2019.03.04

〈多文化〉韓国を生きる 難民・イスラーム・フェミニズム

田浪亜央江 中東地域研究・パレスチナ文化研究

国際

1.済州島(チェジュド)

歳末の街頭募金を呼びかける救世軍の鐘が耳の奥底まで響くのを感じながら、私はソウルから高速バスで100キロあまり離れた町に向かった。2018年10月に済州島で出会ったイエメン人ラムズィー(仮名)に会うためである。その1か月後、済州から移動してきたばかりの彼にソウルで再会したとき、何だか弱気になっているように見えて後ろ髪を引かれた。私が日本に戻ってからしばらくは連絡も途絶えがちになったが、今回ソウルに戻ってきたことを知らせると、自動車工場で働き始めたから絶対に会いに来いという返事がすぐに来た。

2018年に入るまで、誰にとっても「済州島」と「イエメン」は、直接結びつく地名ではなかったはずだ。突如、済州島の歴史などまったく知らないであろうイエメンの男たちが、自身の移動によってこの二つの場所のあいだに見えない線を引いた。イエメンを舞台にサウジアラビアとイランが代理戦争を行うなか、命の危険を感じた彼らが向かったのが、観光推進のためノービザで1か月滞在できる制度をもつ済州島だった。

10月半ばの週末、私は済州島にやって来たイエメン人に会いたいという思い一つで済州空港に降り立った。学術調査でもなければ取材でもない、プライベートな旅の体裁である。そうでなければならないような気がしていた。積極的にそうしたというよりは、どんなスタンスで彼らと向き合えるのか、よくわからなかったからである。

2018年4月から5月のあいだに済州島でイエメン人難民申請者の数が急増して韓国中で大騒ぎとなり、メディアでは連日討論がなされ、入国禁止しろという請願が青瓦台に数十万筆寄せられた。とくに保守的なプロテスタント団体の振りまく「多文化」反対の主張がイスラームへの大衆的恐怖心を利用するのに成功し、強い意見を持たなかった市民社会も耳を傾けるべきものとしてメディアが扱い始めた。韓国政府はイエメンをノービザでは入国できない国のリストに加え、島のイエメン人たちが韓国本土に移動することを禁じる出島禁止措置を出した。その一方で、「済州島だけに負担を押し付けるのか」といった反発も出始めていた。

その後インターネットを中心にこのことを伝える日本語の記事も出てきて情報は増えたが、読めば読むほど気持ちはざわついた。いわく、済州島のノービザ制度を利用して入国する外国人は観光客ばかりでなく、難民申請をすることで滞在許可を得て働くことを目的にしている者も多く、外国人に仕事を奪われたと感じる韓国人の排外意識も高まっている。イエメン難民に関しては、女性や子どもへの性的搾取が伝えられるISや、イエメンの「慣行」とされる幼児婚のイメージから、むしろ「リベラル」な層やフェミニストのなかで懸念する声がある、等々。

イエメン難民に対し同情的なレポートは、韓国社会をことさら「外国人に対して不寛容」なものに描いて見下すような視線を感じさせ、他方、彼らの急増に困惑する韓国社会に同情して見せる文章のなかには、「だから日本も気をつけろよ」というメッセージを埋め込んだものものある。

済州島に着いてから私が人づてにアクセスしたのは、済州市の東門在来市場近くの中央聖堂だ。市場の薄暗く狭い路地に慣れた目に、いきなり広い空間と立派な聖堂が飛び込んできて驚かされる。聖堂の脇に、教会の運営する家族支援センターがあった。3階にある診療室の手前の待合室では、ひっきりなしに人が出入りしている。外国人を対象とした無料診断の日だという。東南アジア出身者だと思われる顔のなかに、パキスタン人やインド人の男性がいた。

受付にいるのは韓国人男性を夫に持つベトナム人とフィリピン人の女性で、ボランティアで非韓国語話者向けの応対をしている。日曜日は教会で14時から英語によるミサがあり、15時からここで歯科医師による無料診療を行っているという。2015年7月に、おもに母親を東南アジア系外国人とする家庭の支援センターとしてオープンし、必要に応じて外国人労働者の支援にも手を広げてきた。そんななか突然イエメン難民の急増を受け、対応に追われるようになったという。

