2013.05.08

現代インドにおける女性に対する暴力 ―― デリーにおける集団強姦事件の背景を探る

田中雅一 文化人類学 / ジェンダー・セクシュアリティ

国際 #デリー集団強姦事件#名誉にもとづく暴力#イヴ・ティージング#Eve-Teasing

デリー集団強姦事件がもたらしたインパクト

現代インドには、さまざまな暴力があふれている。宗教間、階層間、そして国境を接するパキスタンとの軍事的対立やテロ攻撃。その中でも無視できないのが女性に対する暴力(Violence against Women:VAW)である。

女性に対する暴力のほとんどは、個別になされる。被害者は多くても一人か二人である。テロリストによる公共施設の爆破やカースト間の対立のように、大量の死傷者が出ることはない。メディアが注目することもない。しかし、その頻度や地域的な広がりは、それ以外の暴力をはるかに凌駕している。

女性に対する暴力が問題なのは、それが深刻な暴力とみなされていないだけでなく、しばしば暴力とさえみなされていないことだ。ときに加害者は逮捕されることも非難されることもない。悪いのはあくまで被害者だからだ。その意味で、女性に対する暴力は、現代インド社会の文化の一部であり、日常生活の一部となっている。このような現実認識にもとづき、本稿では、女性に対する暴力を概観し、それを正当化する観念・イデオロギーについて考えてみたい。

インドでは、女性に対する暴力が軽視されていると述べたが、2012年末の事件をきっかけに、インドにおける女性に対する暴力への取り組みが変わりつつあるのもたしかだ。まずはこの事件について紹介することにしよう。

2012年12月17日午後9時半ころ、事件はインドの首都デリーで起こった。映画を観た帰りに、ミニバスに乗り込んだカップルが、運転手を含む6人の男性(友人同士)に暴力を受け、走行中の車から振り落とされたのである。女性は男たちに強姦され、その腸は数センチを残して鉄棒のようなものでかき出されていたという。デリーの病院から12月26日に、シンガポールの病院に搬送されるが、3日後に息を引き取る。家族をなんとか貧しさから救いだし楽をさせてあげたい、弟たちの教育を支援したいと望んで理学療法士を目指していた女子学生の夢は、男たちの凄惨な暴力行為で一瞬にして打ち砕かれることになる。

同じころ、パンジャーブ州では、少女が数人の男性に犯される。少女の訴えにもかかわらず、警察はこれをまともに取り上げることはなく、反対に強姦者の一人との結婚を勧める。これに絶望して少女は自殺してしまう。

もちろんこれまでインドに強姦がなかったわけではない。しかし、もっとも近代的とされる首都でこんな野蛮な事件が起こったということ、女性が現代インドの未来を象徴するようなキャリアを目指していたことも、人びとに衝撃を与えた理由と思われる。デリーの事件がなければ、パンジャーブ州で生じた犠牲者の自殺が全国紙で取り上げられることはなかったであろう。インドの英字新聞はデリーでの集団強姦事件を機に、ほぼ毎日強姦事件を報道しているし、頻繁に性暴力をめぐる特集を組んでいる。

デリーの強姦事件の被害者は、本名が明かされることなく、「勇気ある女性」と呼ばれていた。加害者に重罰(死刑や去勢)を下すための性暴力への法改正要求、警察や司法への批判を掲げて各地でデモが組織された。それが効を奏したのか、2月には法改正が行われ、強姦の最大刑が終身刑から極刑に引き上げられた。性暴力の被害者が訴えやすいように、デリー警察に女性警察官を増やすことが決まった。また裁判の過程を早める処置もとられ、3月には判決も出る予定だ。6人全員が死刑になると予想される中、3月10日首謀者の一人が刑務所で自殺をした。また、最近になって父親が英国メディアのインタビューで、匿名にしておく理由はないと述べて娘の本名を明かした。

欧米のメディアもデリーでの集団強姦事件をかなり詳細に取り上げている。しかし、こうした報道に対する反発も認められる。というのも、それらは結局のところ、インドが野蛮な国、すなわち女性を性欲の対象にしか見ていない男性中心の国という従来のイメージを強化することになるからだ。

インド各地で連日のように報道されている性暴力をどのように理解すればいいのか。本稿がそのような問いに少しでも答えることができれば幸いである。

インドにおける女性に対する暴力概観

伝統的な家父長制社会において、逸脱する女性像は、結婚時に性的体験があること、結婚後夫以外の男性と関係をもつこと、子ども(とくに息子)ができないこと、同性愛者であること、そして女性に課されているさまざまな義務(出産、家事、育児、その他)を果たさないことなどである。こうした逸脱は、夫による殴打を手始めに、つぎに述べる「名誉にもとづく暴力(honor-based violence)」によってきびしく罰せられる。

