2018.02.28
異なる文化を学び、自分の社会を知る――人類学とはどのような学問なのか
遠く離れた地を知ることで、自分たちの社会が見えてくる――。人類学の魅力はそこに尽きる。フィールドワークを通じ、現地の人々にまざり、解釈を共有することで学ぶ人類学。その歴史、葛藤、そして最先端の調査手法について、ロサンゼルスのイラン人移住者を研究されてきた、龍谷大学の椿原敦子氏に伺った。(聞き手・構成/増田穂)
遠くの地から知見を得る
―先生のご専門は人類学と伺っておりますが、人類学とはどのような学問なのでしょうか?
かつて社会学と人類学が未分化だった時代、社会学は国内問題を扱うもの、人類学は国外、とくに植民地統治下の国々を学ぶもの、という大まかな棲み分けがありました。いずれも自分たちの社会が抱える問題を解決するために行う研究で、そのヒントを海外に求めたものが人類学だったと言えるでしょう。
初期の人類学は植民地統治と深く結びついていました。なぜなら、植民地の行政官や、布教に渡った宣教師たちの残した記録を、主な資料としていたからです。「安楽椅子の人類学者」と言われますが、欧米にいる白人の研究者たちが間接的に収集した報告書や手紙、資料を通じて、自分と遠く離れた未開社会を知り、人類とは何か、人間の本質とは何か、といった問いの答えを探していたのです。
19世紀末のヨーロッパでは、西洋が進んでおり、それ以外が遅れているという考えがありました。つまり、植民地にある未開社会とは、進化論的に人類のもっとも古い地層だと考えられていたのです。その根本の資料を集めることで、人類に関する知見を得ようとした。それが人類学の成り立ちです。
――異国の地の文化を学ぶことで、自分たちが抱える問題の解決につなげようとした。
はい。たとえばマルセル・モースという20世紀前半の人類学者は、メラネシアや北米先住民社会を研究対象にしていました。彼は自国フランス社会の変革を目指す活動家でもありました。モースの代表作『贈与論』の狙いは、現代人の生活においてすら、お金で測られるような損得を超えた贈り物とお返しが、生活の大部分を占めていることを思い起こさせることにありました。
社会学が国内で起こっている課題を直接的に扱い、解決策を探るものだとしたら、人類学は遠く離れた地のことを学ぶことで、自分たちの社会を再考する機会を与えてきたのです。
――問題解決型のアプローチが多かったのですね。
そういえると思います。たとえば、人類学者マーガレット・ミードの初期の著書で、1928年に出版された『サモアの思春期』では、サモアの若者の間には、アメリカの若者が抱えるような思春期の葛藤がない、なぜならサモアは性的に非常に開放されているからだ、ということが語られています。
このように、彼女はつねにアメリカ社会を意識した研究を行いました。事実、彼女は女性解放運動にも積極的でした。性に関するアメリカ社会が抱える問題は、研究をする上でつねに念頭にあったと思います。今でも自分の抱えている問題と結び付けたフィールドを研究される方は多いですよ。
「安楽椅子の人類学者」からフィールドワークへ
――人類学というとフィールドワーク、という感じがしますが。
もちろん今の主流はフィールドワークです。ただ、最初期の人類学は文献に頼る研究が多かったんです。フィールドワークは、20世紀初頭から行われています。このころ活躍した人類学者のブロニスワフ・マリノフスキは、パプアニューギニアなどに実際に赴き研究しました。彼はフィールドワークを行ってエスノグラフィー(民族誌)を書くという方法を確立し、「近代人類学の父」と言われています。
マリノフスキはフィールドワークを大変重視していました。行政官や宣教師による報告には、誇張や偏見が含まれているし、文脈を欠いた断片的な情報だと考えたからです。彼は現地社会を理解するためには、実際に出向き、自分で見聞きしなければならないと考えていました。これは今でも見習うべきフィールドワークの姿勢として参照されています。
――よりバイアスのないかたちで、「未開の地」の文化を学ぼうとしたのですね。
はい。とはいっても、先ほど申し上げたように、初期の人類学では植民地が多く研究対象とされました。これは、当時足を運びやすい異国として、植民地先が選ばれがちだったことが関係します。しかし、結果として、当時社会に浸透していた宗主国と植民地の力関係が、研究にも内包されてしまう側面がありました。
――どういうことでしょうか?