数軒離れた建物のなかには、日用雑貨や服の無料頒布コーナーがある。寄付で集められた服がびっしりとハンガーに掛かり、品数は多い。しばらく見入ってから、イエメン難民支援の中心となっているシスターやセンター長らに話を聞くために3階のフロアーに上がる。ここではベトナム人やフィリピン人の母親をもつ子どもの学習支援をしているほか、毎日韓国語のクラスを開いており、イエメン人の参加もあるという。 

入り口にアラビア語で張り紙がしてある。「マルキズ・ナオーミー(ナオミ・センター)」。自分の夫と息子亡き後、嫁であり異国モアブの人であるルツとともに生きた旧約聖書中の女性「ナオミ」の名を取ったのだろう。確認するとセンター長のキム・サンフン氏は大きく頷く。――ナオミがルツに対して行ったように、私たちも彼らにそうしたいという願いを込めました。朝鮮戦争を経験し、多くの孤児を養子として国外の家庭に受け入れてもらった韓国人の多くは、イエメン難民を韓国社会に受け入れたいと思っています。しかし支配者たちはムスリムのテロリスト・イメージを利用し、排外主義を助長しているのです。

このセンターではイエメン難民に対し、医療支援や生活物資の配給のほか、住居探しや仕事探しを含めた生活全体のサポートをしてきた。彼らの半数ほどが現在、済州島の中で漁業や農業、食堂での仕事に就いているが、すべて臨時の仕事だ。今はミカンの収穫期だから、一時的に仕事はあるけれど、これから冬になるにつれて厳しくなるだろう、という。

「ナオミ・センター」と書いたアラビア語の張り紙と「ようこそ」の意を示すハングル(済州島にて)

ラムズィーに会ったのは、このセンター周辺の路上だった。他のイエメン人と3人で座り込んでいたところを話しかけてみた。私がアラビア語を話すことを喜んでくれ、すぐに打ち解けた。聞きたいことは山ほどあったが、彼らのほうこそ、こちらに対して聞きたいことがたくさんあった。

「日本は俺たちを受け入れてくれるか?」「日本には仕事あるか? 日本の1か月の給料はいくらだ」「日本人と結婚したい。誰か紹介してくれないか」「日本のメディアは俺たちのことをどういうふうに言ってるんだ?」 …私にはとっさに返事をする用意がない。残念ながら、日本には期待できない、難民申請に対する韓国の受け入れ割合はとても低いが、日本はもっと低い。そもそもそう簡単に日本に入れない。私が日本からあなたがたの招聘状を書けって? 申し訳ないが、そんなことは無理だ。…あとは謝るか、否定的な言葉を重ねるしかなくなる。

ラムズィーは自分のズボンを上に引っ張って、脛を見せた。銃で撃たれた跡がある。こっちにもあるよ、ともう一方の足を見せ、今度はわき腹の傷を見せた。「フーシー派にやられたんだ。イエメンでは生きていけない。戻れば殺される。俺たちは難民なんだ」。

妻と3人の子どもを残して来たという。イエメンでは電気技師として大きな企業に勤めていたと言い、スマホを開くと、オフィスでポーズをとるスーツ姿の自分の写真を私に見せた。

「いいんだ、ありがとう。会えてうれしかったよ」。この言葉に何とか救われ、両手に荷物を下げて一緒に住むアパートの方向に向かう彼らを見送ることができた。 

2.梨泰院(イテウォン)

私が済州島を訪問した直後の10月16日、韓国政府は島にいるイエメン人のうち339人に対し、人道ビザを発給すると発表した。難民としての認定は、当初ゼロだった。最終的には2人だけが難民認定を受け、412人が人道ビザ、56人はそれさえも認められなかったが、裁判で争う余地は残された。ともかくこれで韓国本土に移動することはできるようになった。とはいえ、島を離れることが本当に良いことなのか。世界各地からの外国人労働者のあふれる都市での生活は、過酷なものに違いない。

