2015.04.17
「俳句」に一歩近づこう
小さい頃から慣れ親しんでいるにもかかわらず、めったに語り合うことのない「近くて遠い芸術」俳句。荒井裕樹さん(障害者文化論)が、さまざまな分野の表現者と語り合う連続対談企画、第7弾の対談相手は俳人の十亀わらさん。作品を介して、みんなと語り合うことのできる「孤独」とはほど遠い俳句の奥深さについて語り合っていただきました。(構成/金子昂)
近くて遠い俳句の世界
荒井 俳句って「近くて遠い芸術」ですよね。とても馴染みやすい表現方法でありながら、妙に敷居が高いところもある。俳句人口ってものすごく多いはずなのに、普段の生活で俳句の話をすることはめったにない。そんな「近くて遠い芸術」について知りたいと思って、今回は十亀わらさんにお声かけしました。
十亀さんは、俳句をなさる以前は詩を書かれていたようですね。「詩のボクシング」でもご活躍されていたとか。意識的に詩を書くようになったのはいつ頃からですか?
十亀 十代の頃です。人にうまく言えないもどかしい気持ちだったり、夕焼けを見ていて「消えてなくなりたいな」って感傷的になったり、そういう気持ちを書き連ねることから始まりました。昔から国語は好きで、とくに便覧を読むのが好きだったんですよ。
荒井 ああ、「便覧少女」だったんですね(笑)。
十亀 そうなんです(笑)。大きな社会の中でジャンル分けするなら、自分は便覧側の人間なんだなってぼんやりと思っていました。
荒井 十亀さんの詩集『燃える野』(詩学社、2000年)を読ませていただいて、これは「頁の上」でしか出会えない言葉たちだなと思いました。詩ってふつう、具体的なフレーズや視覚的な映像が頭の中に貼りついたりするんですけど、十亀さんの詩は読み終えてから諳んじようと思っても、まったく諳んじられない。読み終えて本を閉じると、確かに読んだという手ごたえは残っているのに、言葉がハラハラとほどけていく。なんとまあ、儚い詩を詠まれる人だろうと思いました。俳句に比べると、詩は何だか苦しそうです。やっぱり詩と俳句は違いますか?
十亀 『燃える野』は、廃刊になってしまった『詩学』という雑誌に投稿していたころのものです。20歳から25歳くらいまでのものが収められているから、というのもあるかもしれません。俳句の場合は句会という締切がありますが、詩には締切がないので、こみあげてくるものをゆっくりと熟成させることができるんです。だから痛々しくなってしまうのかもしれない。
あと、単純に器の形が違うので、俳句は長々とした感情を受け止めてくれないですよね。「五・七・五」では言い尽くせなかったり、そこで完結するのは寂しいときは、詩の方がいいと思います。反対に俳句は、語るべきものがぼんやりしたものでも、形式が助けてくれることがあります。
荒井 ああ、なるほど。形式が助けてくれる。
十亀 例えば荒井さんの本を読んで、「思想的抒情って魅力的だなあ」と思ったら、「思想」とか「抒情」といった言葉がフワフワ浮かんできて、そこから「五・七・五」にできないかを考えるんですね。自分の思いがまだはっきりしていなくても「五・七・五」にいれようと格闘していると、思わぬ姿になる。この感覚は俳句以外では経験したことないですね。
荒井 でも、ただ単に言葉を「五・七・五」に並べても、うまい俳句にはならないですよね? 「五・七・五」に並べた言葉が「俳句」になる手ごたえって、どんなときに感じるんですか?
十亀 そうですねえ……俳句の場合は季語がありますよね。
荒井 はい。伝統の中で積み上げられてきたルールがありますね。
十亀 ええ、例えば「夏きざす」って夏の予兆をあらわす季語を句の中にいれたら、あと12字しか使えない。「そういうルールって格好わるい」と10代の頃は思っていたのですが、俳句に慣れてくると、季語が持つ力と自分が詠みたいと思ったものがうまく重なった瞬間に「決まった!」と思うようになるんです。
季語もルールもない一行詩みたいな俳句もあります。それはそれで好きなんですけど、そういうことをするなら、私には詩があるかな。だから俳句には季語をいれることにしています。定型が一番だとは思わないし、それを破る面白さはあるんだけど、定型に救われることがあるから、その路線で詠みたいなって。
俳句が切り取る世界とは?
