スクオッターの生活実践 ―― マニラの貧困世界のダイナミズム

フィリピン・マニラの貧困世界、その象徴がスクオッターである。スクオッターとは、私的所有権をもたない土地に定住する人びと、およびその集住地域のことを指す。こう言うと何だか小難しく聞こえるが、平たく言えば、空き地に自主建造された家屋に暮らす人びと、およびそのエリアのことだ。そこでは多くの住民が貧困線以下の暮らしを余儀なくされている。マニラ(正確には計17市町から構成されるマニラ首都圏)には、こうしたスクオッターが数多く存在し、その人びとの数はマニラの人口の三分の一を占めると言われる。

 

スクオッターは行政サービスからは取り残されたエリアである。選挙を控えた地元政治家が集票のために道路を整備するなどを除けば、生活基盤整備が施されることはまずない。たとえば熱帯特有の強い雨が降った際には、多くの家屋が床上浸水になる。また、台風の時期には、家ごと吹き飛ばされるケースも少なくない。スクオッターは、インフラ整備の面では、脆弱な場所なのである。

 

だが、スクオッターの内部を歩いてみると、そこでは脆弱な貧困地域というイメージを覆す数々の生活の機微に触れることができる。インフラ整備が施されないため、住民は自ら生活空間を創出する。排水路を整備し、街灯を設営し、祭りを開催し、固有の生活を創造していくのだ。たしかに貧しくはあるが、そこに息づく自前性・自律性の力は相当のものだ。ここでは、そうしたスクオッターのおびたただしい生活実践を紹介していこう。スクオッター住民の生活実践を見てみると、そこが社会的周辺地域ではなく、危機を生き延びる叡智の集積する先進地域であることが読み取れるはずだ。

 

 

スクオッターに住まう

 

私は、2005年4月からの一年間、マニラのスクオッターに隣接するボクシングジムで住み込み調査をおこなった。その成果は『ローカルボクサーと貧困世界』(世界思想社、2012年)という本にまとめたが、その間私がやっていたことは、ボクサーと一緒に練習をしながら、それが終わると彼らと一緒に近場をぶらつくというものだった。ボクサー(彼らもまたスクオッター住民である)と一緒にスクオッターを歩くというのは、私にとって大変刺激的なものだった。スクオッターには、私の思いも寄らないようなやり方で日常を成り立たせる仕掛けが溢れていたからである。

 

一枚の写真を見てもらおう。

 

 

リノタイプの一家屋(日ノ本一氏撮影)

リノタイプの一家屋(日ノ本一氏撮影)

 

 

これは私が最も出入りしていたスクオッターであるリノタイプ(マニラ首都圏パラニャーケ市)での写真である。このように壁画する住人の姿からは、スクオッター家屋が単なる雨露しのぎの器としてあるのではなく、住人の精神が根を下ろす場としてあることがわかるだろう。この写真を撮ってくれたのは、知人の日本人カメラマンだが、彼もこの家屋を目にするや否やシャッターを切っていた。それくらい、この家屋はインパクトのあるものだった。

 

日本に暮らす多くの人びとは、第三世界のスクオッター(あるいはスラム)と耳にすると、そこでの家屋を、何ら個性をもたない代替可能の容器と捉えがちである。しかしスクオッターの家屋には、それぞれの顔がある。作りの強度(レンガかベニヤか)や居住面積(一階建てか二階建てか)に関係なく、家屋にはそれぞれの住人の世界が宿っている。

 

スクオッターには、先人の立てた家屋を賃貸で借りる者もいるが、彼らにしても自分たちで手を加えることで住み良い空間を創り出す。スクオッターの家屋には、彼らの手の痕跡が刻み込まれているのである。この手の痕跡こそが、独自の空間を生み出す。スクオッターとは、自らの手先を動かしながら、生活の根拠を創出する人びとなのである。

 

こうした生活の根拠の創出は、個々人や単独の家族単位だけでなく、より広範な単位での共同によって、より確固としたものとなる。この共同の生活実践の例として、一風変わった葬儀の作法は外すことができない。それは、私がフィリピンで調査をする中で最も驚いたものだった。

 

ある日の夕方、私がいつも通りボクサーと一緒にスクオッターをぶらついていると、ある家屋に普段には無い灯りがついており、その灯りの向こうに人だかりができていた。その家屋は普段から目にしていたが、人が集まっているのは目にしたことが無かった。集まった人びとはその入り口で賭けトランプに興じていた。上半身裸で短パン、サンダル姿の男たちがたばこを吸いながら真剣なまなざしでカードを切る、それをさらに後ろから眺めているだけの者が「それじゃないだろ、切るのは」などと声を上げる。

 

ひとつのゲームが終わると、負けた者が「あ〜あ」といった様子で自分のカードをテーブルの上に投げ広げる。トランプがテーブルに落ちる際に生ずるバサッという音は、世界中どこで聞いても同じだ。私は、そんな賭けトランプに熱中する人びとを背伸びして後ろから見ていたが、ふと視線を逸らすとその先には予想だにしない光景があった。なんと、賭けトランプをしている場所の奥には棺が置かれてあり、その棺の前で何人かが祈りを捧げているのだ! 私はしばらくの間、なぜ賭けトランプと棺が共在しているのか、訳がわからなかった。

 

奥で静かに祈りを捧げる者と入り口付近で賭けに熱狂する者。静謐空間と喧噪空間。あまりのミスマッチに唖然としていると、隣にいたボクサーが教えてくれた。「トモ(筆者のこと)、これは通夜だよ」。それを聞いて、やはりこれは通夜だったのかと思うと同時に、そんな通夜の場面で賭けに興ずるというのは、さすがに不謹慎であるように感じた。

 

スクオッターで日常的に耳にするのは、人の笑い声と鶏の鳴き声である。ここでは、人も鶏も豪快だ。加えて、賭け事に熱中する人びとの声もよく耳にするものだ。しかし、いくら何でも、近隣住民の死に直面した夜ですら、人びとが寄って集って賭けをするのは、私にはまったく理解不能だった。だが私のこの感覚は、すぐに大きな修正を迫られた。続けて、隣のボクサーがこう教えてくれたからだ。「この賭けトランプで勝った者は、葬儀の費用を助けるために勝ち金のうちの15%を喪主に与えるのさ。それで葬儀の費用を助けるんだよ」。

 

なんと、彼らはあえて通夜で賭けをしていたのだ。そして、葬儀補填費を捻出することで、貧しい喪主であっても葬儀を開催できるようサポートしていたのである。この事実に私は驚愕するばかりだった。と同時に、通夜の場で賭けトランプに興じるということに彼らの生活の奥深さのようなものを実感した。喪に服すと言うと、神妙な面持ちで故人を偲び、遺族を慮る、そうした静謐さのみを私は思い描いて生きてきた。しかし、ここではそうではない。トランプの形式を借りて熱狂と笑いと罵声で死を受け入れつつ、なおかつ貧しい喪主が葬儀を無事に執りおこなえられるよう経済的な互助活動を展開しているのである。庶民生活の創造性というものを強烈に思い知らされた出来事だった。

 

 

 

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vol.246 特集:「自己本位」で考える

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