2015.05.05
バレエ界の伝説プリセツカヤ死去――89年の生涯を閉じる
「白鳥の湖」の白鳥オデットと黒鳥オディール、「カルメン組曲」のカルメンの役などで知られる伝説のバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤ氏が2日、ドイツの病院で心臓発作により死去した。89歳だった。ボリショイ劇場のウラジーミル・ウリン総支配人によると、医師は「闘ったが、手を施すことができなかった」という。(オレグ・クラスノフ)
プリセツカヤ氏は最近まで、ボリショイ劇場のバレエ団とともに、ガラ・コンサートのプログラムを準備していたが、ウリン総支配人によれば、「兆候はなかった」という。プリセツカヤ氏と約60年生活をともにしてきた夫で作曲家のロディオン・シチェドリン氏が、ウリン総支配人に訃報を伝えた。
ボリショイ劇場バレエ団のセルゲイ・フィーリン芸術監督はこうタス通信に語った。「プリセツカヤ氏の90歳の誕生日に向けて豪華な夕べを用意していたが、氏はプログラムの作成に積極的に参加し、常に連絡をとりあっていた。氏と今の世代のダンサーが仕事で一緒になることはなかったものの、いつも近くにいてくれた。これまでと同様、私たちの心の中、魂の中に残り続けるよう、努力していく」。プリセツカヤ追悼の夕べを生誕記念日の11月20日に行うことを、ウリン総支配人は明らかにした。
家族
後に20世紀の優れたダンサー、ボリショイ劇場のプリマとなるプリセツカヤは、1925年11月20日にモスクワで生まれた。1930年代初頭、ソ連の炭鉱長として働いていた父とともに、一家は北極海スピッツベルゲン島で暮らしていた。父は1937年に粛清、銃殺刑に処された。無声映画の女優だった母のラヒリ・メッセレルプリセツカヤは、その1年後に逮捕、下の息子とともにモスクワ市のブトィルスカヤ刑務所に収容され、その後カザフ共和国チムケントに追放された。モスクワに戻ることができたのは、大祖国戦争(独ソ戦)勃発前の1941年のことである。マイヤと弟は、母の収容後、ボリショイ劇場のダンサーだったおばのスラミフィとおじのアサフ・メッセレルに引き取られた。
ボリショイ劇場
プリセツカヤは1943年、モスクワ舞踏術学校を卒業し、ボリショイ劇場のバレエ団に入団した。最初の主役は「くるみ割り人形」(チャイコフスキー)のマーシャ。1944年には抜擢されていた。1945年に「シンデレラ」(プロコフィエフ)の秋の妖精を演じた。1947年に「白鳥の湖」(チャイコフスキー)の白鳥オデットと黒鳥オディールを初披露。この作品によって世界的な知名度を得ることができた。またその後ずっと、プリセツカヤの代表作にもなっている。
有名なロシア系アメリカ人のダンサー、ミハイル・バリシニコフは、プリセツカヤの訃報を受けて、交流サイト(SNS)「フェイスブック」の自身のページに、「1959年の驚くべき瀕死の白鳥は、永遠に記憶される」と書いている。
プリセツカヤは1960年代、ボリショイ劇場のトップ・バレリーナと正式に認められた。だが立ち止まることを嫌い、クラシックだけでなく、コンテンポラリーなダンスも追い求めた。1967年4月20日、有名なキューバの振付師アルベルト・アロンソがプリセツカヤのために特別に用意した「カルメン組曲」(ビゼー/シチェドリン)が、ボリショイ劇場の舞台で初めて上演された。カルメンはプリセツカヤのボリショイの主役レパートリーの一つであり、世界の振り付けの歴史に刻まれた。
数々の賞
プリセツカヤは国内外の賞を多数受賞している。フランスの芸術文化勲章とレジオンドヌール勲章、スペインのイサベル・ラ・カトリカ勲章を受章し、1991年にはスペイン国王のフアン・カルロス1世から貴族の称号を授けられた。スペインではまた、スペイン芸術文学勲章、アストゥリアス皇太子賞も受章している。2006年、バレエ芸術の発展に貢献したことを評価され、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した。パリ市長が毎年もっともエレガントな女性に授与している国際賞を1986年に受賞しているプリセツカヤは、有名なデザイナーのイヴ・サンローランとピエール・カルダンからミューズと呼ばれた。
訃報
プリセツカヤの突然の訃報は世界に衝撃を与えた。ウラジーミル・プーチン大統領や海外の文化人は、シチェドリン氏および近しい関係者に哀悼の意を伝えた。ラフマニノフ・パリ音楽院のピョートル・シェレメテフ学長は、タス通信の取材に対し、こう語った。「プリセツカヤ氏は世界の多くの国において、ロシア文化の素晴らしい大使であった。フランスとは特別な関係で結ばれていた。1960年代初頭の自身初のパリ公演で、カーテンが30回もあがるほど魅了した」
■本記事は「ロシアNOW」からの転載です。