荒井 ルールって、メリットもデメリットもありますよね。例えば思想や哲学を「五・七・五」のなかに盛り込むのは難しい。いや、盛り込めちゃう人がいるからすごいんですけど、でも基本的には難しいと思います。ぼくは十亀さんの「生きてゆく硬さ素足のぶらんぶらん」という句が好きです。哲学や思想というほど大げさでも堅苦しくもなく「今週はどうやって生きて行こうかなあ」っていうくらいの、生きていくための柔らかな構えのようなものがある。
ちなみに、俳句を詠んでよかったなと思う瞬間ってありますか?
十亀 「できた!」と思った瞬間ですね。「夏きざす子は寂しがる語をもたず」という句を詠んだことがあります。自分の子どものことを詠みたいんだけど、なかなか詠めなかったんですね。そんなとき、子どもたちが妙にまとわりついてきたり、「抱っこ! 抱っこ!」と甘えてきて、「ああ、この子は“寂しい”って言えないんだな」と思ったら、自然と俳句を詠みたいと思ったんです。いろいろ考えて、最後に「夏きざす」という季語が出てきた瞬間に、「この感覚を切り取ることができた」と感じて、俳句を詠んでいてよかったと思いました。
荒井 抱っこをせがむ子どもって、本当に些細な日常の一コマですよね。俳句って、そういう身近すぎて意識さえしないような一瞬を切り取るから面白いです。最近「文学が語るべき日常って何だろう」って、そんなことにずっと考えていたので、十亀さんの俳句はとても新鮮でした。
十亀 そういうことをお考えになるきっかけはあるんですか?
荒井 子どもが生まれて、妻と協力して毎日ドタバタの悲喜劇を繰り広げながら育児しています。もう本当に「日々の生活」を維持するだけで精一杯で、自分のやりたいことがぐっと制限されました。こんな毎日が延々と続くのかと思うと「自分にはもっとやりたいことも、やらなきゃいけないこともある!」って野心がくすぶったりするんです。でも逆に、こんな何気ない日々の些細な事柄が、どうしようもなく愛おしく思えたりもするんですね。子どもが変な言葉をおぼえて帰って来たりとか、膝の上に抱えてテレビ見たりとか、一生懸命作ったご飯を食べてくれなくてイラついて、でもそんなことにイラついた自分に落ち込んだりとか、そんな風に流れていく平凡な時間や出来事が「語るに値するようなきらめき」を持っていたら救いになるんじゃないかって思うようになったんです。
今日はお互いに好きな文学作品を紹介しましょう、ということをお願いしました。ぼくが持ってきたのは柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』(新潮社、2012年)です。少し長いですけど、読んでみますね。
「日が長くなってまだ薄闇で、暑くも寒くもなく弱い風が吹き、そのような空気の中を一人でただ自由に歩けるということは、もしかしたらこの時間が自分の人生の幸福で、これ以上の「スペシャル」なことは起こらないし望んでもいないのではないかということを考えながら、しかしそう言うとたいていの人には平穏な日常こそが素晴らしいという意味にとられるかもしれないが、自分は「日常」があらかじめ確かにそこにあるものだとは思えないし、例えば仕事に行ってごはんを食べて眠るというような日々のことだとも思っていないし、それぞれに具体的で別のものがそこにあるのを一つの言葉でまとめることができなくて、「日常」という言葉を自分自身が使うこともない。単純にスペシャルなことがない、ただそれだけのことなんだと、不意に感じるだけで、この感じこそが最大の意味なんじゃないかと思うことをどういえば伝わるのか、そもそも誰に伝えればいいのか、と思いながら、緩く蛇行した商店街から枝分かれする路地をでたらめに歩いた。」
震災後にむさぼるように本を読んだんですけど、この言葉にとても救われました。ぼくらが生きている時間って、「日常」という言葉で捉えるまでもないくらい、意識さえしないような出来事の積み重ねじゃないですか。そんなスペシャルでもなく、ただ淡々と過ぎていく些細なことのなかに、語るに値する何かがあるんじゃないかと思えるだけで、生きているこの時間が楽になるような気がする。そして十亀さんの俳句は、ぼくのなかで柴崎さんの文章とリンクしたんです。
十亀さんはいかがでしょうか? 「この日常は俳句になる」と思う瞬間ってどんなときですか?
