〈多文化〉韓国を生きる 難民・イスラーム・フェミニズム

1.済州島(チェジュド)

 

歳末の街頭募金を呼びかける救世軍の鐘が耳の奥底まで響くのを感じながら、私はソウルから高速バスで100キロあまり離れた町に向かった。2018年10月に済州島で出会ったイエメン人ラムズィー(仮名)に会うためである。その1か月後、済州から移動してきたばかりの彼にソウルで再会したとき、何だか弱気になっているように見えて後ろ髪を引かれた。私が日本に戻ってからしばらくは連絡も途絶えがちになったが、今回ソウルに戻ってきたことを知らせると、自動車工場で働き始めたから絶対に会いに来いという返事がすぐに来た。

 

2018年に入るまで、誰にとっても「済州島」と「イエメン」は、直接結びつく地名ではなかったはずだ。突如、済州島の歴史などまったく知らないであろうイエメンの男たちが、自身の移動によってこの二つの場所のあいだに見えない線を引いた。イエメンを舞台にサウジアラビアとイランが代理戦争を行うなか、命の危険を感じた彼らが向かったのが、観光推進のためノービザで1か月滞在できる制度をもつ済州島だった。

 

10月半ばの週末、私は済州島にやって来たイエメン人に会いたいという思い一つで済州空港に降り立った。学術調査でもなければ取材でもない、プライベートな旅の体裁である。そうでなければならないような気がしていた。積極的にそうしたというよりは、どんなスタンスで彼らと向き合えるのか、よくわからなかったからである。

 

2018年4月から5月のあいだに済州島でイエメン人難民申請者の数が急増して韓国中で大騒ぎとなり、メディアでは連日討論がなされ、入国禁止しろという請願が青瓦台に数十万筆寄せられた。とくに保守的なプロテスタント団体の振りまく「多文化」反対の主張がイスラームへの大衆的恐怖心を利用するのに成功し、強い意見を持たなかった市民社会も耳を傾けるべきものとしてメディアが扱い始めた。韓国政府はイエメンをノービザでは入国できない国のリストに加え、島のイエメン人たちが韓国本土に移動することを禁じる出島禁止措置を出した。その一方で、「済州島だけに負担を押し付けるのか」といった反発も出始めていた。

 

その後インターネットを中心にこのことを伝える日本語の記事も出てきて情報は増えたが、読めば読むほど気持ちはざわついた。いわく、済州島のノービザ制度を利用して入国する外国人は観光客ばかりでなく、難民申請をすることで滞在許可を得て働くことを目的にしている者も多く、外国人に仕事を奪われたと感じる韓国人の排外意識も高まっている。イエメン難民に関しては、女性や子どもへの性的搾取が伝えられるISや、イエメンの「慣行」とされる幼児婚のイメージから、むしろ「リベラル」な層やフェミニストのなかで懸念する声がある、等々。

 

イエメン難民に対し同情的なレポートは、韓国社会をことさら「外国人に対して不寛容」なものに描いて見下すような視線を感じさせ、他方、彼らの急増に困惑する韓国社会に同情して見せる文章のなかには、「だから日本も気をつけろよ」というメッセージを埋め込んだものものある。

 

済州島に着いてから私が人づてにアクセスしたのは、済州市の東門在来市場近くの中央聖堂だ。市場の薄暗く狭い路地に慣れた目に、いきなり広い空間と立派な聖堂が飛び込んできて驚かされる。聖堂の脇に、教会の運営する家族支援センターがあった。3階にある診療室の手前の待合室では、ひっきりなしに人が出入りしている。外国人を対象とした無料診断の日だという。東南アジア出身者だと思われる顔のなかに、パキスタン人やインド人の男性がいた。

 

受付にいるのは韓国人男性を夫に持つベトナム人とフィリピン人の女性で、ボランティアで非韓国語話者向けの応対をしている。日曜日は教会で14時から英語によるミサがあり、15時からここで歯科医師による無料診療を行っているという。2015年7月に、おもに母親を東南アジア系外国人とする家庭の支援センターとしてオープンし、必要に応じて外国人労働者の支援にも手を広げてきた。そんななか突然イエメン難民の急増を受け、対応に追われるようになったという。

 

