2017.12.22

フィクションのなかの女性と労働――〈贅沢貧乏〉が対象にとる距離

山田由梨×トミヤマユキコ×水谷八也

文化 #贅沢貧乏

〈贅沢貧乏〉は、実際の住居を一定期間借りきって稽古も上演もその住居で行う家プロジェクト(uchi-project)という演劇企画が特徴的な劇団です。2014年より一軒家編、2016年からはアパート編が始動しました。そんな上演形態が特徴的な〈贅沢貧乏〉でしたが、今年9月には東京芸術劇場で新作『フィクション・シティー』を上演するなど、活動の幅を広げてきています。そんな〈贅沢貧乏〉におけるフィクションとは何か。〈贅沢貧乏〉の作品のなかでしばしば描かれる女性と労働を中心としながら、水谷八也先生(早稲田大学文化構想学部教授)を司会、トミヤマユキコ先生(同大学同学部助教、ライター)を聞き手とした講演会で、〈贅沢貧乏〉主宰の山田由梨さんに詳しく聞いています。(構成 / 住本麻子)

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『ハワイユー』(家プロジェクトアパート編)・『みんなよるがこわい』の生活感

水谷 〈贅沢貧乏〉の主宰者の山田由梨さんをお迎えして講演会を行いたいと思います。山田さんは劇団主宰者でありながら劇作家、役者でありイラストも描かれるという多彩な面を持つ、今注目の若手劇作家です。

山田さんの作品は、家プロジェクトでの上演形態が話題に上がることが多いですけれども、今回はその内容が常に労働の問題を含むことに着目し、「女性・労働・フィクション」というテーマでお話してもらおうと思います。トミヤマさんは博士論文で日本の少女漫画のなかの労働問題を扱ってらっしゃるので、山田さんがそれほど意識して書いているわけではないという労働の問題を引き出していただければと思います。

トミヤマ 今日はよろしくお願いします。〈贅沢貧乏〉の作品には女の人がよく出てきて、しかもその女の人は結構働いているわけですが、以前山田さんにおうかがいしたら、女性の労働についてはそこまで意識していないとおっしゃっていて、それが逆におもしろいなと思っています。重きを置かないのであれば、描かないこともできますよね。アフターファイブの時間に重きを置くようなフィクションもつくれなくはないと思うのですが、そのあたりはどのようにお考えでしょうか?

山田 今まで何本か作品を書いてきて、女性の労働の問題を書いているという意識はありませんでしたが、観に来ていただいた方がそういう方面から論じてくださるようになってはじめて認識しました。

家プロジェクトでは、一軒家やアパートを借りきって稽古・上演するという演劇をつくるので、町の背景は作品に必然的に入ってきます。そういうなかで物語を書いていたときに、リアルな町を無視できないし、そうするとこの登場人物がどうやって生計を立てているのか、書かないということはまずない、とも言えます。

『ハワイユー』という作品ではハワイ湯という、下町にあるスーパー銭湯を舞台にしました。アルバイトの女性である田井さんと、そこの跡取り息子のお嫁さんになりそうなルリさんとの二人の話です。跡取りと結婚しそうな人は上昇志向強めな、でもそこに収まりたくないという気持ちもある人です。

この時借りたアパートのトイレは和式で、木造2階建ての築50年。とても素敵なアパートだったのですが、なかなかくせのある建物でした。そこに住む20代の女性のリアリティを詰めていってでき上がったのが彼女たちで、二人の会話、生活の姿を描いたのがこの作品でした。

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『ハワイユー』 撮影:Kengo Kawatsura

トミヤマ 『みんなよるがこわい』も、駆け出し感のある人ががんばる話でしたね。

山田 そうですね。『みんなよるがこわい』は再演含めて2回上演しているんですが、ひとり暮らしの女性の夜の、誰にも開かれていない孤独をコミカルに描いた作品です。初演のときはコンビニでアルバイトしているという設定だったのですが、再演ではもう少しリアリティと自分への実感を持てる設定に変えました。フリーランスでデザイナーをしているのだけど、一つの案件を1万円とかで安く頼まれてしまう……つまり、デザイナーになりたいけれども、それだけでは生計が立てられないからアルバイトをしている、という女の子です。デザインの仕事ではまともなお金がもらえないという葛藤があります。

また20代半ばから後半ぐらいという設定なので、周りの人は仕事もバリバリしている年頃かもしれない。そんななかで同窓会の誘いのメールが入るところからこの作品ははじまります。この葛藤は作品の流れやセリフでは触れられないのですが、そういう細かい設定から入る作品でした。