こちらにそのような意図がないにせよ、研究という行為を通じて、現地を搾取する行為、相手の不利益になるような行為をしている可能性があるということです。
1980年代以降は、人類学でもこうしたポストコロニアル的な思想が広がり、調査の上での立場の違いや現地への影響などを再考する動きが生まれました。それ以降は、調査方法自体をより精緻化させ、よりよいフィールドワークを実現するための試行錯誤が繰り返されています。
もっとも、フィールドワークは人類学の専売特許というわけではなく、社会学などの隣接分野でも実践されています。アメリカの都市社会学にシカゴ学派というものがあり、その流れに位置づけられるウィリアム・ホワイトはマリノフスキの影響を受け、フィールドワークを取り入れたそうです。
――人類学の実践が共有されていっているのですね。
はい。ホワイト以前にも都市の社会構造を現地調査によって解明する社会学的研究はありましたが、彼は参与観察とよばれる手法を取り入れ、現地の人々の感覚を体得し、それを記すという方法を取りました。質的調査に人類学の知見が活かされたのです。
移住者はなぜそこに集まる?
――椿原先生はどのようなご研究をされているのですか。
イラン出身のロサンゼルス移住者の研究をしています。
――いわゆる、「移民」の研究ですか?
「移民」という言葉は意図的に使っていません。対象としている人々のなかには、移民や難民、亡命者など、多様な肩書の人々がいるからです。定住する人もいますし、中継地として一時的に滞在している人もいます。ですから「移住した人たち」という言い方をしているんです。
――流動的な人の動きを見てこられたのですね。
はい。私の研究は流動性もあって、対象人口や地域が固定されていないので、前提条件を聞かれたときにはとても困りました。昔ながらのフィールドワークでは、対象地域内の全戸を調査して、全世帯把握しますからね。基本が成り立たない研究でした。
もちろん統計上は数字があって、ロサンゼルス、南カリフォルニアに住んでいるイラン人は、2世3世を含めて30万人程度と言われています。普通はもっと規模やテーマの絞込みを行うはずですが、あえてそのままで。ですからいちおう、フィールドとしてはそのくらいの人をそのへんの地域でやっています、とお伝えするのですが……。なかなか納得はしてもらえないですね(苦笑)。
――ご研究のテーマとしては、どのようなものを扱ってらっしゃったのですか。
南カリフォルニアって大きいですよね。これだけ広い地域で、イラン移住者たちはどのようなネットワークをつくっているのか、という研究をしていました。
具体的には、商業活動や、宗教儀礼などでの人々の関わり方、そしてそうした「場」の立ち上がり方を分析していたんです。さまざまな種類のつながりが多層的に組み合わさることで、多くの人がネットワークを築いています。これだけ大きな地域のなかで、なぜその「場」が人々のつながる場所として成立したのかを調べる、というのがテーマですね。
――実際にロサンゼルスに行かれてフィールドワークをされた。
そうです。ロサンゼルスのなかにイラン系の移住者がよく利用するウエストウッドという一角があります。そこはエスニックタウンでも、生活がそこで完結するような「飛び地」のような地区でもありません。そこで、通算16か月くらいの実地調査を行いました。1~3ケ月くらいのフィールドワークを繰り返した感じですね。
面白いんですよ。ロサンゼルスのイラン系移住者、流動的でモビリティが高いという話をしましたよね。そうすると、何か月かして再度調査に行くと、前回お世話になった人がいなかったりして困ったりして(笑)。
――それは困りますね(笑)。
でも、それが興味深いんです。つまり、人は変わるけれど、その場所に集まるんです。ロサンゼルスはイランの国外でもっともイラン系住民の多い土地です。さらに、そのなかの特定の場所に、彼らが集まる場所があります。そこに興味をもったんです。
集まる場所といってもイラン系の商店だとかならまだしも、大通りを隔てて二軒あるコーヒーショップのこちら側はいつもイラン人でいっぱい、あちら側にはほとんど行かないという例もあります。どうしてそうなっているのか、その文脈を探っていきました。
なぜロサンゼルスがイラン人を魅了するのか?