数軒離れた建物のなかには、日用雑貨や服の無料頒布コーナーがある。寄付で集められた服がびっしりとハンガーに掛かり、品数は多い。しばらく見入ってから、イエメン難民支援の中心となっているシスターやセンター長らに話を聞くために3階のフロアーに上がる。ここではベトナム人やフィリピン人の母親をもつ子どもの学習支援をしているほか、毎日韓国語のクラスを開いており、イエメン人の参加もあるという。 

 

入り口にアラビア語で張り紙がしてある。「マルキズ・ナオーミー(ナオミ・センター)」。自分の夫と息子亡き後、嫁であり異国モアブの人であるルツとともに生きた旧約聖書中の女性「ナオミ」の名を取ったのだろう。確認するとセンター長のキム・サンフン氏は大きく頷く。――ナオミがルツに対して行ったように、私たちも彼らにそうしたいという願いを込めました。朝鮮戦争を経験し、多くの孤児を養子として国外の家庭に受け入れてもらった韓国人の多くは、イエメン難民を韓国社会に受け入れたいと思っています。しかし支配者たちはムスリムのテロリスト・イメージを利用し、排外主義を助長しているのです。

 

このセンターではイエメン難民に対し、医療支援や生活物資の配給のほか、住居探しや仕事探しを含めた生活全体のサポートをしてきた。彼らの半数ほどが現在、済州島の中で漁業や農業、食堂での仕事に就いているが、すべて臨時の仕事だ。今はミカンの収穫期だから、一時的に仕事はあるけれど、これから冬になるにつれて厳しくなるだろう、という。

 

 

「ナオミ・センター」と書いたアラビア語の張り紙と「ようこそ」の意を示すハングル(済州島にて)

 

 

ラムズィーに会ったのは、このセンター周辺の路上だった。他のイエメン人と3人で座り込んでいたところを話しかけてみた。私がアラビア語を話すことを喜んでくれ、すぐに打ち解けた。聞きたいことは山ほどあったが、彼らのほうこそ、こちらに対して聞きたいことがたくさんあった。

 

「日本は俺たちを受け入れてくれるか?」「日本には仕事あるか? 日本の1か月の給料はいくらだ」「日本人と結婚したい。誰か紹介してくれないか」「日本のメディアは俺たちのことをどういうふうに言ってるんだ?」 …私にはとっさに返事をする用意がない。残念ながら、日本には期待できない、難民申請に対する韓国の受け入れ割合はとても低いが、日本はもっと低い。そもそもそう簡単に日本に入れない。私が日本からあなたがたの招聘状を書けって? 申し訳ないが、そんなことは無理だ。…あとは謝るか、否定的な言葉を重ねるしかなくなる。

 

ラムズィーは自分のズボンを上に引っ張って、脛を見せた。銃で撃たれた跡がある。こっちにもあるよ、ともう一方の足を見せ、今度はわき腹の傷を見せた。「フーシー派にやられたんだ。イエメンでは生きていけない。戻れば殺される。俺たちは難民なんだ」。

 

妻と3人の子どもを残して来たという。イエメンでは電気技師として大きな企業に勤めていたと言い、スマホを開くと、オフィスでポーズをとるスーツ姿の自分の写真を私に見せた。

 

「いいんだ、ありがとう。会えてうれしかったよ」。この言葉に何とか救われ、両手に荷物を下げて一緒に住むアパートの方向に向かう彼らを見送ることができた。 

 

 

2.梨泰院(イテウォン)

 

私が済州島を訪問した直後の10月16日、韓国政府は島にいるイエメン人のうち339人に対し、人道ビザを発給すると発表した。難民としての認定は、当初ゼロだった。最終的には2人だけが難民認定を受け、412人が人道ビザ、56人はそれさえも認められなかったが、裁判で争う余地は残された。ともかくこれで韓国本土に移動することはできるようになった。とはいえ、島を離れることが本当に良いことなのか。世界各地からの外国人労働者のあふれる都市での生活は、過酷なものに違いない。

 

人道ビザを得たラムズィーは済州から木浦まで船で出て、そこから4時間バスで移動し、11月3日にソウルに着いた。一年前からソウルにいるという友人が頼りだった。翌4日の夜、彼が身を寄せた梨泰院のゲストハウスの近くで再会した。経営者はパキスタン人、一部屋に5人の男が寝泊まりしているとのことで、当然ながら私が中に入れてもらうことはできなかった。ソウルの寒さに参っている様子で、着いてからどこにも出ず、ゲストハウスでじっとしていたという。

