2017.07.14
『ローサは密告された』――生き延びるためには後悔している暇はない
45歳で映画監督デビューし、「マニラ・デイドリーム」で第58回ロカルノ国際映画祭ヴィデオ・コンペ部門金豹賞を受賞、「第3黄金期」と呼ばれる現在のフィリピン映画シーンを牽引している鬼才、ブリランテ・メンドーサ監督。
世界三大映画祭であるカンヌ、ヴェネチア、ベルリンすべてのコンペティション部門でその作品が上映され、世界中で50を超える賞を獲得、第62回カンヌ国際映画祭では「キナタイーマニラ・アンダーグラウンドー」で監督賞を受賞、クエンティン・タランティーノやショーン・ペンがその才能を絶賛した。
世界の映画祭を席巻するメンドーサ監督の最新作『ローサは密告された』はどのように着想され、作り出されたのか。監督インタビューをお届けします。
《STORY》
ローサはマニラのスラム街で小さな雑貨店を家族で経営している。家計のため、少量の麻薬を扱っていたが、ある夜、密告からローサ夫婦は逮捕される。麻薬売人の密告要求、高額の保釈金……警察の要求は恐喝まがいだ。この危機をどう脱するのか? ローサたち家族は、彼らなりのやり方で横暴な警察に立ち向かう。
――リアリズムとフィクションが隣り合わせにあるような作風ですよね。
私は実際に起きていること、現実を見せたいといつも思っています。同時にそこには物語、創作もあります。フィクションであっても、そのシーンが演出されたものであっても、誠実に表現すれば、それは真実味のある、現実であると信じられるものになります。カメラを固定するなど、ありきたりな映画制作方法では、真実を語れません。私の映画では、手持ちカメラを使います。それによってカメラが狭い通路でも歩けて、その場所の中でしっかりと人との関係性を築くことができるのです。
――登場人物が悪いことをしていても、その人自身は悪者とは限らない。あなたは環境が彼らをそうさせてしまう、と映画で語っていますね。
私はそのキャラクターの人物を知る前に、その人間性(人間らしさ)を観たいと思っています。一般的に人は「良い人」「悪い人」と分けて考えます。どんな国でも、「良い人」と「悪い人」がいて、ある人は良いことができて、ある人は悪いと決めつけます。私が着目するのは、フィリピン人かどうか、金持ちか貧乏かに関わらず、まず人間であるということです。
――『ローサは密告された』はまさに現ドゥテルテ政権の麻薬戦争を表してしていますね。
『ローサは密告された』のコンセプトを立てたのは前政権のときでした。私の映画は、私のいる環境について私が観たこと、感じたことを反映させています。現政権は麻薬との戦いに注力していますが、問題はそれだけではありません。私が次の映画を作るときは、何か別のこと――例えば組織や腐敗などの他の側面を見つめるでしょう。麻薬以外にもたくさんの問題があるのです。
――『ローサは密告された』のアイディアはどこから生まれたのでしょうか。
4年前、ある人が自分の家族に起こったことを話してくれたのです。実は『ローサは密告された』の登場人物のひとりを演じている人ですが、誰とは言えません。その人の話に心を打たれたのです。これはフィリピンの警官の秘密です。誰もが麻薬の問題、腐敗の問題があることは承知していますが、私自身が個人的にその問題に触れたのは初めてでした。
より深く、細かいところまで全部知ろうと努めました。事件がどのように起きたのか、特に、お金に困って麻薬を売るに至ったその理由です。そしてほかの家族の方々にも会いました。私にすべてを話すのは彼らにとってたやすいことではありませんでした。そのため、私たちの間に信頼関係を打ち立てる必要がありました。私が彼らの話を「利用」して、金儲けしようとしているのではなく、何故、どのような理由でそれが起こったのかを知りたいと思っていることを分かってもらわなくてはならなかったのです。
シナリオは少しずつ書き進められ、同時にフィリピンの警察についても調査を進めました。なので、『ローサは密告された』は実話を基にした映画と言えます。数年前からこうした方法で私は仕事をしています。実際の事件を見つけ出し、その「関係者」に会う。その人はシナリオにとって「トランポリン」のような役割を果たし、『ローサは密告された』の場合は脚本家であるトロイ・エスピリトゥと一緒にシナリオを発展させていきました。
――『ローサは密告された』はどこを舞台としているのでしょうか。映画の中の家族はどんな階級に属するのでしょう。
