2023.03.16
「シムズ理論」・MMTと「成長率・金利論争」――マクロ経済政策の見取り図(後編)
2013年4月に黒田総裁のもとで量的・質的金融緩和がスタートした時点では、「大胆な金融緩和」が景気と物価の押し上げに大きな効果をもたらすものと期待された。だが、14年4月の消費税率引き上げ(5%から8%へ)をきっかけに消費が大きく落ち込んで景気の停滞が続き、物価上昇のペースは次第に鈍化していった。
景気と物価の弱い動きをうけて、14年10月には追加緩和が実施され、16年1月にはマイナス金利政策の導入が決定されたが(2月の積み期間から実施)、16年中の消費者物価指数(対前年同月比)がほぼ毎月マイナスで推移するなど物価の動きは弱いままで、「2%」の物価安定目標は未達の状態が続くこととなった(ここまでの経過の詳細については前編(https://synodos.jp/opinion/economy/28684/)をご参照ください)。
こうした中、2017年頃からは「シムズ理論」(物価水準の財政理論)が、19年頃からはMMT(現代貨幣理論)が注目を集めるようになり、マクロ経済政策の運営における関心事は、金融政策から財政政策へと次第にシフトしていく。本稿ではこの経過を振り返り、最近時点におけるマクロ経済政策の見取り図を描いてみることとしたい。
「物価は財政的現象」
2017年の年初に「シムズ理論」というあまり見慣れない・耳慣れない経済学のことが話題になった。これは前年の夏(16年8月)に米国・ジャクソンホールで開かれた会合でプリンストン大学のクリストファー・シムズ教授が行った講演(Sims(2016))の内容を浜田宏一内閣官房参与(当時)が紹介したのをきっかけに話題となったもので、「シムズ理論」とあるのは「物価水準の財政理論」のことだ。
一般に財政の持続可能性(あるいは財政破綻の可能性)のことが論じられる際には、現時点における政府債務残高の額を所与として、財政収支をどの程度改善させれば政府が財政破綻を来すことなく安定的に財政運営を行っていくことができるようになるかが論点となるが(そのために必要な措置が増税と歳出削減ということになる)、物価水準の財政理論では物価上昇によって政府債務の実質的な負担が低減するという点がクローズアップされる。
たとえば減税が実施されると、その分だけ財政収支が悪化するが、ここでもし家計がこの減税を恒久的なものととらえるならば、可処分所得が増加したと認識されて消費支出が増え、そのことが経済全体の需要増につながって、結果的に物価が上昇することになる。このようにして物価が上昇すれば、名目政府債務残高を物価水準で除した値、すなわち実質政府債務残高が減少することになるから、減税によって生じた財政収支の悪化が物価上昇による実質債務残高の減少によってうまくカバーされ、財政の帳尻がきちんと合う(政府の時間を通じた予算制約式が満たされる)ようになる。 この場合に物価上昇をもたらすきっかけとなったのは貨幣供給ではなく減税であり、物価水準の財政理論の枠組みのもとでは「物価は財政的現象」となる。
政府と中央銀行を合わせた「統合政府」のもとで財政政策と金融政策の運営を考える「物価水準の財政理論」の枠組みからは、もうひとつ大事な示唆が得られる。それは、金利が極めて低い水準(ゼロ金利)にあり、貨幣と国債がほぼ完全代替となっている経済のもとでは、量的緩和政策は実質的な効果を持たないということだ。
というのは、中央銀行が国債を買い入れて、その見合いで市場に貨幣(マネタリーベース)を供給しても、この操作は実質的には同じ資産どうしを交換しているに過ぎず、市中に流通する貨幣と国債の合計額は変わらないためだ。この点からも、「シムズ理論」はデフレ脱却に向けたマクロ経済政策の運営のあり方について再考を促すものとなっていた。
MMTと反緊縮の経済学
シムズ理論に続いて2019年にはMMT(現代貨幣理論)が話題となった。「異端の経済学」とされるMMTについては「トンデモ経済学」との評も聞かれたが、不完全雇用のもとであれば物価の高進をまねくことなく財政支出を拡大させることができるという見解自体は、伝統的なケインズ経済学の枠組みのもとでも成り立つものだ。「税は財源ではない」というのは、このような伝統的なケインジアンの見方を、MMTerらしく別の言い方で表現するための修辞と理解することができるだろう。
興味深いのは、シムズ理論とMMTが話題になったのとほぼ同じ時期に、有力な経済学者から財政政策の役割を重視する見解の表明が相次いだことだ(Krugman(2018),Blanchard(2019),Furman and Summers(2019))。(この点の詳細については、「財政赤字容認論は許容できるか―景気減速と「反緊縮」の経済学」(https://synodos.jp/opinion/economy/23017/)をご参照ください)。
その背景には、低金利と低インフレの継続が現実のものとなり、利下げの余地が限られたものとなる中で、金融緩和を通じた政策対応の限界が意識され、むしろ低金利の状況を活かして積極的に財政出動を行うべきという考え方が広くみられるようになったことがある。こうした中で、日本においても財政政策の積極的な活用を求める意見が強まっていった。
