2022.05.30

哲学・倫理学は環境問題にどのように応答できるのか――シュレーダー=フレチェット『環境正義 平等とデモクラシーの倫理学』(勁草書房)

吉永明弘(監訳者)環境倫理学

#「新しいリベラル」を構想するために

環境正義 平等とデモクラシーの倫理学

著者:K.シュレーダー=フレチェット / 奥田太郎・寺本剛・吉永明弘(監訳)
出版社:勁草書房

はじめに

2022年2月にシュレーダー=フレチェット『環境正義』を勁草書房から翻訳刊行した。私は奥田太郎、寺本剛とともに監訳を務めた。各章の翻訳は山本剛史、熊坂元大、宮﨑文彦、田中さをり、竹中真也、齋藤宜之、青田麻未、猪口智広、佐藤麻貴といった、比較的若手の研究者が担当した(寺本剛は翻訳も担当)。

環境正義というのは、環境をめぐる公平さを問題にする言葉である。この場合の「環境」は自然環境だけでなく、人工物を含む住環境や労働環境などを含んでいる。むしろ他の生きものにとっての環境よりも、「人間の環境」が強く意識されているといってよい。そして「正義」とは、いわゆる「アメリカの正義」とか「アラブの正義」という意味ではなく(それはむしろ大義とでも呼ぶべきであろう)、裁判官が裁定を下す際の「公平さ」というような意味を指す。倫理学のなかで「正義」という言葉が用いられた場合には、十中八九そのような意味になる。したがって環境正義では、環境をめぐる公平さが問題になり、具体的には環境をめぐる不公平の是正、差別の是正を求めていくことになる。

アメリカでは環境をめぐる差別の代表は人種差別であり、有色人種の住む地域に集中的に迷惑施設が建設されるということが1980年代から問題視されるようになった(「環境レイシズム」という言葉もある)。日本で環境正義の問題を考えるならば、人種差別よりも地域差別が主な対象になるだろう。具体的には沖縄に米軍基地が集中していることや福島・新潟・福井に原発が集中していることが挙げられる。

このように、環境正義はアメリカだけでなく日本でも議論されるべきものといえるが、これまで日本では議論が低調であった。今回の翻訳刊行によって、日本で環境正義の議論が活発になることを願っている。

原書刊行から20年後に翻訳

この本の原書Environmental Justiceは2002年に刊行され、環境正義を語るうえで外せない本とされてきたが、今回、20年たってようやく日本語で読めるようになったわけである。

この本の翻訳がこれまでなされなかった理由はよくわからないが、そもそも環境倫理学の研究者が日本には少なく、翻訳の担い手がいなかった、ということはあるだろう。もう一つ、翻訳して分かったのは、この本は見た目以上に「倫理学」の本であるということだ。倫理学以外の環境問題研究者からすると、そのあたりがネックになったのかもしれない。

とはいえ、この本の翻訳が20年遅れたのは日本の倫理学の怠慢だったと思う。この本にはアメリカの政治の話が出てくるが、2002年はブッシュ政権の時代で、情報が古くなっている部分もある。当然ながら細かい事実関係はどんどん更新されているので、時代遅れの情報もたくさんある(引用元のURLはほとんどすべてリンクが切れている)。

しかし、倫理学の本として考えると、情報が古いことはそれほど傷になっていない(むしろ傷になっているのは著者自身の単純な事実誤認が散見される点である。この点については訳注で説明した)。刊行から20年後の翻訳とはいえ、今でも読めるし、読むに値する本といえる。

以下では本書がどのような本なのか、その内容を章ごとに紹介し、全体の論述のパターンについて述べる。そして論述のパターンから本書の真価を読み解くことにしたい。

各章の要約

まず第1章では、アメリカにおいて環境正義がテーマ化された経緯が述べられる。アメリカの環境倫理学は長らく「自然環境保護」を中心テーマにしてきたが、1980年代から環境をめぐる人々の間の不公平を問題にする「環境正義」が表に出てきた、ということが明快に示される。そして具体的な環境不正義の事例が紹介され、不正義を否認または弁解する人たちの言い分が概観される。

第2章は、本書の理論的な骨格を示した章である。ここで「分配の正義」(正・負の財の分配の公平さ)、「参加の正義」(意思決定プロセスにおける公平さ)、「当座の政治的平等の原則」(正当な理由がない限り人々を平等に扱うという原則)という本書全体のキーワードが説明される。続く第3章では、土地利用計画を題材に、環境正義のために所有権を制限し、土地利用に規制をかけることが擁護される。

シュレーダー=フレチェットの研究テーマの一つは原子力問題である。本書では、第4章でウラン濃縮施設の設置をめぐる問題が論じられる。これは典型的な迷惑施設であり、その設置場所をめぐって不公平が生じている。また第5章では、放射性廃棄物の最終処分が世代間不正義をもたらしていることが指摘される。

第6章では、先住民に対する搾取が問題視される。ここでは先住民搾取の事例の後に、先住民の保護をパターナリズムと見なして批判する議論が紹介される。それに対して彼女は、パターナリズム論を批判的に検討することによって、先住民の保護の正当性を論じる。

第7章は、リスクのある労働環境がテーマである。ここでシュレーダー=フレチェットは、「補償賃金格差」という理論がリスクのある労働環境を正当化していることを批判する。

第8章では、途上国の環境汚染が取り上げられる。社会の進歩のためとか、汚染されたパンでもパンがなくて餓死するよりはましであるとか、そういった理屈で途上国の環境汚染が容認されている現状を、彼女は厳しく批判している。

