異なる文化を学び、自分の社会を知る――人類学とはどのような学問なのか

なぜロサンゼルスがイラン人を魅了するのか?

 

――こういったテーマに関心を持たれた背景には何があるのでしょうか。

 

一言でいって、私が田舎者だからです(笑)。私の生まれた田舎は、フィールドワークで言うところの村落そのもののような土地でした。隣町に行くには山を越えなければならず、ここからここまでは我々の土地で、そこに住むものが我々のメンバーである、という意識が強く残っていました。自分の親が誰で、祖父母が何をしているのか、みんなが知っているような、経済的にも社会的にも、土地のなかで完結しているコミュニティだったんです。

 

私はそれがすごく息苦しくて、しがらみを感じていました。人類学の本でそうではないコミュニティがあることを知ったのは強い衝撃でしたね。町のなかで完結しない人間関係は、どのような条件でできていくのだろう、という疑問を持ちました。

 

大学進学と同時に都市にでて、どこに住むのか、誰と付き合うのか、何をするのか、すべて自分で決めてやってきました。ロサンゼルスに来たイラン人って、そういうことをやっているんですよね。どこにいってもいい、何をしてもいい、という一種の真空状態にあるわけで、そのなかで新しい生活を形成するために、既存のリソースを使っていく。シンパシーのようなものは感じています。

 

田舎のような所与のコミュニティでは、自分のアイデンティティが外在的にかっちりと決められています。コミュニティ内の階層や家系によって、自分がなにものであるのか規定されていて、自分の思うように自己呈示したり、一部を出したり隠したりできない。でも、都会ではそれができるんです。都市生活は孤独感やコミュニティ危機など、ネガティブな面も取り上げられますが、そういういいところもあると思います。

 

 

――ロサンゼルスはまさに大都市ですもんね。

 

ロサンゼルスは有機的な都市ではないんですよね。たとえばシカゴは都市社会学の古典モデルとして有名ですが、中心部に経済活動の中心があって、その周囲に居住地があって、両者の間に緩衝地帯があって、そこはスラムみたいになる、という有機的というか、ある意味自然な成り立ちをしています。

 

一方でロサンゼルスには、中心と周縁という構造がありません。ロサンゼルスはポストモダンな都市で、しいて言えば、中心機能を持ったいくつものエリアが点在しているイメージです。境界を持ったエリアで表すより、濃度で表す方が的確でしょう。

 

ロサンゼルスと聞くとハリウッドや西海岸のビーチでバカンスと思われるかもしれませんが、実際はまったく違います。『要塞都市LA』という本を書いたマーク・ディヴィスは、ロサンゼルスをディストピアと形容しています。大規模な資金投下で人工的につくられた都市で、道路が張り巡らされ、一気に景観が変わるような街づくりが行われました。街に人間的な温かみもあまり感じられません。

 

 

――つながりが希薄化した社会のなかでフィールドワークをするとなると、手がかりがなくて大変そうです。

 

始めはどこから手を付けたらいいのかまったくわからなくて大変でした。ウエストウッドに行って、「ここにイラン人が住んでるって聞いたんですけど……」って聞いて回るみたいな(笑)。聞いてはいるけど、実際どこにイラン人が住んでいるのかさっぱりわからない状況でした。イラン人でも、ロサンゼルスに行けばイラン人がいっぱいいるだろう、と漠然としたイメージで来ることが結構あります。そして私と同じようにつながりを見つけようと模索するんです。

 

ロサンゼルスにはペルシア語の衛星TV局がかつて沢山あり、イランでも見ることができました。そこに映し出されるのは、オープンカーでサンタモニカの海沿いを走る、優雅な暮らしのイメージです。ところが実際に来てみると、こういう状態なので、私と同じように戸惑いを持って生活を始めます。

 

 

――大都市で一人ぼっちというのは非常に心細いですよね。

 

ウェストウッド通りにはペルシア語の書店やイラン料理のレストランがいくつかあって、そこはイランでもよく知られているので、とりあえずそこに行く人が多いみたいです。あとはもう手あたり次第に仕事を探したりとか。

 

移住の研究では、主に、親族や知人のネットワークを頼って有機的に移動する、チェーンマイグレーションが着目されてきました。ところが、ロサンゼルスのイラン人移住者には、そういうつながりがないんです。

 

 

――それはとても意外です。

 

