2011.04.21

おカネの視点から復興への経済政策を考える

片岡剛士 応用計量経済学 / マクロ経済学 / 経済政策論

経済 #デフレ#経済政策#インフレ#東日本大震災

過去20年間、政府は自らのおカネを使って元気をなくした国民を助けようとしたが、国民は元気にならなかった。政府は元気のない国民から税としておカネを取ろうとしてもうまくいかず、国債を発行して国民からおカネを借りつづけることで糊口をしのいでいた。それが震災前のわが国の姿であった。

震災に伴って深刻化するジレンマ

このようななか、直接被害が16兆円から25兆円、間接的な被害を含めるとそれ以上になると見込まれる東日本大震災が生じ、国民のもっていた資産が失われ、多数の生命が奪われるという不幸な事態が生じた。

原田泰氏が指摘するように、震災により資産が失われても負債が減ることはなく、債務負担は増加する。震災は、国民の元気をさらに失わせる由々しき事態だ。国民の元気がさらに失われれば、政府は税としてこれまで得ていたおカネを得ることすら難しくなってしまう。

そして現在の国民の元気は国民の将来にもいくばくか影響する。現在の国民の元気がさらに失われれば、国民からおカネを借りるのも難しくなる。結局、政府がおカネを得ることがより難しくなる。復旧・復興するにもおカネがなければ、被災した人々の手助けをすることもできない。どうしたら良いのだろうか?

増税という調達方法

考えられるひとつ目の方法は、増税によって国民からさらにおカネを取ることで、震災から復旧・復興するための費用を捻出することだ。

しかし、余程余裕のある国民なら兎も角として、増税をすれば国民全体の元気はさらに失われるだろう。所得税や法人税の増税ならば、震災により直接被害を受けた人々には増税の影響はないのかもしれない。だが被災地以外の地域の人々に増税の影響は及ぶ。消費税の増税ならば、被災地以外の人々のみならず、被災地への人々にも増税の影響が及ぶことになるだろう。

過去20年間を通じて国民は元気を失い、さらに震災が追い討ちをかけているのが現状である。もしかすると増税を行ったとしても、政府はこれまで得ていたおカネすら得ることができない可能性もある。

かつて1997年に消費税を3%から5%に引き上げた際、おそらく政府は国民からさらにおカネを取ることが可能だと見込んだのだろう。ただし、消費税から得られる税収は当初増えたものの、全体の税収は増えず、他の要因も作用して景気は落ち込んでしまい、当時の政府の目論見はうまくいかなかった。

たしかに政府があいだに立って、余裕のある国民から、すべてを失った国民におカネを渡してあげることも可能だ。ただし、これではすべてを失った国民の資産を回復させることはできたとしても、余裕のある国民の資産は減ってしまう。国民全体の視点でみれば、災害によって失われた富は戻ってこないのだ。

支出の組み換えという調達方法

ふたつ目の方法は、政府のおカネの使い道を見直して震災の復旧・復興に充てるというものだ。だが、政府が明らかに必要でないものにおカネを費やしていたとは考えにくいし、実際無駄な使い道かそうでないかを決めるのも難しい。無駄な支出か必要な支出かを仕分けして、無駄な支出を財源とすることがどれだけ難しいのかは、われわれが事業仕分けの経験から学んだことだ。

注意すべきは、政府が元気をなくした国民を助けようとするために使うおカネの総量が変わるわけではないことだ。言い方を変えれば、おカネの使い道を見直して震災の復旧・復興に充てるというのは、その裏側に、震災以外の問題で困っている人を手当てすることができなくなる可能性も含んでいるのだ。

国債発行という調達方法

三つめの方法は、政府が国債を発行しておカネを借り、一定期間を経た未来に金利をつけて借りたおカネを返済するというものだ。

ただし、国民からおカネを借りるといっても限度があるかもしれない。すでにわが国はたくさんのおカネを国民から借りている。国民は応じてくれるのだろうか?応じてくれないとしたら政府はおカネを借りることができない。

さて困った。おカネを借りることができなければ、震災で国民の元気がさらになくなっても助けることができず、助けることができなければ結局、政府はこれまで国民から税として得ていたおカネを得ることができなくなるかもしれない。

ジレンマを解消する手立て

このジレンマを解消する手立てはあるのだろうか。ないと思う方も多いのかもしれない。しかし、じつはあるのではないか。最初に述べたとおり、問題の根幹は政府が自らのおカネを使っても国民は元気にならないということにあった。仮に国民が元気を取り戻せば、政府は税率を上げたりすることもなく、これまでよりもたくさんのおカネを税収として得ることができ、さらに国民からもおカネが借りやすくなるのではないか。

