2022.03.26

「#教師のバトン」の、その先へ――教師がものを言える存在となるために必要なこと

『#教師のバトン とはなんだったのか』著者福嶋尚子氏インタビュー

教育

#教師のバトン とはなんだったのか: 教師の発信と学校の未来

内田良, 斉藤ひでみ, 嶋崎量, 福嶋尚子

2021年3月26日、文部科学省が教員の仕事の魅力を現場から発信してほしいと呼びかけて始まった「#教師のバトン」プロジェクト。その当初から「現場の疲弊しきった姿が文科省にはみえていない」「こんなに厳しい状況にある」といった批判が相次ぎ、プロジェクトは炎上、厳しい学校現場を象徴するものとして幅広くメディアに取り上げられることになった。

それから一年、現在もこのハッシュタグを用いた投稿は続き、日々様々な事例や悲痛な声が拡がっている。こうした「#教師のバトン」というムーブメントをどう捉えるべきか、そして教師の働き方の今後をどのように考えるべきか、『#教師のバトン とはなんだったのか』著者のひとりである、教育行政学者の福嶋尚子氏にお話を伺った(聞き手・構成/大竹裕章(岩波書店))。

ものを言う突破口としての「#教師のバトン」

――文科省による官製ハッシュタグ「#教師のバトン」 プロジェクトから一年、このタグによる先生たちの発信は今も活発に続いています。このムーブメントそのものをどう評価していますか?

当初、「魅力を発信する」という趣旨は、文科省らしい手法だと思いました。他方、自由にものを言える状況からは程遠い学校現場から、これだけたくさんの声があがったことには率直に驚きました。

私の周囲には多くの先生たちがいて、みなさんしっかりと思考する人ばかりです。ですが、教師として自分の考えを外に出すのが難しいのは、どなたも共通しています。また私自身、大学教員として学生たちと接していますが、かれらがこれまで教わってきた先生たちも、自分の意見を主張していくという像からは遠いようです。社会全体としてみると、教師は公になにかを訴えたり、ものを言ったりする存在とみなされてこなかったし、教師自身も声をあげにくかったのです。

こうした、教師が「ものを言う」のが難しいことには、制度的な背景があります。詳しくは本書で私が執筆した第4章をお読みいただきたいですが、1998年の中教審答申「今後の地方教育行政の在り方について」から学校経営改革の波が生まれます。そして2000年には学校教育法施行規則の改正で、職員会議が「校長の職務の円滑な執行に資するため」に校長が「主宰する」もの、つまり校長が決めたことを伝達する機関だと定められます。それまで話し合って相互の意思疎通のうえすすめるものだった職員会議が、骨抜きにされたのです。さらに2014年の文科省の通知では、「挙手や投票等」を含め、教職員が職員会議の内容の決定に関わることは「不適切であり、行うべきでない」とされます。教師がそこで、意思表示を行って校長の決定に影響を及ぼすことすら不適当とされたわけです。

また、教師は政治的な発言をしてはいけない、といった風潮もあります。児童生徒に対する特定の政党の支持・不支持をさせるような政治的行為を先導し、公立学校教員に国家公務員並みの政治的行為の制限を課す等を定めた、いわゆる「中立二法」の影響で、教師自身もそう考えてしまっているようです。ただ、一市民として発言すること自体にはなんら問題ないのですが。

こうした状況がありますから、教師は自分の仕事に疑問をもったり、苦しい状況におかれたりしても、これまでは何も言うことができなかった。そうした、ものを言えない学校の状況を考えると、先生たちが不満を形に出したことには大きな驚きがありました。封じられてきた先生たちの声を形に出した点で、「#教師のバトン」というムーブメントには一定の意義があったものと思います。それが、文科省の意図していたところかどうかは別として(笑)。

味方を増やしていくための次の一手

ただ、この動きの今後については、評価とともに留保が必要だと思っています。

日々流れている「#教師のバトン」の投稿を見ていくと、その大半は「自分たちはこれだけつらい状況に置かれている」ということへの訴えです。まず、問題点を訴える、愚痴を言うこと自体はとても生産的で、今の学校現場の具体的な状況が拡がり、広く知られるようになったことに大きな価値があることは間違いありません。