親が決めた結婚を拒否するだけでなく、他の男性と駆け落ちしたり、不適切な男性と性的な関係をもったりする女性に対してなされる暴力が、名誉にもとづく暴力である。これは家族や親族一同の名誉を守るために、主として女性に対して行われる暴力である。女性が性的に逸脱すると、家族や血縁集団の名誉が汚されたとして、離婚では済まず、殺されてしまう。殺人によって、当該集団の名誉は回復するのである。なお、名誉にもとづく暴力は、女性だけでなく男性に対しても実施される。

さて、市場経済が浸透すると、暴力も大きく変化する。インドでは、多くの場合結婚に際し花嫁側が多額の持参金を用意しなければならないが、1980年代になると、広告などを通じてあたらしい家電などへの欲望が生まれ、花婿側の要求がますます高まっていく(一説によると父親の年収の3倍が相場である)。このため、農村と違って労働力を期待できない都会では、娘は重荷でしかない。もともと、娘より息子を大事にしていたのだが、その傾向に拍車がかかる。そうした中、胎児のセックス・チェックを行ったうえで女児のみを人工妊娠中絶するということが起こる。さらに、親への負担を悲観して自殺をする女性もいる。

持参金との関係では、インドでは持参金殺人という花嫁殺しが都市で一時蔓延する。これは、男性は何回も結婚できるため、持参金目当てに花嫁を殺害するという犯罪である。実際に手を下すのは、夫の母であることが多い。すこし古い資料だが、持参金殺人は1985年に999件、1986年に1319件の報告がなされているが、実数はもっと多いと思われる。

また、女性が家庭を離れ、一時的であれ仕事を始めると、そこでもセクハラなどの暴力に直面するし、海外での出稼ぎの場合、強姦などの性暴力の危険にさらされることになる(*1)。

(*1)親族や知り合いから遠く離れ、海外(主として中東)で雇用者による性暴力被害に遭う危険性がある。とくに、家屋内で寝泊りし、子どもの世話をしたり、家事手伝いをする場合、危険度が高くなる。被害にあった場合、たとえばフィリピンなどは政府が積極的に介入したり、保護をしたりしているが、インドについては政府にそれほど積極的な動きはない。

イヴ・ティージング

イヴ・ティージング(Eve-Teasing)とは、1960年代に現れたインド英語のひとつで、「容姿などについてコメントする、ワイセツなみぶりをする、罵倒する、唾を吐く、女性をつかむ、強制わいせつ、レイプ」などの行為が含まれる。場所は、不特定多数の人が集まるバスや列車などの公共の乗り物、ショッピングモール、バス停、映画館、学校、職場、レストラン、そして祭りである。典型的な被害者は、このような場所に一人でいる女性である。それに対し、加害者のほうは複数の場合が一般的である。

バスの中など、身体接触が生じてもおかしくない場合を想定すると、イヴ・ティージングは日本の痴漢行為に近いとも推察できるが、痴漢に比べてより攻撃的かつ暴力的である。また身体接触がなくても、路上にたむろして通行人の女性にコメントするあるいは汚い言葉を吐く場合も含まれる。この場合は「からかい」に近い。しかし、無視したり、うまくあしらったりすることに失敗すると、強制わいせつやレイプに発展する。したがって、冒頭で紹介したデリーの集団強姦事件もイヴ・ティージングとみなすことも可能だ。また、職場や学校も含まれているからセクハラの一種と考えることもできる。

イヴ・ティージングの問題を受けて、1984年にデリーではDelhi Prohibiton of Eve-Teasing Actが制定されている。しかし、法的な整備が進んでいったにもかかわらず、イヴ・ティージングの数が減ったわけではなかった。司法や警察は、強姦や殺人などに発展しない限り、イヴ・ティージングについてほとんど積極的に動いてこなかった。

つぎに加害者像について簡単に紹介しておこう。『ヒンダスタン・タイムズ(Hindusutan Times)』紙(2002年11月2日付)の調査によると、加害者は圧倒的に40歳以下の男性が多い。また、『ヒンドゥー(The Hindu)』紙(2003年1月4日付)によると、2001年に72件だったのが2002年には466と件数が急増しているが、これが現実を正確に表しているのか、警察への訴えが増えているのかは定かではない。

アナログ=マクジン[Analog=McGinn 1994]によると、まずつぎのような社会的背景をあげることができる。仕事にあぶれた農民たちが大量に都会に移住してきた。こうして田舎出身の粗野な男たちが都市部に集中することになる。かれらは妻を田舎に残して単独でやってきたため、つねに性的欲求不満に陥っている。そのような欲求不満をさらに強めるかのように、映画をはじめとするメディアが性的な魅力を強調する女性像をまき散らす。