もちろん、このような動きに対しては、財政赤字の拡大を懸念する立場からさまざまな批判がなされ、「異次元緩和が財政規律の弛緩をまねいている」との指摘も少なからずみられた。もっとも、コロナ前の財政収支の推移を確認すればすぐにわかるように、「財政ファイナンス」をめぐる議論は総じて的外れなものとなっていることに留意が必要である(この点の詳細については「財政ファイナンス―不思議な「現代財政理論」(https://synodos.jp/opinion/economy/28221/)をご参照ください。
「上げ潮派」と「財政タカ派」
安倍内閣(第二次~第四次)では、消費増税の是非をめぐってリフレ派と増税派の間でしばしば議論がなされたが、この対立の構図は、小泉内閣の時の「上げ潮派」と「財政タカ派(増税派)」の間の論争まで遡ることができる。
小泉内閣のもとでの歳出・歳入一体改革の策定の過程では、財政収支の均衡化を達成するうえで必要な収支改善の幅(要対応額)を、歳出削減と増税のいずれでどのように措置するかをめぐって大きな論争が巻き起こった。この論争において中心的な役割を果たしたのが、上げ潮派の竹中平蔵総務大臣(当時)・中川秀直政調会長(当時)と財政タカ派(増税派)の谷垣禎一財務大臣・与謝野馨経済財政担当大臣である。
この論争の背景には政府の役割や規模をめぐる考え方の違いがあった。市場機能を重視し、民需主導の経済成長を志向する上げ潮派は相対的に「小さな政府」と親和性があり(たとえば郵政民営化を想起)、政府の役割を重視し、社会保障の安定と充実を志向する財政タカ派は相対的に「大きな政府」と親和性がある(たとえば「社会保障と税の一体改革」を想起)。
歳出・歳入一体改革の策定の過程では「成長率・金利論争」というもうひとつの論争も巻き起こった。政府債務残高対GDP比の推移はプライマリーバランス(基礎的財政収支)の赤字幅(対GDP比)と利払費(対GDP比)に依存するが、後者は現時点における政府債務残高(対GDP比)と「金利と成長率の差(金利-成長率)」によって規定される。金利が高ければその分だけ利払費が増えるが、成長率が高ければその分だけGDPが増えるから、GDP対比でみた場合の利払費は金利と成長率の大小関係に依存して決まることになる。
「成長率のほうが金利よりも高い」とする上げ潮派の見解に対してはさまざまな批判がなされたが、「成長率が金利より高いのが常態である」というBlanchard(2019)の問題提起をきっかけに、金利と成長率の大小関係に再び大きな注目が集まっているのは興味深い。
その後、上げ潮派と財政タカ派の対立の構図はリフレ派と増税派に引き継がれた。リフレ派の中にはマンデル=フレミングモデルから得られる「変動相場制下では財政政策は無効になる(景気の押し上げに効果を持たない)」という結論を援用して、積極的な財政政策を否定する見解もみられたが、このスタンスは「小さな政府」を志向した上げ潮に通じるものがあるように思われる。
MMTと「反緊縮の経済学」
こうした中、リフレ派と増税派の対立の構図の中に加わったのがMMT(現代貨幣理論)を支持するグループだ。MMTは増税に対するスタンスという点では増税派と真逆であるが、政府の役割を重視し相対的に「大きな政府」を志向するという点では増税派と通じるところがある。増税を忌避するという点ではリフレ派と共通するところがあるが、財政の役割を重視する(金融政策に対しては冷淡)という点ではリフレ派との対立がみられる。
この構図においてややこしいのは、この10年ほどの経過の中で、リフレ派がいくつかの流れに分かれてしまったことだ。ひとつは金融緩和の効果に自信を持ち、増税にも積極的という立場であり(黒田総裁)、もうひとつは金融緩和の効果を重視するが、増税には慎重という立場(岩田規久男元副総裁)、3つ目は金融政策の役割を重視しつつも財政出動の必要性に理解を示し、MMT支持派と協調的な立場(浜田宏一元内閣官房参与)である。こうしたもと、リフレ派の間に意見の隔たりが目立つようになり、かつての勢いが失われつつあるように思われる。
マクロ経済政策の見取り図の「これまで」と「これから」
景気調整を行う手段としてのマクロ経済政策については、「裁量かルールか」という論点と併せて「財政政策と金融政策のどちらを重視するか」ということが長きにわたって論じられてきた。かつての議論を振り返ると、議会における予算案の審議と議決という手続きが必要で、実施までに時間がかかる財政政策よりも、中央銀行の判断ですぐに政策変更ができる金融政策のほうが機動的な運営ができることから、景気調整は金融政策に委ねることが望ましいというおおまかなコンセンサスが形成されていたように思われる。
もっとも、「流動性のわな」のもとでは金融政策は無効であり、この場合、景気調整の役割は財政政策に委ねられるという伝統的な見方もあるから、話はそう簡単ではない。
