2020.09.23

いかに正気を保って生きるか――『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(筑摩書房)

山本貴光+吉川浩満(著者)

#エピクテトス

その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え

著者:吉川 浩満 / 山本 貴光
出版社:筑摩書房

吉川 エピクテトスの教えの肝は、「権内にあるもの」と「権外にあるもの」とを区別することです。まず、言葉の説からすると、権内にあるものとは、自分でコントロールできるもの。それに対して権外にあるものとは、自分ではコントロールできないもの。自分の力でどうにかできることと、どうにもできないことの区別が重要だと。

山本 どうしてこの区別が重要なのかというと、われわれの悩みの多くが、この区別に関する混乱によって生じるからだとエピクテトスは言います。

吉川 自分でどうにかできることならまだしも、どうにもできないことを嘆いてばかりいても仕方がないのに。逆に、本当はどうにかできるはずのことなのに、自分にはできっこないとはじめから諦めてしまったりすることもある。

山本 そういうわけで、自分にいかなる力能が備わっているのかを見極めよ、とエピクテトスは言います。それを見極めることが、判断の基礎になるわけですね。

吉川 その力能というのが、人間がもつ理性的能力。エピクテトスの言う理性的能力がどのようなものかについては、詳しくは拙著をご覧いただきたいのですが、ひとことで言うと「心像の正しい使用」ということになる。

山本 「心像」というのは古典ギリシア語で「パンタシア」(複数形はパンタシアイス)といって、英語でおなじみの「ファンタジー」の語源でもある言葉です。心に浮かぶもろもろの像や印象をすべてひっくるめてそう呼びます。

吉川 生活していると本当にさまざまな心像が心に浮かんでくるわけですよね。たとえばSNSを見ていると、よほど気をつけていないと、煽り記事や炎上商法なんかにやすやすとひっかかってしまう。

山本 だからまともな判断ができるようにトレーニングをしなければならない。エピクテトスは、毎朝早起きをして毎日たくさんの心像を吟味する訓練をせよと言っています。

吉川 というのも、ふだん人は自分自身の理性的能力について、なにがどこまでできるのかをよく知らないで生きているから……。

山本 そう。だからこそ、自らの権内にあるはずの理性的能力を適切に使用できるように、日々訓練しなければならない。結構現実的なんですよね。

吉川 そこで、われわれは「禁欲主義」との対比のもとで、エピクテトスとストア派の哲学の一側面として、「操欲主義」という言葉をつくりました。

山本 人間の悩みや困難の多くほかならぬ人間自身の欲望からくるというのは、昔から哲学者や思想家や宗教家がよく言ってきたことですよね。

吉川 だからそうした欲望を禁止・抑圧・無化しようという禁欲主義が生まれてくる。

山本 そういう対処も考えられる。でも、それだけでもない。エピクテトスとストア派の場合、先に挙げた心像によってわれわれが容易に激情に飲み込まれてしまうことが議論の出発点になっています。

山本 そういうわけで、自分にいかなる力能が備わっているのかを見極めよ、とエピクテトスは言います。それを見極めることが、判断の基礎になるわけですね。

吉川 哲学のトレーニングの目標は理性的能力の鍛錬にあるのですが、しかしその出発点はあくまで、人間とは衝動に流されるものだという事実に置かれています。

山本 『ギリシア哲学者列伝』のディオゲネス・ラエルティオスの言葉を引いてみましょうか。

「彼ら(ストア派――引用者註)の主張によれば、生きものは、自己自身を保存することへと向かう根源的な衝動(ホルメー)をもっている。(中略)しかし、さらによりいっそう完全な(自然の)導きによって、理性的な存在者(人間たち)に理性(ロゴス)が付与される段階に至ると、それらの者にとっては、「理性に従って正しく生きること」が「自然に従う」ということになるのである。というのは、この理性は、衝動を取り扱うことを心得ている技術者(テクニテース)として、あとから付け加わって生じるものだからである。」(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(中)』加来彰俊訳、岩波文庫、一九八九、二七三-二七四頁)

吉川 人間は衝動に突き動かされる存在だけれど、理性によってそれをコントロールすることができる存在でもある、というのがストア派の人間観です。

山本 近年の行動経済学や認知心理学における「ナッジ」の考え方にも通じる考え方だと思います。

吉川 いきなり理想から出発するんじゃなくて、身も蓋もない事実から出発して、それをいかにコントロールして良好な状態にもっていくのか、それを考えようじゃないかと。

山本 頭の中で考えた理想をそのまま実現しようとするのではなく、人間に関する事実を見極めたうえで未来を構想しようというスタンスは、カナダの哲学者ジョセフ・ヒースが提唱する「啓蒙思想2.0」を想起させるものでもありますね。

吉川 人間とその行動に関する豊かな科学的知見が蓄積されつつある現在、そうした知見を活かすうえでも模範となる考えではないでしょうか。また、いまの時代は、エピクテトスが活動した帝政ローマの混乱期とは一見おおきく異なりますが、なにを思考や行動の指針としてよすがとすべきか迷ってしまうような時代であるという点では似ているともいえる。

山本 たとえば、テクノロジーの発展によってひとりひとりの人間に多くのことが可能になったように思える。その一方で、社会の制度や組織の巨大化・複雑化によってひとりひとりの人間にできることなどなにもないのではないかとも思えてきます。

吉川 そのようにして現代人は全能感と無力感という両極端のあいだをさまようことになる。もちろんどちらの極端も非現実的なわけです。

山本 そんな状況で、いかに正気を保って生きていくか。エピクテトスの哲学は、こうした課題に真正面から答えてくれるものなのです。

プロフィール

吉川浩満文筆家

文筆家。1972年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部、国書刊行会、ヤフーを経て、現職。山本貴光とともに「哲学の劇場」を主宰。著書に『理不尽な進化』『心脳問題』『問題がモンダイなのだ』ほか。関心は哲学/科学/芸術、犬猫鳥、デジタルガジェット、単車、映画、ロックなど。卓球愛好家。
Twitter: @clnmn
ブログ: http://clnmn.hatenablog.com/

この執筆者の記事

山本貴光

1971年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。コーエーでのゲーム制作を経て、文筆家・ゲーム作家。関心領域は書物、映画、ゲーム、原節子など。「哲学の劇場」主宰。著書に『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)、『文体の科学』(新潮社)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)など。

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