人道ビザを得たラムズィーは済州から木浦まで船で出て、そこから4時間バスで移動し、11月3日にソウルに着いた。一年前からソウルにいるという友人が頼りだった。翌4日の夜、彼が身を寄せた梨泰院のゲストハウスの近くで再会した。経営者はパキスタン人、一部屋に5人の男が寝泊まりしているとのことで、当然ながら私が中に入れてもらうことはできなかった。ソウルの寒さに参っている様子で、着いてからどこにも出ず、ゲストハウスでじっとしていたという。

梨泰院。龍山(ヨンサン)の米軍基地の門前町として発展したこの町には外国人客を意識したバーやクラブ、服飾雑貨店が並ぶ。1969年5月、湾岸諸国との友好関係に経済上の利益を認識した朴正煕政権は、特別令により韓国ムスリム連盟に対しモスク建設用の土地を与えた。現在モスクの周辺には、ハラールフードのレストランなどムスリム向けの店が並び建ち、ムスリムのコミュニティを形成している。前回この地域を訪れたのは2013年だが、当時に比べわずか五年で「アラブ度」がぐっと高まったのに驚く。地下鉄の出口を抜けて最初に飛び込んできたのはアラビア語の会話だった。その若者2人を追いかけて尋ねるとUAEからの観光客で、モスクでの礼拝を済ませて来たところだという。

丘陵部のもっとも高い場所に堂々と聳え立つ梨泰院モスクの印象は、天気によって大きく変わる。ラムズィーと再会した翌日の晴れた真昼に来てみると、マレーシアからの団体客がモスクの敷地内でそれぞれにのんびりと時間を過ごしていた。

モスクの裏手で、携帯電話ごしにアラビア語でまくしたてる人物がいる。お金に関するちょっとしたトラブルのようだ。電話を終えるのを待って話を聞くと、半年前にエジプトからやって来たという。毎日のように誰かが裁判も受けられずに殺されている今のエジプトには自由がなく、生きていけない。エジプトには妻と3人の子どもを残しているという。

「妻子を置いて出てくるという選択は難しくなかった?」――父親が投獄されたり拷問を受けたりする状況で、子どもが生きていくのが正しいことだろうか? これが彼、ムハンマドの答えだった。人間は鳥と同じだ、自由を求め、自由のある方向におのずから飛んでゆくものなんだ。私は何よりも自由を愛する! 私が広島から来たと伝えると、ヒロシマに住んでいるというエジプト人の名前を矢継ぎ早に挙げる。フェイスブックで友だちなんだ。いや、ヒロシマではない、トクシマだ。だがヒロシマにも友だちはいる…

ムハンマドは1本の足と2本の杖で立っていた。20年前、交通事故で片足を失ったという。松葉杖に長身痩躯を委ね、白い長衣をまとった彼は、遠目にはすでに鳥に見えるのではないか。その身体でエジプトから8500キロ、いったいどんな経緯をたどってこのモスクに辿り着いたのだろうか。彼はモスクの裏手の木陰に自分のスーツケースを広げ、そこからコップやタオルを出し入れしていた。視線を移すとモスクの外回廊の上に段ボールと寝袋が敷かれている。何と彼はこのモスクの敷地内で寝泊まりしているのだった。もっと寒くなったらさすがにこれではやって行けないだろう。だがムハンマドは、この先はアッラーだけがご存知だと返すばかりだ。

韓国ムスリム協会で布教や広報活動を担当するユン氏に会った。彼のムスリム名もムハンマドだ。「このモスクの周辺に、イエメンはじめ、ムスリムの難民が集まっているようですね。モスクとして積極的に彼らを支援するということは考えていますか?」――いいえ。彼らは自力で何とかやっていくしかないでしょう。私はイスラームを学ぶために2年間シカゴで暮らしました。アメリカに移民した人々は自助努力のなかで、首尾よく成功した者もいれば、そうでない者もいる。それが生存競争というものです。