トミヤマ 働く女の人が出てきて、かつその人がお金持ちでないという、共通点がありますよね。

山田 そうですね。わたしもお金持ちではないですし、今のところお金持ちの人を書こうという気持ちにはなりません。

『みんなよるがこわい』では、夜アルバイト終わりで帰ってきた女の子が、「わたしは友達がひとりもいないんじゃないか」という気持ちになるところから展開していきます。将来が何もうまくいかない気がしてくる、この家が火事になるかもしれない、そうなったときに泊めてくれる友達はいるだろうか、いやいない……というようなことを考えてしまう。実際は全然そんなことはないのだけど、夜にそんなことを考えてひとりきりで泣きたくなるような夜のお話です。

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『みんなよるがこわい』撮影:Hako Hosokawa

この舞台には3つに分かれている箱にひとりずつ人間が入っていて、頭のなかでとめどなく流れてくる思考を3人がしゃべっています。基本的に本体である女の人はほとんどしゃべらない。だからひとりで部屋にいる夜なんですけど、騒がしい。だけど本当はすごく静かであろう夜の話です。

それで火事のとき泊めてくれる友達がいないなと考えたときに、1週間くらい前にちょっと声をかけられた、ナンパされた男の子のことを思い出す。彼なら泊めてくれるかもしれないと思ってしまい電話するのだけれど、出ない。着信履歴を残してしまったことを後悔しつつも、しばらくしたら折り返しが来て、でも彼は覚えていなかった。それだけ頼みの綱にしていたのに、自分のことを相手が覚えておらず、ものすごくショックを受けます。夜中に食パンを食べながら「夜中に食パン食べる人間だけにはなりたくなかった」という叫びもありますね。

トミヤマ 劇場で拝見しましたけど、このパンがそこら辺のコンビニで売ってるような食パンなのがいいんですよ(笑)

山田 そうなんですよ。食パンのチョイスにもこだわってます。110何円くらいで売っている安いパンです。

トミヤマ そういう「プチ貧困」を描かせたら山田さんは天才だと思います。『ハワイユー』でも、スーパー銭湯で働いている女の子が仕事から帰ってきて謎のピクルスをつくるじゃないですか。あれ、インスタグラムにアップするようなおしゃれピクルスじゃないですよね。もはや「漬け物」と呼びたくなるようなピクルスで。

山田 でもそれを楽しそうにやっているのが『ハワイユー』です。それが「みんなよるがこわい」の主人公はそうではない。大学を中退して美大を受け直したんだけど、それがうまくいかず、後悔もありながら、バイトもしつつフリーランスでやっているという設定でした。

嘘なく書くということ

水谷 お話を聞いていて、山田さんが作品を書くうえで絶対ゆずれないポイントが、嘘を書かないということだと思いました。たとえば『ハワイユー』で北砂のアパート一室のなかで物語を書いていくときに、必然的に働くという現実が出てくる。リアル以外の何物でもないそのアパートの一室には、当然、今の時代の空気が流れていて、観客もその環境に身を置いている。そこではある種の貧困の問題だったり、あるいは上昇志向の女の子がいたり、あんまりおしゃれでないピクルスをつくる女の子が出てきたりする。リアルに「現実」を反映しなければ、芝居が成立しない環境だったと思うんです。

山田 今言っていただいて思い出したのは、福島の原発の問題を織り込んだ『ヘイセイ・アパートメント』のことです。『ヘイセイ・アパートメント』を書いたのが2014年(※公演は2015年)だったのですが、実際の社会問題や労働の問題を書くときは、意識して書いていないというより、客観的に書くのではなく自分が当事者であるという意識で書いていました。わたしもその問題のなかの一部であるという意識があるんです。その問題の一部であるという意識があると、そんなに強く出れない、自分もそうであるという意識があります。

『ヘイセイ・アパートメント』でも労働の問題を書きました。コンビニで働いている女の子とその店長が働きすぎてねずみになってしまうというとんちんかんな設定からはじまり、メンバーのなかのふたりが福島の出身で、事故の影響が家族に出ているということをにじませるように書いています。『テンテン』も原発を扱っているんですけど、影響が出てくるとしたら今から、これからだから、自分の問題として書いているんです。

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『ヘイセイ・アパートメント』 撮影:Kengo Kawatsura