国民の元気をとりもどす手段はあるのだろうか?増税では政府は潤うかもしれないが、国民はさらに元気をなくしてしまう。余裕のある国民から震災ですべてを失った国民に富を分配したとしても、日本全体でみた富の総量は、震災により失われた分だけ減っていることに変わりはない。そうすると、国民からおカネを借りることで、震災で失った富を復旧・復興して、かつ元気を取り戻すことが必要になるわけだ。

おそらくこう述べると疑問の声を投げかける方もいるだろう。先に述べたように、国民からおカネを借りるとすれば、それには限度があるのではないかという疑問だ。やはり無理なのだろうか。何か手立てはないのだろうか?

おカネと経済活動

この点を考えるために、少し寄り道をしてみよう。ざっくりといえば、われわれはおカネと財・サービスを交換することで経済活動を行っている。たとえばわたしが千円札で本を買ったら、千円札はわたしの手元から本屋の手に渡り、代わりにわたしは本を受け取るというように。

そしてこれと同じことが国民全体についても成り立つ。財・サービスの総需要が総供給を上回っているということは、おカネを手放して財・サービスを得たいと考える人が、財・サービスからおカネを得ようとする人を上回っていることを意味する。つまりおカネの視点で考えれば、おカネの総供給がおカネの総需要を上回っていることになる。

このようにおカネを貯めこむのではなく、財やサービスを得ようという動きが進めば、おカネで評価した財やサービスの価値は上がり(財やサービスで評価したおカネの価値は下がり)、インフレとなる。逆の動きが進めばデフレとなる。

周知のとおり、わが国は15年を超える長いあいだ、緩やかなデフレがつづいている。そして財やサービスの需要よりも供給が多い状態が生じており、総供給から総需要を差し引いた値は最近では20兆円ほどであるといわれている。財やサービスを買ってもらえなければ、財やサービスを生み出すために雇っていた人々の賃金は低下し、最悪の場合は職を失うということになってしまう。

インフレとデフレが社会にもたらす影響

インフレとデフレは社会にどのような影響をもたらすのだろうか?

インフレとは手持ちのおカネをたくさんもっている人にとっては損な話だ。なぜかといえば、インフレが進めば、財やサービスで評価したおカネの相対的な価値が低下するのだから、このことは手持ちのおカネで買うことができる財・サービスの量が減っていくこと、つまりおカネのもつ購買力が低下していくことを意味しているからだ。

では、おカネを沢山もっていない人にとってはどうだろう。新たな事業を興す人は、アイディアはあるがおカネがないのが世の常である。おカネがなければ借りるしかない。おカネを借りて返すまでのあいだにインフレが進めば、おカネを借りた当初よりもおカネの価値は目減りするだろう。事業が成功した暁にインフレが進んでいれば、みな財やサービスを欲しているのだから、運よく売り上げを増やすことができ、利益を得る可能性も高くなる。そして、インフレが進めばおカネを沢山もっていない人が新たに職を得る可能性も高くなる。

つまり、インフレが進むことは、ざっくりといえば手持ちのおカネを沢山もっている人にとっては損な話で、手持ちのおカネが少ない人にとっては得な話となるわけだ。

ではデフレが進むことはどう考えたらよいのだろうか。ちょうどインフレとは逆の現象が生じると理解すればよい。つまり、手持ちのおカネを沢山もっている人にとっては得な話で、手持ちのおカネが少ない人にとっては損な話となるわけだ。

こうみていくと、インフレやデフレは社会のさまざまな階層に影響を及ぼすことが理解できるだろう。わが国は15年程デフレがつづいているとすでに述べた。このことは、15年前の段階ですでに手持ちのおカネを沢山持っていた人にとっては、自らのおカネを交換することで得ることが可能な財・サービスの量(購買力)がデフレにより上昇しつづけていることを意味する。一方で、手持ちのおカネが少ない人にとっては損である状態がつづいていることを意味する。

われわれは生まれてくる時期を選ぶことができず、それを決めるのはコウノトリだけである。デフレになる前の段階、つまりインフレがつづいていた時期に職を得た人は、インフレがつづくあいだは需要が増えていくため、名目賃金は上がり比較的容易におカネを貯金することができただろう。

それに対して、デフレがつづく時期に職を得た人は、たとえインフレがつづく時期に職を得た人と同じ能力をもっていても、同じ条件の職を得ることができないかもしれない。もしかすると劣悪な労働条件に陥らざるをえなかったり、もしくは職を得られないかもしれない。