私も不思議に思って、調査のなかでどんな伝手を頼ってきたのか調べましたが、規則性は発見できませんでした。なかには親族はニューヨークにいるのに、あえて小学校時代の友人を頼ってロサンゼルスに来た人もいます。つまり、より頼りやすいと考えられる近親者より、つながりが弱いと考えらえる友人を頼ってロサンゼルスにきている。

 

以前別の国や地域に住んでいた人が再移住としてロサンゼルスに来る場合もあるし、それだけ、ロサンゼルスという街にイランの人々を引き付ける要因、いいイメージがあるということです。もっとも、実際には、しばらくすると現実にがっかりして、また別の所に移住してしまったりするのですが。

 

こうした状況を見ていると、なぜその場がそれだけの人を引き付けるのか、人が入れ替わっても維持されるのか、そこを研究すべきではないかと思い、「場」の研究をはじめたんです。

 

 

つながりを見れば、社会の外縁は見えてくる

 

――一定の場が一定の人々を引き付ける、確かに気になります。

 

グローバルに飛び散った人々の研究では、マルチサイテッドエスノグラフィーというものがあります。移民や移住者を扱う人類学で主流の調査方法で、いくつかの場所にある似たコミュニティを研究して、ネットワークを研究するというものです。ただ、私はこの手法には批判的です。

 

というのも、いくつかの対象集団を選択するとき、どうしても宗教や親族のつながりなど、恣意的なつながりを選ぶことになるからです。それでは、一か所に住んでいる人を追うことと同じで、何かを切り落としてしまっているのではないでしょうか。つまり、散らばったファミリーを追いかけるならば、結局ファミリーを追いかけるのと変わりがないと。

 

そこで、私は人を追うのではなく、場所を追う調査、場所の成り立ちの調査をしたんです。具体的にはロサンゼルス内数か所で、定点観測を行いました。そうすると、この前ダウンタウンで忙しく商売をしていたある人が、シナゴーグで気心の知れた人たちと談笑しているところに出くわしたりします。

 

人は場所ごとにさまざまな振舞いをします。ある場所では経済活動を、ある場所では宗教活動を、家に帰れば家族の一員として。それぞれの場所ごとに、アイデンティティがあるのです。都市でなくてもそうですが、そうやってアイデンティティを使い分けることで、生活を成り立たせているのです。

 

 

――それぞれの場所が、その人にどのような行為をさせるのか、ということでしょうか。

 

そうですね。おそらく現代の私たちにとって、そういう場所ごとに異なる振る舞いをしていることは、期待された役割に沿って演技しているだけであり、かりそめの自分だという考え方が広く浸透しているのではないでしょうか。それを取り払うと、本当の私が現れると。

 

「社会」が宗教、経済、政治などの活動領域に分かれていると考えるのも、現代に生きる私たちにとっては当たり前と思われるかもしれませんが、こうした考え方も普遍的ではありません。こういう「個人」観や「社会」観は人類に普遍的なものではなく、ある社会に特有の考え方だということが、近年の人類学の中では指摘されています。

 

近代社会科学が研究上の仮説として想定してきた個人と社会のあり方を、私たちはいつの間にか実体とみなすようになってきたわけです。人々がそう考えるようになったのはともかく、研究者がそうみなしてきたことで見えなくなることがあります。それは、何をもって個人や社会の「全体」がわかったといえるのか、という問題とかかわっています。

 

こうした指摘をしてきた人類学者の一人に、マリリン・ストラザーンがいます。ストラザーンは、個人や社会といった全体が何か、ということを模索することよりも、つながりの構造や文脈そのものを説明することが重要なのだと言っています。

 

レヴィ=ストロースは、社会があるからつながり(彼の場合は交換という行為ですが)があるのではなく、交換というつながりがあって、そこから社会が立ち上がってくると言っています。人類学でいう「全体」にも同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、研究者がここからここまでが社会です、と説明しなくても、交換の営みそのものを丁寧に説明すれば、外縁は見えてくる。

 

私も、ここまでがイラン人で、ここまでが調査地で、といった固定はせず、それぞれの場所のつながりを説明するようにしています。

 

 

――「場」を起点として人と人とのつながりを追うことで、「イラン出身のロサンゼルス移住者」について、どのようなことが明らかになったのでしょうか?

