2014.12.18
目に見えない敵と戦うために――感染症のリスクを扱う
エボラ出血熱、デング熱……感染症の話題に事欠かなかった2014年。感染症のような見えない敵と戦うとき、医師は病気を治療するだけではなく、パニックに対峙する必要にも迫られる。今回は、『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』(光文社新書)著者の岩田健太郎氏に、感染症のリスクをどのように見極め、パニックとどのように対峙するのか、お話を伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)
「エボラ疑い」は発表すべきではなかった
――今回は、「感染病パニックを防げ リスク・コミュニケーション入門」の著者・岩田健太郎さんにお話を伺います。今年は、デング熱やエボラ出血熱など、感染病についての話題が多かったですね。
そうですね。2009年に神戸市でインフルエンザが流行しましたが、今年も、その時と同じようなパニックに陥っていました。今回、本を出版したのも、5年もたったのに何の学習もなかったのかと、この騒動に愕然としたからです。
――どのような点でそう感じられましたか。
たとえば、先日、リベリアから帰国した人が発熱し「エボラ疑い」の理由で入院し、それが大きく報じられました。結局、検査は陰性でしたが、大きな騒動になりましたよね。
そこで、国交省が疑い症例の時点で発表することに言及し、厚生労働省から当該人物の国籍や性別や年齢や職業などを情報開示することが発表されました。
・エボラ出血熱の感染が疑われる入国後の患者が見つかった場合の情報開示方法
私は、疑い症例の時に発表すべきではないと思っています。エボラが発生しているのかも分かっていないのに、情報を流すことに意味があるのでしょうか。ましてや、性別や年齢など、なんの意味もありません。
もちろん「疑いがある」と言っているだけですので、嘘はついていません。ですが、嘘をついていなければOKというわけではありません。言葉の表面で嘘をついていなくても、「エボラ出血熱の感染疑い」を報道するのは、きわめてミスリーディングです。パニックをいたずらにあおっているだけで、リスク・コミュニケーションの観点から見ると、明らかな間違いです。
だいたい、あんなに報道されてしまったら、仮に病気を疑ったとしても名乗り出しづらくなってしまいますよね。そのことで医療機関への受診が遅れる可能性もあります。
パニックに対峙する
――「リスク・コミュニケーション」という言葉が出てきましたが、どのようなものなのでしょうか。
リスクと対峙する際には、リスクだけに対峙するのではなく、その周辺にあるものに配慮して効果的なコミュニケーションをする必要があります。
私は2001年にはアメリカで、医師をしていたのですが、9・11後に起きた「炭疽菌によるバイオテロ」対策に関与ことがあります。
当時、アメリカはパニックでした。「アラブ人っぽい人とすれ違った時、不思議なにおいがしたのだけど炭疽菌なのでは」と言われ「炭疽菌に臭いはありません」と答えたり。「買ったドーナツに白い粉がついていました」「それは砂糖です」とか、冗談のような問い合わせが殺到しました。
――落語のような話ですね(笑)。
「バイオテロ」の被害者は22名、死亡者は5名。他の感染症と比べても、きわめて少ない被害者数であるのに、全米だけでなく世界中がパニックに陥ってしまったのです。
その後も2003年には北京で「SARS」の診療に関わり、2009年には神戸市で最初に見つかった「新型インフルエンザ」症例の対策をしてきました。そこで感じたのは単に感染症の治療をするだけではなく、「パニック」に対峙することが大切だということです。
特に、感染症というのは目に見えません。目に見えないもの、なんだか分からないものはこわいんです。たとえば自動車ってこわくないですよね。自動車にはリスクがありますが、どのようなリスクがあるのかが分かっています。
――横断歩道ではきちんと止まるとか、対策が明確にありますよね。
しかし、感染症は目に見えないし正体もわからない。だからこそ、パニックに陥らないように気をつけなければいけません。もちろん、「パニック」が起きなければいいというわけではありません。感染症のリスクを過少に見積もってしまうことも問題です。大事なのは、専門家がリスクを検討し、「どのくらい恐れればいいのか」を示すことなんです。
「感染力」ってなに?
