2015.08.06
『日本のいちばん長い日』――昭和天皇、終戦の物語
戦後70年の節目となる今夏、太平洋戦争の終結を控えた当時の閣僚たちを描いた、『日本のいちばん長い日』が公開される。鈴木内閣はいかに戦争を終わらせようとしたのか。終戦のおけるラジオの役割、「上から目線」の歴史を知る意義とは? 思想史研究者・片山杜秀と、荻上チキが語りあった。(※なお本記事には映画の内容に関するネタバレが含まれております)(構成 / 若林良)
東条英機という戦争のアイコン
荻上 今回は本映画を通じて、戦後70年という節目において、「終戦の日」前後を語る意味をお話できればと思います。片山さん、作品はいかがでしたか。
片山 ものすごく押し詰められていますね。濃密で力のある映画だと思いました。ハリウッド的な、撮影と編集の力を感じさせる作品です。臨場感のあるカメラ・ワークと、息もつかせぬカット割りで畳みかけてゆく。
情報量はかなりあるんだけど、説明的ではない。怒鳴るような台詞が多いと思うんですが、その勢いで持っていく。歴史のお勉強というよりも、勢いのあるドラマとして保ってゆく。そこに傾注している。劇映画だから当たり前なんですが。面白く、あっという間に終わってしまう。この時間でよくこれだけ話を入れ込んだものです。
荻上 地味な話のはずなんですが、テンポよく展開していきますからね。深刻な対話を展開する人物の表情を撮り続けているのに。
片山 岡本喜八監督による『日本のいちばん長い日』(1967)でしたら、海軍大臣の米内光政や外務大臣の東郷茂徳にもかなり比重が置かれていたんですけど、本作は、陸軍大臣の阿南惟幾、総理大臣の鈴木貫太郎、そしてなんと言っても昭和天皇。「終戦決定過程」についてはこの三人にかなり的をしぼって、他の人は脇役、もしくはその他大勢的な扱いで、その割り切り方も大胆です。
前半は鈴木内閣成立から「聖断」によるポツダム宣言受諾まで、一気呵成に行きますけれども、とにかくすべてが濃密です。さっきも申しましたように勢いで観られるようになっていますが、この人だれ? この台詞はどういう意味? とまじめにこだわりだすと、けっこうたいへんですね。
岡本版『日本のいちばん長い日』はテロップやナレーションを多用して、ニュース解説番組みたいに、いちいちを分からせる手続きを細かく踏んでゆきますけれども、原田版はドラマが成立すればいいということで押し切ってゆく。いちいち説明しないで、どんどん流してゆく。
仮に台詞の細かな意味合いが観ていて即座に取れなくても、物語のベクトル、あるいは登場人物のキャラクターが伝われば、その台詞はドラマとしては生きてくるので、そういう方向で割り切って、成功していると思います。
しかし、岡本版では顧みられず省かれていた、歴史の名場面や名台詞はほんとうにたくさん入っていますよ。たとえば、阿南陸相が閣議のさなか、陸軍省に電話をする場面がある。反乱計画を押さえ込むために、実際の閣議とは違う嘘の内容をわざと伝えるところですね。
迫水久常内閣書記官長が「終戦の詔勅」に、多くの官僚たちの精神的師であった安岡正篤に特に書き加えて貰った文言を入れようとして失敗する場面もちゃんとある。
東条英機が土壇場も土壇場で昭和天皇に「さざえの身と殻のたとえ」をして敗戦後も日本の軍隊が残るようにと懇願し天皇が応答するという、私にとってはかなり手に汗握ってしまう場面まである。
「特攻隊の生みの親」大西瀧治郎も岡本版よりも出番があります。岡本版の拾えていない大事な歴史の情景が信じられないほどたくさん組み込まれているのです。時間は詰められているのにね。
それから阿南の盟友の安井藤治国務大臣とか、思わぬ人物にかなりスポットが当たっていることにも驚かされます。そして後半の軸は、当然ながら陸軍青年将校グループの反乱ですね。
荻上 青年将校たちのクーデターは確かにサスペンス的でしたね。もしそこをクライマックスとして演出するなら、前半の登場シーンを増やし、将校らのバックグラウンドを描くこともありえたでしょう。そうしたら、また違うドラマになったのでしょう。