トミヤマ 描こうとしている人物と山田さん自身の距離が非常に近いというか、その境界線がいい意味で曖昧になっているように感じます。「わたしもこの人のようになるかもしれない」という意識がありますよね。

山田 その視点がないといけないと常に思っているんです。たとえば北砂に滞在しながらつくっていたときは、そこではストレンジャーであるからこそ、実際そこに住んでいる人たちへの敬意と、そこに居る気にならないということを大切にしていました。

プチ貧困ということも言っていただきましたけれど、今貧困はめずらしくありません。むしろ貧困層の方が増えて来ているという時代において、貧困は自分の問題でもあると思っているし、あまり距離をとらないで書いているのかもしれません。自分の世代のことだと思っています。

トミヤマ 山田さんの世代って、生まれたときからずっと不景気ですよね。

山田 そうです。加えてわたしが劇団始めたのが2012年なので、震災以前に作品つくってないんですよ。そうなってくると震災後に作品をつくるということが自分としては当たり前のことだし、だから当時のことを批判するとか、糾弾するという気持ちにならないんです。もちろん怒りは湧くけれど、むしろそういう時代だからこそどうやって生きていくのか、その柔軟さを考えています。これからまだどんな可能性があるかわからない。病気の人が増えてしまうかもしれないし、これからもっと不景気になるかもしれない。景気のいい時代を知らないから、それを非難するとか、それを悲観するという思考にならなくて、「こういうもんだよね。じゃあどうする?」という視点で書くということがわたしの世代、平成生まれの視点なのかもしれません。

トミヤマ 対象をちょっと離れたところから書くのではなく、もしかすると相手と自分の立場が何かのきっかけで反転してしまうかもしれない、ということを常に考えてらっしゃるのかなと思います。別の言い方をすれば、批評家的じゃない。理論より実践って感じがします。

山田 逆に作品をつくるうえで、わからないことをわかったふりしてしまうとか、わかったつもりになってしまうことがすごく危険だと思っています。それは、ときには暴力になるんじゃないかとも思います。

トミヤマ わかったつもりになってしまうことへの「怯え」みたいなものが作品にも現れていますよね。

山田 結構強いかもしれないですね。『ハワイユー』は、自分とは似ていない、離れたところにいる女の子を書きはじめた頃でした。〈贅沢貧乏〉は初期何年かは女の子しか出ない劇団だったんです。わたしは男じゃないし、年も20歳とか21歳とかで、そのときに「わからないものは書けない」という割りきりがあったんです。わたしは若い女の子の気持ちはわかるけど、それ以外はまだ書くに至らないし、それを書いたら嘘になるっていう気持ちがどこかにあったから、女の子ばかり書いていたんですよね。

それが時を経てだんだん、これくらいの距離感の女の子だったら書けるかもしれない、男の子も書けるかもしれないとか、自分がいろんなところでいろんな人に出会っていく過程のなかで書ける範囲をちょっとずつ増やしていきました。今度の『フィクション・シティー』ではじめて男女半々くらいになって、40代の男の人も出ます。劇団をはじめて丸5年なんですが、これがまだ書けるかわからないけど挑戦してみようというと思える範囲です。

同性同士の距離、対象との距離

トミヤマ 山田さんは女子の多様性を書くのが本当に得意だなと思うのですが、思春期の頃って、自分はみんなとちがうと思うと、ちょっと孤独を感じることもあるじゃないですか。そういう孤独に山田さんはどうやって対処してきたんですか。女子のコミュニティでどんな女の子だったのかが、気になります。

山田 今の自分をかたちづくっているのは中学のときだと思っています。中学生はグループができたり、いじめができたりとか、そういう年頃だと思います。わたしは1年生のときにすごく話の合う、親友みたいな女の子がひとりできて、なぜか幸い3年間同じクラスだったんですよ。ものすごく仲のいい子で、どんな時もいっしょにいました。

その子とふたりだけでいることがすごく多かったので、イケイケのチームの人ともしゃべるし、静かにしている子にもわたしは結構しゃべりかけて話していました。あんまり分け隔てなかったんですよ。だからいじめがあったとか、あの子が告白して振られたとかそういう事情を全部遅れて知る。そういう流れに乗らなかったというのはすごく特殊かもしれません。

トミヤマ ここで過去の山田さんについておうかがいしたのは、今の大学生って孤独に弱いなと感じるからなんです。大学で教えていると、みんなと違うこととか、孤独であることを恐れすぎているなと思うんですよね。山田さんのように、親友と密な時間を過ごしていた人、みんなとちょっと違う人が、「みんなよるがこわい」みたいな作品を作るかもしれないわけで、みんなと同じならいいってわけじゃない。山田さんからは、孤独に対する恐怖心があまり感じられません。自分と向き合うことを億劫がらないというか。それがおもしろいなと思います。