舞台は実際のマニラの中心部の一角です。その土地を非難したいわけでないので、具体的な場所は申し上げられません。この物語は大都市であればどこででも起こりうる物語なのです。この一家は、現在のフィリピンの80%と言われる貧困家庭です。彼らは中の下クラスに入りたいと願っていますが、子供たちの中には教育を受けている者もいるので、それは叶うかもしれません。でも、ローサたちの店は非常に小規模で、稼ぎは一日10ドル足らずです。それっぽっちのお金でどうやって生きていけばいいのか。私は、フィリピンの80%に関わる物語を描くことが、この国全体を語ることになると思っています。20%の裕福な階級はこの国の代表ではないのです。
――あなたにとって、自国について語る必要性とは何ですか。
芸術家とは現在起こっていることを反映するものです。画家であれ、音楽家であれ、作家であれ、インスピレーションは身近な環境から生まれるのです。この映画を作ることは私にとって必要なことでした。この物語は語らねばならない。しかし、ルポルタージュはジャーナリストの仕事です。ただ楽しませるためでもなく、人々を教育し、人々に知らせるために私は映画をつくります。楽しませるためでもありません。現在、映画界を支配している映画は人々におべっかを使う、嘘っぱちの物語で、私たちの周囲にある世界を反映したものではありません。私の映画は、ポルノのように貧しさを見世物にすることはしない。普通の人々の話を語るのです。
――物語が起こるのは数時間の間です。なぜこのような形式にしたのでしょうか。
実際の状況がそうだったからです。時間の問題は非常に重要でした。フィリピンでは、平日に捕まれば、麻薬の売人はすぐに刑務所に行きます。しかし、金曜の夜に捕まると、裁判所が週末は閉まっているので、月曜まで警察に留め置かれる。なので、警察は週末にガサ入れをしようとするのです。
48時間の交渉の余地があり、金と交換に釈放することができるからです。もちろんこうした腐敗を生むのは貧しさです。生き延びるためには、法も道徳も無視して状況を打開しなければなりません。でもこうした不正はフィリピンだけの話ではありません。先進国でも不正はあり、もっと上層部で行われるため人の眼に触れることがないだけなのです。
――手持ちカメラがもたらす具体的な効果はどのようなものでしょうか。
手持ちカメラの映像は、主人公たちの生活の不安定さ、差し迫った感じ、いつまでたっても変わらない腐った状況を示します。隠れて生きなくてはならず、いつも監視されていて、自分の身を守らなければならない世界なのです。
カメラは3台使用し、俳優にはカメラ位置は伝えませんでした。俳優たちには、これまで学んだことはすべて忘れて、できるだけ自然に演技するよう求めました。この作品には俳優ではない素人の出演者もいたからです。シナリオも与えませんでした。決めたセリフはあるにはありましたが、自分でセリフを作って構わないと言いました。必ず言わねばならない重要なセリフは確認しましたが、それ以外の部分に関しては自由にさせました。そうすることで、うまく瞬間をつかまえられるのです。
アクションも、状況も、感情も、すべて内側から生まれるものに任せました。撮影は俳優が登場人物の陥った苦境を感じ取れるよう順撮りで行いました。最終的に大量のラッシュがあり、編集は映画製作の中でも非常に重要な過程になりました。シナリオ執筆と準備が創作活動の50%、2週間もかからなかった撮影は20%、そして数か月かかった編集作業が30%です。
――その方法を俳優たちはどのように受け止めていましたか。
この方法は、彼らが演じる役柄を膨らませるような大きな自由を与えたので、彼らは気に入っていました。実りある協力関係でした。準備中、私とスタッフは物語の舞台となり、撮影が行われる界隈に入りびたり、住人と接し、どのように暮らしているのかを観察しました。そのあと、俳優に同じことを求め、振舞い方、話し方を掴んでもらいました。昼や夜は地元の人たちと一緒に食事をし、製作準備中は、私たちが彼らを招きました。セリフのなかにはこうしたやり取りから生まれたものもあります。
――警察署はスタジオのセットですよね。
本物の警察署です。普段そこに勤務している警官たちは、私たちが撮ろうとしている内容を知っていました。しかし、彼らは、自分たちのことだとは全く感じていなかったのです! マニラの警察署は住所不定の子供が大勢います。ちょっとした盗みを働いて捕まるのですが、家族がいないので警察に留まり、小間使いをしたりしています。よくあることなのです。