たとえば、上官に褒められたとか、ちょっとした成果をあげて達成感を覚えたと言った具合に、いかにして軍国青年と化していったかを語るわけですね。
でも、そうしたドラマ化には禁欲的でした。複数の思惑を持つ者同士の群像劇を通じて、敗戦への道筋がいかに不安定な意思決定の上に成り立っていたかを描くのが焦点になっていたからでしょうね。
片山 その辺りは、時間との兼ね合いもあって難しいところですね。たぶん原田監督は、東条英機を悪役として実際の歴史よりも膨らませることで処理しようとしたのでしょう。東条的価値観に青年将校は呪縛されていたと。
私は、青年将校たちの導師であった東京帝国大学の平泉澄教授が出てきた方がいいと個人的には思いましたけれども、そうすると映画も長くならざるをえない。そこで東条の悪役イメージを強調して、ある意味、単純化して強行突破している。
この映画は、最初に映る登場人物が、天皇でも阿南でも鈴木でもなく、脇役の東条なんですよね。東条が重臣会議で強硬な態度に出て、鈴木貫太郞の後ろ盾になる、海軍の岡田啓介と派手な口論をする。そこから始まる。
荻上 確かに、東条自体はキャラクターとしては後景に位置づけられていますが、それでも冒頭で東条を映すのは、アイコン的に重要ですよね。たとえば、ドイツを舞台にした映画で、画面にヒトラーや鍵十字が冒頭で一瞬でも映っていれば、その映画が第二次世界大戦を扱っているのだということが瞬時に分かる。この映画も、まず東条を映すことで、戦争末期の話なのだということがまず分かる。そのうえで、鈴木貫太郎らをメインに据える。でもこれは重要な配置です。
終戦におけるラジオの役割
荻上 終戦時においても、東条英機が政治の中心的位置にあったと思っている人は意外と多いと思うんですよ。国内でも、国外でも。ドイツにおけるヒトラーにあたるのは誰かを探すという発想なのかもしれませんが。
映画を見ていて、終戦を迎えたのが鈴木貫太郎内閣であるということ、「聖断」と玉音放送の関係、8月15日にクーデターもどきが起きようとしていたこと。この三つは、日本では当たり前のことではあるんですけど、対外的にはもしかしたらマイナーな事実なのかもしれないなと思いました。ちなみ玉音放送の制作過程においては、情報局総裁であった下村宏の役割は外せませんね。
片山 今回の映画では端役的な扱いでしたが、彼はかなりのキーパーソンですよね。岡本喜八監督による『日本のいちばん長い日』では志村喬が演じていたのですから。
荻上 ラジオのもつ役割は、映画中ではわりにさらりと紹介されていたと思います。国の中枢にいた人たちの物語なので、ラジオを聞く大衆、国民の側からの描写はほとんどない。その点、国民がラジオをいかに受容していたかを補足で考えると、映画の意味はよりわかってくるのではないかと思います。
当時はテレビがありません。大衆にとってのメディアといえばまずラジオでした。開戦の日の正午、その由がラジオで発表されましたけど、その時にはラジオを聞く心得が国民に述べられています。「ラジオの前にお集まりください」という題のものですね。次のようなものです。
いよいよその時が来ました。国民総新軍の時が来ました。政府と国民がガッチリと一つになり、一億の国民が互いに手を取り、互いに助け合って進まなければなりません。政府は放送によりまして国民の方々に対し、国家の赴くところ、国民の進むべきをはつきりとお伝え致します。国民の方々はどうぞラジオの前にお集まりください。
放送を通じて政府の申し上げますることは政府が全責任を負ひ、卒直に、正確に、申し上げるものでありますから、必らずこれを信頼して下さい、そして放送によりお願ひ致しますことを必ずお守りください。御実行下さい。
この他、ラジオは常時つけっぱなしにしておけ。特定の時間には大事なニュースがあるから、特にラジオの前に集まるように。ラジオで述べたことは信頼し、そこで命じたことは実行せよ。公共施設では、拡声器を通じてラジオを流せ。そうしたことを言っていたわけですね。そうやってみんながラジオで戦局を確認するという状況が確立されて、戦争を通じてラジオの普及率が高まっていった。
