タクシン時代、終焉へ――タイ政治、主役交代も分断修復の道筋見えず

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タイではこの3か月の間に歴史の節目となる出来事が続いた。69年ぶりの国王戴冠式、10年ぶりの東南アジア諸国連合(ASEAN)議長、8年ぶりの総選挙、5年ぶりの民政移管・・・。政界を二分して争った最大の実力者の一人が逝き、もう一人は乾坤一擲の賭けに敗れて、時代の後景に退きつつある。それでも「新時代」を迎える高揚感は乏しく、社会に鬱屈がくすぶるように見える。王室を中心とする既得権層や軍支配と対峙する人々の声を吸いあげる仕組みはなく、分断を癒す道筋がまったく見通せないからだ。

 

タイが議長を務めるASEAN首脳会議(サミット)は6月22、23の両日、加盟10カ国の首脳が首都バンコクに集まり、独自の外交戦略「インド太平洋構想」を採択、海洋プラスチックごみの削減や東アジア地域包括的経済連携(RCEP)の年内合意をめざす方針を確認して閉幕した。

 

10年前の前回サミットは阿鼻叫喚のなかで突然幕を閉じた。赤シャツを着た群衆数千人が徒歩でリゾート地パタヤの会場に向けて行進し、軍や警察の防御線を次々に突破、ホテル入口の大きなガラスを打ち破って議場に乱入した。当時のアピシット首相や日中韓豪など域外6カ国を含む各国の首脳らはほうほうの体でヘリに乗り脱出し、会議は打ち切られた。当時新聞社の特派員だった私は、前代未聞の事態に慌て、記者室にいたスタッフの安全確保に冷や汗をかいた記憶が鮮明だ。

 

赤シャツ隊はタクシン元首相の支持者らだ。2001年に政権に就いて以来、議会の圧倒的多数を抑え、憲政史上最強の首相とされたタクシン氏は06年9月に軍のクーデターで失脚。以後、政界は社会を巻き込んでタクシン派と反タクシン派に色分けされ、多数の死者を出した首都中心部での争乱や国際空港の封鎖、司法の介入による政権の瓦解などで混乱を重ねてきた。サミットの騒動はその一幕である。

 

それに比べれば今回は波乱なくコトが進んだように見える。しかし議長国の舞台裏は寒々しいものだった。そもそも首脳会議は例年4月前後に催される。ところがタイの総選挙が2月から3月24日に先延ばしされたため、念のために6月後半に設定された。当初は民政復帰した新内閣の船出の場となるはずだったが、総選挙後3か月を経ても組閣が間に合わず、「再任」されたプラユット首相を除けば、ホスト役の閣僚らはいずれも退任間近、いわば「死に体内閣」の状態だった。

 

 

大立者の大往生

 

5月26日、プレム元首相が亡くなった。陸軍司令官から1980年に首相となり、8年間にわたって国政をつかさどった。その後、枢密院議長として、2016年10月に亡くなったプミポン前国王を支えてきた。98歳の大往生だが、4月までプラユット首相らのあいさつをうけるなど国の重鎮としてのふるまいを見せていた。

 

21世紀のタイの政界は、プレム氏対タクシン氏の争いを軸に展開されたとみることができる。

 

タクシン派は都市貧困層や東北部、北部の農民ら、反タクシン派は王党派、軍、官僚、経済界などの既得権層や中間層が支えた。反タクシン派を背後で仕切っていたとされるプレム氏を、タクシン氏は「黒幕」「スーパーパワー」と罵っていた。

 

クーデター後の選挙でも圧勝したタクシン派政権を、王党派寄りの裁判所が些細な理由で解党しても、同派は党名や候補者を入れ替えて次の選挙で多数派を占めた。これに対して軍は、元首相の妹インラック氏が首相だった14年、再度のクーデターで政権を転覆した。それを指揮した陸軍司令官から暫定首相に横滑りしていたプラユット氏が6月5日に召集された国会で首相に指名された。軍事政権下の「暫定」がはずれ、「正式」な首相となった。

