2019.01.15
DACA――不法移民とトランプの闘い
トランプ大統領の就任後、「移民の国」アメリカはさまざまなかたちで不法移民への圧力を強めている。強制送還や入国制限で、家族と離れ離れになった者も多い。 それでもなお、アメリカを目指す人の波が途絶える気配はない。中南米、アジア、中東、アフリカ……。あらゆる場所からあらゆる事情の人々が、国境という壁を越えてくる。受け入れるか、拒むか、それとも無視か。彼らをめぐってアメリカ社会もまた、ゆれている。はたして、アメリカはこれからも「夢の国」でいられるのか? 読売新聞ロサンゼルス特派員が、数百人に上る不法移民とその周辺を追いかけた渾身の『ルポ 不法移民とトランプの闘い』から一部を転載する。
家族
DACA撤廃差し止め
2018年1月9日、トランプ政権がまた、司法の場で敗北を喫した。
カリフォルニア州の連邦地方裁判所は、幼少期に家族に連れられ米国に入国し、不法滞在となった若者の強制送還を免除する措置(DACA)の撤廃を一時的に差し止める決定を出したのだ。DACAは2012年6月にオバマ前大統領が発令したが、トランプが2017年9月に撤廃を発表していた。
DACAとは、Deferred Action for Childhood Arrivalsの略称。1100万人はいるとされる不法移民を巡り、オバマ前政権は議会で救済に向けた立法化を目指したが、当時の野党・共和党の根強い反発を受け、断念した。その代わりに、自身の判断で出せる大統領令で、DACAを導入した。この結果、70万人以上がこの措置で滞在資格を獲得し、強制送還の恐れがある不法移民の立場を脱した。一定の条件を満たせば、就労も許可された。
条件とは、(1)16歳の誕生日までに入国(2)2012年6月時点で31歳未満(3)米国滞在が連続5年以上(4)高校在学中、または高卒資格取得(5)殺人など重大な罪を犯していない──などだ。一度資格を得ると、2年ごとに更新可能だ。
トランプは、不法移民対策の一環として、このDACAを撤廃し、滞在資格保持者を不法移民に戻して強制送還しようと考えた。そこで、オバマの大統領令は法的根拠がなく、議会の権限を超えたもので、「憲法違反」と批判し、撤廃の方針を公表した。ただし、2018年3月5日まで6か月の猶予期間を設け、この問題を本来議論すべきである議会に投げ、DACAの維持が必要なら立法化するよう求めた。
不法移民には選挙権がないが、不法移民が頼る家族は米国籍を持つ移民で選挙権がある場合が少なくない。この数は、ばかにならない。選挙対策も視野にDACA支持の野党・民主党はもちろん、与党・共和党の一部も何らかの形で立法化を模索してきたが、事態は難航した。そして期限の3月が目前に迫る中、突然の司法判断でDACAの「延長」が決まったのだ。
DACAが撤廃されれば強制送還の恐れがあった人たちは、胸をなでおろした。しかし、裁判所の決定はあくまで一時的なもので、撤廃の流れは変わらない。70万人以上もの人間が不法移民になるというのは、米社会に与える影響も計り知れない。
ロサンゼルスのオフィスでは、2016年の大統領選期間中からDACA資格取得者の取材を続けてきた。2017年9月のDACA撤廃発表の際は、ロサンゼルスと周辺であった抗議デモを取材し、彼らの声を聞いた。「来るべき時が来た」と覚悟する人もいれば、将来を悲観して泣き崩れる人もいた。
3月の撤廃期限を前に、待ったなしの状態に追い込まれた資格取得者に改めて話を聞く段取りをしていたところ、撤廃が一時的に差し止められたわけだが、逆に、「いつ、この差し止めが撤回されるかわからない」という彼らの不安が強まった感じがした。
米国人スタッフのサムとキオも、「一時差し止めは根本的な解決にはならない」と話していた。DACA資格保持者が最も多いのはロサンゼルスがあるカリフォルニア州で、22万人超もいる。続いてテキサス州が12万人超だ。移民問題を巡る取材で何度も足を運んできたこの2州が、DACAでも今後の流れを占うカギを握ることになりそうだ。この2州にいる資格保持者に会い、滞在資格を巡る危機にどう対処するのかを聞こうと決めた。