山田 でも向かい合うスキルがあるということ含め、自分独自のことをするということは、私がそうだったわけじゃありません。その親友がそうだったんです。それに対するあこがれがありました。たとえばその子は、自分が食べたいものがあったらみんなが別のものを食べていても「じゃ、私これ食べるから!」ということが言える子でした。それを見ていたというのもあります。

トミヤマ わたしは少女漫画を研究していることもあって、女が女を描くときの距離の取り方に興味があるんですよね。少女漫画の特徴って、やっぱり「内面を描く」ことなんです。逆に、少年漫画は「海賊王に、おれはなる!」みたいな感じで、目標なり行動なりを高らかに宣言するのが大事。作中人物がどういう行動を起こすのか、セリフの形で入れ込み物語をドライブさせるのが基本なんです。でも、少女漫画は行動の描写よりも「わたしは今傷ついた」とか「わたしはあなたのことが好き」、みたいな感情をどのくらい描けるかが肝心。つまり少女漫画って、女の気持ちを描くメディアなんですよ。

ただ、女の気持ちを描くにあたっては、「わたしは女だし、女のことをわりと詳細に描けるけど、なんかわからないところもあるんだよね」みたいな、余白のある作家さんがおもしろいと思っています。自分の手で生みだしたキャラクターだけど、どこかで「あなたはわたしじゃないし」という「突き放し」がある作家さんが好きなんです。で、山田さんの舞台を観ていると、そういう突き放しを感じることがあって。一体どういうふうに女たちと関わって生きてきたら、この感覚が培われるのかなというのを、一度聞いてみたいと思っていました。

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トミヤマユキコ先生

山田 そういう意味ではちょっと離れた目で見ることができていたのかもしれないですね。その中学時代があって、高校、大学は自由にやっていたかもしれません。多くの少女漫画と同じように、わたしも行動より状態を描くのが好きです。逆に行動は、あんまり描きたくないけど、おもしろくするために描いているという部分があるかもしれない。

生きている人のありのままの状態を描きたいんですよね。状態を描くだけでものすごく具体的だし、本当は物語をドライブさせなくてもいい、という気持ちがあります。それと格闘しているのが『フィクション・シティー』です。そこに思考が向いて、物語をつくる、起承転結をつけるということとずっと格闘していたところがありました。それがわかりやすさを生んで、具体的なものや、繊細さを取りこぼすんじゃないかと危惧していたんです。

山田由梨にとってのフィクションと現実

トミヤマ 『フィクション・シティー』では、起承転結のあるわかりやすいお話を書く、ということに疑問が生じてきているとのことですが、今現在、フィクションのことをどう思っていますか? 山田さんにとってフィクションとはなんなのでしょうか?

山田 水谷先生の「嘘をつかない」という言葉を借りると、フィクションをつくるというのはそもそも「嘘をつく」ことです。主人公がこういう役で、そのお兄ちゃんをここに置いて……など、登場人物をつくるという当たり前のことにも抵抗を感じるようになりました。そのへんは今は折り合いをつけていて、ポストモダン主義によって物語を解体するという作業が昔行われたように、自分も今そういう軌跡をたどっている、というおもしろさを感じています。元々わかりやすく結論を付けたり、派手な展開をつくるようなタイプではないのですが、それでもそこに抵抗がある自分を見つめて、あえてそこを作品にしている。

トミヤマ 演劇の歴史が辿ってきた道を、山田さんが超高速で追っかけているんですね。おもしろいです。ものすごく簡単に言うと「ストーリーよりディテール」ということなんでしょうか。

山田 ディテールだとか、わかりそうになったときに解体したくなる衝動があります。

トミヤマ ああ。なるほど。でも、解体したいという衝動の根底に、怒りがないのがすごいです。

山田 元々はわたしも怒りをモチベーションにしていたような気がします。でも怒ってもな、という気持ちになってきたのかもしれません。

トミヤマ 怒らないほうが、みんなが聞く耳を持ってくれるということですか?