彼の言葉はシビアだが、少なくとも管理や排除の思想とは無縁だ。〈鳥〉のムハンマドのような人物が、他の人々と混じり、とくに悲壮感を持たずに日々を過ごせる余地がこの地域にはある。東京にそんな場所はあるだろうか? 何年か前にこの街にやって来て、なかにはすでに去った者もおり、なかには今日まで居続け、さらに商売を広げている人々がいる。たがいに適度な距離をたもち、ギブ・アンド・テイクの関係で共存する。

ここでいくつかの店に足を運びながら、梨泰院のモスク周辺エリアを点描してみよう。

スマホや関連機材が所狭しと陳列された携帯電話ショップ。オーナーはパキスタン人で、店にいるのはその弟だ。9年前にこの店をオープンした。店主の妻もパキスタン人だが、今は韓国の国籍を持っているという。

小さなテーブルが3つだけ置かれ、ウズベキスタン人の店員が厨房に一人立つ店。出しているのはレバノン風とウズベキスタン風を折衷したサンドウィッチだ。15年ほど前に店をオープンしたレバノン人が、現在のウズベキスタン人オーナーに店を売った。入ってみると若者2人が座っており、聞けばイエメン人だ。済州島から移動してきた? いや違う、一方の若者は学生で、ソウルの国民大学でマネジメントを学んでいる。ソウルでイエメン人の学生は自分一人だと彼は言う。相方は彼を訪ねて韓国に来た旅行者だ。イエメン人をすべて難民と決めてかかっているこちらの頭を慌てて切り替えながら、私もサンドウィッチを注文する。 

メッカ巡礼を請け負う旅行代理店。これまで男の店員ばかりだったが、ここではヒジャーブで髪を覆ったカザフスタン人の若い店員がパソコンを前にして座っている。彼女がわざわざ電話で呼び出してくれた女性オーナーはインドネシア人だ。話し始めてすぐ、彼女が相当のやり手であることを感じる。顧客から頻繁にかかってくる電話に韓国語で応対する様子は感じがよく、そつがない。すぐ近くにもう一つ店を持ち、合わせて毎年300人をメッカへの巡礼に送り出している。

そしていま私と一緒に歩いているのは、南アフリカから来た黒人のテオだ。2018年1月に国を出て来たから、そろそろ一年になる。タイ、マレーシア、インドネシアを経て、11月20日に韓国に着いたという。何とか英語を教える仕事を見付けたいと、梨泰院にある公共施設「地球村センター」でパソコンに向かっていた。英語が堪能で押しが強く、お金をくれ、と出会った直後の私に堂々と要求する。大学の教員だって? お金あるんだろ。俺も修士を途中までやって、国では講師をしていた。講義のなかで政治的な発言をしたから、南アフリカで暮らしにくくなった。だが難民申請をしても、命の危険があるわけではないという理由で却下されるだろう。難民資格はいらない。欲しいのは仕事だ。

ソウルにある難民人権センターの場所と電話番号を伝え、チャージ済みの交通カードを渡して地下鉄駅の前でテオと別れた矢先、またアラビア語の会話が飛び込んでくる。ソウルに5年住み材木加工の工場で働いているというエジプト人の二人組は、ハラールフードの食事をしに梨泰院に来たところだ。ソウルの生活? すべてがいいわけではないさ。でもエジプトには仕事がない。

モスクに続く坂道を再び上る。以前にも来たことのあるイスラーム関係の専門書店だ。カシミール出身の店主はもともと宝石商で、大きな利益を手にしたあと、残りの人生を韓国でのイスラーム教育と布教に捧げようと決め、2001年にこの店を開いた。当時この辺りは店がぽつりぽつりとあるだけで、人が見向きもしないエリアだった。通りの向こうは米兵相手のバーやクラブ、売春宿街。

こんな地域にモスクがあるなんて、韓国のように西欧文化を受け入れている国ならではだ。だがこれも悪くない、逆にイスラーム文化のありかたが際立つのだから。…あなたはムスリマ? 違う? でもアラビア語ができて、イスラームに関する知識があるのだから、ムスリマになるのは難しいことではない。服装はそれでいい。あとはその首まわりのスカーフを頭の上に付け替えさえすれば。