――現在の社会をそのままに映し出している内容であり、製作の中止を求める声などはあがらないのでしょうか。
『囚われ人 パラワン島観光客21人誘拐事件』の時は軍隊から脚本をみせろといわれたこともあったり、たまに撮影を止められたりすることもあります。しかしリアルを求めて、できるだけ実際の現場で撮影しているので、ある程度のリスクは覚悟しています。
――この作品では心理を描いていません。アクションがあるのみです。登場人物は常に動き、争いあい、歩き、倒れ、立ち上がります。
彼らにとってはこれがいつもの、日常的な状況なのです。彼らは物事をあるがままに受け取る。彼らは感覚が麻痺してしまっているので、嘆きも抵抗もしない。そもそもほかに選択の余地もないのです。ローサの娘ラケルが転ぶ場面は象徴的です。彼女はとても狭い路地を歩いている。ほかに道はありません。誰かが水を捨てる。別に悪意からではありません、仕事だからです。娘は滑り、転ぶ。でも彼女は文句も言わず、自分を転ばせた老婆をなじりもしない。ただ立ち上がって、歩みを続けるだけです。
――子供たちがみなで親の負債を負うのが印象的です。
それも実際にあったことなのです。私はこの点に興味を引かれ、また痛ましいとも思いました。子供たちはまだ若い。彼らはいい市民とは言えませんが、いい子供ではあるのです。彼らの両親もいい市民ではないが、いい親なのです。家族の絆は時に道徳を外れます。人はある面では悪人でも、別な面では善人であることがありうる。登場人物それぞれの感情を見せることをあえて抑えました。ローサが涙を流す最後の場面まで。彼女は何も後悔していない。生き延びるためには後悔している暇もないし、道徳や犯した罪のことなど考えてはいられない。進まなければならないのです。
それでも彼女は最後に人間味を見せる。それはあらゆる人の持つ人間性の集約です。その苦しみは彼女と共にある。しかし彼女は強くいなければならないし、するべきことをしなければなりません。ほかの一家が店を閉めるのを彼女は見ます。その家族も生き延びようとしていて、その家族に何が起こっているのかはわかりません。ナイーブで傷つきやすい家族かもしれません。そして、それは、彼女が見ていた家族にも起こりえることなのです。
――ローサとその夫ネストール役にジャクリン・ホセとフリオ・ディアスを選んだ理由はなぜでしょうか。
彼らは1980年代初めにデビューしていますが、その時私はまだ美術監督でした。一緒にパブで働き、友人になりました。ジャクリンは私の最初の映画に出演しています。それから何度か、「サービス」と「どん底」などで夫婦の役を演じてもらっています。ジャクリンもフリオもそれぞれ役者としてのキャリアを積んでいますが、私と仕事するときには、私の映画のスタイルを知っていて、私が彼らに期待するものを知っています。だから仕事がやりやすいのです。この作品では、ジャクリンの実の娘アンディ・アイゲンマンが、ローサの娘ラケルを演じています。
――カンヌ国際映画祭で、ジャクリン・ホセが主演女優賞を受賞したときはどう思われましたか。
驚きました。あんなにたくさんの名だたる女優さんたちがライバルでしたから。コンペティション部門に映画を出品し、フィリピン人の運命の一片を全世界に語ることができる、それだけで大いに認められたことになりますし、ジャクリンの演技が称賛されるだろうということは分かっていました。でもここまでとは思いもよりませんでした! ジャクリンが主演女優賞を獲得したことは私たちの国にとって非常に名誉あることです。東南アジアの女優で、カンヌ国際映画祭で受賞したのは初めてですからなおさらです。
7月29日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー!
監督:ブリランテ・メンドーサ
脚本:トロイ・エスピリトゥ
出演:ジャクリン・ホセ、フリオ・ディアス、マリア・イサベル・ロペス
2016/フィリピン/110分/MA’ROSA
配給:ビターズ・エンド
公式サイト:www.bitters.co.jp/rosa
Twitter:@Ma_rosa2017
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