DACA資格保持者はロサンゼルスにもたくさんいる。しかし、取材希望を伝えると敬遠されることが少なくない。日本メディアといえども、名前や顔をさらしてしまうことで当局に目を付けられるのではないかとの不安が生じるからだ。サムもキオも、電話では話ができても、取材のアポイントメントを取るのには難航した。それでも、粘り強く取材相手を探した。
コンテナハウス
DACA撤廃で最も問題視されるのは、家族の離散だ。DACA資格保持者の母親が米国で生んだ子供は米国籍を得られる。DACAが撤廃されれば、子供は米国にいられるが、親は強制送還されることになる。
2月下旬、こうした不安を抱えるメキシコ人の母とその娘が「自宅でなら取材に応じてもよい」と言ってくれた。場所はカリフォルニア州南部のガーデングローブ。ロサンゼルスからは車で約1時間と近い。すぐに向かった。
聞いていた住所は、コンテナハウスが立ち並ぶ団地の一角だった。裕福とはいえない移民たちの暮らしぶりがうかがえた。白いハウスの前に立ち、小さな呼び鈴を鳴らした。
「いらっしゃい。どうぞ!」明るく大きな声で迎えてくれたのは、メキシコ人のDACA資格保持者、アスセナ・サラス(31)だ。はじけるような笑顔と恰幅の良い体つきは、まるで肝っ玉母さんのようだ。中に入ると、一人娘のサミラ(9)がテレビを見ていた。母親とよく似ている。サミラはスペイン語で「こんにちは」とあいさつし、奥の部屋に移動した。「後で、娘にも話を聞いてやってください」。アスセナはそう言って、ダイニングのテーブルに座るよう勧めた。
コンテナハウスの中は整頓され、日々の生活がそれなりにきちんと行われていると感じられた。
DACAの資格を得る前後を含め、これまでの人生はどうだったのか。
「生まれてこの方、ひどい人生でしたよ。夢も希望もなかった。DACAの資格を得るまでは特にね……」アスセナの声のトーンが下がった。
母からの虐待
アスセナはメキシコ・モレロス州で生まれ、5か月後に里子に出された。13歳の時、人生最悪の事態に遭遇した。レイプされたのだ。
里親はその後の面倒を避けようと、当時米国にいたアスセナの実母に連絡を取り、アスセナを返すと伝えた。アスセナは米国から迎えにきた実母と一緒に国境を越えた。当時は、米同時多発テロ前夜。メキシコ国境のチェックは甘く、「入国ゲートで賄賂を払い、堂々と米国に入りました」。
不法入国する人たちは米国により良い生活を求めるケースがほとんどだが、アスセナはそうではなかったようだ。「米国は夢の国と聞いていたけど、そうは思えませんでした」。初めて一緒に暮らす実母は、ひどい人間だったという。アスセナを虐待し、揚げ句の果てに児童虐待容疑で逮捕されてしまった。
アスセナは、実母が逮捕される前、実母から家を追い出されていた。まだ、17歳。通っていた高校は、英語がうまく話せずいじめられていたので未練はなかったという。時給6ドル(約660円)のピザ屋で働き、隠れるようにガレージで暮らした。「そのころは、自分が何をしたいとか、考えたことがなかった。ただ、生きていた。それだけ」
不法滞在と知ったのは、免許証を取得する際に必要なソーシャル・セキュリティー・ナンバー(社会保障番号)がないとわかった時だ。だが、その重大性には気づかなかった。「働けたからね」
食べるために稼ぎ、友人らに実母や里親の愚痴を言って憂さを晴らす日々。幼なじみで同じく不法滞在のメキシコ人の夫と結婚し、サミラを生んだ。
「娘が生まれたのは、うれしかったですよ、もちろん。だけど、その日暮らしは変わらない。繰り返すけど、希望はなかったですね」
アメリカン・ドリーム
アスセナのそんな日々は、DACAで一変した。
2012年夏、25歳の時のことだ。清掃の仕事をしていた時、ラジオでオバマ大統領が「DACAを発表する」と言った。ピンと来ず、聞き流した。自宅に帰ると、夫が駆け寄り、「DACAを絶対に取れ!」と興奮して言った。夫は年齢制限で取得資格がなかった。説明会に行くと、高校時代の同級生がたくさんいた。自分をいじめていたやつもいた。「みんな同じ不法滞在だったのか」と驚いた。