そろそろ暇乞いをする頃合いかなと感じる。イスラームの信仰よりも、ムスリムのコミュニティや活動ぶりを知ることが面白いと思っているとは正直に伝えにくい。ムスリムコミュニティを本当に理解したいならイスラームに改宗することが一番だが、わが身の、この世俗化しきった身体性。せめてムスリムと非ムスリムのあいだのこの決定的な違いをなるべく露呈させたくないとそっと願いながら、暇乞いのタイミングをどんどん逃してゆく。

3.忠州(チュンジュ)

ソウルから高速バスで100キロあまり南東に方向に向かい、着いたのは忠州という町である。夜になって、いまラムズィーが住んでいるという校峴(ギョヒョン)住宅公団アパートの前で待ち合わせた。アラブ系、または中東出身者らしく見える男が何人か通り過ぎてゆく。酷寒の夜で、みな帽子やマフラーで顔のほとんどを覆っており、話しかけられる雰囲気ではない。

工場からの帰りのバスから降りたラムズィーが向かってきた。10日前から自動車工場のラインで働き始めたという。同じ工場に勤めるイエメン人4人で暮らしているというアパートの部屋に私が入るわけにもいかないから、どこかカフェでも探して入ろうと勧めるが、なぜか乗り気でない。けっきょく背中を丸めて通りをぐるぐる回りながら話を聞くことになった。

朝7時にバスが来て工場に向かう。8時から仕事。2時間働き20分休み、1時間半働き15分の休みというのが繰り返される。お昼は正午前にランチタイムが始まり、30分。工場で夕食を済ませてから2時間働き、20時半に終わってからバスで戻る。工場は24時間稼働、2交代制だ。まだ新入りなので昼のシフトだが、慣れたら1週間ごとに昼間のシフトと夜間のシフトの交代になる。

ラムズィーは自分の働いている工場の名前さえ知らなかった。そんなことがあるだろうか? 試用期間中だからまだ契約を結んでいないのだという。忠州には現代(ヒュンダイ)の工場があるからその可能性もあるが、その名を挙げても「分からない」と答える。工場は大きく、従業員はおそらく600人とか700人といった規模だという。韓国人と中国人労働者が多く、パキスタン人やウズベキスタン人などのムスリムは、分かる範囲では10数人、うちアラブ人は、イエメン人のほかはエジプト人だけだという。

工場での夕食が18時というのが、中東出身者の一般的な生活感覚からすると衝撃的だ。韓国風の食事には慣れたが、豚肉が出ることもあり、その時は食べない。――工場から戻ったら何もできない。疲れているし、外はこの通りの寒さだし、何もない。朝は6時に起きて準備をする。服も取り替えない日が多いが、構うもんか。

月給がいくらになるか分からないが、200万ウォン(約20万円)くらいを見込んでいるという。ただ、契約を結ぶのが2か月後になると言われたのが業腹だ。友だちに聞いて、ほかにもっといい仕事が見つかったら移ってやる。そう言いながら突然スマートフォンを取り出して、話しかける。イエメンの家族ではなく、済州島で私も会っているハーメドだ。彼は今、釜山で働いているという。ラムズィーはおどけて私と肩を組み、私が画面に一緒に入るようにして「どうだ、いいだろ?」とハーメドに見せびらかす。

まったく、妻と離れて8か月だぜ、我慢できない。分かるだろ? セックスに飢えているということだろう。…お金を貯めたら韓国人と結婚するんだ。イエメンに戻る気はない。日本人でもいい。いや、お前でもいい。結婚しないか? ニヤつきながら私に聞く。「呆れるね、イエメンに奥さんと子どもがいるんでしょう?」…そんなこと構うもんか。

初めて会った時、ラムズィーは40歳だと言っていた。私はさらに歳上だが、いずれにせよ若いとは言えない。難民という困難な立場で、現在はほとんど無一文でもあるというのに、結婚という願望を口にする貪欲な生命力に半ば感心し、半ばあきれる。だが、そんな一方的な願望に付き合ってくれる相手と出会うことはできるのだろうか。韓国人でも日本人でも、結婚は難しいと思うよ、と言うと真顔で理由を聞いてくる。知っている韓国語の単語やフレーズを次々と口に出し、急速に韓国語を身に着けていることをアピールする。日本に行けば、日本語だってすぐに覚えられるさ。