 

プラユット氏は総選挙に立候補したわけではない。議員でなくても首相になれるよう、軍政が憲法を改定した。プレム氏が1980年代に非民選の首相として君臨したのと同じ形だ。政治は「半分の民主主義」と呼ばれた30年前に先祖帰りした形だ。

 

 

感じられない新時代の息吹

 

軍政はこの5年間で、総選挙で負けても権力を維持する体制を作りあげた。

 

一部公選だった上院を軍の指名制にし、250人の上院議員に首相選出の投票権を与えた。そこに首相や閣僚の兄弟らの「身内」を送り込んだ。タクシン派を中心とする反軍政勢力は総選挙で、定数500の下院の4分の3以上の議席を得ない限り、過半数には届かず政権を獲れない。

 

選挙制度そのものにも、タクシン派政党が不利になる仕掛けをいくつも導入した。例えば小選挙区で多くの議席を得た政党の比例区での議席配分を少なくした。

 

総選挙ではタクシン派のタイ貢献党が136議席で予想通り第一党となり、続いて親軍政の国民国家の力党の115、反軍政の新未来党は80、反タクシン派の伝統政党・民主党が52、東北部を地盤とするタイ名誉党51と続いた。350の小選挙区は貢献党が136議席、国民国家の力党97。つまり貢献党は比例区で1人も上乗せされないのに対して、国民国家の力党は18議席上積みして両党の差は縮んだ。

 

選挙時に親軍政政党とは組まないと公約していた民主党は選挙後、恒例の合従連衡のなかで寝返り、タイ名誉党や多数の小政党ともども与党入りした。その結果、下院の首相指名ではプラユット氏が256票を獲得し、上院すべての250票と合わせて圧勝した。

 

親軍政党が他党を糾合した見返りに、各党は閣僚ポストを要求。それをまとめきれなかったためASEANサミットまでに新内閣を発足させることができなかったのだ。

 

日本が平成から令和へ代替わりした5月。40度近い猛暑のなか、バンコクの王宮を中心に絢爛豪華たる原色の式典が繰り広げられた。プミポン前国王の後を継ぎ、ラマ王朝の10世王となるワチラロンコン国王の戴冠式だ。国王は式の直前、突然結婚を宣言して新王妃を迎えるサプライズがあった。しかし即位そのものは2年半前に済ませており、結婚も4度目ということもあってか、令和フィーバーに沸く日本ほどの晴れがましさは広がらなかった。

 

これだけのイベントが短期間に押し寄せたにもかかわらず、新時代到来の息吹が感じられないのは、民政移管を果たしたというものの、選挙前から親軍政側に大幅に下駄をはかせ、政権選択の選挙とはいいがたい制度設計の下で予想通り親軍政党が勝ち、クーデターの首謀者が首相に収まったからだ。非民選の上院や軍政が指名した司法、独立機関などが既得権層の利益をがっちり守り、事実上軍政が続いているとの見方も失当とは言えない。社会のムードが変わらないのも無理はない。

 

 

王女擁立の衝撃

 

それでも選挙前には、世の中が変わるかもしれないという「逆転」の目が見えた瞬間があった。

 

2月8日、タクシン元首相派の政党のひとつタイ国家維持党が首相候補としてウボンラット王女を選挙管理委員会に届け出たのだ。本人もSNSで受諾の意思を表明。事実上の王室メンバーが国政のトップに立つ意向を表明したインパクトは大きかった。

 

王女は米国マサチューセッツ工科大学などで学び、米国人と結婚し王族籍を離れたが、離婚して1998年に帰国した。その後の動向は毎日のようにテレビで伝えられている。社会貢献活動の番組を持ち、SNSでも活発に発信。AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」のタイ語バージョンで踊る動画が話題になった。タクシン氏とは帰国後に親しくなったとされ、昨年のサッカー・ロシアワールドカップではスタジアムで隣り合って観戦する姿が報じられている。

