の「デモ文化」を踏襲したものであった。

まず、非暴力が強調されたことである。雨傘運動は、もともと公道に静かに座り込む「セントラル占拠運動」として計画されていた。運動は、ガンジーやキング牧師などが実践した非暴力の抵抗「市民的不服従」を指導的理論として掲げていた。政府が真の民主主義を香港に与えない場合、1万人を超える市民を動員して、違法にセントラル地区の車道に座り込み、政府に圧力をかけるが、警察には抵抗せず逮捕されるというというのが、当初の構想であった。

実際には、警察が催涙弾を発射したことで現場は混乱し、静かな座り込みではなく、バリケードを組んで抵抗する形式の抗議となったが、それでも、警察の催涙スプレーに傘を広げて耐える姿から「雨傘運動」と名付けられたことが示すように、「和理非(平和裡・理性・非暴力)」をかけ声に、暴力は慎むのが参加者のコンセンサスであった。結果的に、運動が香港全体の治安に与えた影響は小さく、死者を出さずに終わった。これは香港らしい運動であった。香港は「デモの都」とも称されるほどに、頻繁にさまざまなデモが行われてきたところである。しかし、例えば、2003年の「国家安全条例」反対デモの際も、50万人とも言われる規模のデモでありながら、「ゴミ箱一つ倒されなかった」とも言われるほど、秩序ある平和裡のデモが展開された。

次に、政府に圧力をかけて譲歩を引き出すという戦略である。香港にはまともな民主主義はないが、言論・集会・結社などの政治的意見表明の自由は広く認められてきた。このため、選挙の代わりにデモで民意を示すのが香港スタイルであった。実際、2003年のデモは「国家安全条例」を廃案に追い込み、2012年に当時14歳の中学生・黄之鋒(ジョシュア・ウォン)を指導者に展開された「反国民教育運動」は、「洗脳」と批判された愛国教育の必修化を撤回させるなど、大規模デモが発生すれば、政府はそれなりに民意をくみ取って譲歩するというのが常識であった。

このため、運動も当初は政府との対話と譲歩を求めた。彼らには政府を倒すような意図はほとんどなかった。このため、西側メディアが当初運動を「雨傘革命(Umbrella Revolution)」と名付けたのに対し、運動参加者は革命を起こす意図はないとして、自ら「雨傘運動(Umbrella Movement)」という呼称を使用しはじめたのである。

しかし、民主化問題の決定権を持つのは香港政府ではなく、北京の中央政府である。北京にはこの手は通じなかった。北京の全人代の既決事項に属する選挙方法案について、香港政府が譲歩を行う権限はなく、学生代表は北京を訪問して直談判することも目指したが、ビザが下りずに渡航できなかった。運動は北京から完全に無視されたのである。これほど大規模な運動を無視するというのは、香港の従来の常識にはない事態であった。

新たな運動の誕生

もともと香港の民主化は、イギリスが返還直前に始めたものである。中国は香港の民主化には否定的ではあったが、イギリスとの交渉の末、中国は民主化を返還後引き継ぐことを約束した。1990年に中国が制定した香港基本法には、将来香港の行政長官(政府トップ)と立法会(議会)を普通選挙で選ぶと明記されているのである。

この約束を信じ、民主的な香港として祖国に復帰するという「民主回帰」が、香港民主派の四半世紀にわたる目標であり、その実現のために北京に抗議したり、圧力をかけたり、交渉したりするのが民主派の戦略であった。しかし、雨傘運動が完全に無視されたことで、北京との交渉は不可能であることが露呈してしまった。民主派は長年の努力が報われなかったことに失望すると同時に、事実上、戦略を失ってしまった。

しかし、若者たちはこの先を考え始めた。2017年の「真の普通選挙」が消えた後、雨傘運動の指導者たちは、次なる目標を2047年に据えた。返還後50年間は変えないとされた「一国二制度」の「期限切れ」の年である。その後の香港がどうなるかについて、明確な規定はない。黄之鋒らは、香港で住民投票を実施して、将来について香港人が自ら決定する「民主自決」を提唱した。2012年に反国民教育運動を成功させ、雨傘運動でも中心的な役割を果たした黄之鋒の組織「学民思潮」は、2016年に「香港衆志」という政党を結成した。彼らは「自決派」と称される勢力を構成した。