玉音放送のときは、「明日は大事な放送があるから集まれ」というアナウンスがありました。普段からラジオの前に集まれ、つけっぱなしにしろということを言っていたにも関わらず、改めてこのような確認をしたということは、国民に「何か重大な発表があるんだ」という、戦々恐々とした感情を与えたであろうと思います。
しかしながら、そこで流れた玉音放送は大抵の国民にとっては意味不明のものでした。まず、ラジオや音声の質が悪く、ほとんど聞き取れない。聞きとれたとしても、中身が難しい漢語でよくわからない。そして、天皇陛下の声を初めて聞いたという畏れおおさで心も震えていると。
たとえば手記なんかを読んだりすると、天皇陛下の声が聞こえたという段階でみんな万歳三唱を始めてしまって、肝心のラジオが聞こえない状況になっていたとか、そういうエピソードもあります。
片山 天皇の声だとは分かっても、中身については分からなかった人が多かったようですね。
荻上 ええ。様々な証言を見ても、はっきりと中身を理解して聞けた人はほとんどいないでしょう。下村はもともと玉音放送を進言していたんですが、それは通りませんでした。ラジオを通じて陛下の声を流すということへの抵抗感や、下村が慎重派であることへの猜疑もあった。
下村の描写は少ないのですが、慎重派の人物が、ラジオの玉音放送を収録するにあたって暗躍をしたことがわかると、補助線としてより楽しめるでしょう。多くの国民にとって戦争は、ラジオによって始まり、ラジオによって終えられたのです。
片山 それはラジオのパーソナリティーをやっている荻上さんからの重要なメッセージであると思います。国の運命を決する最終段階が、ラジオ放送を阻止できるかできないかということになる。
荻上 そうですね。将校らの行動は、命令系統を変えるとか、陛下に拝謁して直訴するといったものではなくて、「玉音放送を止める」という発想ですからね。将校たちが、いかにラジオの役割を意識していたかということがうかがえます。
片山 その意味では、今回の映画だとせめて安井国務相くらいには下村情報局総裁にも出番を与えて欲しかったかなあ。岡本版の方が下村の比重は高かったですね。原田監督は岡本版を意識せざるを得ない形で撮っているから、そこは変えたかったのかもしれません。
この映画にも下村は出てきますが、放送の意義を説く重要人物というよりも、「遺書を用意してますか」という台詞ばかり言う、極端に性格的な脇役にされています。下村は実際、当時健康にも自信がなくて、さかんにそう言っていたようなんですが、そこが大日本帝国の終焉の物語にいいと、原田監督の拾いたくなったところなのでしょう。
荻上 下村に関しては、こんなエピソードがあります。8月14日のクーデターの時、つまり玉音放送を止めるために監禁された時に、下村は昭和天皇に一対一でお会いした際のメモを持っていて、それを破り捨てたんですね。そこには、昭和天皇による、誰が戦争犯罪人として罪が重いかというような重要な証言も含まれていた。
もしそうしたメモが明るみに出たら、戦後の歴史も変わったでしょう。しかし下村は、将校らにメモを見られまいと、鼻をかむふりをしてメモを鞄から出し、ポケットに突っ込んでからトイレに行って、ゆっくりちぎりながら流した。
片山 書類を処分すると言えば、原田版にも岡本版にも共通するのは、陸軍省で書類を片っ端から焼却する場面です。ああやって肝腎なものは消えてしまって、そのあと、かなりいい加減な記憶と捏造によって、生き残った者に少しでも都合のいい歴史が作られて、われわれもそれを教えられてしまうということなんでしょうね。
「上から目線」の歴史を知る意義
荻上 「戦後70年」というタイミングでのこの映画が作られたということについては、どうお考えでしょうか。
片山 日本の歴史を知る上での、ひとつのガイドラインにはなり得ると思います。日本が派手に戦争をやって派手に負けた。この決定的事実から、平和憲法や、それでもせめて最低限の自衛権は、という話はスタートしているので。そこの歴史的な経緯を踏まえないで、今の現実だけを強調して、リアリズムと称するもので国を動かそうとしても限界がある。歴史抜きには日米関係も日中関係も存在しないのですから。