十亀 つらいことや悲しいこと、腹が立つことが非日常的なことだとしたら、そういう感情をずっと持って生きてはいません。
でも「あっ」と思う空気とか匂いとか、音だとか、日常のちょっとしたことに心が動くとき、「これを俳句にしたい」と思って、ぐぐぐっと近寄って身体で記憶するようにしています。昔から、出かけたときに見かけたものとか、面白いと思ったこととか、人に教えてもらったことを書いているノートを持ち歩いていました。でも子どもが生まれてからはノートに落書きされちゃったり破られたりしちゃって、このやり方を続けるのが難しくなっちゃったんですね。だからいまは短冊に句を書いて、推敲するようになりました。
荒井 面白いですね。
十亀 これは12句を一作品として出したときのものです。まずは12句を短冊に清書して、冷蔵庫にセロファンテープで貼っていくんですね。眺めているうちに、「語順がちがうなあ」とか「この順番じゃないなあ」って思って、書き換えてみたり、貼り換えたりする。料理をしながら、世界が深まるような並びにするにはどうすればいいのか考えて、「あっ!」と思ったら並び替える(笑)。
荒井 日々の生活に俳句が染みこんでますね(笑)。そうか、「俳人」はこういう生活をしているのか(笑)。ちなみに、お子様が生まれてから、詠む内容は変わりましたか?
十亀 基本的には変わっていないと思います。ただ暴力的な語句に魅かれなくなりましたね。「王様が吊るされる」とか、ちょっと「えっ!?」って思うような俳句も書いていたんですけど、いまはもう。
荒井 ぼくも子どもができてから、言葉の感覚が少し変わりました。なんだか以前よりも、物事を強い口調で断定するのが苦手になりました。『生きていく絵』(亜紀書房)という本を書いたとき、「~と思う」「~かもしれない」という文末表現が多いことを人に指摘されて気が付きました。他人の心の中身について書いたものなので、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないけれど、自分はそう信じたいって書き方になったんだと思います。
十亀 面白いですね。そこまで考えたことなかったなあ……。【次のページに続く】
俳句は「孤独」とはほど遠い
十亀 荒井さんは大学で日本文学を教えられているんですよね? 詩や小説を書かれている方が、たまに「俳句っていいよね」っておっしゃいますが、本当にそう思っているんですかね?
荒井 うーん……正直、ちょっと下に見ている人は多いでしょうね(笑)。
十亀 そうですよね。自分も十代のときは同じように感じていたんですよ。なんでだろう。
荒井 「趣味」とか「余暇」みたいに思われてしまうのかもしれませんね。実際に俳句を詠まれる方には、それぞれのモチベーションがあるはずなのですが。十亀さんは、その下にみていた俳句をどうしてやろうと思ったんですか?
十亀 詩だけではなくて、寺山修司とか俵万智とかの短歌も好きだったんですよ。好きな作品を持ってくるように宿題をいただきましたので、おふたりの短歌を持ってきました。
寺山修司には「身を削って書いている」ってイメージがあって(笑)、憧れていました。でも俳句には興味が持てなかった。大学の授業で俳句の講義があったのですが、それも単位を取るために選んだくらいです。でも自作の句を提出したら、夏井いつきという先生に「ぜんぜん駄目」と言われてしまった。
プライドが傷ついて「あまり真面目に出席しないでおこう」と思っていたのに、先生の指摘は筋が通っているように感じられて。それまで「文学は他人から教えてもらうものじゃない」と思っていたのに。しばらくして、講義で初めて吟行句会に出たときに、先生が「これは夾竹桃という花だよ」と教えてくれたことに衝撃を受けたんですね。私は「あ、花だな」くらいにしか思っていなかった。俳句をやっている方たちって身の回りの花や木についてとても詳しいんですよ。ベテランの方々が授業に参加してくださったときも「あの雲はね……」とか、「こんな風景を詠んだ俳句もあったよね」とか話し合っている。
荒井 俳句をされる方は、季節の移ろいにも敏感ですしね。
十亀 そうなんです。それで、先生に夾竹桃を教えてもらった日に「この空に泣けてくるよな夾竹桃」という句を作ったら、「ストレートでよろしい!」って、その日の特選に選ばれて。鼻歌を歌いながら帰りたくなるくらい嬉しかった(笑)。
いままで「書く」ということは一人でやるものだと思っていました。東京にいる有名な詩人に向けて地方から投稿をして、認められたら「認めました賞」が送られて、そこからデビューみたいな、一方通行のイメージだった。でも俳句はサークルがたくさんあって、その中でみんなが詠んで語り合っている。あ、これって楽しいなと思ったんですね。
荒井 俳句は孤独な作業ではないんですね?