アスセナはDACAの資格を取得後、改めて仕事を探した。ダメもとで病院事務の面接を受けに行くと、採用された。給料はピザ屋の2倍だ。「DACAの『威力』というか、この国の人間として扱われることのすごさを知りました」。研修を受け、コンピューターを使ったり、議論して物事を進めたりする仕事が、自分にもできると知った。
仕事は楽しかった。「医師や看護師にはなれないけど、彼らと一緒に働くことで、人の命を救う役割の一端を担っているような気分になれた。『私、ひょっとして人の役に立っている?』って、うれしくて独り言を言いました。誰かのために頑張っているという実感がわきました」。アスセナの表情は、みるみる明るくなってきた。
アスセナ一家は車を購入し、オレゴン州などにキャンプ旅行に行くようにもなった。「人並みに幸せになれた気がしました。アメリカン・ドリームというのは、本当にあるんだと思いましたね」。そうした生活が長く続くことを願っていたが、トランプが待ったをかけた。
「私はDACA?」
2017年9月5日。アスセナは職場のラジオで、トランプがDACA撤廃を発表したというニュースを聞いた。
アスセナは動揺した。職場の仲間に見られるのが怖くなり、別室に閉じこもって3時間以上も泣いた。「今の生活を失う不安、不法滞在の夫と自分の情報が政府に知られているという恐怖、そして何より、娘にどう説明したらいいのか──混乱しました」。先ほどの明るい表情から一転、アスセナは泣いていた。
サミラは活発で人見知りしない元気な娘に育ってくれた。その娘にアスセナは、自分の半生や滞在資格について詳しく説明したことがなかった。
テレビでDACA撤廃のニュースを一緒に見た時、サミラが「私はDACA?」とアスセナに聞いたことがあった。アスセナは「バカね。あなたは米国で生まれ米国籍を持つ米国民。心配ないわ」と言った。サミラは続けて、「ママは?」と聞いた。アスセナは答えに詰まり、「あなたは学校の勉強のことだけ考えなさい!」とまくし立てて、ごまかした。
アスセナは、サミラが全てを知ると「父は不法滞在で母はDACAだと言いふらすのでは?」と思う時があるという。「娘を信じていない自分が嫌になるけど、不安が消えないのです」。夫は最近、メキシコに戻る考えを時々口にするようになったが、アスセナはかたくなに拒んでいる。レイプの記憶がよみがえるからだ。最近のメキシコは自分がいた頃よりも治安が悪くなっている。「サミラを、あのような目に遭うかもしれない危険な場所に行かせたくない」
連行された知人
不安が募る中、追い打ちをかけるような事件が起きた。
2017年10月、アスセナが自宅前のテラスに座っていると、数軒隣りのコンテナハウスの前に、銃を持った移民・関税執行局(ICE)の捜査員ら数人が現れたのだ。そこは知人の家だった。「玄関を開けてはダメ!」そう伝えたかったが、連絡方法がない。
アスセナはすぐに、自分と家族のほうが大事だと思った。自宅に戻って夫に電話し、「しばらく家に戻らないで!」と伝え、玄関にカギをかけた。知人は連行されたようで、それっきり会うことがなかった。「自分もいつか、ああなる……」目の前が真っ暗になった。
職場の病院では、新たなスキルを習得するよう勧められたが、気乗りしなかった。「そんなことをしても、DACAが撤廃されれば、クビなんだから」。アスセナのDACAの期限は、2019年3月だ。今この瞬間に撤廃が決まっても、1年近くは米国にいられる。「だけど、自分では状況を変えられない。その日を待つしかないのかしら」
アスセナは、「もしもの場合」に備えることにした。手紙を書き、強制送還された場合にサミラの手元に届くよう段取りをした。サミラには大学に進学してもらうのが夢だ。自分のように肉体労働しかできない女になってほしくない。しかし、手紙には「私を追って、メキシコに来て」と書いてしまった。「やっぱり、離れたくないから……」アスセナの目は真っ赤だった。「娘はスペイン語がへたくそなんです。しっかり学んでおいてほしい……」
