2017.05.23
アフリカから学ぶべき日本の教育無償化のダメな議論
海の向こうの日本では高等教育無償化のために憲法を改正するか否かで議論が盛り上がっていますが、議論が稚拙すぎる感じがします。ここアフリカでは1990年代以降、教育の無償化が進み、さまざまな知見が得られているので、教育経済学の議論と共にそれを紹介してみようと思います。
高等教育無償化・賛成派の議論の問題点
(1)無償化後のビジョンが欠如している
アフリカで90年代以降教育の無償化が進み何が起こったかというと、就学率の急上昇です。例えば、ここマラウイは最貧国で国民一人当たりの平均所得は1日100円にも満たない状況ですが、初等教育の純就学率は95%程度あり、不就学児童の大半は障害を抱える児童か孤児かという状況で、貧しいから学校に行けないという状況は、ほぼほぼ解消されたと言えるでしょう。
しかし、教育の無償化による教育へのアクセスの爆発は、教育の質の低下を招きました。図1が示すように、マラウイは1994年に初等教育の無償化を導入した結果、翌年には総就学率が1.5倍も跳ね上がりました (注: 総就学率は、就学児童数/学齢年齢人口で定義されるので、留年・入学の遅れなど教育や教育マネージメントの質に問題があると100%を超える)。
就学者数が跳ね上がるということは、ただ単に授業料分の資金を政府が投入するだけでは不十分で、新たに学校に来るようになった子供たちのための学校建築や教員採用など、莫大な追加的な資金を投入する必要があります。それだけでなく、教員養成校の拡大や教育行政システムの強化など時間のかかる準備を事前に行っておく必要がありました。
しかし、これらの手当ては実施されなかったため、現在でもマラウイは教員一人当たり生徒数が80人近くにのぼり、1/3の子供たちは青空教室で勉強しています(上の写真はまさにそれで、教室が足りないので学校の側壁に黒板を付けて、そこで授業をしています。教室の中も電気が無いため、雨期になると勉強が出来なくなります。でもこの学校は農村部の学校の中では立派な方です)。
このため、現在でも留年率は30%近くあり、教育の内部効率性も悪くなっています(【SYNODOS】留年制度は効率的で効果的か?/畠山勝太 / 国際教育開発)。教育の質が低下すると何が問題かというと、教育を施す意味がなくなることです。上の図2の右側が示すように、就学率が伸びて国民の平均教育年数が上昇しても必ずしも国の経済成長率は上向きませんが、左側が示すように、教育の質が向上し国民の学力が向上すると経済成長率も上昇する傾向があります。つまり、教育無償化で就学率が向上させてより長い年数の教育を受けるようになってもそれ自体は経済成長や所得の向上を担保せず、教育機会を通じてどれだけ学んだかこそが重要だということです。
しかし、日本の教育無償化に関する議論でこの点を見据えているものは殆どありません。授業料分の公費負担だけでなく、無償化による就学率の上昇に伴い必要となる追加的な予算が手当てされる気配はありません。特に、これまで日本が高等教育へのアクセスを拡大させてきたやり方を踏襲するのであれば、それはより一層教育の収益率を低下させるだけだということはこちらの記事で説明しました→(【SYNODOS】高等教育の量的拡大はどのように行われるべきか?/畠山勝太 / 国際教育開発)
(2)貧困層から富裕層への逆所得移転の可能性を無視している
アフリカで初等教育の無償化は一気に進み、現在中等教育の無償化を考える段階に来ている国が増えています。しかし、多くの国は中等教育無償化の前に、中等教育の義務化を導入すべく動いています。これは、教育段階が上がるほど放棄所得(学校に行かずに働いていれば得られたであろう所得)が大きくなるため、初等教育無償化と異なり中等教育無償化は、放棄所得の負担に耐えられない層-貧困層にインパクトを及ぼさないと考えられるからです。