荻上 そうですね。また、「中央にいた人間の目線」で当時を学べることも大きいと思います。戦後70年という現在のタイミングで、メディアが戦争に関するいろんな証言を集めているわけです。ただ、今のタイミングで集まられる証言というのは、基本的には当時を若者として過ごした国民目線の証言が多くなるんですね。お腹がすいて大変だったとか、家族が空襲で死んでしまったとか。
それはもちろん重要な仕事なんですけど、やはり中央にいた人や、軍部のリアリティを語れる人も必要です。でなければ余計に、あの戦争を「被害者目線」で語る側面が強化され、対外的にみると、「加害者目線」の語りが少なく映る。
また、戦争を語る上では、当時の閣僚たちがいかに失敗したかということを、組織論として検証するまなざしが重要になってくるんですね。
当時の意志決定のあり方を、資料などを突き詰めて分析することによって、今後同じような過ちを犯さないようにしなくてはならないのですから。
片山 証言というのは本当に難しい。オーラル・ヒストリーだと、自分に都合の悪いことは言わないですからね。また、上が生きていると、下がまずいことを言うわけにはなかなかいかない。かといって、上が死ぬのを待ってとなると、下の方は言うタイミングを逃したまま亡くなるという場合も多いし。
下から目線だと末端としての実感はあっても、やはりそれだけで全部を語ることはできないわけですから、いかに多様な証言を今組み合わせるかということが重要になるんですけど、ジャーナリズムに任せておくと自分が取材したことだけで作るから、取材対象の世代は上が亡くなってゆくことで下がる一方なので、どんどん下から目線になってしまうんですよね。今こそ「上から目線」ですよ。
そういえば、この映画は玉音放送後の、昭和天皇の姿で終わっていますね。東条に始まって昭和天皇で終わる。映っている人でいうと、徹底的に「上から目線」で。玉音放送を聞いている市民の反応は映らない。
荻上 この映画では、書記官の迫水久常を堤真一が演じていますね。迫水の手記の影響は、この映画にもつよく見て取れます。映画は、玉音放送後の、昭和天皇の姿で終わっていますよね。聞いている大衆の反応は映してない。
でもあれで「戦争」は終わったかと言えば、ちょっと微妙ですよね。聞いた国民の中には、自殺する人はいたし、まわりを鼓舞しようとする人はいたし、敗戦を知らずゲリラ戦で潜伏し続けた人はいたし……。誰にとってのいかなる終戦なのか、という目線は、国内においてすら重要だと思います。
片山 この映画では、玉音放送のくだりに限らず、一般国民の印象は総じて薄いですね。最初の方で焼け跡で新聞を読む人がいるとか、宮城に奉仕に来る人がいるとか、横浜警備隊のくだりとか。ありますけれどもとても少ない。
私の印象では、澤地久枝の『妻たちの二・二六事件』をNHKがドラマにした、一九七〇年代の中頃からなのですが、歴史や政治や戦争を、指導者たちのドラマとして、冷徹な歴史の歯車が回るように描くということが、映画でもテレビでもハッキリと嫌われだして、大河ドラマでもなんでも恋愛と情緒で話を持ってゆくようになりました。「上から目線」の排斥ですね。
男の政治家や軍人の話でも妻の方がたくさん出てきて、これが本当の歴史なんだという。「横から」や「下から」の方が大事なんだという。その方が多くの人が感情移入して観られるのだという。それは一理あると思うけれども、そればかりになるとおかしい。
この映画は鈴木内閣の誕生から玉音放送まで、「上から目線」で、空間も時間もきって、ばっさりと処理していますね。その意味では歴史映画への王道への復帰というか……。
荻上 そうですね。鈴木短命内閣に焦点を当てたという意味では斬新かもしれない。正直に言えば実は何をテーマにしても、戦争は語られてしまうのではないかと思います。