――こういったテーマに関心を持たれた背景には何があるのでしょうか。
一言でいって、私が田舎者だからです(笑)。私の生まれた田舎は、フィールドワークで言うところの村落そのもののような土地でした。隣町に行くには山を越えなければならず、ここからここまでは我々の土地で、そこに住むものが我々のメンバーである、という意識が強く残っていました。自分の親が誰で、祖父母が何をしているのか、みんなが知っているような、経済的にも社会的にも、土地のなかで完結しているコミュニティだったんです。
私はそれがすごく息苦しくて、しがらみを感じていました。人類学の本でそうではないコミュニティがあることを知ったのは強い衝撃でしたね。町のなかで完結しない人間関係は、どのような条件でできていくのだろう、という疑問を持ちました。
大学進学と同時に都市にでて、どこに住むのか、誰と付き合うのか、何をするのか、すべて自分で決めてやってきました。ロサンゼルスに来たイラン人って、そういうことをやっているんですよね。どこにいってもいい、何をしてもいい、という一種の真空状態にあるわけで、そのなかで新しい生活を形成するために、既存のリソースを使っていく。シンパシーのようなものは感じています。
田舎のような所与のコミュニティでは、自分のアイデンティティが外在的にかっちりと決められています。コミュニティ内の階層や家系によって、自分がなにものであるのか規定されていて、自分の思うように自己呈示したり、一部を出したり隠したりできない。でも、都会ではそれができるんです。都市生活は孤独感やコミュニティ危機など、ネガティブな面も取り上げられますが、そういういいところもあると思います。
――ロサンゼルスはまさに大都市ですもんね。
ロサンゼルスは有機的な都市ではないんですよね。たとえばシカゴは都市社会学の古典モデルとして有名ですが、中心部に経済活動の中心があって、その周囲に居住地があって、両者の間に緩衝地帯があって、そこはスラムみたいになる、という有機的というか、ある意味自然な成り立ちをしています。
一方でロサンゼルスには、中心と周縁という構造がありません。ロサンゼルスはポストモダンな都市で、しいて言えば、中心機能を持ったいくつものエリアが点在しているイメージです。境界を持ったエリアで表すより、濃度で表す方が的確でしょう。
ロサンゼルスと聞くとハリウッドや西海岸のビーチでバカンスと思われるかもしれませんが、実際はまったく違います。『要塞都市LA』という本を書いたマーク・ディヴィスは、ロサンゼルスをディストピアと形容しています。大規模な資金投下で人工的につくられた都市で、道路が張り巡らされ、一気に景観が変わるような街づくりが行われました。街に人間的な温かみもあまり感じられません。
――つながりが希薄化した社会のなかでフィールドワークをするとなると、手がかりがなくて大変そうです。
始めはどこから手を付けたらいいのかまったくわからなくて大変でした。ウエストウッドに行って、「ここにイラン人が住んでるって聞いたんですけど……」って聞いて回るみたいな(笑)。聞いてはいるけど、実際どこにイラン人が住んでいるのかさっぱりわからない状況でした。イラン人でも、ロサンゼルスに行けばイラン人がいっぱいいるだろう、と漠然としたイメージで来ることが結構あります。そして私と同じようにつながりを見つけようと模索するんです。
ロサンゼルスにはペルシア語の衛星TV局がかつて沢山あり、イランでも見ることができました。そこに映し出されるのは、オープンカーでサンタモニカの海沿いを走る、優雅な暮らしのイメージです。ところが実際に来てみると、こういう状態なので、私と同じように戸惑いを持って生活を始めます。
――大都市で一人ぼっちというのは非常に心細いですよね。
ウェストウッド通りにはペルシア語の書店やイラン料理のレストランがいくつかあって、そこはイランでもよく知られているので、とりあえずそこに行く人が多いみたいです。あとはもう手あたり次第に仕事を探したりとか。
移住の研究では、主に、親族や知人のネットワークを頼って有機的に移動する、チェーンマイグレーションが着目されてきました。ところが、ロサンゼルスのイラン人移住者には、そういうつながりがないんです。
――それはとても意外です。