一方、雨傘運動の非暴力路線から逸脱する者も現れた。雨傘運動の背景には、中国との急速な経済融合が進んだことで、不動産の暴騰や大陸買い物客向けの店の異常な増加など、市民生活に支障が出ていたことへの不満もあった。「香港優先」を訴え、大陸人を排斥する運動も、雨傘運動後に激化した。香港を自らの「本土」であると主張する「本土派」は、2015年に「本土民主前線」を結成した。彼らは雨傘運動の主流派の「和理非」は生ぬるいと批判し、彼らとは一線を画して「勇武抗争」を掲げた。2016年旧正月には本土民主前線は九龍半島の盛り場・旺角で警察と激しく衝突する騒乱事件を起こし、暴動罪で逮捕者を出した。

さらには、直接的に香港の独立を言い出す者も現れた。もともと、香港には本格的な独立運動は存在しないと言われてきた。しかし、雨傘運動後、香港各地に「香港獨立」の落書きが目立つようになった。2016年3月、香港初の香港独立を主張する政党と称して、「香港民族党」が結成された。

こうした自決派・本土派・独立派の新団体のほとんどは、雨傘運動経験者などの若者によって率いられている。旧来の香港民主派の、共産党は批判するが中国を愛しており、中国の民主化を求める一方で尖閣諸島問題や歴史問題で日本を強く批判するという姿勢とは異なり、自決派・本土派・独立派は香港人としてのアイデンティティを強く持ち、自らが中国人であるという意識が希薄で、中国に対しては批判的というよりも、そもそも関心がない。いわば、「若者の中国離れ」である。

これら新興勢力は、香港は中国の一部であるということにこだわる民主派に対して概して批判的で、ときには民主派を親中派以上に罵倒するなど、感情的な対立をもたらした。一方、これまでにない選択肢を若者に示し、若者を政治に引きつけた。

厳しい弾圧

しかし、香港独立の主張は北京にとって完全なタブーであった。ここから政府は、前代未聞の手法を用いて新興勢力を弾圧していく。

旺角の騒乱で逮捕された香港大学生・本土民主前線の梁天琦は、むしろ事件で名を売って、若者の間でヒーローとなり、直後の2016年2月の立法会補欠選挙に出馬して大善戦した。その勢いのまま、梁天琦は9月の立法会議員選挙に出馬を目指し、当選が有望視されていた。しかし政府は、これまで彼らがFacebookなどで香港独立を主張していたことは、香港は中国の一部と規定した香港基本法に反しているとの理由で、梁天琦を含む数名の候補者について、出馬資格無効と裁定して門前払いをした。政治的立場を理由に候補者を失格させるのは、香港の選挙として史上例のないことであった。

それでも立法会議員選挙は、史上最高の投票率を記録して大いに盛り上がった。雨傘運動で政治に目覚めた若者の投票率が大きく上昇したことがその要因とされる。一部の投票所では、22時半の投票所閉門時刻にも投票者の列が途切れず、深夜2時過ぎまで投票が続いたほどであった。梁天琦は出馬できなかったが、「代役」に指名した別の若者の候補者を支援した。新興勢力の登場により、若者は自らの代表を得たのである。結局、70議席の立法会で、自決派・本土派から6名が当選した。

しかし、新勢力の快進撃は呆気なく終わった。当選後の初登院の日に求められる就任宣誓において、多くの新勢力の議員が、「中華人民共和国香港特別行政区」に忠誠を誓うことを嫌い、文言を変えたり、故意におかしな発音をしたりして抵抗した。これを受けて、政府は議員の宣誓は無効として裁判に訴えた。

行政長官自らが原告となり、立法会議員を司法に訴えるという手法もまた前代未聞であり、民主主義の観点から見て当然大いに疑問であるが、「独立派」を排除するという大義名分に北京の中央政府も賛同し、宣誓は荘厳に行わねばならず、正しく宣誓しない者は失職するとの基本法解釈を採択して政府を支援した。結局、6人の議員に資格無効の判決が下り、彼らは議会から追放されてしまった。

資格無効とされた者の中には、雨傘運動の際に学生団体の代表として政府との交渉に臨んだ香港衆志の羅冠聡(ネイサン・ロー)が含まれた。立候補資格年齢に達していなかった黄之鋒らに代わって出馬した羅冠聡も現役の学生であり、香港史上最年少議員となっていた。羅冠聡の議員資格が剥奪されたことで、その補欠選挙が2018年3月に行われた。

香港衆志は自党の議席を奪還すべく、雨傘運動でスポークスパーソンを務め、民主運動の「女神」とも評された周庭(アグネス・チョウ)を擁立した。しかし、香港衆志のうたう「自決」が、住民投票の結果次第では独立を排除しないとしているとの理由で、政府によって独立派と断定されて、周庭は出馬資格無効とされた。