ただ、そこから教師コミュニティの外部にどれほど共感を広げてもらえるか、私自身は心配しています。実際このハッシュタグを追うと、保護者アカウントと教師アカウントがやりあっている姿も時折目にします。「学校現場にいる自分たちはこんなに大変だ」という内容が中心だと、どうしても限界があるのでしょう。ここからはまた別の訴え方が必要ではないかと思います。

教師という仕事は、子どもの権利の保障主体であり、公教育の担い手です。そこに、過重なまでの仕事が押し付けられ、長時間労働が常態化し、現場は疲弊しきっている。そうした、子どもの教育権の担い手としての役割が十全にできていない。こうした側面に焦点を当て、保護者や市民にも共感を広げていく方策を考えるべきではないでしょうか。

不安を抱える教員志望の学生たち

――福嶋先生は教職に関わる授業も担当されています。これから教師をめざす学生たちは「#教師のバトン」をどう受け止めているのでしょうか?

私の知る範囲では、このハッシュタグに関心を持っていた学生はほとんどいなかったようです。授業で少し取り上げたところ、関心を持ってちらほら見たという人が出始めた、というところです。概して「教員はブラック」「教師としてやっていくのは大変」ということを不安に感じている学生が多く、その一つの情報として受け取っているようですね。

こうしたネガティブなものを含めて、学生が社会の情報を受け取って自分で考えるのはまず大事なことです。ただ、その方向性がかなり限定的であることは気になっています。というのは、どの職業にも固有の大変さや重要さがあり、教師の場合、子どもの権利の保障主体、公教育の担い手であることが職業上重要になってきます。そうした「重み」についても受け取って考えて欲しいのですが、教師を志望する学生が、そうした教育者としての重さではなく、労働条件の問題だけに悩んでいる状況に、私自身は懸念を持っています。

もちろん、大前提として今の学校現場の多忙さや超過勤務はまずいもので、是正しないといけません。それに働き始める前の学生が、自分の目指す職業の過酷さが報じられているのをみたら、不安になるのも当然のことです。そうなのですが、どのような教師になるか、教師としてやっていけるかと考えるときに、「子どもの成長に関われるのか」「子どもの権利の担い手としての役割を果たせるのか」ということにほとんど話がいかず、労働条件だけを心配せざるをえないような状況は、教育界にとって決してよいことではないと感じています。

――「授業の重視」の裏にある「教職の専門性」の軽視

――学生が不安になる心情的はよく分かりますし、一方で「問題になるのがそこだけでよいのか」という懸念もあるということですね。ただ、おっしゃるような「子どもの権利の保障主体」といった教師の職業的な重みや意義を、大学ではどのように教えているのでしょうか?

実は、そういったことが十分教えられていないという制度上の問題も大きいのです。現在の教職課程では基本的に、各教科の専門性、つまり授業を行っていくための力に比重を置いたカリキュラムになっています。他方、教科・授業以外に、保護者との関わり(保護者対応)、子ども理解、生徒指導、等々の教職の専門性は充実させにくい。

それと同時に、教師という職業固有の課題についても十分触れられていません。教師のやりがいや魅力については各自治体の教育委員会から発信されますし、大学の授業でも扱われます。ですが、「教師という仕事の困難さ」「子どもと向き合うことの難しさ」といった、子ども理解や教師という職業そのものに関わる事項については、率直に言って情報発信や教職教育が不十分だと思います。

結果として教職についてからも、教科・授業に力点が強くおかれるようになっています。「授業さえうまくできればよい先生である」という言説があり、それが信じられているかのようですし、この考えに沿って、授業以外の仕事を外部化していこうとする政策の傾向があるのです。一例を挙げると、テストの採点を外部化して、保護者・業者に委託するという動きはすでに存在します。採点は授業そのものではなく、忙しい中で教師が授業に集中するためには、採点は誰かに任せたほうが楽になる、という発想です。小学校では市販テストの実施から採点までの外部化は、すでに相当進んでいます。