重苦しい雰囲気に包まれたダイニングにサミラが戻ってきた。「外で遊ぼうよ」と言うサミラに、アスセナは涙をふいて、「そうね。外に出よう!」と明るい声で言った。サミラはコンテナハウスの前で、ジャンプをするなどして遊び始めた。
アスセナが突然、サミラを後ろから抱きしめた。
「ずっと一緒だよ」
サミラは、「当たり前でしょ!」とアスセナの腕をすり抜け、笑顔を見せた。母親が近い将来、不法移民として米国を追われるかもしれないことを、サミラはまだ知らない。
サミラ親子に礼を言い、その場を離れた。親子が引き裂かれる瞬間が訪れるかもしれないことを想像すると、本当に胸が痛んだ。
ペルー人学生
DACAの資格保持者は10代後半から20代前半が多く、大学生が目立った。トランプがDACA撤廃を決めた後、各地で相次いだ抗議デモなどに参加する人のほとんどは学生だった。
今度は学生の話を聞こうと考え、移民支援団体などを通じ、何人かとコンタクトを取った。その1人が、ロサンゼルス郊外ウィッティアーにある公立2年制大学「リオホンド・カレッジ」に通う南米ペルー出身のディアナ・ロレアノ(20)だった。ディアナは、ロサンゼルス近郊で行われるDACAの存続や永住権付与を求める抗議デモへの参加で忙しい日々を送っていた。カレッジで会う約束を取り付けたのは、最初に連絡してから1か月後のことだった。
2月下旬、小高い丘の上にあるカレッジは様々な人種の学生が行き来していた。待ち合わせ場所のカフェテリアに現れないディアナを探そうと周辺を歩いていると、大きなリュックを背負ったディアナが駆け寄ってきた。「ごめんね。別の入り口で待っていたんだ」。少したれ目で人なつっこい表情だ。校内での取材は許可がいるとのことで、車で近くのマクドナルドに移動した。ディアナはアップルパイを食べながら、自分と家族のことを話し始めた。
混合資格家族
ディアナは4人きょうだいの一番上だ。ペルーで生まれ育ち、2000年代前半、両親と1歳下の弟と、メキシコ経由で国境を越えた。ペルーの記憶はほとんどないという。
物心ついた頃から、何かに隠れて生きるのが当たり前という感覚があった。警官を恐れ、見かけると必ず逃げた。家の中でも学校でも、隠れる場所と逃げ道を常に考えていた。「たぶん、両親がいつも何かにおびえているようだったから、自然に身に着いたのだと思う」
国境に近いサンディエゴ方面への遠足への参加を両親が渋った頃から、自分が不法移民だと気づき始めた。「だから、大学に行けないのはもちろん、仕事もできないし、免許も取れないだろうと思っていたのよ。算数が得意でね。ちやほやされることもあったんだけど、人生に希望は持てなかったなあ」
ディアナが高校1年の時、DACAが導入された。しかし、「不法滞在を政府に報告して滞在資格を得るなんて、危ない賭けだ」と思い、無視した。不法滞在の両親のことも考えれば、DACAの資格取得はありえない判断だった。しかし、両親は取得にこだわった。
「どうして?」
疑問をぶつけた時の母の言葉が忘れられないという。「母はこう言ったの。『私たちは、子供に教育を受けさせるためにアメリカに来たの。その機会が得られるのだから、お願い、DACAを取得して!』って」
1歳下の弟と一緒にDACAを申請した。両親は不法滞在のままで、米国で生まれた他の弟妹は米国籍だ。「ということで、うちは、3種類の滞在資格が違う人間がいる『混合資格家族』なのです」。ディアナは少しおどけてそう言った。
ディアナは高校での成績が良かったので、希望する大学に進学できる道が開けそうだった。しかし、家はきょうだいが多くて貧しく、アルバイトをしながら高校に通う生活だった。それでも、せっかくのDACAを生かそうと、自宅から通学可能で学費も安いコミュニティー・カレッジへの進学を決めた。DACAのおかげで学費の援助を受けられた。「ただただ、うれしかった!」
政治家になる!