 

私の観察した場所では「アメリカのやり方」というのがいつも問題になっていました。その反対にあるのが人々の慣れ親しんだやり方、いわば「イランのやり方」です。

 

たとえば宗教的な場での集まりにかかる費用について、イランのやり方では、そこに集まった人の中でお金を持っている人が多めに費用を出し、持っていない人は少なめに出す。そして、同じように儀礼をやり、食事を食べる。出した人が偉そうにすることもなければ、出さなかった人が申し訳なさそうにすることもありません。すでに誰がお金を持っているかはお互いに知っているからです。

 

これに対してアメリカのやり方では、お金のあるなしにかかわらず、参加費から食事代まで皆が同じ額を払います。宗教的な集まりでは食事やお茶を共にして参加者同士が談笑するのもプログラムの一つですが、イランのやり方に慣れた人にとっては徹底した会費制は味気ないものに見えてしまいます。

 

イランのやり方は「公平」、アメリカのやり方は「平等」といえると思いますが、参加者にとって、どちらが良いかは一概に言えません。特にロサンゼルスでは、お互いがどんな人だか知らないという前提を優先するため、平等にすべし、という声もでてきます。平等は費用を抑えられるお金持ちにとって喜ばしいもののように見えますが、家柄や学歴、職業などで自分を判断されたくないと考える人々もまた、お金がなくとも平等なアメリカのやり方を支持していました。

 

宗教的な集会の場だけでなく、ビジネスや近所づきあいまでもが、イランのやり方とアメリカのやり方のどちらを優先する場なのかによって、組織として分離したり、集まる人が分かれていくようになりました。振舞い方もそれぞれ違い、その場にいるほとんどの人がイランから来ているのに、英語で会話し、イラン流の慇懃な挨拶もない、ということもあります。

 

ただし重要なのは、イランのやり方をする場とアメリカのやり方をする場のどちらかにしか行かない、ということはなく、誰もがそれを使い分けてきたのです。お金もコミュニティの中での地位もある人は、その外の世界で羽目をはずしたい。お金も地位もない人は、アメリカ的な自由競争の中でひと旗あげたいが、それには情報やコネが必要だ。イラン人がたくさんいるロサンゼルスをもじって「イランゼルス」とよぶことがありますが、イランゼルスを自由競争と社会資本にもとづくユートピアとして見るか、リスクとしがらみに満ちたディストピアとして見るかで、入ってくる人ととどまる人、そして出て行く人の流動性があることが見えてきました。

 

 

学問は自分の生きづらさを相対化する作業

 

――人類学という学問は、どのような学生さんにお勧めですか。

 

生きづらい人でしょうか(笑)。学問って、自分の生きづらさを相対化する作業だと思います。その答えを何に求めるのか。哲学書に求めるのか、過去に求めるのか、自分とよく似た立場の人の調査に求めるのか。人類学は、同時代に、自分とは別の社会的枠組みのなかで生きる人々に求めるわけです。

 

あるいは社会問題を考えるなかで、それに関係するフィールドを調査してもいいと思います。問題を解決するというよりは、その問題がどう起こっているのかを知りたい人にはお勧めですね。人類学は類型化を目指す学問ではありません。ものごとの文脈を明らかにする研究なのです。ですから、自分の置かれている状態や立場の成り立ち、それを個別具体的に掘り下げることができると思います。

 

人類学の魅力は、自分の身近なものを、客観的にみることができるようになることです。一見すると遠い社会のことを学ぶのですが、その立ち位置に立つことで、別の視点から自分を見ることができるようになります。一周まわって何がわかったのか、というと、究極的にはその社会を通してみた自分や自分の社会がわかるのです。

 

 

――人類学を目指す学生さんって、ある国に強い関心があって、その研究がしたくて……という印象があったのですが、そうした方は少ないのでしょうか。

 

そうした学生さんは多いですね。ただ、今は国内は社会学、国外は人類学、という棲み分けはありません。フィールドも、国というよりは、特定の集団や場になることが多いです。そういう意味では、国に特化した関心をもたないからといって人類学を避けることはないですよ。自分が疑問を持つコミュニティと類似するコミュニティや、正反対のコミュニティの研究ができればいいのですから。

 

 

椿原氏

椿原氏

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

シノドスをサポートしてくれませんか?

 

●シノドスはみなさまのサポートを必要としています。ぜひファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」へのご参加をご検討ください。

⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

 

●シノドスがお届けする電子メールマガジン「αシノドス」

⇒ https://synodos.jp/a-synodos

 

 

 

 

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.252 日本政治の行方

・橋本努「なぜリベラルは嫌われるのか?(1)」
・鈴木崇弘「こうすれば日本の政治はもっとよくなる! 政治の政策能力向上のために「変える」べきこと」
・中野雅至「日本の官僚はエリートなのか?」
・大槻奈巳「職業のあり方を、ジェンダーの視点から考える」