ですが、採点は子どもの成績評価に関わる非常な重要な役割です。その子がどう成長して、どういう理解でいたり、あるいは何につまずいているのかを推し量っていくという仕事を、ばっさりと切り離していいのでしょうか。それは教育権の核となる部分を外に委ねてしまうことになりかねません。授業だけを過度に重視することで、こうしたひずみが生まれてしまうことを心配しています

――「#教師のバトン」 ではたしかに「授業準備もできない、授業に集中させてほしい」という投稿が散見されます。多忙化のなか何を優先すべきか、という議論は当然出てきますが、その過程で、外に委ねるべきでないものまで外部化してしまう恐れがあるということでしょうか。

その傾向があるのではないか、と懸念しています。

私は、「教科の専門性」と同時に「教職の専門性」も重要だと考えていますが、今は前者に力点が置かれすぎているように思います。子どもの人権とはなにか、子どもとどのように考えて向き合うのか、そういったことに対する注意が、大学の教職課程の段階から不十分です。結果として、授業や教科のこと以外は余計な仕事だという意識が学生には広がってしまっています。

例えば保護者対応という教師の仕事について、「モンスターペアレントがいたらどうしよう」「夜遅くまで保護者から電話がかかってくる」といった心配が、学生たちの中では先行しています。このそれぞれは教師にとって負担の重い事例ですが、一方で子どもの保護者とコミュニケーションをとって向き合っていくという保護者対応自体は、教師の仕事にとって重要な要素です。これが、「教師にとって不要な仕事」と意識されるようではまずいのです。そもそも、保護者の教育権を組織化したものを行使しているのが公教育であり学校ですから、保護者との関わりを「不要な仕事」と受け取ってしまうのは問題です。

念のため付け加えると、「だから保護者対応を勤務時間外でもやるべき」ということでは全くありません。保護者対応でも、あるいは採点でも、子どもへの関わりという教師の職業の根っこに関わる仕事です。それに対して安易にネガティブなイメージを持たず、切り分けて就業時間の中でどう行うようにしていけるのか、そういう観点で考えることが必要ではないかと思います。

ものを言うのは教師の権利であり義務

――何を優先するか、の意見の中でも、「職員会議が長すぎる」「会議の分子どもと向き合ったほうがいい」といった、職員会議に否定的な投稿も見られますよね。

実際、先生たちが職員会議を敬遠したがるのもよく分かるのです。さきほど説明したように、いまや職員会議は「このような指針ですのでこうしてください」といった校長の決定の報告の場で、教師は賛成反対について挙手による意思表示すらできません。だからものを言っても無駄、別のことをしていたほうがよっぽどいい、ということになってしまう。

これは先生たちにとっても不幸ですが、校長先生にとっても不幸なことです。なにか判断するとき、学校現場の最前線にいる先生たちの意見を参考にすることすらできない。そして言うまでもなく、そうした学校で教育を受ける子どもたちにとっても不幸です。本来、その学校独自の教育実践をどのようにつくっていくか、各教師が参加してつくっていく話し合いの場が職員会議だったのです。それが骨抜きにされ、教育の学校自治は弱められてしまいました。

職員室は先生たちが長く過ごす場です。そこでものを言えなければ、他では言えるはずもありません。2014年以前の職員会議とは異なり、手を挙げる、一言何かを言うことが一票になる、そうした感覚は、いまや学校現場から失われてきています。

ですが、こうした「ものを言う」、つまり教師自身が自分の意思や判断を示していくことなしに、教師の働き方をめぐる問題のよりよい進展は難しいと思います。先の保護者対応や採点の例で、もし先生たちの判断や意思の主張なしに業務の切り分けや外部化が進むとします。それが、「教育委員会から言われたから」「校長に命じられたから」という理由だけで行われるとしたら、繰り返すように教師の職業の根幹が揺らぎかねません。そして、日本の教師たちが保護者や子どもたち、社会とつくってきた信頼が失われかねないのではないか、そのような危険性さえ感じています。だからこそ、働き方改革の中、そして教育実践や政策全般について、教師がものを言っていくことが非常に重要なのです。このことを、私は本書で「ものを言うのは教師の権利であり義務」として論じています。

教師がすべて背負うのではなく、条件整備の訴え手に

――ここまでのお話で、突破口としての「#教師のバトン」に一定の評価をしつつ、そこからの動きの危うさについても触れてきました。ご懸念を踏まえつつ、今後どのような動きを考えていくべきなのでしょうか?