この映画のように戦争中の特定の期間、またひとつの島、ひとつの戦艦などに焦点を当てたとしても、そこには人を取り巻く法体系や上層部の意思決定といった、「戦争」のいろんなエッセンスが凝縮されているんですね。
そういった視点から見ると、この映画は戦争のすべてを網羅しているという感じではなくて、あくまで無数にある「戦争」のひとつとして、鈴木内閣の四ヶ月を描いているのではないかと思います。
「天皇の功績」という作られたストーリー
片山 英語の題名は、<Emperor in August>。つまり、八月の天皇。対外的には、天皇を表に出しているんですね。
荻上 八月の天皇というタイトルは、昭和天皇は平和主義者で、彼のおかげで戦争が終わったと、そのあたりを強調するイメージなのかもしれませんね。
片山 そうですね。やはり昭和天皇の功績をとてもクローズアップする形になっていると思います。ここまで昭和天皇がたくさん出てくる場面のある映画も珍しいでしょう。しかも鈴木内閣成立当初のところから、一貫して平和への意思を強く持たれているように脚本もできていて、演出もされている。
私は、長谷川清海軍大将に本土防衛の状況を調べさせてその結果に愕然とされたはずの六月頃までは、もう少し、大御心、つまり天皇の心も揺れていたのではないかと思うのですが、そういうふうには決してされていない。
こういう、天皇が内なる平和への意思を一貫して強固にもたれていたからこそ、終戦を迎えられたのだというストーリーは、考えてみると、やはり下村宏が形成したのではないかと思います。
終戦の過程について、真っ先に詳しい本を、当事者の証言として出したのは下村ですよね。それは当時の国民にすごく読まれた。彼はある意味メディアを使って玉音放送を演出したし、現在語り継がれる「終戦」の生みの親とも言えると思います。
もうひとりの語り部としては迫水久常の存在も大きいですけれども。私が子供の頃、テレビに出てこの話をしている人というと、記憶にあるのは何と言っても迫水なんですよね。とにかく迫水内閣書記官長と下村情報局総裁によって「御聖断のありがたさ」は戦後に語り伝えられたと思います。
荻上 たとえば、さっきの破いたメモというのも、本当にあったのかすら確認できないわけですよね。聞いてメモしたなら、下村であれば絶対名前を覚えているはずだろうと思うんですけど。
片山 一貫した平和主義者としての昭和天皇。このイメージはこの映画で大きく確認され、改めて広まると思いますね。
「自分の本当の言葉で終わらせられれば嬉しい」という台詞も映画の中にあったと思いますが、これも、ある意味「下村史観」と言えるかもしれない。その言葉は「御聖断」として、補弼の任を全うできなかった総理大臣以下に御前会議で伝える言葉であると同時に、結局、玉音放送として国民にラジオで伝える言葉にもなるわけで。
それは書き言葉でなくて、どちらも声ですよね。御前会議では生声だし、放送では録音だけれども、とにかく昭和天皇の声で戦争は終わった。ここは強調されている。
昭和天皇の声は、やはり偉大ですよ。神主風なんですね。喉をつめた、祝詞みたいな感じで聞こえてきます。あれはすごいインパクトですよ。神の声という感じがすごくする。
荻上 玉音放送は二回収録していますけれど、あの長尺を一発撮りですから、大変ですよね。現代のアナウンサーです、らあれだけの文章を一発で収録するのは難しいですよ。しかもあれだけの難語を。
片山 昭和天皇という役者の登場によって、戦争は終わったわけですよね。そこで映画もパッと終わるということで。この後は想像にお任せします、という感じで。
「歴史」を学ぶ重要性
荻上 ほかに映画を見て思ったこととして、係争的な歴史観の変化などには思いが向きますね。戦争の意義を強調するものはさすがに少ない中で、「部分的に値切る」歴史修正を迫るものが残っていることであるとか。
片山 そうですね。昔は全肯定と全否定が、左右激突みたいな感じになっていたんですけど、今はそうした単純な構図だけでは割り切れないですから。片方だけで議論をまとめても誰もついてこなくなったから、いろんなバランスの中で模索しながら、言えるギリギリのところまで言おうとする。大きな歴史観に基づく大きな物語ではどうにも収まりがつかないので、「個別的対応」というかたちになっている。