第9章は、ここまで見てきた環境不正義を是正するために何ができるのかを検討している章である。環境不正義が放置されているのは、政府、産業界、学術界の認識に偏りがあるからであるとして、環境正義を実現するために彼女はNGO・NPOに期待をかけている。加えて、中立であることは必ずしも客観的ではないなど、重要な見解が示されてもいる。この章だけ独立して読むこともでき、ここだけ読んでもたいへん勉強になる。

事例紹介と理論検討の二段構え

以上が各章の内容である。次に本書の論述のパターンについて述べてみたい。まず注目したい点として、この本の多くの章が事例紹介と理論検討の二段構えになっていることが挙げられる。最初に、その章のテーマにそくした環境不正義の事例が紹介される。その後に、環境不正義を正当化する理論が説明される。そしてそれらの理論を検討し、論駁することで、環境不正義の是正を求めていく。

このような構成をとっている章が多いので、各章の冒頭だけ読んでも、さまざまな環境不正義の事例を知ることができる。そしてその部分は描写が鮮やかで、問題意識をかきたてられる。それに対して、環境不正義を正当化する理論の説明とその検討を行っている箇所は、やや煩瑣で面倒な印象を受ける。多くの読者は事例の部分だけで直観的に問題性を感じることだろう。しかしこの本の中心はそこにはない。むしろこの本の真価は、環境不正義を正当化する理論を検討し、論駁しているところにある。

常識から乖離した社会科学の理論

『環境正義』の真価を説明するにあたり、少し迂遠な話から始める。いつのことか忘れたが、飯野啓二・塩入肇『経営がわかる事典』(1980年、日本実業出版社)を古本で買って何気なく読んでいたところ、目を疑うような一節に出くわした。

それは「経営理論2 ホーソン実験でわかったことは」という小見出しのもとに、ホーソン実験について説明されたところに登場する。ホーソン実験というのは、「最も適当な照明を与えることができれば疲労を少なくし、ひいては労働効率が高まるであろう」という仮説のもとに行われた実験で、その結果、労働効率は、照明の明暗に関係なく、自分たちの希望が取り入れられていると感じた労働者の心理的反応によることが分かったとのことである。「エッ」と思ったのは、その後の記述である。

「このようにホーソン実験は、現実の労働者がたんなる経済人でもなければ労働力でもなく、あくまで生きた人間であることを明らかにしました」(前掲書、45頁)。

学者はこのような実験をしないと労働者が生きた人間であることも分からないのか、というのが、この箇所を読んだときの私の率直な感想だった。このとき私は、社会科学の理論の一部が常識からかけ離れたものになっていることを知ったのである。

屁理屈に対して「それは屁理屈だ」と喝破した本

言うまでもなく倫理学は哲学の一部である。そして哲学は、ともすれば頭でっかちな屁理屈だと思われがちである。しかし哲学をきちんと学んだ人であれば、哲学とはむしろ屁理屈を批判するところにその存在意義があることを知っているはずである。

古代ギリシアのソクラテスは、もっともらしい話をしている人(ソフィスト)たちに対して、その主張や論理を執拗に問いただし、吟味することによって、その主張や論理の穴を見つけ、彼らの知識が言うほど確かな基盤に基づいていないことを明らかにした。これが哲学のはじまりである。哲学者とは、一般に言われるように屁理屈をこねる人ではなく、屁理屈をこねている人に「それは屁理屈だ」と言う人を指す。そしてシュレーダー=フレチェットが『環境正義』の中で行っていることは、まさにそういうことである。

繰り返しになるが、この本の真価は、環境に関連する被害が一部の人たちに不当な形で集中している、という事実を告発しているところではなく、そのような環境の不正義を正当化している理論を一つ一つ論駁しているところにある。

たとえば第7章に記されている通り、リスクのある労働環境が容認されているのは、「補償賃金格差理論」がそれを正当化しているからである。簡単に言えば、リスクは高賃金によって補償できるという理論であり、そこには高い賃金をもらっているのだからリスクを甘受すべきであるという主張が暗に含まれている。

これに対して、シュレーダー=フレチェットは、「補償賃金格差理論」の問題点を指摘することによって、リスクのある労働環境が容認されている状況を批判し、そのことで環境不正義の是正を図っている。ここで彼女は、「補償賃金格差理論」はもっともらしいけれども環境不正義を助長する屁理屈である、ということを実質的に言っているのであって、ここではソクラテス以来の「哲学者」の仕事が正しく行われていると言ってよいと思う。つまりこの本は、社会理論や経済理論の屁理屈を正しく論駁している点で、まっとうな哲学・倫理学の本であるといえる。

おわりに

環境不正義は、現代の日本でも生じており、また将来においても生じうる可能性がある。そうしたときに、自らが立ち向かうべき相手の立論が、どのような理論によって支えられているのかを知ることによって、相手のもっともらしい言い分を論駁する手立てを、本書は示してくれている。

このように、本書を読むと、環境正義にまつわる問題群を理解することができるのに加えて、環境不正義に対抗するための理論的な武器を獲得できる。多くの人に読んでもらいたいと思う。

プロフィール

吉永明弘環境倫理学

法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『都市の環境倫理』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド環境倫理』(勁草書房、2017年)。編著として『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)、『環境倫理学(3STEPシリーズ)』(昭和堂、2020年)。最新の著作は『はじめて学ぶ環境倫理』(ちくまプリマ―新書、2021年)。

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