2016年2月の補選には出馬できた梁天琦は、9月の立法会議員選挙からは排除された。2016年の立法会議員選挙には候補者を送れた香港衆志は、2018年の補選からは排除された。出馬の可否の基準は一定でなく、どんどん厳しくなっているように見えるが、明確な基準はなく、立候補を届け出てみないと分からないというのが実情である。

今年3月には中国憲法が改正され、「中国共産党による指導は中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴である」との文言が第1条に明記されたことを受け、今後「一党独裁を終わらせろ」を叫ぶ者は憲法違反となり、立法会議員選挙で出馬資格を無効とされる可能性があると、親中派の大物が発言した。仮に、1989年の天安門事件以来、民主派が30年近く叫び続けたスローガンすら禁じられるとなれば、立法会に20議席以上を持つ民主派さえも排除されてしまうかもしれない。結果的に、一部の民主派は、独立派と見なされる発言はもちろん、「一党独裁を終わらせろ」のスローガンを叫ぶことにも慎重になってきており、明らかに萎縮が進んでいる。

関連の裁判は、新興勢力の者から出馬資格や議員資格を奪っただけではなく、別の巨大な重荷を負わせている。基本法の解釈権を北京が握っている以上、裁判自体が政府にきわめて有利であるだけでなく、敗訴した者は政府側の弁護士費用も含めて裁判費用を負担せねばならない。三審まで闘って敗訴が確定した「梁天琦の代役」の梁頌恒には、合計で1200万香港ドル(日本円で1億5千万円以上)の支払い義務が生じた。20代の若者には当然支払いは不能で、彼は破産することになるという。

違法行為である雨傘運動の関係者たちに対する刑事裁判の判決も出始めている。雨傘運動の発端となった政府前広場への突入で違法集会罪などに問われた黄之鋒には、2016年の一審では社会奉仕80時間という軽い判決が下ったが、2017年の二審で裁判長は「犯罪の抑止」の必要性を主張し、6ヶ月の懲役刑を科した。三審で減刑されたものの、黄之鋒には別件での裁判が今後も続くし、セントラル占拠運動の首謀者たちの裁判はまだこれからである。一方、2016年の旺角騒乱に関する暴動罪の裁判では、より厳しい判決が下っている。香港大学の女子学生は2017年に3年の刑を受け、教師になる夢を事実上絶たれた。そして梁天琦には、2018年6月、6年の刑が下された。

このほか、雨傘運動を支持した大学教員が人事で冷遇されたり、雨傘運動に関する研究書が大手書店の店頭から消えたりと、市民社会における言論空間も縮小している。2016年には、習近平政権に批判的な書籍を扱う書店の関係者が次々と失踪する「銅鑼湾書店事件」も起きた。

ソフト路線

こうして、香港の若者による政治運動は、大きな打撃を受けている。とくに2016年以降、政府は誰も予想しなかった手段を用いて運動を弾圧し始めた。同時に、内部対立を起こしたり、宣誓を不真面目に行ったり(中国に対する差別語を用いた者もいた)したことで、若者が少なからぬ者から反感を買うという失敗もあった。

中年以上の香港市民は、共産党に反感を持っても中国は愛するという「香港式愛国」の感情を持つ者が多数であり、彼らにとって香港は当然中国の一部である。大人世代は雨傘運動とその後の独立運動に反発して、むしろ保守化したとも言われている。しかし、あるいはそういった要素以上に「効いた」可能性があるのが、政府のソフト路線への転換であった。

雨傘運動前後の社会運動は、当時の梁振英(C.Y.リョン)行政長官の強硬路線に対する反感によって高揚したという側面がある。隠れ共産党員とも噂された梁振英は、民主派に対する高圧的な発言を繰り返し、雨傘運動ではデモ隊に催涙弾を打ち込んだことで、市民の猛反発を受けた。運動の鎮静化後も、梁振英は施政方針演説で若者を強く批判するなどして挑発した。こうした反政府感情が街頭政治活動の燃料となってきた。

習近平国家主席は2017年の返還20周年式典で香港を訪問した際、梁振英が「香港独立勢力に有効な打撃を与えた」と称賛したが、実際は、皮肉を込めて、反政府運動を煽って「育てた」梁振英を「香港独立の父」と呼ぶ者もいたほどである。

しかし、梁振英は2016年12月、突如会見して、2017年に予定されている行政長官選挙への不出馬を表明した。雨傘運動後、北京が提案した「ニセ普通選挙」の導入案は、民主派の反対多数によって否決された。このため、行政長官選挙は従来通り、北京と親しい財界人が多数を占めるわずか1,200人の委員による選挙となり、事実上北京が支持する候補者が必ず当選する仕組みであった。