十亀 そう思います。個人個人の根っこには孤独があったとしても、句会に出るといろいろな人がいて、作品を介して語り合えることが分かっているから、「俳句」で「孤独」ってピンとこないです。
それから、あまりに独りよがりな、陶酔型の句を詠むと句会で流されちゃうこともあります。それってやっぱり寂しいじゃないですか。だから俳句の場合は、一歩引いて詠むことができる。「五・七・五」を詠むときに、自分の言いたいことをちゃんと伝えられているか気にしながら読むようになりました。
荒井 十亀さんの俳句が、詩よりも苦しくなさそうだと感じたのは、そのためかもしれませんね。
「言葉が美しい」とはどういうことか
荒井 いくつか俳句を持ってきていただいたので、ご紹介くださいますか?
十亀 私の「便覧少女」時代に影響を受けたのは正岡子規です。私は松山出身なので、子規は郷土の偉人です。
かっこいいですよね?
荒井 かっこいいですね。目の前の小さな世界のことを詠んでるのに、とてもダイナミックで力強いです。
十亀 そうなんですよね。視覚的だし、音も聞こえてくる。
荒井 目に映っている景色をそのまま詠んでいるだけなのに、俳句として成立している。やっぱり子規ってすごいですよね。こういう言葉の美しさってどこからくるんでしょうね。次は石田波郷ですね。
十亀 言葉が美しいってどういうことかって聞かれたら、こういうことですって言いたい。
真っ白い紙にこの句を清書して、眺めるんです。この立ち姿の凛々しさにしびれます。それから私が好きなのは声に出して読むことです。音にしてみると句の生命そのものが、文字の世界を飛び越えて自分の心にひびいてくる……そんな気がします。
大学時代に俳句を教えてもらった夏井いつき先生の句もってきました。この句は就職の試験で落ちてしまって悩んでいたときに見たんです。
この「君」って誰でもいいんですよね。この気持ちがあのときはすごくわかった。大学時代の迷いや救われたい気持ちを思い起こさせるものです。
荒井 俳句って、その句の意味を読者が想像力で補わないといけないですよね。大変なんですけど、それがカチッとはまったときのシンパシーってものすごいですよね。こちらも夏井いつきさんの句ですね。
十亀 夏井先生は明るい方なんです。でも、こんな句も詠むんだなって驚きました。【次のページに続く】
十亀 続いて林翔さん。俳句を始めたばかりの頃、俳句総合誌を初めて立ち読みしたときに出会った句です。
あまりに素敵でびっくりしました。例えばギターの句だと、秋風が吹き抜ける中、ギターを弾く人のツンとした肘や指、くちびるが思い浮かびました。俳句ってこんなにさり気なく、清々しく生命を吹き込めるものなのかと驚いたんです。新しい句帳に大きく彼の句を書きこんでいつかこんな句を詠みたいなんて考えていました。漠然と同世代だと思っていたのですが……、林翔さんが1914年生まれの大ベテラン俳人だと知ったのは、もうしばらく経ってからのことです。
その後、地方紙にこの句について書く機会があり、記事をお送りするとお返事をいただきました。林さんが亡くなられた後も、大切な宝物になっています。自分が俳句を詠むことにどんな意味があるんだろうか、と悩むときは、この句の大らかな表情を思い出します。
これは大高翔さんの句です。同い年の俳人です。20歳の頃に出している句集を読んで、「詩のワンフレーズみたいなことを俳句に使っていいんだ」とショックを受けました。
荒井 あらためて、本当にいろいろな俳句があるんですね。
十亀 はい、そうやっていろいろな俳句に出会っていく楽しさがあります。自分の中の型がどんどん壊されていくので。
俳句は「ウソ」をついてもいい
荒井 乱暴な質問で恐縮ですが、「俳句にはなにができるか?」って考えたりすることはありますか?
十亀 うーん……そうですね……語り合うことができます。誰でも「五・七・五」の定型を信じて一句作ってみれば、それを糸口に語り合うことができる。最初は恥ずかしいと思います。でも一歩踏み出してみると、孤独とは裏返しの文芸に出会える。
荒井 十亀さんの句「なぜ口は動くのだろう終戦日」。これってどういう意味なんだろうって、いろいろと考えました。俳句って、読者が勝手に意味を考えなきゃいけない句もありますよね。十亀さんの中には、きっとこの句を詠んだ経緯や必然性があるんだと思いますけど、そういった句も読者が自分勝手に解釈していいのでしょうか?
