2021.07.30

ロシアの脅威に向き合うために――『ハイブリッド戦争 ロシアの新しい国家戦略』(講談社新書)

廣瀬陽子(筆者)国際政治 / 旧ソ連地域研究

ハイブリッド戦争 ロシアの新しい国家戦略

著者:廣瀬陽子
出版社:講談社現代新書

「おそロシア」?

ロシアと聞いて、ポジティブなイメージを持つ方はあまり多くないように思われる。ロシアと「恐ろしい」という言葉を掛けた「おそロシア」という比喩表現が冗談交じりに使われることも多いロシアに、得体の知れない恐ろしさを感じる方も少なくないかもしれない。その背景には、日本でロシアに関する報道がネガティブなものばかりであるということがあろう。北方領土問題、漁船拿捕問題、サイバー攻撃、スパイ事件、反対派の弾圧などなど、ネガティブなニュースは枚挙にいとまがない。そのため、ロシアには何だか恐ろしい不気味な隣国というイメージがついてまわっている気がする。

だが、ロシアと地続きの欧州にとって、ロシアの脅威は冗談で語れるようなレベルではなく、じつに深刻だ。とくにその脅威は、2014年のロシアのクリミア編入とウクライナ東部の危機で劇的に高まった。ロシアの行為は、ウクライナの主権および領土保全の侵害であり、国際秩序を乱すものだった。しかも、ロシアがウクライナに用いた手法は、正規戦と様々な手段が含まれた非正規戦を組み合わせた、いわゆる「ハイブリッド戦争」であり、それは世界の新たな脅威となった。

筆者は2017-18年にフィンランドのヘルシンキ大学アレクサンテリ研究所で在外研究を行なっていたのだが、その滞在中にヘルシンキにEUとNATOの加盟国による「ハイブリッド脅威対策センター(The European Centre of Excellence for Countering Hybrid Threats)」が設立された。高まるロシアの「ハイブリッド戦争」の脅威に対し、欧米が連帯して対抗力を強化することが目指されたのだ。

日本でも、小野寺元防衛相が「ロシアのクリミア併合から戦い方が変わった」と述べ、その認識こそが、2018年に、本来なら10年に1度のペースで改定される「防衛計画の大綱」を、前回の改定から5年で改定したことにつながった。ロシアでも、「ハイブリッド戦争」(ただし、ロシアではこの呼称は欧米が行なっているものとしてしか用いられていない)は、クリミア併合を経て、軍事コンセプトからロシアの外交政策の理論に準じるものに変わり、ロシアの外交におけるその位置づけは非常に大きなものになったと言える。

執筆の背景

そして筆者はロシアの「ハイブリッド戦争」を外交の視点からとらえ、まとめてみたいと考えたわけだが、その理由はおもに3つあった。

第1に、前述のように、筆者のヘルシンキ滞在時にハイブリッド脅威対策センターが設立され、アレクサンテリ研究所での研究パートナーが同センターに引き抜かれ、彼女からも色々と話を聞き、欧州が感じるハイブリッド戦争の脅威をリアルに体感できたということがあった。

第2に、ロシアのハイブリッド戦争は、ウクライナ危機で注目されたが、決して新しい現象ではなく、それまでも多用されてきたものであり、筆者自身が研究の中で見てきたものだということに気づいたということがある。

筆者は旧ソ連の地域研究を行ってきたが、その原点は紛争や未承認国家(国家の体裁を整えながらも国家承認を得られていないエンティティ)が多いコーカサス地域であり、比較研究の観点からも、旧ソ連の紛争や未承認国家問題については長年分析を続けてきた経緯がある。ロシアは、「火のないところに煙を立たせる」力はないが、他方で、ちょっとした「煙を大炎上させる」ことには長けており、そうやって旧ソ連諸国に混乱を引き起こすということをやってきた。そして、それは旧ソ連諸国をロシアの影響圏におき続けるためのツールの一つとなってきた。

たとえば、筆者は、ウクライナ危機の6年前に発生した、ロシア・ジョージア戦争(2008年)は、ウクライナ危機でロシアが用いたハイブリッド戦争の練習場になったと考えている。それにとどまらず、エストニアやウクライナなどの事例から、ロシアが旧ソ連諸国が反ロシア的な動きをとった際の「懲罰」として、ハイブリッド戦争的な手法を用いてきたことも事実だ。

第3に、地続きではないとはいえ、ロシアとは隣国である日本にとっても、ハイブリッド戦争は喫緊の課題だと考えたからだ。2020年10月に英外務省がロシアの軍参謀本部情報総局(GRU)が、東京五輪・パラリンピックの関係者や関係団体に対して「サイバー偵察」を実行したことを発表していたし、今年6月には、日本オリンピック委員会(JOC)が20年4月のサイバー攻撃でパソコンやサーバー内のデータが書き換えられて業務が停止する被害を受け、約60台のパソコンやサーバーを約3000万円かけて交換して業務を復旧させていた事実も報じられた。

ハイブリッド戦争

ハイブリッド戦争とは、前述の通り、政治的目的を達成するために、正規戦と様々な手段が含まれた非正規戦を組み合わせた戦争の手法であり、現代型戦争、21世紀型戦争と位置づけられる。正規戦・非正規戦を組み合わせる戦術は古くからあるが、現代においては、サイバー攻撃、情報戦・宣伝戦、誘導工作など新しく、かつきわめて対応が難しい要素が重要な意味を占めるようになり、戦い方は大きく変化することになった。それは2016年の米国大統領選挙に対するロシアの介入、いわゆるロシアゲートでも注目されたところだ。 