でも、個別的にデリケートにやると話が複雑になりすぎ、ついてこられない人も増えるから、また逆転して、というよりも、単純化の過ぎたハッタリやデタラメやトンデモの域で、話をまとめようとする次元に反転してしまう。そういう政治家も出てきてはいますね。
荻上 歴史認識に関して、もし何かしらの国際アピールをするのであれば、いろいろ熟知した上で、相手が絶対譲れそうなところから攻めていくものなのでしょう。つまりはしっかり理論武装をすることが重要になるんですけど、政治家が資料も読まずに突飛な発言をして、その後指摘されて釈明に追われるというような事例が後を絶たないですね。
片山 今の政治家は、「目立たなければいけない」という強迫観念が強くなっているように思いますね。昔のように地盤や看板や支持母体に安定的に支えられていない人が増えてしまって、視聴率や株価と同じくらい、瞬間の風をつかまえることでしか、生き残れなくなってきているから。そういう背景があるので、板に付かない突飛な発言もしがちで、すぐに辞めさせられたりする。
これは政治家の話に限らないんですけど、歴史もどんどん堆積して、ことこまかに調べられて、情報は増える一方なんですね。おまけにそれを扱う価値観も多様化している。
つまり、情報や価値観の扱いにはより周到さが求められる時代になってきている。ところが、対応する人間は、慎重を期してよく勉強するのとは正反対で、どんどん刹那化している。その繰り返しの中で、時代は確実におかしくなってきていると思います。
時間をかけて、遠回りをしても、歴史を学ばないとだめなんですよ。そうでないと、周到さを欠いて、事故を起こして、退場させられます。誰を退場させるべきかというくらいの判断力は、まだ世間にはギリギリ残っていますよ。幸いなことに。
八月一五日のドラマも知らずに、集団的自衛権や安保法制のことを語ってもしようがないでしょう。戦争があったから戦後史もあって平和憲法もあるのだから。戦後の起点は戦争です。その終わりのところです。この夏はそこを知るところから始めないと。
『日本のいちばん長い日』8月8日(土)全国ロードショー
■ストーリー
太平洋戦争末期、戦況が困難を極める1945年7月。連合国は日本にポツダム宣言受諾を要求。降伏か、本土決戦か―。連日連夜、閣議が開かれるが議論は紛糾、結論は出ない。そうするうちに広島、長崎には原爆が投下され、事態はますます悪化する。“一億玉砕論”が渦巻く中、決断に苦悩する阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)、国民を案ずる天皇陛下(本木雅弘)、聖断を拝し閣議を動かしてゆく鈴木貫太郎首相(山﨑努)、ただ閣議を見守るしかない迫水久常書記官(堤真一)。一方、終戦に反対する畑中少佐(松坂桃李)ら若手将校たちはクーデターを計画、日本の降伏を国民に伝える玉音放送を中止すべく、皇居やラジオ局への占拠へと動き始める……。
出演:役所広司、本木雅弘、松坂桃李、堤真一、山﨑努
監督・脚本:原田眞人
原作:半藤一利「日本のいちばん長い日 決定版」(文春文庫刊)
配給:アスミックエース、松竹
公式サイト:http://nihon-ichi.jp/
『日本のいちばん長い日』8月8日(土)全国ロードショー
(C)2015「日本のいちばん長い日」製作委員会
プロフィール
荻上チキ
「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。
片山杜秀
1963(昭和38)年生まれ。思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。慶應義塾大学法学部准教授。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(吉田秀和賞、サントリー学芸賞)。