山田 それはあります。たとえば原発の問題を書くとなったときに、それが説教くさくなったり、主義主張になってしまったときに、作品は一気につまらなくなる。そこに怒りがあればあるほど、そうなってしまいがちだと思うんですよ。そこに当事者としての怒りがあると、熱くなりすぎて台本が説教くさくなってしまう。クールダウンしなきゃという気持ちになるんです。そこへの客観的な意識はあります。

やっているのはアートで、演劇であるっていう意識がないと。いろんな問題が起きてきたときに、「いまアートは必要なのか?」という論争が界隈であったような気がします。わたしも「政治の話をしてほしい」って演劇界の人に呼ばれてトークしたことがあって、あのときSEALDsがいちばんのアーティストだったと言われたときに、違和感がありました。

それでいいのか、それだけでいいのか。あれがいちばん、アートとしてやらなきゃいけないことをやっていて、アートだったと言われたときの悔しさ。本当はそうじゃないんじゃないかという気持ちもありました。

トミヤマ 震災直後って「芸術にできることは何もない」みたいな空気があったじゃないですか。明るい音楽なんか聞いたら不謹慎だ、みたいな。

山田 逆に、それこそが必要だという声もありました。

トミヤマ 確かに! 音楽こそが力だ、といって募金をつのるような動きもありました。なんか、価値観がグラグラしていましたよね。

山田 みんなわからなかったんですよ。でもやっぱり現代の日本を書かなきゃいけない、となったときに、フィクションだから人がねずみになったりヘンテコなことが起きてもいいんだけど、そうなったときに無視できないこととして社会問題はあると思います。

トミヤマ フィクションだから基本的にどんな嘘をついてもいいけど、「ここは!」と思うところでは、嘘をつかずに書くということですね。

山田 作品によりますけどね。でも『ハワイユー』は、結構資本主義批判しています。急にテレビつけると胡散臭いCMが流れてきて、幸せな家庭の写真や会社の写真を出しながら、「まだお持ちじゃないんですか? かなりやばいかも!」みたいな購買意欲を駆り立てるというCMを流しつづける。

トミヤマ 気づいてないかも知れないけどあなたはぜんぜん満たされてないんですよ、という呪いをかけ続けるあのCM……。

山田 そうです。「あなたは普通より劣っている」というテロップがCMに出る。でもそれは、上昇志向がすごく強いルリさんには、そういうふうにCMが見えていたということです。あんな大きい家に住んでいて、幸せな家庭がデフォルトみたいな呪い。何のCMでもそうじゃないですか。たとえば洗剤のCMを見ても、一軒家に住めて当たり前で、わりとみんな身なりがいい。でも現実は実際そうなのか。それが基準みたいにされているから、自分はそれに比べたら不幸だとか思ってしまう。そういう押しつけがあるんじゃないかと考えていたんです。

トミヤマ 逆に、社会人としては頼りない田井さんがめちゃくちゃ満たされてる感じが印象的ですよね。田井さんは自分に何かが欠けているとか足りないとか、思ってないじゃないですか。

山田 田井さんは仕事ができなくて、アルバイトの日を間違えて行ってしまったり、間違えて仕事がある日に行かないと怖いから、不安だったらとりあえず行くという不器用なキャラクターです。でも毎日を満たされて生きていて、プランターの植物を育てていたりする。逆にもうちょっと立場が上に見えるルリさんがそれを見てイライラする(笑)

トミヤマ ルリさんが田井さんに、もっと上昇志向を持てというようなことを言っているのを見て、すごく現代的だなと思いました。偉そうなことを言っている方が、実は満たされていないという逆転現象が皮肉ですよね。

ヨーロッパ・アジアでの反応の違い

山田 CMもそうだし、テレビに映る人はきれいで細い人で、という状況に私たちはずっとさらされている。『みんなよるがこわい』は、社会的に弱い立場におかれる孤独な女性を描いているんですが、海外のお客さんにも観てもらったところ、ヨーロッパの女性にはあまり受けなくて、アジアの女性には受けたんです。そういう広告の観念にもろに影響を受けている人が日本には特に多いんじゃないかなと思うんです。

自分にもそういうところがあるけど、客観的に見る視点も作家としては持っているので、そういうものをどう受け流してどう付き合っていくかということは作品のなかでは考えています。だからもろにそれに影響を受けている人を描くっていうよりは、そういうものがあってそれとどう付き合っているかという視点があるかもしれません。

トミヤマ 海外の話が出ましたが、やっぱり自分は日本の劇作家だなと思いますか?