私も不思議に思って、調査のなかでどんな伝手を頼ってきたのか調べましたが、規則性は発見できませんでした。なかには親族はニューヨークにいるのに、あえて小学校時代の友人を頼ってロサンゼルスに来た人もいます。つまり、より頼りやすいと考えられる近親者より、つながりが弱いと考えらえる友人を頼ってロサンゼルスにきている。
以前別の国や地域に住んでいた人が再移住としてロサンゼルスに来る場合もあるし、それだけ、ロサンゼルスという街にイランの人々を引き付ける要因、いいイメージがあるということです。もっとも、実際には、しばらくすると現実にがっかりして、また別の所に移住してしまったりするのですが。
こうした状況を見ていると、なぜその場がそれだけの人を引き付けるのか、人が入れ替わっても維持されるのか、そこを研究すべきではないかと思い、「場」の研究をはじめたんです。
つながりを見れば、社会の外縁は見えてくる
――一定の場が一定の人々を引き付ける、確かに気になります。
グローバルに飛び散った人々の研究では、マルチサイテッドエスノグラフィーというものがあります。移民や移住者を扱う人類学で主流の調査方法で、いくつかの場所にある似たコミュニティを研究して、ネットワークを研究するというものです。ただ、私はこの手法には批判的です。
というのも、いくつかの対象集団を選択するとき、どうしても宗教や親族のつながりなど、恣意的なつながりを選ぶことになるからです。それでは、一か所に住んでいる人を追うことと同じで、何かを切り落としてしまっているのではないでしょうか。つまり、散らばったファミリーを追いかけるならば、結局ファミリーを追いかけるのと変わりがないと。
そこで、私は人を追うのではなく、場所を追う調査、場所の成り立ちの調査をしたんです。具体的にはロサンゼルス内数か所で、定点観測を行いました。そうすると、この前ダウンタウンで忙しく商売をしていたある人が、シナゴーグで気心の知れた人たちと談笑しているところに出くわしたりします。
人は場所ごとにさまざまな振舞いをします。ある場所では経済活動を、ある場所では宗教活動を、家に帰れば家族の一員として。それぞれの場所ごとに、アイデンティティがあるのです。都市でなくてもそうですが、そうやってアイデンティティを使い分けることで、生活を成り立たせているのです。
――それぞれの場所が、その人にどのような行為をさせるのか、ということでしょうか。
そうですね。おそらく現代の私たちにとって、そういう場所ごとに異なる振る舞いをしていることは、期待された役割に沿って演技しているだけであり、かりそめの自分だという考え方が広く浸透しているのではないでしょうか。それを取り払うと、本当の私が現れると。
「社会」が宗教、経済、政治などの活動領域に分かれていると考えるのも、現代に生きる私たちにとっては当たり前と思われるかもしれませんが、こうした考え方も普遍的ではありません。こういう「個人」観や「社会」観は人類に普遍的なものではなく、ある社会に特有の考え方だということが、近年の人類学の中では指摘されています。
近代社会科学が研究上の仮説として想定してきた個人と社会のあり方を、私たちはいつの間にか実体とみなすようになってきたわけです。人々がそう考えるようになったのはともかく、研究者がそうみなしてきたことで見えなくなることがあります。それは、何をもって個人や社会の「全体」がわかったといえるのか、という問題とかかわっています。
こうした指摘をしてきた人類学者の一人に、マリリン・ストラザーンがいます。ストラザーンは、個人や社会といった全体が何か、ということを模索することよりも、つながりの構造や文脈そのものを説明することが重要なのだと言っています。
レヴィ=ストロースは、社会があるからつながり(彼の場合は交換という行為ですが)があるのではなく、交換というつながりがあって、そこから社会が立ち上がってくると言っています。人類学でいう「全体」にも同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、研究者がここからここまでが社会です、と説明しなくても、交換の営みそのものを丁寧に説明すれば、外縁は見えてくる。
私も、ここまでがイラン人で、ここまでが調査地で、といった固定はせず、それぞれの場所のつながりを説明するようにしています。
――「場」を起点として人と人とのつながりを追うことで、「イラン出身のロサンゼルス移住者」について、どのようなことが明らかになったのでしょうか?