――では、リスクはどのように判断されるのでしょうか。感染力を見積もったりするのかなぁと思ったのですが。
実は、「感染力」という言葉は存在しないんですよ。ぼくもよく「エボラは感染力が強いのですか?」と聞かれることがあるのですが、「感染力」という概念自体が存在しないので答えることができません。
「感染力」というのは、非常にあいまいな言葉で、その多くが「リスクが起きる可能性」と「起きた時の影響の大きさ」を一緒にしてしまっています。しかし、リスク・コミュニケーションでは、その両者を分けて考えなければいけません。
たとえば、自動車事故と飛行機事故を比べてみましょう。
まずは自動車事故。「リスクが起きる可能性」は非常に高いと言えます。車をこすったり、ぶつけたりしたことのある人はかなり多いのではないでしょうか。ですが、「起きた時の影響の大きさ」は車がへこんだりと、軽いものですんでいる人も多いと言えます。
一方で、飛行機事故の「リスクが起きる可能性」は非常に低いですよね。ですが、「起きたときの影響」を考えてみると、甚大な被害が及び、死亡する確率は非常に高い。
その意味で言うとするならば、エボラ出血熱は飛行機事故に似ています。エボラ・ウイルスは体液との接触が主な感染経路で、ヒトからヒトにうつる可能性は少なく、「リスクが起きる可能性」は非常に低いと言えます。しかし、発症すると死亡率が60~90%と言われ、効果のはっきりしている予防接種や治療薬は開発されていません。「起きた時の影響の大きさ」は極めて大きいといえます。
このように、「リスクが起きる可能性」と「起きた時の影響の大きさ」を分けて、個別に考えることは非常に大切です。それを一緒にして「感染力」と言ってしまうことで、「どのくらい恐れればいいのか」を見誤ることになってしまいます。
――なるほど、エボラは重い症状が出る病気であるからと言って、それが大流行するかどうかは別問題なのですね。
そうです。実際に、日本ではまだ一人も患者が出ていません。エボラ出血熱ばかりが騒がれていますが、本来対策すべきは「自動車事故」の方です。例えば日本では年間11万人が肺炎で亡くなっています。さらに、毎年1000人以上のHIVの患者が発生しています。
感染症対策としては、一人も患者がいないエボラより、肺炎やHIVの対策をした方がいいに決まっていますよね。しかし、メディアは恒常的に起こっていることには目を向けません。
――うーん、そうですね。
めったに起きないからこそ注目するんです。犬が人を噛んでも報道しないけれど、人が犬を噛んだら報道する。さらに言えば、「人が犬を噛んだらどうするのか」マニュアルを一生懸命つくって、犬が人を噛まないようにする対策には目を向けない。
今、発表する側も、メディアがどう言っているのかを基準にして自分たちの対応策を決めています。ですが、それは間違いです。メディアがどう報道しようと、自分たちの伝えることを粛々と伝えるべきです。今の発表する側の動機は「マスコミが騒いでいるから」に端を発しているように思えますね。
どのようにリスクを伝えるのか
――次は、どのようにリスクを伝えるのかについてお話を伺えればと思います。
どう伝えるのかには、様々なノウハウが蓄積されています。一例を紹介すると、言ってはいけない言葉に「可能性は否定できない」というものがあります。
――可能性は否定できない、という言葉は記者会見で何度も耳にしたことがありますし、不自然に感じないのですが。
「可能性は否定できない」という言葉は、何も言っていません。専門家は「どれくらい可能性があるのか」を言わなければいけません。可能性がある/なし、だとしたら、ほとんどのことが「ある」に決まっています。非存在証明は基本的にできませんからね。
私のところには、エイズノイローゼの人が診察にくることがあります。よくあるパターンで、はじめて風俗に行った人が、ネットでエイズの知識を調べ、「のどがいがらっぽい」などの症状をエイズだと自分で判断して、夜も眠れないと青ざめた顔をして来ます。
彼らは「保健所で検査をしたんだけど、それは100%正しいと限らないと思うんです」と言ってきます。「可能性は否定できない」に陥ってしまって憔悴しきっている。(この心配の時点で、HIV感染以上に健康を害していると思います。)この人は明らかにHIVを持っていないんです。でも、100%の精度の検査なんてありません。
そういう時に「可能性は否定できないですね」ということに、意味はありません。私は、「心配しなくていいですよ。ぼくは専門家だから分かりますけど、あなたの場合は、まず大丈夫です。可能性はありません。」と声をかけます。そうすると、安心した顔でみなさん帰っていきます。
――「可能性は否定できない」では、「どのくらい恐れればいいのか」の判断材料にはならないのですね。
そうです。「可能性は極めて低い」「可能性は高い」もしくは、「可能性は70%」などと分かっている限りは言い切る必要があります。
当たり前の話ですが、発がん物質や細菌、水銀、放射性物質だって非常に少ない量であれば健康被害はないし、多ければ被害も大きくなります。量に依存しているので、適切に恐れるためには、ある/ないではなく、どれくらいの量があるのかが極めて大事です。
どんなものにだってリスクはありますので、それを全部排除しようとしたら生活が不自由になってしまいます。だからこそ、リスクを適切に恐れることが必要なんです。
ぼくは、落語を良く聞くのですが、中でも古今亭志ん生が大好きなんです。彼の演じる「火焔太鼓」のセリフに「あんたなんか、ついでに生きているような人なんだよ」というものがあります。この「ついでに生きている」というのが非常に大事で、あんまり心配し過ぎると(心配し過ぎないのも問題ですが)楽しく生きていけないですよ。