こうした中、強力なコミットメントによってインフレ期待を醸成することができるなら、名目金利がすでに極めて低い水準となっているもとでも実質金利の引き下げは可能であり、工夫をすれば一定の条件のもとで「流動性のわな」の制約が解除できるという見解が登場し、これが非伝統的な金融政策を支えるロジックとなった。この観点からのコミットメントの具体的な現われが、インフレ目標の設定を伴う金融の量的緩和と、時間軸政策(フォワードガイダンス)であったということになるこの点の詳細については前編(https://synodos.jp/opinion/economy/28684/)をご参照ください)。
安倍晋三自民党総裁(当時)が2012年12月の総選挙で掲げた「大胆な金融緩和」は、政府(内閣府・財務省)と日銀の連名で公表された「共同声明」における「2%」の物価安定目標と(13年1月)、マネタリーベースを操作対象とし国債の買い入れなどを通じて大規模な金融緩和を行う「量的・質的金融緩和」という形で具体化され(13年4月)、その後、さまざまな紆余曲折を経ながらも(追加緩和、マイナス金利政策の導入、イールドカーブ・コントロールの採用)、10年にわたって続けられてきた。
この過程で行き過ぎた円高は是正され、株価は大幅に上昇して、一般物価についても「デフレではない状態」が実現したが、コロナ前には消費者物価(消費税調整済)の上昇率が2%に到達することはなく、「大胆な金融緩和」の効果には翳りが見えていた。こうした中、世界的な反緊縮の流れもあって、財政政策の役割を重視する見方が次第に広がりを見せるようになった。この一連の経過は、「流動性のわなのもとでは景気調整の手段として金融政策よりも財政政策が有効である」ということを改めて確認するものであったともいえよう。
もっとも、この議論が十分に深まらないうちに、コロナ禍への対応という形で意図せざる大幅な財政拡張を迫られることとなり、その後は資源高を起点とする輸入インフレと米国の利上げを起点とする長期金利の上昇によって、金融政策の運営においてもこれまで想定しなかった形での対応が求められることとなった。
こうした中、景気回復の足取りは極めて緩慢なものとなっており、経済活動の水準はいまだにコロナ前(2019年10月の消費増税前)の水準を回復することができていない(この点の詳細については、「植田日銀」は「出口」を出られるか―物価高と金融政策の今後について考える(https://synodos.jp/opinion/economy/28630/)をご参照ください)。経済の弱い動きをうけて増税による財政健全化を求める声はややトーンダウンし、「大胆な金融緩和」への期待感も薄れ、MMTのブームも去って、マクロ経済政策をめぐる議論は三竦みのような状況にある。
こうしたもとで発足する「植田日銀」の金融政策の運営がどのようなものになるかはまだ見通しにくいが、現行の金融緩和の大枠は維持しつつ、複雑になりすぎた金融政策の枠組みを徐々に整理していって、低金利の継続と時間軸政策(フォワードガイダンス)の強化を中心とする金融緩和の枠組みへと移行するというのが、あり得べきシナリオということになるだろう。
まもなく黒田総裁が退任する。アベノミクスと異次元緩和はさまざまな思い出を残しつつ、いよいよ終幕となる。この10年のドラマに続くマクロ経済政策の「これから」はどのような姿になるのだろう。引き続き注目していきたい。
参考・引用文献
Blanchard,Olivier(2019)“Public Debt and Low Interest Rates,”American Economic Review,109(4).
Furman,Jason and Lawrence Summers(2019)“ Who’s Afraid of Budget Deficits?,” Foreign Affairs, March/April 2019.
Krugman,Paul(2018)“It’s Baaack, Twenty Years Later”
(https://www.gc.cuny.edu/sites/default/files/2021-07/Its-baaack.pdf)
Sims, Christopher(2016)“Applying the Fiscal Theory of the Price Level to Current Policy Issues, with Words, not Equations”
(http://sims.princeton.edu/yftp/JacksonHole16/JHpaper.pdf)
プロフィール
中里透
1965年生まれ。1988年東京大学経済学部卒業。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)設備投資研究所、東京大学経済学部助手を経て、現在、上智大学経済学部准教授、一橋大学国際・公共政策大学院客員准教授。専門はマクロ経済学・財政運営。最近は消費増税後の消費動向などについて分析を行っている。最近の論文に「デフレ脱却と財政健全化」(原田泰・齊藤誠編『徹底分析 アベノミクス』所収)、「出生率の決定要因 都道府県別データによる分析」(『日本経済研究』第75号、日本経済研究センター)など。