 

この10年余り、反タクシン派がタクシン元首相らを糾弾する錦の御旗は「腐敗」と並んで「不敬」であった。元首相らは王室をないがしろにし、その権威に挑戦して共和制をめざしているとの主張だ。ところが国民から敬愛されたプミポン前国王の長女がタクシン派政党の首相候補になるのであれば、これまでの「不敬」というレッテルは何だったのか。軍政の正統性にもかかわる疑問が擁立劇により提起された。親軍政党が有利とされた情勢が一変するかもしれない・・・。

 

だが事態は半日で覆った。ワチラロンコン国王が同日夜、「王室の高位の者が政治の世界にかかわることは、いかなる理由や形であれ極めて不適切」との声明を出し、擁立劇は一夜の夢と消えた。さらに選挙管理委員会の訴えを受けた憲法裁判所は3月7日、「王室の政治的な中立性を脅かし、政党法が禁じる立憲君主制に敵対する行為」としてタイ国家維持党に解党を命じ、候補者全員の資格を取り消すとともに、幹部らの立候補を10年間禁じる判決を言い渡した。

 

この時点で、タクシン派、反軍政派が選挙で大勝し、首相を擁立する目はなくなった。

 

 

致命的な誤算

 

一発逆転をねらったタクシン元首相はさらなる判断ミスを重ねた。

 

総選挙2日前の3月22日、香港・ビクトリア湾を目前に臨むローズウッドホテルで、元首相の末娘ペートンタンさんと民間パイロットのピドック氏の結婚披露宴が催された。今年オープンしたばかりの超高級ホテルには、元首相と同様に国外逃亡中の妹インラック前首相をはじめとする親族らに加え、選挙戦最終盤にもかかわらずタイから多くの政治家や俳優らが駆け付けた。詰めかけたメディアの前でサプライズの演出が用意されていた。エントランスに横付けされたリムジンからウボンラット王女が降り立ったのだ。タクシン氏が満面の笑顔で出迎え、ハグする様子が世界に流れた。元首相としては、擁立失敗後も王女は「われわれの側にいる」とアピールをしたかったのだろう。しかしこれが国王の逆鱗に触れたとみられる。

 

擁立劇の際に声明を出したにもかかわらず、改めて王女を「選挙利用」したと受け止めたとみられる。翌日夜、つまり選挙前夜、国王は「悪い人間に権力を持たせてはならない」という異例の声明を出した。この文脈で「悪い人」とはタクシン氏を指すとの受け止めが一般的だ。さらに選挙後の3月30日、元首相にかつて与えられた勲章を取り消す勅令を出した。汚職などの罪で有罪となった後もタクシン氏が続ける海外逃亡を「不適切で深刻な非行」と切って捨てた。

 

元首相の生殺与奪の権限を持っているのは国王である。国王は今回のように勲章をはく奪することも、逆に恩赦を与えることもできる。

 

首相就任前からタクシン氏はウボンラット王女とともにワチラロンコン国王とも直接的なパイプを持っていたとみられる。私は09年、11年に元首相への長時間インタビューをしているが、その際も国王(当時は皇太子)との交遊関係を認めていた。元首相の側近は最近「即位後も国王からタクシン氏に直接電話がかかってくる。私もその場に居合わせたことがある」と私に話していた。

 

国王は、お互いに王位継承権をもっていた妹のシリントン王女の関係は微妙とされる一方で、ウボンラット王女との仲は以前から良好といわれている。

 

国王、王女との関係の中で、元首相は王女擁立を仕掛け、「不適切」とした国王の声明が出た後も国王との関係は維持されていると踏んだのだろう。

 

タクシンは国王との関係に賭けたが、国王は容赦なくそれを切った。

 

元首相にとって致命的な誤算だったと想像する。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.266 

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