アナロジーは通じない
――リスク・コミュニケーションを行う上で気を付けることはなんでしょうか。
言葉の使い方には、かなり気をつける必要があります。
たとえば、ぼくは本を書くときに、メタファーやアナロジーやジョークをよく使います。しかし、リスク・コミュニケーションにおいてこれらは逆効果の可能性がある。
最近、ツイッターをやっていて思ったのですが、メタファーが全然通じない人ってけっこういるんですよ。彼らの常套句は「ぼくはそういう話をしているんじゃない」です。たとえば、大根足と書いた時に、普通は女性の足のことを形容するのだけど、「私は野菜の話をしているんじゃない」と反応されてしまうような感じです。「大根に失礼だ!」とか(笑)。
ぼくは「エイズは糖尿病みたいなものだ」という例えをよく使います。この比喩の意味は慢性疾患として、完治はしないけれども、薬を飲めばコントロールできる、ということです。
ですが、「エイズ」と「糖尿病」という言葉だけに反応して「エイズのような性感染症と、一緒にするな!」と批判されることがあります。
たとえ話は非常に有効な教え方なんですが、リスクを語る時には向いていないと思うんです。たとえば、記者会見で、エボラ・ウイルスは○○病みたいなもので、と例えることで誤解が生まれてしまいます。
――分かりやすいけれど、それはもろ刃の剣であるということですね。
日本では、所属を非常に大事にします。ぼくが何を言っているのかではなく、ぼくが何者なのかが優先されているんです。たとえば僕だったら男で大学教授で40代の日本人。何を言っているのかはその次なんです。
これは、人物に限らず起こります。たとえば「放射線」「放射能」という言葉が出てきたら「安全派」か「危険派」に分けられ、二元論的になってしまう。
たとえば、ぼくは感染症の専門家ですが、講演で、がんについてお話しようとしたら、「お前はがんの専門家じゃないだろう」と言われてしまいます。一方で「お前は医者のムラに属している御用学者だ」と言われることがあります。
――難しいですね。
どっちに属していても、その所属に対して悪態をつくことができる。ぼくは、そのようなあり方を批判していますが、リスク・コミュニケーションにおいては、そういった貧弱な発想も込みにして伝えなければいけません。
―― 一方で、パニックにはデマが付きものだと思いますが、そこにはどう対応しているのでしょうか。
デマは放置しておくと、認めたと思われどんどん拡散していく傾向があります。面倒でもほおっておいてはいけません。
ツイッター上などでデマを発見したら、私は絶対に修正しています。ツイッターはデマが拡散しやすいですが、同時に修正するのも簡単です。
見解の相違は認め合わなければいけません。自分の真逆の意見でもそれは否定してはいけないと私は考えています。ですが、間違った情報は正すべきですね。
日本に足りないのはリスク・コミュニケーションだ
日本では省庁や国立感染症研究所、都道府県庁などには、記者会見をするにも関わらず、リスク・コミュニケーション部門がない状態です。
大臣が記者会見をするときも、原稿はあるかもしれませんが、リスク・コミュニケーションのプロがやっているわけではありません。売り言葉に買い言葉で、ミスリーディングなことを言ってしまうこともあります。
一方、欧米諸国ではリスク・コミュニケーションの考え方が広まっています。特にイギリスでは狂牛病(BSE)で痛い目にあっているので、非常に進んでいるんです。当時のジョン・セルウィン農業大臣は、マスコミのカメラの前で、4歳の娘と一緒にハンバーガーを食べました。
――日本でもカイワレを食べるパフォーマンスがありましたね。
でも、実際、ハンバーガーが狂牛病の原因であることがわかり、大バッシングにあってしまいました。危機時に安直な行動をしてしまった典型と言えます。
他にもペルーでコレラが大発生した際、情報発信が上手くいかず、流行の広がりが止まらなかった、という事例もあります。このようなケーススタディーを欧米諸国では蓄積しています。
その上で、リスクをいかに伝えるのか、学問的に方法論が確立しているんです。たとえば、記者会見時は、何を言いたいのか必ずサマリーを渡す。そして、誰でもアクセスできるようにネットにも上げる。マスコミは時に事実をゆがめたり省略したり面白おかしく書くことがあるからです。
その他にも、記者会見の時に「ノーコメント」と答えると、何か隠していると思われるので、言わないなど、事細かく具体的なことに及びます。
そういった学問的に確立していることを、本書では教科書的にお伝えしているんです。ぼく個人が新しく何かを考えたものではありません。
ですが、日本におけるリスク・コミュニケーションの本は、学者目線の本が多く、読んでいても、ちんぷんかんぷんです。それは英語を直訳したようなものが多いからなんですね。
「リスク・コミュニケーション」なのに読者とコミュニケーションが取れていないのは問題です。ですので、それを僕なりに咀嚼し消化し、一般の方にも伝わることばで書いたのが本書なんです。
――この一冊で「リスク・コミュニケーション」を体現したのですね。
そうですね。類書はないと思いますので、ぜひ手に取っていただければと思います。
プロフィール
岩田健太郎
島根県生まれ。島根医科大学卒業。沖縄県立中部病院、ニューヨーク市セントルークス・ルーズベルト病院、同市ベスイスラエル・メディカルセンター、北京インターナショナルSOSクリニック、亀田総合病院を経て、2008年より神戸大学。神戸大学都市安全研究センター感染症リスクコミュニケーション分野および医学研究科微生物感染症学講座感染治療学分野教授。神戸大学病院感染症内科診療科長。