DACAの撤廃をどう思うか。
ディアナは表情を変えずに言った。「そうね。裏切られた思いでいっぱいだけど、最初に思った通りだった」。DACA撤廃のニュースが流れた時はアルバイト中だった。友人から届いた「DACAが終わる」というメッセージを見て、「やっぱりね」と思ったという。
心配なのは、米国籍の幼い弟妹だ。アスセナ親子と同じ、「一家離散」の危機が現実味を帯びてくることになった。「私たちはともかく、彼らはどうなるのか。考えつかない……」淡々と話していたディアナだったが、知らないうちに目に涙をためていた。
母はディアナにこう言ったという。「大丈夫。やれるだけやりなさい。あなたは勉強ができる。あなたのような人間は、アメリカで頑張ることを考えなさい」
ディアナはDACA撤廃の発表後、トランプに対する抗議デモに参加するようになった。そこで移民支援団体の関係者と親しくなり、ヒスパニック系移民に有権者登録を促す活動があることを知った。
「彼らが選挙に関心を持ち、投票すれば、DACAの存続を支持する議員がたくさん当選する可能性があるのです。これだ! と思った」。ディアナは活動に加わり、ヒスパニック系移民の自宅を訪ね歩き、有権者登録を求めるようになった。政治への興味も増し、勉強する意欲がさらに強まったという。
ディアナは今年、カレッジの専攻を心理学から政治学に変更した。「米国で政治家になろうと思うの。不法移民に戻ってもなれる可能性があるのかって? わからないわ。でも、今はそうすることで、この国で生きる意欲を維持したいのよ。真面目に頑張れば、いつかは報われるのが米国だと、信じている」
車でカレッジまで戻ると、ディアナは大きな荷物を抱え、笑顔で去っていった。ペルー出身の女性政治家が米国で誕生することを願った。
教師の夢
ドリーマーズ
DACAの資格取得者は、「ドリーマーズ」と呼ばれることが多い。文字通り、米国で「夢を見る人たち」という意味として受け止められているが、正確な英語の表記は「DREAMers」。不法滞在の若者に合法的な滞在資格を与える「ドリーム法案(Development Relief and Education for Alien Minors Act)」の対象者、というのが由来だ。
法案は2001年に超党派で議会に提案されたが、これまで日の目を見たことがない。その代わりとして、オバマ前政権時代に発令されたのがDACAだ。
DACAは就労を認めており、DACA資格保持者の中には社会の様々な場面で活躍している人が少なくない。中でも注目されているのが、教職だ。約9000人が働いているという。公立学校は賃金が低いため、米国人のなり手が少なく、その空白をDACA資格取得者が埋めているという現実があるのだ。
「教師になるという夢をかなえたDACA資格保持者」を探した。夢をかなえたドリーマーズだ。南部テキサス州サンアントニオの女性教師が「授業を見に来てください」とメールをくれた。偶然だが、同じサンアントニオの別の女性教師からも、「学校に来てもらえれば、話したい」と連絡があった。いずれも公立の学校だが、ひとつは寄付で運営されているチャータースクール、もうひとつは貧困層の多い昔ながらの公立学校だ。
DACAに強い関心を持つ米国人スタッフのキオと早速、サンアントニオに向かった。
活気ある授業
2月20日午前8時過ぎ。サンアントニオ郊外にあるチャータースクールのエスペランザ小学校は、登校したばかりの子供たちでごった返していた。受付の事務員に取材に来たことを告げたが、次から次へと入ってくる子供たちへの対応が優先され、しばらく待たされた。聞こえる言葉は英語よりスペイン語のほうが多かった。
女性事務員の案内で別棟の1階にある小学3年生の教室に向かった。ドアを開けると、すでに授業が始まっており、邪魔にならないよう後方のイスに座った。生徒は26人で、ヒスパニック(中南米)系が9割を占める。教師は2人いた。英語を担当する白人女性と、理科を担当するDACA資格保持者のメキシコ人、マリア・ロチャ(30)だ。