 

梨泰院。龍山(ヨンサン)の米軍基地の門前町として発展したこの町には外国人客を意識したバーやクラブ、服飾雑貨店が並ぶ。1969年5月、湾岸諸国との友好関係に経済上の利益を認識した朴正煕政権は、特別令により韓国ムスリム連盟に対しモスク建設用の土地を与えた。現在モスクの周辺には、ハラールフードのレストランなどムスリム向けの店が並び建ち、ムスリムのコミュニティを形成している。前回この地域を訪れたのは2013年だが、当時に比べわずか五年で「アラブ度」がぐっと高まったのに驚く。地下鉄の出口を抜けて最初に飛び込んできたのはアラビア語の会話だった。その若者2人を追いかけて尋ねるとUAEからの観光客で、モスクでの礼拝を済ませて来たところだという。

 

丘陵部のもっとも高い場所に堂々と聳え立つ梨泰院モスクの印象は、天気によって大きく変わる。ラムズィーと再会した翌日の晴れた真昼に来てみると、マレーシアからの団体客がモスクの敷地内でそれぞれにのんびりと時間を過ごしていた。

 

モスクの裏手で、携帯電話ごしにアラビア語でまくしたてる人物がいる。お金に関するちょっとしたトラブルのようだ。電話を終えるのを待って話を聞くと、半年前にエジプトからやって来たという。毎日のように誰かが裁判も受けられずに殺されている今のエジプトには自由がなく、生きていけない。エジプトには妻と3人の子どもを残しているという。

 

「妻子を置いて出てくるという選択は難しくなかった?」――父親が投獄されたり拷問を受けたりする状況で、子どもが生きていくのが正しいことだろうか? これが彼、ムハンマドの答えだった。人間は鳥と同じだ、自由を求め、自由のある方向におのずから飛んでゆくものなんだ。私は何よりも自由を愛する! 私が広島から来たと伝えると、ヒロシマに住んでいるというエジプト人の名前を矢継ぎ早に挙げる。フェイスブックで友だちなんだ。いや、ヒロシマではない、トクシマだ。だがヒロシマにも友だちはいる…

 

ムハンマドは1本の足と2本の杖で立っていた。20年前、交通事故で片足を失ったという。松葉杖に長身痩躯を委ね、白い長衣をまとった彼は、遠目にはすでに鳥に見えるのではないか。その身体でエジプトから8500キロ、いったいどんな経緯をたどってこのモスクに辿り着いたのだろうか。彼はモスクの裏手の木陰に自分のスーツケースを広げ、そこからコップやタオルを出し入れしていた。視線を移すとモスクの外回廊の上に段ボールと寝袋が敷かれている。何と彼はこのモスクの敷地内で寝泊まりしているのだった。もっと寒くなったらさすがにこれではやって行けないだろう。だがムハンマドは、この先はアッラーだけがご存知だと返すばかりだ。

 

韓国ムスリム協会で布教や広報活動を担当するユン氏に会った。彼のムスリム名もムハンマドだ。「このモスクの周辺に、イエメンはじめ、ムスリムの難民が集まっているようですね。モスクとして積極的に彼らを支援するということは考えていますか?」――いいえ。彼らは自力で何とかやっていくしかないでしょう。私はイスラームを学ぶために2年間シカゴで暮らしました。アメリカに移民した人々は自助努力のなかで、首尾よく成功した者もいれば、そうでない者もいる。それが生存競争というものです。

 

彼の言葉はシビアだが、少なくとも管理や排除の思想とは無縁だ。〈鳥〉のムハンマドのような人物が、他の人々と混じり、とくに悲壮感を持たずに日々を過ごせる余地がこの地域にはある。東京にそんな場所はあるだろうか? 何年か前にこの街にやって来て、なかにはすでに去った者もおり、なかには今日まで居続け、さらに商売を広げている人々がいる。たがいに適度な距離をたもち、ギブ・アンド・テイクの関係で共存する。

 

ここでいくつかの店に足を運びながら、梨泰院のモスク周辺エリアを点描してみよう。

 