この結果、貧困層は働き税金を納める一方で、富裕層はその税金で学び、将来より高額な収入を得るという歪な状況が出来上がります。これを避けるためには、まず中等教育の義務化を先に実施して貧困層も中等教育へ行かなければならない状況を作り出し、貧困層への奨学金を提供することで放棄所得分を補い、それから初めて無償化へと踏み切ることが出来ます。日本の教育無償化に関する議論は、このようなステップを踏む必要性を認識していない印象を受けます。
(3)教育の無償化は少子化対策としては効果が薄い
「二人目を持つことを躊躇させるような教育費負担の重さから少子化が進んでいるのだから、高等教育無償化は少子化対策として有効だ」、という議論も見られます。確かにここ10年程で2人目を持つことを躊躇する夫婦が増加しているのかもしれませんが、国立社会保障・人口問題研究所による出生動向基本調査によると、やはり未婚化と晩婚化の影響の方が大きそうです。
つまり、上の図3が示すように、夫婦が最終的に平均して何人の子供を持つかという完結出生児数が1970年頃から2000年頃まで2.2で安定的に推移し、2015年現在で1.94という値を記録しているのに対し、一人の女性が一生に産む子供の平均人数である合計特殊出生率は1975年に2を割り込んでから2005年まで下落を続け、近年少し持ち直して2015年には1.45となっています。さらに、女性の結婚年齢が20代後半と30代前半で結婚した女性の完結出生児数に0.4程度の差がみられるように、結婚年齢が遅くなるほど完結出生児数が少なくなる傾向が見られます。
これらのことから、高等教育無償化に乗り出してもそれが少子化対策として果たせる役割は限定的でしょうし、年収300万未満の男性の1/3以上が未婚であることを考えると、無償化に使う予算をこの層の支援に回した方が少子化対策としては効果が見込まれるでしょう。むしろ、アフリカで女子教育の拡充が人口爆発の特効薬であると言われていることを考えると、高等教育の充実が少子化対策になるというのは少し難しいのかもしれません。
高等教育無償化・反対派の議論の問題点
(1)教育の外部性と社会的利益に関する認識が不十分
「教育を受けると所得が上昇する、だから教育は私的利益なので税金を投入する必要はない」、というのは誤りです。なぜなら教育には個人だけに帰することが出来ない外部性があるため、政府による介入が無いと、この外部性の分だけ最適な教育投資水準から過少投資になるからです。また、個人の教育水準が高まると、政府に税収増加や公支出削減がもたらされる社会的利益が存在します。
教育の社会的収益率は、一般的に教育段階が上がるほど減少すると考えられています。アフリカの多くの国を初等教育の無償化に踏み切らせた一つの理由は、もちろん基礎教育が人権であるという点も大きいのですが、初等教育は私的収益率も社会的収益率も高いので、無償化をしてでも全国民にその教育段階を修了させるメリットがあるというものです。
この外部性や社会的利益にはどのようなものがあって、どの程度なのかというのは、「The price we pay-economic and social consequence of inadequate education」という本の第二部に詳しいですし、αシノドス106+107号の「不充分な教育の代償」でもこれらについて解説しています。それらがどのようなものか先進国とアフリカの文脈で具体例を挙げると以下のようになります:
A.健康への影響
HIV/AIDSがアフリカで猛威を振るった時に、「教育はHIV/AIDSを抑えられるのか?」という議論が出ました。結果は実は混在していて、一つには教育により所得が向上した分だけ買春のようなリスキーな行動が取れたという面があり、もう一つには教育により所得が向上した分だけリスキーな売春に手を出さなくても良くなったという面と、教育により公衆衛生に関する知識が増したことで感染リスクの高い行動を避けられるようになったという面があったためです。