私の観察した場所では「アメリカのやり方」というのがいつも問題になっていました。その反対にあるのが人々の慣れ親しんだやり方、いわば「イランのやり方」です。
たとえば宗教的な場での集まりにかかる費用について、イランのやり方では、そこに集まった人の中でお金を持っている人が多めに費用を出し、持っていない人は少なめに出す。そして、同じように儀礼をやり、食事を食べる。出した人が偉そうにすることもなければ、出さなかった人が申し訳なさそうにすることもありません。すでに誰がお金を持っているかはお互いに知っているからです。
これに対してアメリカのやり方では、お金のあるなしにかかわらず、参加費から食事代まで皆が同じ額を払います。宗教的な集まりでは食事やお茶を共にして参加者同士が談笑するのもプログラムの一つですが、イランのやり方に慣れた人にとっては徹底した会費制は味気ないものに見えてしまいます。
イランのやり方は「公平」、アメリカのやり方は「平等」といえると思いますが、参加者にとって、どちらが良いかは一概に言えません。特にロサンゼルスでは、お互いがどんな人だか知らないという前提を優先するため、平等にすべし、という声もでてきます。平等は費用を抑えられるお金持ちにとって喜ばしいもののように見えますが、家柄や学歴、職業などで自分を判断されたくないと考える人々もまた、お金がなくとも平等なアメリカのやり方を支持していました。
宗教的な集会の場だけでなく、ビジネスや近所づきあいまでもが、イランのやり方とアメリカのやり方のどちらを優先する場なのかによって、組織として分離したり、集まる人が分かれていくようになりました。振舞い方もそれぞれ違い、その場にいるほとんどの人がイランから来ているのに、英語で会話し、イラン流の慇懃な挨拶もない、ということもあります。
ただし重要なのは、イランのやり方をする場とアメリカのやり方をする場のどちらかにしか行かない、ということはなく、誰もがそれを使い分けてきたのです。お金もコミュニティの中での地位もある人は、その外の世界で羽目をはずしたい。お金も地位もない人は、アメリカ的な自由競争の中でひと旗あげたいが、それには情報やコネが必要だ。イラン人がたくさんいるロサンゼルスをもじって「イランゼルス」とよぶことがありますが、イランゼルスを自由競争と社会資本にもとづくユートピアとして見るか、リスクとしがらみに満ちたディストピアとして見るかで、入ってくる人ととどまる人、そして出て行く人の流動性があることが見えてきました。
学問は自分の生きづらさを相対化する作業
――人類学という学問は、どのような学生さんにお勧めですか。
生きづらい人でしょうか(笑)。学問って、自分の生きづらさを相対化する作業だと思います。その答えを何に求めるのか。哲学書に求めるのか、過去に求めるのか、自分とよく似た立場の人の調査に求めるのか。人類学は、同時代に、自分とは別の社会的枠組みのなかで生きる人々に求めるわけです。
あるいは社会問題を考えるなかで、それに関係するフィールドを調査してもいいと思います。問題を解決するというよりは、その問題がどう起こっているのかを知りたい人にはお勧めですね。人類学は類型化を目指す学問ではありません。ものごとの文脈を明らかにする研究なのです。ですから、自分の置かれている状態や立場の成り立ち、それを個別具体的に掘り下げることができると思います。
人類学の魅力は、自分の身近なものを、客観的にみることができるようになることです。一見すると遠い社会のことを学ぶのですが、その立ち位置に立つことで、別の視点から自分を見ることができるようになります。一周まわって何がわかったのか、というと、究極的にはその社会を通してみた自分や自分の社会がわかるのです。
――人類学を目指す学生さんって、ある国に強い関心があって、その研究がしたくて……という印象があったのですが、そうした方は少ないのでしょうか。
そうした学生さんは多いですね。ただ、今は国内は社会学、国外は人類学、という棲み分けはありません。フィールドも、国というよりは、特定の集団や場になることが多いです。そういう意味では、国に特化した関心をもたないからといって人類学を避けることはないですよ。自分が疑問を持つコミュニティと類似するコミュニティや、正反対のコミュニティの研究ができればいいのですから。
プロフィール
椿原敦子
龍谷大学社会学部講師。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了(人間学博士)。主な著書として「在外イラン人コミュニティにおけるイラン映画:「イラン映画」と「イラン系映画」の交錯をめぐって」『革命後イランにおける映画と社会』(2014)、「イランにおける<ポピュラー>音楽の変遷」『中東世界の音楽文化』(2016)、『グローバル都市を生きる人々:イラン人ディアスポラの民族誌』(2018)など。