今は英語の授業が行われており、白人女性が単語の意味を説明していた。マリアは、4〜5人のグループで座っている子供たちの間を移動しながら、英語とスペイン語で生徒に話しかけていた。「ほら、先生が持っている単語カード、何て書いている?」「先生が今、言ったこと、メモした?」生徒らが授業に集中できるようサポート役を務めているようだ。
30分ほどして英語の授業が終わり、理科に切り替わった。面白い授業のやり方だ。教壇に立ったマリアは、言った。
「さあ、こっちを見て!」
小柄な体から想像できないほどの大声だ。思わず、子供たちと一緒に背筋を伸ばした。この日の授業テーマは、「最近の天気」。サンアントニオと、降雪や洪水被害があった別の町の天候を比較しながら、天気や気温のデータをどう理解するかを説明するのだ。大人にとっても結構面白い内容だ。
テンポよく質問と回答が繰り返された後、マリアは「今の天気がどうなっているか、外に出て確かめてみましょう!」と生徒を外に連れ出した。ちょうど雨がポツポツと降り始めた。
「今の天気は?」「雨!」「気温はどうなりそう?」「下がる!」
生徒らも楽しそうだ。教室に戻る際、マリアが近づいてきて言った。「授業、どうでしたか? 私はまだ授業があるので、放課後にまた来てください。詳しい話はそこで」
タオルで肌をこする日々
午後4時半。学校に戻ると、子供たちの姿はなかった。誰もいない校舎の中を歩き、先ほどの教室に入ると、マリアだけがいた。
机の上に写真が数枚あった。「子供の頃の写真です。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領に抱っこされたのもあります。新聞に載ったんですよ」。記事の写真の中には、笑顔のマリアを抱き上げた元大統領がいた。
教職をどう思うか。
「やりがいがあって、大好きです。教師になって5年になります。だけど、DACAが撤廃されちゃったら、続けるのは無理かな……」マリアは泣き笑いのような表情を見せた。
マリアは3歳の時、メキシコから両親に連れられ、南部テキサス州に不法入国した。両親は農園で働いた。マリアは白人ばかりの学校で英語がうまく話せず、いじめられた。「自宅に帰ると、肌の色を白くしようとタオルで必死に皮膚をこすったわ。つらかった」
そんなマリアは、英語やサッカーを教えてくれるメキシコ出身の教師やコーチの存在に救われたという。「私も人に何かを教える仕事がしたい」。将来の夢は早くに固まっていた。
最高の誕生日プレゼント
運転免許証を取得する際、身分を証明する書類がなく、自身が不法移民であることを知った。不法移民では教師になれない──そう思ったが、夢をあきらめる気にはなれなかった。
15歳からサンアントニオの雑貨店で働いていた。将来、大学に進学するための足しになればと考えたからだ。白人の客に「メキシコへ帰れ」とののしられることもあったが、我慢した。
マリアは高校卒業後、身分を問われずに入学できる大学へ進学した。「教師になれなくても、塾の先生なら、なれるかもしれない」。外国人扱いのため、学費は米国人の数倍もかかった。清掃や子守の仕事を掛け持ちして必死に稼ぎ、学費を払った。
25歳の誕生日を迎えた2012年6月15日。子守の仕事から自宅に戻り、テレビをつけると、オバマ大統領がDACA導入を説明していた。「えっ、私、教師になれるんじゃないの? うそ? 信じられない」。うれしくて、テレビを見ながら泣いた。最高の誕生日プレゼントになった。
DACAの資格を取得後、別の大学に移って教員資格を取得し、教師になった。サンアントニオの学校で、児童7人の担任として教師のキャリアをスタートさせた。小柄ながら大声を出し、教室内を活発に動き回って生徒に声をかけるマリアは、「学校一元気な教師」として、生徒の間ではもちろん、教師や保護者の間でも人気者になったという。ヒスパニック系が多いテキサス州では、スペイン語を話せる教師としても重宝された。
「これまではどちらかというと、日陰者の人生だと感じていましたが、DACAのおかげで胸を張って生きられるようになりました。だから、子供たちにも自信を持って、勉強を教えられるのです」