だが、ハイブリッド戦争の定義は多様であり、何に力点を置くかによって、ハイブリッド戦争の範疇は無限に広がりうる。軍事的戦闘に力点をおけば、ハイブリッド戦争の範疇はむしろ狭くなるが、サイバー攻撃、情報戦・宣伝戦、誘導工作などに力点をおけば、その範囲はかなり広くなってしまう。

たとえば、コロナ禍におけるロシアや中国の医療物資などを供与する「マスク外交」や新型コロナウイルスのワクチンを供与する「ワクチン外交」を、NATO関係者は中露の「ハイブリッド戦争」であると批判する。なぜなら、NATOは中露がそれらを善意で行なっているのではなく、自国に有利な状況を生み出すという目的のために行なっていると考えているからだ。

それらの目的は、第一に支援部隊を送り込んだりして行う情報収集、第二に貨しをつくることで、国際的に優位な立場を獲得したり、制裁解除も狙うという思惑、第三にEU内で二流市民扱いになっている中東欧諸国や、EU加盟を狙っている国などへの支援やイメージ工作によって欧州分断を図ろうとしていること、第四に同盟国や友好国の獲得や関係強化だとされている。

このような善意の行為かもしれないマスク外交やワクチン外交ですらハイブリッド戦争に位置づけられる現状からは、中露に対する根深い不信感、そしてハイブリッド戦争に対する脅威の大きさが感じられる。

そして、このように定義しづらいからこそ、または、人によって見方が変わるからこそ、ハイブリッド戦争の実像は不鮮明となり、そのようなグレーな感覚が、より捉えどころのない恐ろしさを増幅しているようにも思える。

NATOの意気込み

最近、ハイブリッド戦争の一部をなすサイバー攻撃の大規模化が目立つ。

昨年は、新型コロナウイルスのワクチンに関係する研究所や病院などへのサイバー攻撃が顕著に増えただけでなく、12月には、米ソーラーウィンズ社のソフトウェア・オリオンの脆弱性を悪用したロシアの連邦対外情報局(SVR)によるとされる大規模なサイバー攻撃が、3月から行われていたことが明らかになった。同攻撃では、米国の複数の政府機関や地方政府の他、重要な民間企業等の重要情報が想像を絶する規模で盗まれたという。その被害は米国史上最悪レベルで、全容解明には数年を要するともいわれている。

そして、今年の5月には大規模なランサムウエア(身代金ウイルス)を用いたサイバー攻撃が続出した。初旬には米最大の石油パイプライン「コロニアル・パイプライン」を標的とするランサムウエアを用いた大規模な攻撃が行われ、数日間、操業停止に追い込まれ、大きな損害が出た。

また、同月31日にはブラジル最大の食肉加工会社JBSがハッカー攻撃をうけたことを発表し、結果、アメリカ、オーストラリア、カナダの工場が稼働停止を余儀なくされ、とくにJBSの五大牛肉工場をもつ米国にとくに大きな影響が出た。

これらのランサムウエア攻撃はロシアを拠点とする犯罪グループによるものとされ、米・バイデン政権はロシアが責任を取るべきだと主張し、6月19日の米露首脳会談でも、バイデン大統領は、ロシアがインフラを攻撃対象にすべきでないとして、攻撃を避けるべき16分野を明記したリストをプーチン大統領に渡したが、ロシア側は関与を否定するものの、サイバー問題をめぐる話し合いを開始することについては合意したとされる。

これらサイバー攻撃の脅威が高まる中、サイバー攻撃への対策はNATOでも喫緊の課題となっている。6月14日のNATO首脳会談では、NATOのサイバー攻撃に対する方針を強化する「包括的サイバー防衛政策」が承認された。共同声明でも、サイバー攻撃にはケースバイケースの対応を行い、サイバー攻撃を武力攻撃と同等の攻撃とみなす可能性があることが強調された。

実際、NATOは2014年にサイバー攻撃によって集団的自衛権について定めた第5条を発動する可能性があるという方針を決定しているが、NATOがサイバー攻撃への脅威をますます強めていることは明らかだ。

高まるハイブリッド戦争の脅威への対抗の必要

このように、本書はロシアのハイブリッドな脅威を具体的に炙り出した。だが、ハイブリッド戦争を展開しているのはロシアだけではないということもまた真実である。

ハイブリッド戦争的な手法は、むしろ米国、英国、イスラエルのほうが長い歴史を持っており、行ってきたことも質量ともにきわめて大きく、また、近年では中国の存在感もきわめて大きい。そういう意味では、ハイブリッド戦争はロシアの専売特許ではなく、世界の国々が展開しているものとして捉えられるべきであるし、それに向けた対応が必要になっていると考えるべきだろう。

高まるハイブリッド戦争の脅威にどのように対処してゆけばよいのか。国家としての対応はもちろん必要であるが、それ以上に大事なのは各個人の心算である。ロシアからの大規模なサイバー攻撃を受けたエストニアは、サイバー教育を徹底し、国民がサイバー攻撃者に利するような習慣を変えて、個人が自分の身を守るようになるような「サイバー衛生」が国民に浸透するよう努力している。

サイバー攻撃に対処するために本書がそれを考える契機となってくれれば嬉しいかぎりだ。

プロフィール

廣瀬陽子国際政治 / 旧ソ連地域研究

1972年東京生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は国際政治、 コーカサスを中心とした旧ソ連地域研究。主な著作に『旧ソ連地域と紛争――石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会)、『コーカサス――国際関係の十字路』(集英社新書、2009年アジア太平洋賞 特別賞受賞)、『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス)、『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書)など多数。

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