ただ、後者に着目すると教育が健康に良い影響を与えることが分かります。特にアフリカのいくつかの地域では、例えばエボラ出血熱の感染拡大経路からも見て取れるように、教育水準が高まることで感染症のリスクが低下することが考えられます。先進国ではここまで厳しい感染症リスクは存在しませんが、予防接種で防げる感染症について似た図式の事例が各地で見られるようになってきました。
しかし、自分が教育を受けるかどうか判断するときに、自分が教育を受けることで地域の感染症リスクが減少し経済活動に好影響が出る、などと考える人はまずいないでしょう。この外部性の分だけ、個人に教育投資を完全にゆだねると過少投資になってしまいます。
さらに、個人の教育水準が高まると健康状況も改善する傾向が見られるのですが(分かりやすい例では教育水準の高い人ほど喫煙率が低い)、よりインテンシブに働くことが出来るので税収も増加しますし、公的医療費の削減にもつながります。この部分が社会的収益となるので、政府としてもその分だけ公教育投資をするメリットがあります。
B.犯罪への影響
アメリカで貧困層を対象にした良質な就学前教育の収益率が高いという結果が出ていますが、この収益率を大きく引き上げている要因が犯罪への関与だというぐらいには、この点は無視することが出来ません。
一般的に、経済犯などを除いて、教育水準が高くなるほど逮捕率が下がります。治安が悪いと経済に悪影響が出ることは、南アフリカのヨハネスブルグを訪れれば一目瞭然です。なぜ教育水準が高くなるほど罪を犯さなくなるのかというと、収入が上昇すれば犯罪で逮捕された場合に失う所得が大きくなるという点が挙げられます。アフリカやアメリカと比べれば日本のそれはかわいいものですが、日本の都市でも治安が良好でなく、住民の教育水準もそれほど高くない、と言われている場所も存在するようです。
しかし、さきほどと同じく、自分が教育を受けるかどうか判断するときに、自分が将来犯罪に手を染めなくなって、周りの治安が良くなり、経済活動が活発になる、などと考える人はまずいないのではないでしょうか?この外部性の分だけ、個人に教育投資を完全にゆだねると過少投資になってしまいます。
さらに、治安が改善することでその地域の地価が上昇し固定資産税が増加するだけでなく、経済が活発化することで法人税や所得税などの税収も増加します。一方で、刑務所の数が減らせるので、その運用コストの分だけ政府支出を削減できます。この部分が社会的収益となるので、政府としてもその分だけ公教育投資をするメリットがあります。
C.次世代への影響
なぜアフリカで女子教育の重要性がこれほど説かれるのかというと、人口爆発対策もさることながら、母親の教育水準が上がると、その子供の教育水準と健康状況、すなわち人的資本蓄積が向上するからです。もちろん、同様のことは先進国でも当てはまります。
しかし、一般的に女性が教育を受けるかどうか考える際に、将来の自分の子供への影響などは考えないでしょうから、この外部性の分だけ、個人に教育投資を完全にゆだねると過少投資になってしまいます。さらに、次世代の人的資本蓄積が向上するということは、その分だけ将来の税収増加や高支出削減にもつながり、この部分が社会的収益となるので、政府としてもその分だけ公教育投資をするメリットがあります。
D.周りへの影響(スピルオーバーエフェクト)
アフリカの村落開発では、伝統的祈祷師や村長などがキーパーソンとなり、これらの人物の教育水準が高いと支援が上手くいきやすくなります。これは村長が教育で得た知識をもとに村人たちの指導に携わるためで、このように個人の教育水準の高まりによる好影響は、その個人だけにとどまることなく周りに対しても波及効果(スピルオーバー)が見込まれます。先進国でも、産業集積地域における知識のスピルオーバーはこの一つの例だと言えるかもしれません。
しかし、一般的に個人が教育を受けるかどうか考える際に周りへの波及効果を考慮することはないでしょうから、この外部性の分だけ、個人に教育投資を完全にゆだねると過少投資になってしまいます。そして、地域の生産性が向上するということは、その分だけ税収も向上し、この部分が社会的収益となり、政府にとってその分だけ公教育投資をするメリットとなります。