十亀 ええ、もちろんいいと思います。想像力の豊かな方に読んでもらうと、詠んだ本人よりもよくとってもらえることもある(笑)。
句会では、それぞれの俳句を集めて、作者の名前を伏せて、参加者が良いと思った句を取るんですね。そのとき、詠み手とまったく違う解釈が出てくることはよくありますけど、そういう解釈をされて怒りだす人は見たことありません。「ああ、そんな風に解釈したんですねー」ってワイワイできる。
荒井 作者の意図を越えた解釈は苦痛じゃないんですね。
十亀 はい。あと、素敵な俳句を詠む人と話し合えるのも句会の楽しさだと思います。誌面上ではできませんから。お互いの俳句について語り合えるのは、たぶん定型があるからだと思うんですね。季語だったり、語順だったり、上手な使い方を話し合える。これが詩の世界だと、人の意見をなかなか素直には聞けないかもしれません。
荒井 他人に対して素直になり切れないパッションがあるから、詩が生まれるんでしょうね(笑)。
十亀 そうでしょうね(笑)。なんでしょうね、俳句の、この語り合える感じって。
子どもたちとミニ句会をひらいたことがあります。これがとても楽しくて。
荒井 どちらもいいですね(笑)。
十亀 でしょう? 二つ目の句は、夏の焼け付くような日差しを浴びて、鉄板の上の肉の気持ちを推し量ってるんでしょうね。「男子」のかわいらしさがでている(笑)。でも最初の句は女の子が詠んでいるんですよ。誰が詠んだのか聞いたら、女の子が手を挙げたのでとても盛り上がりました。
子どもってウソが好きだけど、なかなかウソってつけないじゃないですか。詩や小説だと、ウソをつくのにもエネルギーが必要ですけど、「五・七・五」だといくらでもウソがつける。ウソをついていい世界だし、もうひとりの自分に簡単になれる。この楽しさを伝えられたなら、嬉しいと思いました。
俳句はもう一人の自分に簡単になれるし、ウソをついていいってことを教えられたと思います。
荒井 ウソをつけるっていいですね。生きるのが少し楽になるかもしれない。
出会ったものを詠みながら歩く
荒井 最後に、これはみなさんに聞いている質問です。「十亀わらにしか詠めないもの」ってなんですか?
十亀 私にしか詠めないもの……自分にしかできないもの……うーん……。
荒井 これまで「ない」って言う方が多かったです。
十亀 かっこいいですね。わたしは小賢しいので、いまいろいろ考えちゃいました(笑)。でも「ない」って言い切るのも怖いです。
荒井 ぼくも怖いです。みなさん「ない」って言い切ったあとに、いろいろお話してくださるんですよ(笑)。そちらの話の方が長かったりして(笑)。
十亀 あ、やっぱりそうですよね。
中学生のとき、思春期まっただ中の、いい言葉でいうと感受性豊かだったときに、道徳の授業でドキュメンタリーのビデオをみて泣いてしまったんですね。そしたら男子から「十亀が泣いてるぞー!」ってからかわれて、「人前で泣いちゃいけないんだ」と我慢するようになりました。
人って、恥ずかしいこととか悔しいことって、すごく覚えていますよね。そういう失敗をしないように心掛けるようになって、性格さえ変わってしまうこともある。あるとき、そんなものが積み重なっている自分の人生ってなんだろうって考えて、生きるってすべすべの大地を歩いているみたいだなって思いました。自分というものは、他人という鏡に映してでないと見ることができないんだ、と。それでもどこかあきらめきれなくて、私は詩を書いたり、俳句を詠んでいるんだと思うんです。
俳句は敷居が高いと感じられる方もいると、お聞きしました。でも自分は、あまり大きなことを言わないで、もっと自由に、生きている中で出会ったものを詠んでいければそれで幸せだなと思っています。
プロフィール
十亀わら
1978年愛媛県生まれ。十代の頃より詩を投稿。二十歳で俳句と出合い、夏井いつき氏に師事。2000年、詩誌『詩学』(現在廃刊)新人推薦。俳句集団「いつき組」(現在「100年俳句計画」)入会。2002年、「第二回 詩のボクシング」出場、べスト8。2005年、「第七回 俳句界賞」受賞。2 006年、詩集『燃える野』(詩学社)。代表句は「火を焚きて指さびしがる春祭」「かつて産みし仔かも知れずに水鳥は」「夫眠る躑躅そんなにひかるなよ」
荒井裕樹
2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員を経て、現在は二松学舎大学文学部専任講師。東京精神科病院協会「心のアート展」実行委員会特別委員。専門は障害者文化論。著書『障害と文学』(現代書館)、『隔離の文学』(書肆アルス)、『生きていく絵』(亜紀書房)。