しかし、政治的混乱を引き起こした梁振英は、民主派はもちろん、親政府派の財界人からも反感を買っていた。財界が梁振英派と反梁振英派に分裂したため、情勢次第では梁振英の落選の可能性も論じられていた。現職の落選という、北京としては受け入れがたい惨状を避けるため、北京が梁振英に引導を渡して、事態の収拾を図ったと見られる。

代わって登場したのが、梁振英の下で政府ナンバー2の政務長官を務めていた林鄭月娥(キャリー・ラム)である。公務員出身の林鄭月娥は梁振英のような強烈な個性がなく、優秀な行政官と目されて市民の間でもまずまずの人気があった。梁振英が去ったことで、財界内部の分裂は解消した。中央政府も早い段階から林鄭月娥への支持を明確にし、2017年3月の選挙で無事当選させた。

林鄭月娥の戦略は、梁振英とは逆の脱政治化路線である。民主化問題や「国家安全条例」問題など、論争性の高い問題は先送りにして、経済や市民生活に関連する政策を優先した。地味で控えめな言動に終始し、穏健民主派とは関係を改善して議会運営を円滑化させた。「独立派」とされる者への圧力は相変わらず強いが、ソフト路線で政府が高支持率を維持する中、香港紙上の政治関連の報道は最近めっきり減った。若者の政治活動に対する社会の関心が薄れ、彼らの孤立が深まっている。

無力感はいつまで

以上が、雨傘運動とその後の政治運動が盛り上がってから、失速するまでの経緯である。ほぼ政治の経験がなく、金も力もなかった若者たちは、ネットを活用して急速に勢力を拡大した。しかし、民主化運動の「独立運動」への展開は、政府の弾圧に口実を与える格好となった。政界からの排除と刑罰という制裁に加え、経済的な重荷も負わされた彼らは、それに対抗する手段を持ち得ない。

同情を集めるにも、市民の反政府感情は行政長官交替によって弱まっており、デモや集会に人を集められない。硬軟織り交ぜた政府の手法を前に、現在の香港でキーワードになっているのが、「無力感」という言葉である。政府、とくに北京との力の隔絶を前に、どんな不満や怒りを抱いても、状況を変えることはきわめて難しい。

無力感が蔓延することは、多くの権力者にとって思うつぼである。国民が強く支持をしてくれなくとも、抵抗の意思を失ってくれれば、政権は安泰だからである。民主主義国家では民意の支持によって政権を安定させるのが王道であるが、権威主義諸国では民心を得るために自由化を行えば、批判を噴出させて政権に危機が生じかねない。そこで、反対者が反対の意思を失うような弾圧が加えられる。

そうした弾圧はむしろ不合理なほうが良い。話の通じる相手だと思われれば、反対者は譲歩を求めて理詰めで批判してくる。それが「通じない」相手だと「認定」されれば、権力者はどんなわがままも「許される」立場に立つことができる。中国とロシアを筆頭に、現在はそんな権威主義国家が世界で勢いを得ている。そして、今や民主主義国家ですら、不合理で扇情的な言葉を叫び散らし、批判に耳を傾けない態度をとる指導者が世界中で現れている。彼らはあたかも、権威主義国家の指導者から学んだかのようである。

香港でも、雨傘運動によって、大規模デモには政府がそれなりに応答するという「常識」は崩され、反対運動には一方的に政府が「独立派」のレッテルを貼って選挙から排除した。対話の意思のない相手に対して、炎暑の中のデモ行進で不満を表明しても、壁に向かって叫ぶのと同じである。

この無力感は、いつまで続くのか。

鍵は、権威主義的な統治が、多くの場合、目の前の生活を重視する大衆の支持に支えられていると言うことである。香港人もかつては「金儲けにしか興味がない」と言われた。政治を嫌悪し、経済を優先する層は今も分厚く存在する。しかし、言い換えれば、彼らの支持を得るには、好況を続けることが必要になる。香港では現在、不動産の暴騰は社会問題化しているが、その分景気は良く失業率も低い。しかし、好況を恒久的に続けることに成功した政府は、世界の歴史上に存在しない。

力による支配は、恐らく問題の先送りに過ぎないのである。

プロフィール

倉田徹現代中国・香港政治

立教大学法学部政治学科准教授。1975年生まれ、2008年東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程修了。2003年から2006年まで在香港日本国総領事館専門調査員。日本学術振興会別研究員、金沢大学人間社会学域国際学類准教授を経て現職。専門は現代中国・香港政治。著書に『中国返還後の香港』(名古屋大学出版会、2009年、サントリー学芸賞受賞)。

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