この辺りがホテルに戻る潮時かなと考える。予想はしていたことだが、これ以上関わるのは難しい。働いている工場の名前が分かれば、契約の件を難民人権センターに相談することもできると伝えてみるが、そんなことはいい、ダメなら他の仕事を見つけるまでだと言う。地元のNGOよりもイエメン出身者同士のネットワークに頼る方が手っ取り早いということだろう。彼にまた会うことがあるのか、確信を持てないまま別れを告げてタクシーに乗り込む。

4.韓国の友人との対話から

もともとの保守層に加え、現在の韓国では韓国ではむしろ「リベラル」な層やフェミニストのなかで、イエメン難民の受け入れを懸念する声がある、という趣旨の記事をこれまでいくつか目にした。私自身がこれまで出会ってきたような、女性の生きづらさを振りほどくための考え方や姿勢と、中東出身のムスリム男性との関わりかたとの整合性をつけるのが難しいと感じる局面はある(むろん相手がムスリムでなくても、あるいは男性でなくても、そういうことはいくらでもある)。だが、難民の受け入れに関する議論は、まったく次元の違う話ではないだろうか。少なくとも受け入れへの「懸念」を口にする人々が、実際にムスリムたちとどれほど付き合い、どの程度彼らのことを知っているのかは、あてにならない。

この文脈をもっと深く知りたいと思い、5年ほど前から付き合いのある韓国の友人Bとの会話のなかで話題にしてみた。映像関係の仕事をする彼女は、韓国のフェミニスト雑誌にときおり寄稿しており、ちかぢか単行本の刊行を予定している。

それはおそらく、このところ韓国でフェミニズムがかつてない盛り上がりを迎え、「フェミニスト革命」の状況になっていることと大きく関わりがある、と彼女は言う。そのきっかけは2016年5月、江南(カンナム)駅付近のトイレで、23歳の女性が34歳の男にナイフで殺害された事件だ。男と被害者はまったく面識のない者同士だったが、男は女性たちが自分を見下していると日頃から感じており、その復讐をしたのだと供述した。

多くの女性たちが、この事件には韓国における女性嫌悪文化が象徴的に現れていると感じた。江南駅の10番出口には、彼女を悼むポストイットのメッセージが貼られ、女性であるというだけで殺害された被害者に思いをはせ、女性への暴力がやまない韓国社会への怒りが表明された。この事件をきっかけにフェミニズムに関心をもつようになったと表明する若い女性が大勢いるという。

他方でこの事件より少し間から、メガリア(Megalia)というコミュニティサイトが作られており、ネット上の女性嫌悪表現に対し、男性に向けて同様の表現を使って攻撃する活動が知られるようになっていた(現在は閉鎖)。江南の事件の影響でフェミニストになったと公言する女性の多くも韓国の男性とは結婚しないと表明し、男性への嫌悪に向かっている。一方、企業など男社会での通俗的な理解ではフェミニストとメガリアが同じ意味で理解され忌避されるようになっている。就職時の面接で「メガリア(フェミニスト)じゃないだろうね」といった質問がなされることもあり、Bいわく、「むかし共産主義者に向けられていた視線」が彼女たちに向けられるようになっているという。

40代のBは、若い世代のフェミニストたちを外側から見ている。Bが問題にするのは、彼女たちのなかにトランスジェンダーやゲイ、難民に対するヘイトをむき出しにする潮流が存在することだ。――こうした性的マイノリティはけっきょく男性性の強化に加担したり、男性性を背負っていたりするということなんでしょう。難民に関しては、ムスリムであれどうであれ、韓国以上に男性支配的な社会から来た人たちだと思われているから、彼女たちが歓迎するはずがない。