たしかに同じ世代でも有能な人はいるので、有能な人は沢山のおカネを稼ぐことができるだろう。だが総じていえば、こういった恩恵に預かることができる人はごく少数であって、世代内の格差は拡大していく。そして世代間の格差も拡大する。デフレがつづけば、おカネを借りて新たに事業を興す人が成功する可能性も低くなる。新しい魅力的な財やサービスを生み出す余地も狭まってしまい、社会全体の元気がなくなってしまう。

本稿の冒頭で述べた現象、つまり国民の元気のなさがなぜ生じるのかという点には、インフレとデフレといった物価の動きが密接に影響しているのである。

災い転じて福となす

このようにみていくと、なぜデフレが15年もつづくのだろうかという疑問が生じるのは自然なことだろう。国民の元気のなさの一因はデフレがつづくことであり、デフレを止めることができないのならば、われわれはデフレがつづくことを一種の自然現象と考えて諦めるしかない。しかしこういったときに、長期のデフレに陥っていない各国の経験がわれわれに力を与えてくれる。それは中央銀行というスーパースターの存在である。

なぜ中央銀行はスーパースターなのだろうか。それは、インフレとデフレを制御する力と任務を与えられた唯一の存在だからだ。残念なことにわが国の中央銀行はこれまでスーパースターとしての能力を十分に発揮していなかった。もしくは誤ったかたちで発揮してきた。それはデフレが15年もつづくという事実が雄弁に語っている。なぜこうなったのかはさまざまな解釈があるし、任務を果たすことができない事情もあったのかもしれない。

そもそも中央銀行は金利を上下させたり、おカネを増やしたり減らしたりして物価を安定化させる役割と力をもった存在である。ここで鍵となるのが、経済を活性化させる投資の役割だ。震災前の日本経済の元気のなさの一因は、景気の回復が進んでいるにも関わらず投資が増えないことであった。投資によって増加した生産力に見合うだけの需要が生じると企業が予想し、その予想が実現すればさらに生産は増え、需要も増えるだろう。このような動きが経済の拡大を加速させていく。

スーパースターである日本銀行は、政策金利をゼロ近傍にまで下げ、他国と比較して控えめなレベルではあったが、おカネを市場に供給したりして、将来インフレになるとの予想に働きかけることで投資需要を喚起する努力を行ってきたと述べている。だが、これまではその努力は残念ながら功を奏することはなかった。

しかし震災は、これまで存在していた資産を一瞬に失わせてしまうという不幸な事態と引き換えに、資産を取り戻すための投資の必要性という、明確なかたちでの投資需要を喚起する状況を生み出した。

仮に根深い投資需要の停滞が、スーパースターとしての中央銀行の力を阻害していたのであれば、中央銀行の力が復活する機会が現在生じたともいえるのである。そしていまこそ日本銀行は、スーパースターとしてもてる力を十分に発揮しておカネを供給すれば、そのおカネは投資需要に結実し、経済の好循環を後押ししていくことになるだろう。

ジレンマを解消する方法

さて、ここでようやく先程のジレンマを解消する手がかりをわれわれは得ることができる。つまり政府がおカネを得ることと、国民の元気を取り戻すことを両立させる手段についての手がかりである。端的にいえば、政府・国民に加えて、スーパースターの力を借りるということだ。

日本銀行は自らのバランスシートの資産側と負債側をともに膨らませることでおカネを供給する。たとえば金融機関が保有している長期国債を買い入れれば、日本銀行のバランスシートの資産側では長期国債の残高が増加して、負債側には金融機関が日本銀行の口座に有している当座預金の残高が増加する。そして金融機関はこの当座預金を引き出して貸し出しに回し、おカネが行き渡っていくことになるわけだ。

政府がスーパースターの力を借りるにはどうしたらよいだろう?政府が国民からはおカネを借りる、つまり国債を発行するのだが、それをスーパースターである日本銀行が購入して、おカネを政府に渡せばよい。この方法は国会の議決を経て毎年行われていることを念頭におけば、可能だといえるだろう。

しかし奇妙な話だ。国民の目線からいえば、政府が国民からおカネを借りたにもかかわらず、スーパースターがそのおカネを肩代わりして政府に渡してくれるのだから。こんな楽な方法があったのなら、なぜジレンマを感じていたのだろうか。こんなことをつづけていて大丈夫なのだろうか?