E.民主主義への影響
一般的に教育水準の高い人物ほど投票率が高いなど、教育開発を適切に実施できれば(労働市場の状況を無視して教育拡大を行うと、教育の高い失業者があふれ社会を不安定化させるのは、アラブの春の一部の地域でも見られましたが)、教育は民主主義を安定的なものにさせると考えられています。
民主主義がどれぐらい経済発展に好影響を及ぼすのかは勉強不足で知らないのですが、民主主義を望ましいものだと仮定すると、一般的に教育を受けるかどうか考える際に民主主義の安定化などを考慮することはないため、この外部性の分だけ、個人に教育投資を完全にゆだねると過少投資になってしまいますし、これが税収の増加や公支出の削減につながれば、それは社会的収益となります。
(2)教育の社会的収益を所与のものとしてしまっている
さすがに日本の官僚は優秀なので、教育の外部性や社会的収益の存在は認識しているはずですが、財務省が高等教育の社会的収益率を所与であるかのように捉え、個人利益だと言ってしまっている点は問題です。社会的収益率には税収が含まれるので、高等教育を受けて収入が高くなっている人をターゲットに税率を上げる累進的な税制を取れば、高等教育の個人利益分を削って社会利益分を増加させることが出来ます。なので、財務省が高等教育は個人利益だと言うのは、財務省がそのような税制を敷いている結果であるので、高等教育に公支出を入れるべきではないという議論はマッチポンプ的な印象を受けます。
(3)貧困層の進学行動を理解できていない
貧困層は、たとえ教育を受けることで将来収入増が見込めると分かっていても、教育を受けることが出来ないケースがあります。一昔前のアフリカの不就学児の大半がこれに当てはまったはずです。教育を受けるための資金の借入制約に直面していると、たとえお金を借りてでも教育を受けた方が得だと分かっていても、お金を借りることができません。このため、政府が介入してこの制約を取り除く必要があります(日本の学生支援機構がこれに当てはまる)。
さらに、貧困層と富裕層を比べると時間選好率に差があって、貧しいほど将来の価値をより大きく割り引いてしまう傾向があります。具体例をあげると、例えば富裕層なら今100万円が手に入ることと一年後に110万円が手に入ることを同じと見積もるのに、貧困層だと今の100万円が一年後の120万円ほどの価値に感じられる。同じ金額を持っていたとしても、富裕層と比較して将来の消費よりも現在の消費を選択しがちになります。
そして、教育を受けるという行動は、現在出来るはずだった消費を人的資本投資に回し、将来より大きな消費を出来るようにするという側面があります。このため、教育のリターンが同じであっても貧困層ほどその価値を大きく割り引いてしまい、教育を受けるためにお金を投資するよりも現在の消費を選択する傾向が出てきます。
特に、大学教育を受けた効果が顕著に出始めるのは入学から5年以上先の話ですから、仮に貧困層が借入制約を乗り越えられたとしても、この点に注意を払った制度設計(現在の消費をそれほど諦めなくても済むように直接コスト(授業料)を低くする、間接コスト(放棄所得)を補うためにローンでない奨学金を提供する)を行わなければ、貧困層と富裕層の就学格差は縮小しないでしょう。
あと、やや貧困層の話からは外れますが、リスク回避性が高い人も大学進学をしない選択を取る可能性があります。確かに大学教育の私的収益率はプラスであることが多いのですが、学部や大学のレベルによっても分散があるだけでなく、同じ大学の同じ学部で学んだ人たちの間にも収益率に関して大きな分散があるため、大学進学が必ずしも金銭的に得だとは限りません。このため、リスク回避性が高い人は、過剰に大学に進学しないという行動をとる可能性があります。
日本が高等教育無償化に乗り出すのは今なのか?