まず、「#教師のバトン」を通じて味方を増やしていくことです。現在主流である学校の過酷な実態の訴えは社会的に大きな効果がありましたが、今後を考えるとさらなる賛同を得ていくには、現在のままでは困難もあるように思います。

そうではなく、教師という職業は子どもの権利の保障主体であり、現在の自分たちの長時間労働が常態化した働き方では、子どもの教育によくない影響が出てしまう、ということをしっかり主張していくべきだと思います。教育を受ける権利は、憲法上誰も否定できないものです。そういう立場から自分たちの主張を捉え直し、訴えていくということは重要ですし、これからすぐにでもすべきでしょう。

――ただ、これまで学校が「子どものためにできることを最大限やっていこう」という指針だったがゆえに、様々な仕事がどんどん付け加えられていき、教師の長時間労働が進んでしまったという背景がありますよね。それに対して、「子どものために長時間労働をやめよう」という議論は、大きな転換です。これをどういう観点から考えるべきなのでしょうか?

そもそも、学校が教育という事業を自分たちだけで背負っていると思っている現状自体を鑑みることです。教育の環境を整えるのは行政の役割ですが、目下それが不十分な現状があり、学校がそれを必死にカバーしている。子どものために必要なことがあり、時間や人が足りないなら、学校・教師は自らを犠牲にして対応するのではなく、そのための条件整備要求を行っていくのが義務だ――そう考えていくべきです。

これまで教育法学の分野では、教育権の中身として教育条件整備の要求がなかなか具体化されてきませんでした。ですが現在のようにリソースが足りない中、子どもの公教育を受ける権利、子どもの必要性を充足するために、先生たちが頑張るだけでは破綻します。そうではなく、「こういう環境や設備・人員が必要」「こういった教育実践のためにこういう仕組みが必要で、現在こういう枷(かせ)がある」といったことを声をあげて主張し、それを国や自治体に要求していくことが必要です。

その上で、何を教師の業務として担うべきか、また外部化すべきかという議論がでてきます。その時、忙しいからという観点だけで人に渡すのではなく、「ここは任せたほうが合理的であり子どものためにもなる」ということも同時に見極め、選択していくことが必要です。先程は採点の例を挙げましたが、「選択問題で誰が採点しても変わらないなら外注する」と判断するのは合理的でしょう。他方、記述問題や作文の採点といった子ども理解や学級経営・授業等に幅広く関わる事項はそう簡単に任せるべきではない、という考えも出てきます。そうすると、採点の時間が確保できないなら、その他の業務をどうするか、そうした取捨選択の判断が行われることになります。

――その取捨選択を行うのは、先生たちなのでしょうか?

はい、そうあるべきです。学校現場には、細分化された、名前もないような職務が山程あります。それを「これは必要/不要」「他のやり方をすれば楽になる」「これは任せてもいい」と判断するのは、現場にしかできません。その判断を理論立てして、後押ししていくことは教育学が担うべきことで、私たちもできるだけのことをしたいですが。

お話ししてきたように、今の学校現場で「ものを言う」というのは難しいことですし、制度上も声を封じる方向に進んできたことは確かです。ですがその結果、閉塞した学校の状況が生まれてしまっている。「#教師のバトン」はそれを打開する大きなきっかけと言えますが、そこからさらに、子どもの教育を受ける権利の保障主体としての教師のあり方を取り戻すため、教師が声をあげ、学校現場がより良い方向に進んでいくことを願っています。

プロフィール

福嶋尚子教育行政学・教育法学

千葉工業大学工学部教育センター准教授。専門は教育行政学・教育法学。著書に『占領期日本における学校評価政策に関する研究』(風間書房)、共著に『隠れ教育費』(太郎次郎社エディタス)など。

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