中傷メール
今の学校に転勤して2年が過ぎた2017年9月、トランプによるDACA終了宣言に耳を疑った。トランプはDACAの資格を得た不法移民が米国人の雇用を奪っているという。「意味がわからない。米国人のなり手がいない仕事を私たちがやっているんじゃない?」
とは言っても、状況がすぐに変わる可能性はなさそうだ。教師をしながら大学院にも通ってリーダーシップ論などを学び、スキルアップを目指して充実した日々を過ごしていたが、「突然、迷子になった気分でした」。
ショックだったが、「私はプロの教師。子供にはそんな感情を知られたくないし、同情もされたくなかった」。授業ではこれまでどおり気丈に振る舞ったが、精神的なストレスは大きく、自慢の長髪がごっそりと抜け始めた。「それでも、屈託のない子供の笑顔が見られる学校が、一番心が落ち着く場所でした」
しかし、その学校にも、不穏な空気が忍び寄ってきた。不法移民の強制送還に取り組む移民・関税執行局(ICE)の摘発で、ある生徒の母親が強制送還され、生徒は学校に来なくなったのだ。マリアと同様にDACAの資格を得て教師をしていた同僚は、「強制送還されるのはイヤ」と自主的にメキシコに帰国してしまった。
夜、家に帰ってメールをチェックすると、「あなたの代わりに無職の友人を先生にしたい」という匿名の中傷メールが届いていた。「教師は不足している。私が辞めても、代わりは簡単に見つからない。大統領の発言は、現実を踏まえたものではない」
マリアは、DACAの資格を取得した時のことを振り返った。申請した役場で有頂天になり、「私、これから、米国で滞在できる人間になれちゃうのよ」と、目の前にいた職員を抱きしめたという。
DACA導入以前は、大学で勉強しつつも、「清掃や子守の仕事をずっと続けるのが現実なんだろうな」と思うことが少なくなかった。そして今、「やっぱりそうだったのか」と思う。子供たちの前から突然消えてしまう自分を想像すると、涙が止まらないという。
DACAを愛し、支える
暗い話題が続く中、バレンタインデーの2月14日を迎えた。子供たち同士でメッセージカードをつくり、盛り上がった。放課後、マリアは教室に飾られた生徒のメッセージカードのひとつに目を止めた。メッセージはこう書かれていた。
「Love & Support DACA(DACAを愛し、支える)」
胸が熱くなり、涙がこみ上げた。しばらく動けなかった。そして、思った。
「教師の私こそ、子供たちを愛し、支えないといけないじゃないの」
マリアのDACAの次の更新期限は2019年8月だ。それまでに撤廃が撤回されたり、別の方法で米国での滞在資格が得られたりする道は残されているだろうか──いや、それよりも、どんな状況であれ、自分が教師で有り続けることが大事なのではないか──様々な思いがマリアの頭の中を巡った。
教室に夕日が差し込んでいた。マリアが話し出してから2時間近くが過ぎていた。
「あのメッセージで前向きになりました。今やること、授業に集中します。米国に滞在できる希望も持ち続けます」。マリアは力強く言った。教師の顔になっていた。
マリアとは、学校の駐車場で別れた。マリアのような誠実な人がなぜ、苦しまなくてはならないのか。不法移民だからだ。しかし、そうなったことについて彼女に責任はない。DACAを巡る根本的な問題の大きさを改めて思い知らされた気がした。
プロフィール
田原徳容
1970年大阪市生まれ。関西学院大学社会学部卒。94年、読売新聞大阪本社入社。神戸総局、大阪本社社会部で、阪神・淡路大震災、神戸連続児童殺傷事件、大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件、JR福知山線脱線事故を取材。東京本社国際部を経て、2006~10年、タイ・バンコク特派員。12~14年、インド・ニューデリー特派員。15~18年、米国・ロサンゼルス特派員。共著に「トランプ劇場」(読売新聞国際部 中央公論新社)がある。