山田 『みんなよるがこわい』は誰にでもある夜の孤独だと思っていました。女性のなかにはそうやって自分を追いつめてしまったり、自分なんて、と自己評価が低すぎて思い悩んでいる人もいる。でもそれを演劇として開いたことで、みんなで笑ったことで、自分だけじゃないんだって思えた、という感想が多くありました。

だけど海外に住んでた経験のある人に話を聞くと、少し違うようです。長くドイツに住んでいた人の話を聞いたときに、「こういうことでくよくよ悩んだり、あんまりしないかもね」と言っていました。もうちょっと立場が強いというか、もうちょっと違う悩みなのだろうと思います。女性の貧困や労働の問題を考えるときに、日本人の属性として自己評価が低すぎるんじゃないかということを思いました。

中国の女の子たちももっと楽観的です。今度中国で公演をするんですが、下見で中国に行ったときに感じたのは、パワフルさでした。全然慎重じゃないし、そんな話してないよ!みたいなことがどんどん決まってたりするんだけど、「いいよね、楽しいよね!」「これで行こう!」って、すごくはっきりしている。

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山田由梨さん

トミヤマ その元気さ、いいですよね! でも、そういう女性を見ても、山田さんは「この人たちのことを描きたい」とは思わないでしょう? 山田さんの作品に出てくる女の人たちって、元気ハツラツ、って感じじゃないから(笑)

山田 そうですね、わたしはやっぱり日本人だし、くよくよするし。でもわたしが女性像として描いていたのは、日本の女性像だということはちょっと意識しました。男女差別の問題に関しても、日本は認識が遅れていると言われるじゃないですか。でもわたしたちはそれが当たり前で生きているから、当たり前になってしまっている。けれど、海外に出るとそうなのかもしれないなとも思います。少し視野を拡げて考えると、みんな自己評価が高くなったりするかもしれません。

今度仕事をする中国の劇場は女性スタッフばっかりで、男性は数人しかいないんですよ。そこで働く女性たちにはわたしたちがこの劇場を切り盛りしているという自負やプライドがすごくあって、それもすてきだなと思います。日本は日本ですてきに働いている人はいるけど、中国の女性はアジアのなかでも比較的強いんじゃないかと思いますね。わたしが体験して感じたことの主観でしかありませんが、本当にパワーをもらいました。細かいこと気にせず、がんばろう、とりあえずやろうという感じですね。

今までは稽古がうまく回らなかったらどうしようとか、様々なことを気にしてた部分がありました。わたしも人の目を気にするところがあるので。だけど次の作品をつくる時は一回そういうのをやめて、役者のことを信頼して、演出家としての自分のことも信頼して、あまり考えずに無責任に脚本を書いて、あとは稽古場にいるわたしに任せたぞ、と自分のなかでも役割分担をしてつくっています。

トミヤマ 山田さんのなかでも「働き方改革」が起きているわけですね(笑)

山田 わたしはほっとくと自分に対してブラックになってしまうのですが、だいぶホワイトになってきています(笑)

プロフィール

水谷八也20世紀英米演劇

1953年生まれ。早稲田大学文化構想学部(文芸・ジャーナリズム論系)教授。専門は20世紀英米演劇。編共著に『アメリカ文学案内』(朝日出版)、訳書にアリエル・ドルフマン『谷間の女たち』(新樹社)、『世界で最も乾いた土地』(早川書房)、また上演台本翻訳にソーントン・ワイルダーの『わが町』(新国立劇場)、アーサー・ミラーの『るつぼ』など。

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山田由梨劇作家・演出家・女優

劇作家・演出家・女優。贅沢貧乏主宰。2012年の旗揚げ以来全ての贅沢貧乏の作品のプロデュース、舞台作品の劇作・演出を手がける。自身も役者として出演するほか、デザイナーとしても活動中。主な出演作に舞台 ベッド&メイキングス『墓場、女子高生』(脚本・演出:福原充則)(2014年)、映画 『みちていく』(監督:竹内里紗)(第15回TAMA NEW WAVEコンペティション ベスト女優賞受賞)(2015年)など。2018年1月三島由紀夫×デヴィッド・ルヴォー『黒蜥蜴』出演決定。http://yuriyamada.info/

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トミヤマユキコライター、大学講師

1979年秋田県生まれ。ライター、大学講師。早稲田大学法学部、大学院文学研究科を経て、2017年4月から文学学術院文化構想学部助教。少女マンガ研究を中心としたサブカルチャー関連講座を担当。ライターとしては『yomyom』『ESSE』『エル・グルメ』などで日本の文学・マンガ・フードカルチャーに関する連載を持つ。

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