メガリアから分派したWOMADはとくにこの傾向が激しい。だが、彼女たちの組織するデモは、かつてないほどの参加者を集めている。モルカ(隠しカメラ)での盗撮ポルノ映像に抗議し、政府に対し捜査の徹底や法の整備を訴えているのだ。8月のデモでは、7万人を集めたそうだ。――ああ何と、12月のデモは11万人ですって。ネット検索をしながらBは小さく叫ぶ。

溜息をつきながらBは言う。イエメン難民受け入れに反対しているのは彼女たちだけでなく、プロテスタントや元からの排外的な右派もいる。でもこの若いフェミニストたちは、マイノリティへのヘイトを大衆化するのに大きな役割を果たしているということでは他のグループとは違う。普通の女性たちが、彼女たちの声を聞くのだから。 

〈多文化〉韓国。さまざまなエスニシティからなる移民社会と韓国社会というだけではなく、韓国社会の内側も文化的差異を先鋭化させ互いを遮断し合っている。よその社会から来たマイノリティにとって、少なくとも日本よりは韓国のほうが生きやすい社会だと思ってきたが、そんなに単純な話ではないことは認めざるを得ない。〈多文化〉を生きることは、排外主義、レイシズム、分断との絶え間ない闘争であり、ほんわかと共存の理想を語ることでない。…そうした闘争を生きる当事者であるBの物腰や口調だけは、ごく穏やかではあるのだが。

Bは続ける。かつて私たちの世代も、女性の問題が他の何よりも重要だと考えていた。でも次第に、ホームレスや障害者、プアワーカー、難民といったさまざまなマイノリティとの連帯が必要だと考えるようになった。今の彼女たちが、そのように変わっていくように見えないのは、そもそもヘイトを梃子に運動を進めているから。それに彼女たちはあちこちのマスコミで取り上げられていて、すでに大きなパワーをもっている。かつての私たちの運動がずっとマイナーなものだったのとは違う… 

今ではお互い関わりを薄くしてしまったが、Bと私は、韓国と日本でそれぞれパレスチナに関わる運動をとおして出会った。だから互いに向き合う二項間の関係というよりも、それぞれがパレスチナ/イスラエルという対象と向き合いながら、その向き合い方の参照項として存在していた。韓国の人々がなぜパレスチナに関心を持つのか、どのような支援活動をしているのかを知ることはひじょうに刺激的だった。Bたちも日本での運動に関して、ある程度はそう感じただろうとは思う。しかし間違いなくこちらのほうが多くを学ばせてもらったのは、民主化を経験した韓国社会では運動が普通の人々の生活に深く根づき、運動文化が成熟しているからだ。

そしてこのことが、互いの社会のなかに入ってくる移民や難民との関わりでも言える。外国人労働者が長年あちこちで産業を支えて来たにもかかわらず、受け入れの事実を否認し無策のままでいた日本に対し、韓国社会ははるかに豊かな経験を蓄積している。それがゆえに差別が可視化されやすく、ヘイトの叫びが堂々と声を高めている、ということになるだろう。その先行きはBが言うとおり決して楽観できるものではないにせよ、その過程で生まれるさまざまな対抗軸の可能性には大いに期待がもてる。

Bとの別れを惜しみ、一人になった帰りの地下鉄の中で、私はこれまでのBとの関係を反芻していた。いつも、教えてもらうことばかり多い。これは個人的な要因ばかりとは思えない。外からやって来る人々と日本社会との関係のあり方が、韓国や他の社会の人々にとって学ぶに値すると感じるものになることは、果たしてあるのだろうか。

プロフィール

田浪亜央江中東地域研究・パレスチナ文化研究

1970年生まれ。東京外国語大学アラビア語学科卒業、一橋大学言語社会研究科博士課程単位取得退学。学部在学中にシリア・ダマスカス大学、大学院在籍中にイスラエル・ハイファ大学留学。国際交流基金中東担当専門員、大学非常勤講師、成蹊大学アジア太平洋研究センター主任研究員を経て、2017年より広島市立大学国際学部准教授。著書『〈不在者〉たちのイスラエル 占領文化とパレスチナ』(インパクト出版会)、共訳書『パレスチナの民族浄化 イスラエル建国の暴力』(法政大学出版局)。

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