2021.01.22

わたし、かわいそうですか?――『ヤングケアラー わたしの語り 子どもや若者が経験した家族のケア・介護』(生活書院)

澁谷智子(著者)社会学

ヤングケアラー わたしの語り――子どもや若者が経験した家族のケア・介護

著者:澁谷 智子【編】
出版社:生活書院

「わたし、かわいそうですか?」この本の帯となった言葉である。

18歳未満の子どもが、本来であれば大人が担うと想定されているような責任を負って家族の世話をしている様は、多くの人に何かを訴えかける。こうしたヤングケアラーについて書かれる時には、ともすれば、その子どもたちが経験してきた苦労の部分のみがクローズアップされがちだった。前書きで私はこう書いた。

「ヤングケアラーの側から見てみたら、16歳の時に親のおむつを替えていたという話にばかり焦点を当てて延々と繰り返されるのは、自分の感覚としっくり来ないこともある。もちろん、家族のケアをしたという現実はあり、その時にしんどさを感じたことも事実だが、ヤングケアラーの経験はそれだけでは終わらない。若い時にケアを担ったことは、現在の自分を作っている大事な部分にもなっており、自分のその後の人生を選ぶ時のさまざまな選択につながっている」。

この本では、これまで“書かれる対象”であったヤングケアラーたちが書く側へとまわり、家族のケアをするということが自分にとってどういう意味を持つものだったのかを書いている。ケアが始まった時、何歳だったのか。ケアをした相手は、お母さんだったのか、おばあちゃんだったのか、お父さんだったのか、妹だったのか。相手はどういう状況だったのか。難病、認知症、知的障害、聴覚障害、精神疾患、高次脳機能障害…。7人の当事者たちがそれぞれにケアの経験を書くことで、ヤングケアラーの多様性を示すという狙いもあった。

事実、この本の執筆者たちの間でも、その感覚や認識、何を前面に出したいかということは、相当に違っていた。特にそれが顕著になったのは、本のタイトルを決める時である。編集者が出してくれたタイトル案の一つ「ヤングケアラーという当事者経験――「かわいそうな存在」という眼差しをこえて」に対し、タイトルに「かわいそう」という言葉を入れ込むかどうかをめぐって意見がぱっくり割れた。

3人の執筆者と私は、「かわいそう」という言葉のインパクトの強さに抵抗を感じた。あえてタイトルに入れなくていいという立場である。ある執筆者は「私一個人としては、「かわいそう」と言われたり同情されることよりも、大人からは「えらいね」「がんばれ」と励まされ、同世代からは「親のことを言い訳にしている」「○○しなくてよくてうらやましい」などと言われることが多く、理解されない苦しみのほうがずっと大きかったという思いがある」と書き、「だから「かわいそうな存在」とみられた意識も、それを超えた意識もなく、ケアしてきた母にもその言葉を自分に宛がってしまうことも申し訳なく、ギャップがあるように感じてしまいます」とつづった。

一方、4人の執筆者は、むしろ、しっくりくるという意見だった。一人はこう書いた。「(タイトル案の)順位をつけて欲しいということでしたが、すみません、私はこれ一択です。これが一番ピタリときました」。また別の人は、「私は「かわいそう」という言葉には、あんまり敏感にはならないです。私が学生の時に家出をして、親戚が「かわいそう、助けなきゃ」と思ってくれたからこそ、今の私があります」と書いた。

執筆者それぞれの意見を共有する中で、さらに議論は発展していった。「何度もこの言葉を過去に聞き、使う人によっては他者に希望を与えることも奪うこともできる言葉だったな。と思い出しました。私たち家族の状態を知った人の中には「かわいそう」だから「助けられないかな?力になれることはないかな?」と考える人と「かわいそう」だけど「家族の問題でしょ?自分たちでなんとかするのが当然!頑張って」という方がいました。「かわいそう」という言葉一つでも、肯定的に使われた経験を持つ執筆者と否定的な意味合いで使われた執筆者がおられるのだろうと思います」。

さらに議論の中で、「私、かわいそうですか?」というフレーズも登場した。問いかけの形にすることで、広がりが出るのではないかという意見だった。メールのやり取りだけではなく、zoomでも顔を合わせて2時間以上議論し、この「私、かわいそうですか?」は、帯に使われることになった。しかし、この案を出した方の本当の意図を私が知ったのは、もっと時間が経ってからのことである。これは反語ではない、とその人は言った。自分の境遇をどう捉えればいいのか、わからなくなってゆえの「私、かわいそうですか?」なのだと。一番苦しんでいるのは病気の母であって自分ではない。自分の家は貧困ではない。でも、学校ではまわりの同年代から取り残されているように感じ、みじめで苦しくて仕方がない感覚がある。自分はかわいそうなのか、かわいそうでないのか、どっちかわからなくなってしまった、そんな中での「私、かわいそうですか?」なのだと説明してくれた。

おそらく、「ヤングケアラー」という言葉が社会で知られるようになっていくにつれ、ヤングケアラーの多様さや奥深さはますます露わになってくるだろう。私自身、子どもが家族のケアを担うことを「美談」と捉えられる状況を変えたいと思ってやってきたら、今度は「苦労」や「かわいそう」だけがクローズアップされる違和感を解消したくなった。でも、「いろいろあったけれど、ケアの経験を通して今の自分がある」という語りが強く出るのは、次の「美談」に回収されるように感じているヤングケアラーたちもいるということを知りつつある。ハッピーエンドでケアの経験を語らなくてはいけないのか。それを苦痛に思う人もいる。痛みですら痛みとして感じられないくらいになっている、悲しみが消化できていない、と感じている人にとって、「ケアを通して得たプラスの面」という言葉は空虚でしかない。

結局のところ、「ケアの経験は、今の自分を作っている大事な部分にもなっている」という表現がしっくりくるヤングケアラーもいれば、気持ちがついていけないヤングケアラーもいる。この本を作ることを通して、私と7人の執筆者たちが知ったのは、そういうことだった。しかしながら、これまた事実としてあったのは、この感覚の違いにもかかわらず、執筆者一人ひとりの話はお互いにものすごい共鳴と揺さぶりを引き起こしたという点である。とにもかくにも、何か深いところを揺さぶられる、そういうものが確かにあった。自分を重ねられる想いもそうでない想いもあるかもしれないが、こういう経験の中でこういう想いをした人がいるということを知り、そこに敬意を払うということでは一致していた。

この先、何を大切にしたいのかと考えた時、やはり、これまでまわりへの気遣いによって充分に口にされてこなかったヤングケアラー側の想いや体験を出すということが、まずは一番にある。ケアを担ったことのない人は、若くしてケアを担った人たちの経験と感情を知ることで、いろいろと気付かされることがあるだろう。そして、自分はヤングケアラーあるいは若者ケアラーであると感じる人たちも、自分とは違う状況でケアを経験した人たちの言葉と気持ちに耳を傾ける機会が持てたなら、さらに世界は広がると思う。これまで聞かれなかった語りを尊重するということは、そういうことの積み重ねだと思うのである。

プロフィール

澁谷智子社会学

東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。成蹊大学文学部現代社会学科准教授。著書に『コーダの世界』、論文に「聞こえる人々の意識変容――手話学習者の語りから」など。現在は、コーダを含めたヤングケアラーの研究を手がける。

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