スマホや関連機材が所狭しと陳列された携帯電話ショップ。オーナーはパキスタン人で、店にいるのはその弟だ。9年前にこの店をオープンした。店主の妻もパキスタン人だが、今は韓国の国籍を持っているという。

 

小さなテーブルが3つだけ置かれ、ウズベキスタン人の店員が厨房に一人立つ店。出しているのはレバノン風とウズベキスタン風を折衷したサンドウィッチだ。15年ほど前に店をオープンしたレバノン人が、現在のウズベキスタン人オーナーに店を売った。入ってみると若者2人が座っており、聞けばイエメン人だ。済州島から移動してきた? いや違う、一方の若者は学生で、ソウルの国民大学でマネジメントを学んでいる。ソウルでイエメン人の学生は自分一人だと彼は言う。相方は彼を訪ねて韓国に来た旅行者だ。イエメン人をすべて難民と決めてかかっているこちらの頭を慌てて切り替えながら、私もサンドウィッチを注文する。 

 

メッカ巡礼を請け負う旅行代理店。これまで男の店員ばかりだったが、ここではヒジャーブで髪を覆ったカザフスタン人の若い店員がパソコンを前にして座っている。彼女がわざわざ電話で呼び出してくれた女性オーナーはインドネシア人だ。話し始めてすぐ、彼女が相当のやり手であることを感じる。顧客から頻繁にかかってくる電話に韓国語で応対する様子は感じがよく、そつがない。すぐ近くにもう一つ店を持ち、合わせて毎年300人をメッカへの巡礼に送り出している。

 

そしていま私と一緒に歩いているのは、南アフリカから来た黒人のテオだ。2018年1月に国を出て来たから、そろそろ一年になる。タイ、マレーシア、インドネシアを経て、11月20日に韓国に着いたという。何とか英語を教える仕事を見付けたいと、梨泰院にある公共施設「地球村センター」でパソコンに向かっていた。英語が堪能で押しが強く、お金をくれ、と出会った直後の私に堂々と要求する。大学の教員だって? お金あるんだろ。俺も修士を途中までやって、国では講師をしていた。講義のなかで政治的な発言をしたから、南アフリカで暮らしにくくなった。だが難民申請をしても、命の危険があるわけではないという理由で却下されるだろう。難民資格はいらない。欲しいのは仕事だ。

 

ソウルにある難民人権センターの場所と電話番号を伝え、チャージ済みの交通カードを渡して地下鉄駅の前でテオと別れた矢先、またアラビア語の会話が飛び込んでくる。ソウルに5年住み材木加工の工場で働いているというエジプト人の二人組は、ハラールフードの食事をしに梨泰院に来たところだ。ソウルの生活? すべてがいいわけではないさ。でもエジプトには仕事がない。

 

モスクに続く坂道を再び上る。以前にも来たことのあるイスラーム関係の専門書店だ。カシミール出身の店主はもともと宝石商で、大きな利益を手にしたあと、残りの人生を韓国でのイスラーム教育と布教に捧げようと決め、2001年にこの店を開いた。当時この辺りは店がぽつりぽつりとあるだけで、人が見向きもしないエリアだった。通りの向こうは米兵相手のバーやクラブ、売春宿街。

 

こんな地域にモスクがあるなんて、韓国のように西欧文化を受け入れている国ならではだ。だがこれも悪くない、逆にイスラーム文化のありかたが際立つのだから。…あなたはムスリマ? 違う? でもアラビア語ができて、イスラームに関する知識があるのだから、ムスリマになるのは難しいことではない。服装はそれでいい。あとはその首まわりのスカーフを頭の上に付け替えさえすれば。

 

そろそろ暇乞いをする頃合いかなと感じる。イスラームの信仰よりも、ムスリムのコミュニティや活動ぶりを知ることが面白いと思っているとは正直に伝えにくい。ムスリムコミュニティを本当に理解したいならイスラームに改宗することが一番だが、わが身の、この世俗化しきった身体性。せめてムスリムと非ムスリムのあいだのこの決定的な違いをなるべく露呈させたくないとそっと願いながら、暇乞いのタイミングをどんどん逃してゆく。【次ページにつづく】

 

 

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vol.263 

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