この違和感を持つことは正しい。たしかに際限なくこの方法でおカネを生み出してしまえば、将来的に日本経済は深刻なインフレに悩まされる可能性が高いだろう。これを指して通貨の信認が毀損するというのであれば、スーパースターの力を借りたこの奇妙な行為は、通貨の信認の毀損につながる行為といえるのかもしれない。

ふたたび、災い転じて福となす

だが、現在のわれわれは、もうひとつの幸運な状況の下にある。それは、15年ものあいだデフレがつづいており、そのことが将来に渡ってデフレがつづくであろうという予想を形成している、という不幸な現実、そして震災前の段階でデフレギャップが20兆円程存在しているという現実だ。

日本銀行が政府の発行する国債を買い取っておカネを供給したとしても、デフレギャップを埋める規模までは深刻なインフレが生じる可能性は低いだろう。この段階では政府が日本銀行を通じて得たおカネが投資需要に結びつくことで需要の回復を達成するという、夢のような状況が成立しているのだ。

しかしこうした状況はデフレからインフレに移行すれば成立しない。インフレにより名目所得が増加すれば、政府の税収は増加するので、そのことで国民の負担は増え、日本経済は夢から覚めることになる。ただし先に述べたとおり、15年に亘ってつづいたデフレから脱却できれば、デフレにより回っていた歯車は逆方向に回りはじめ、国民の元気は取り戻されていくだろう。

懸念すべきは急激なインフレの可能性である。ただしこれは、インフレターゲットを導入することで押さえ込むことが可能だ。スーパースターである日本銀行は、これまでわずかなインフレの兆候さえも鎮圧し、平均して過去15年間1%のデフレを維持してきたという頼もしい存在である。そして、行き過ぎたインフレを是正するための手段としてのインフレターゲットの有効性に疑問を唱える人は少ないはずだし、事実インフレターゲット採用国でこれまでハイパーインフレに陥った国はない。

たしかに供給力の低下、とくに電力供給の停滞や日本の製造業を支える部品・素材の供給停滞は懸念事項である。しかし一方で景況感に関するさまざまな指標をみれば、供給力の低下のみならず総需要の低下も深刻であることがわかる。結局需給両面を考慮した上で物価の行き過ぎた変化を抑制しつつ、これまでの災いを福となすことが大事なのである。これがジレンマに対する解決策なのだ。

おカネを有効に活かすために

報道によれば、震災から復旧・復興するための財源として、増税を行うという回答をした国民が多いとのことだ。震災から復旧・復興するために必要な膨大な費用を、みなが負担というかたちで分かち合うという理屈も、一理あるのかもしれない。

だが繰り返しになるが、このようなかたちでみなが負担を分かち合えば、確実にその負担は国民の購買力を低下させる。そしてわれわれは20年もの長いあいだ、停滞に苦しんできたことを考えると、さらなる負担に自らをさらすのは自殺行為なのではないか。むしろできるだけ負担を少なくする方法を探ることが肝要だろう。

国債によりおカネを調達すれば、負担を将来世代に先送りすることになる、だから現代の世代で負担すべきだという意見がある。だがこうもいえるのではないか。

現在失われた資産を復旧・復興し、被災者の生活を改善するための費用はバラマキではないことは明白である。そして、現代の叡智を結集してこの機会を活かし、将来世代の生産性を高める基盤としてのインフラや生活環境を提供するために、いまおカネを借りて使っていると考えれば、それは将来世代にとって負担ではなくメリットになりえるのではないか。さらにいま借りたおカネを使うことが停滞から脱却する契機となるのならば、それは経済成長という贈り物を将来世代に提供することになるのではないか。

デフレと経済停滞がつづくことは、将来世代に負担を押しつけていることにもつながる。もちろん安易な楽観論は禁物だ。しかしおカネは使うべきときに使ってこそ価値がある。そして、いまこそおカネを有効に活かすときなのだ。

プロフィール

片岡剛士応用計量経済学 / マクロ経済学 / 経済政策論

1972年愛知県生まれ。1996年三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)入社。2001年慶應義塾大学大学院商学研究科修士課程(計量経済学専攻)修了。現在三菱UFJリサーチ&コンサルティング経済政策部上席主任研究員。早稲田大学経済学研究科非常勤講師(2012年度~)。専門は応用計量経済学、マクロ経済学、経済政策論。著作に、『日本の「失われた20年」-デフレを超える経済政策に向けて』(藤原書店、2010年2月、第4回河上肇賞本賞受賞、第2回政策分析ネットワークシンクタンク賞受賞、単著)、「日本経済はなぜ浮上しないのか アベノミクス第2ステージへの論点」(幻冬舎)などがある。

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