性欲を満たすには売春宿に行けばいい。しかし、毎日行くわけにはいかない。それだけでなく、都会の匿名的状況や不特定の人びとを大量に運ぶ電車やバスなどの交通手段の発達もイヴ・ティージングの増加に寄与している。都会では女性も遠距離を通勤・通学し一人で長い間移動する機会が増える。こうして野卑な男たちと社会進出を目指す女性たちが列車やバス、駅やバス停で出会う。それだけではない。休日にはショッピングモールや映画館などでも出会うことになる。

イヴ・ティーザーの主張は、「ここはお前たちの場所ではない、真の女性のいる場所は家だ。はずかしい恰好をするな。インド人女性らしくしろ」ということになろうか[Anagol-McGinn 1994:229]。それは性的欲求の表れというより、男性の世界に女性が侵入してきたことへの苛立ちの暴力的表現 ―― 名誉にもとづく暴力ほど明示的ではないが、一種の懲罰的暴力と言ってもいいのではないか。自立している女性の典型は、欧米の女性であり、また性的にふしだらな女、すなわち売春婦ということになる。さらにここから公共の場に一人でいるような女性は売春婦と同じだから、何をしてもいいとみなされ、彼女に対する暴力行為が正当化されることになる。被害を受けたらそれは、外をうろついていた女性の自己責任なのだ。

女性への暴力を正当化するもの

最後に確認しておきたいのは、イヴ・ティージングのような懲罰的暴力の対象となるのは、伝統的な男性中心主義(家父長制度)を揺るがす行為を行った女性であるという点である。彼女たちは伝統的規律に従わない、伝統的秩序を無視するという点で、反伝統主義者であり、近代主義者である。インドの文脈において近代主義者とは欧米の女性である。しかし、それだけでなく売春婦についても同じような存在とみなされてきた。

したがって、根本的な問題は、貞淑な女性(秩序に従う女性、夫に服従する女性、専業主婦)と、そうでないふしだらな女性(売春婦、欧米の女性)という分類であると思われる(近代主義者は売春婦かもしれないが、その逆、すなわち売春婦が一般に近代主義者と思われているわけではない)。こうした女性の分類が、暴力を行使してもいい根拠となっていると言えないだろうか。

デリーの集団強姦の事件については、夜遅くまで恋人と映画を観ていたという事実によって、あたかも集団強姦を擁護するかのような議論も出ている。こうした二元論にもとづく女性の分類は、直接暴力に結びついているわけではないし、また女性を含む多くの人びとに受け入れられてもいる。

しかし、だからこそ、こうした考えが女性への暴力を正当化するものであるということを理解し、今後インドの性暴力を理解する必要がある。女性について同じような考えを、私たち日本人も持っているとすれば、女性に対する暴力については、インドと同じくらい根は深いと考えるべきであろうし(*2)、インドでの性暴力に対する取り組みから学ぶべきことも多いはずだ。これからもインドから目を離すわけにはいかない。

(*2)その典型は、ふしだらとされている売春婦やその他の性産業に従事する女性への暴力であろう。彼女たちはふしだらだから性暴力を受けて当然だ、セックスが好きなんだから暴力にはならない、というかたちで正当化されてしまう。援助交際や出会い系喫茶で知り合った男性による暴力は数限りないと思われるが、殺害に至る場合を除き、ほとんど知られていない。たとえ殺されても、世間の目は冷たい。また米軍基地周辺で真夜中に性暴力に遭う女性についても、成人女性については非難される傾向にある。

参考文献

・謝秀麗 1990『花嫁を焼かないで――インドの花嫁持参金殺人が問いかけるもの』、明石書店。

・田中雅一2012「名誉殺人――現代インドにおける女性への暴力『現代インド研究』2:59-77。http://www.indas.asafas.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/pdfs/CI2_05_tanaka.pdf

・Anagol-McGinn, Padma 1994 Sexual Harassment in India: A Case-study of Eve-teasing in Historical Perspective. In Clare Brant and Yun Lee Too eds. Rethinking Sexual Harassment. London:Pluto, pp.220-234.

プロフィール

田中雅一文化人類学 / ジェンダー・セクシュアリティ

1955年和歌山市生まれ。京都大学人文科学研究所教授。文化人類学、ジェンダー・セクシュアリティ研究専攻。ロンドン大学経済政治学院(LSE)にて博士号取得。主要著書に『癒しとイヤラシ エロスの文化人類学』(2010年、筑摩書房)、編著『暴力の文化人類学』(1998年)、『フェティシズム研究』(2009年~、全3巻、ともに京都大学学術出版会)、共編著『コンタクト・ゾーンの人文学』(2011~2013年、晃陽書房)など。関心は多岐にわたるが、本稿との関係では、女性に対する暴力のほかに、インドや日本のセックスワークについての調査を進めている。

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