結論を先に述べると、高等教育政策について無償化に乗り出すのは今ではないし、貧困層へのローンではない奨学金の充実が先だと私は思います。また、外部性も社会的収益率も大きさがどの程度なのか測定しきれていないのが現状なので、外部性や社会的収益があるからといった理由だけで無償化すべきだ、という議論も早すぎます。さらに、教育セクター全体で見た時に、最も優先順位が高いのは就学前教育なのも注意が必要でしょう(【SYNODOS】OECD諸国との教育支出の比較から見る日本の教育課題/畠山勝太 / 国際教育開発)。
(1)日本の高等教育就学率は低い
日本の高等教育就学率はOECD諸国の中で低い方に位置していて、平均教育年数についてはもはやOECD諸国の中でも最下位グループに位置しています。裏を返すと、無償化によって就学希望者数にブーストのかかりうる幅が他の先進国よりも大きくなっています。この状態で無償化に踏み切ると、質の低下を防ぐために必要な予算の措置が大きくなるので、もう少し就学率が上がるまで奨学金の拡充で様子を見た方が無難でしょう。
(2)教育無償化後のビジョンが欠如している‐教育政策編
教育の無償化は何かを成し遂げるための手段であって、目的そのものになるようなものではありません。しかし、今の議論に教育無償化後のビジョンがあるようには感じられません。
特に日本の高等教育の拡大は、本来なら収益率の高いSTEM系(科学・技術・工学・数学)を中心になされるべきだったものが、私立文系が中心となって進んでしまった歴史があります。そのため、この路線に乗っかったまま教育の無償化が行われると、無償化により進学できるようになった層にとって受ける価値のある教育がそれほど施されないことになってしまいます。
さらに、日本は高等教育におけるジェンダー平等が先進国の中で最悪な国の一つとなっています。この辺りを考慮した中期の教育計画をもって教育無償化に踏み切らないことには、無償化が持つ効果を活かすことが難しくなります。
(3)教育無償化後のビジョンが欠如している‐税制編
教育の社会的収益率は税制によって変化させられるのですが、どうもそこまで考えられている感じがしません。例えば、高等教育を無償化している国の多くは、高負担高福祉型の福祉国家であることが多いですが、日本のように負担率が高くない国で高等教育の無償化に踏み切っても、それを政府が回収しきれない可能性が出てきます。
さらに、義務化をせずに教育を無償化すると、それでも大学に進学しない貧困層が納めた税金で富裕層が大学進学するという所得の逆移転が発生するので、これを大学卒業後に回収するために累進課税を強化するなどのセットも必要ですが、この点についても議論されている感じがしません。
(4)大学が授業料収入を減らして政府からの補助金を増やす是非について
文部科学省の高等教育政策の問題点はさまざまな所で指摘されていますが、教育の無償化を実施するということは、授業料収入が政府からの補填に切り替わるということになります。恐らく、政府からの補助金が増えるということは、大学に対する政府からのコントロールの度合いがさらに増すことになるでしょう。このため、文部科学省に教育政策の専門家が増えない限りは、高等教育無償化に踏み切るのはやや危険な判断ではないかなと感じます。
アフリカでは教育の無償化は政治家の大好きな政策の一つになります。これは人口ピラミッドと合計特殊出生率的に、有権者に占める学齢児童を抱える親の割合が大変高いため、票集めにもってこいの政策になるからです。この点、日本は人口ピラミッド的にも合計特殊出生率的にも、政治家が教育の無償化に飛びつくと言うのはやや違和感があります。かつて教育基本法の改正が憲法改正への第一歩と言われたように、憲法改正による高等教育無償化はこれに続く憲法改正の先駆けとして考えられているんだろうなということが透けてみえます。憲法を変えたいから拙速に高等教育無償化に踏み切ると言うのは、90年代以降のアフリカ諸国が無償化で失敗した道を歩むようなものです。
アフリカから学べ、と言われるとなぜ先進国の日本がアフリカなんかから学ぶ必要があるんだと心理的抵抗を持つ人も多いかもしれませんが、日本を取り戻すための高等教育政策を実施したいのであれば、日本はアフリカの経験から学ぶべきものがあるのではないでしょうか?
プロフィール
畠山勝太
NPO法人サルタック理事・国連児童基金(ユニセフ)マラウイ事務所Education Specialist (Education Management Information System)。東京大学教育学部卒業後、神戸大学国際協力研究科へ進学(経済学修士)。イエメン教育省などでインターンをした後、在学中にワシントンDCへ渡り世界銀行本部で教育統計やジェンダー制度政策分析等の業務に従事する。4年間の勤務後ユニセフへ移り、ジンバブエ事務所、本部(NY)を経て現職。また、NPO法人サルタックの共同創設者・理事として、ネパールの姉妹団体の子供たちの学習サポートと貧困層の母親を対象とした識字・職業訓練プログラムの支援を行っている。ミシガン州立大学教育政策・教育経済学コース博士課程へ進学予定(2017.9-)。1985年岐阜県生まれ。