2017.12.20

行き詰まる「サッチャリズム2.0」と若者たちの「社会主義2.0」

『イギリス現代史』著者、長谷川貴彦氏インタビュー

情報 #イギリス#新刊インタビュー#コービン

リーマンショックによる金融危機は、1930年代の大恐慌、1970年代の石油危機に匹敵する「第三の危機」だといわれる。大恐慌は福祉国家をもたらし、石油危機はサッチャリズム(新自由主義)を生み出した。それでは、現在の危機はどのようなシステムを生み出すのか? 「サッチャリズム2.0」が延命するのか、それとも「社会主義2.0」が未来を切り開くのか? 『イギリス現代史』の著者、長谷川貴彦氏に話を伺った。(聞き手・構成 / 芹沢一也)

「ゆりかごから墓場まで」

――かつてイギリスは「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる福祉国家のモデルでした。労働党も保守党も福祉国家を支持していたことから、73年のオイルショック以前は「コンセンサス政治」の時代と呼ばれますね。

「コンセンサス政治」の起源については、諸説あります。

最近、『ダンケルク』という映画が公開されました。英国軍の北フランス・ダンケルクからの撤退戦を描いたものです。そこで発揮された民衆の愛国心にエリートが感動したところに、「コンセンサス政治」ははじまるという説もあります。

――逆境に直面したときに、みなで力を合わせて乗り越えていく「ダンケルク精神」といわれるものですね。

そうです。ダンケルクの精神は、戦争を遂行するうえで国民の一体性を鼓舞するレトリックとなりました。そして、戦争に協力した国民への報酬として、完全雇用と福祉を保障する戦後の構想が模索されたのです。その具体化が、1942年に発表された有名な「ベヴァリッジ報告」です。

――「ベヴァリッジ報告」ではどのような提案がされたのでしょうか?

ベヴァリッジの提案は、市場では解決できない「五つの巨悪」、すなわち「欠乏、病気、無知、不潔、怠惰」から、すべてのイギリス人を解放することを目的としていました。つまり、社会保障、医療サーヴィス、教育、住宅、雇用政策など、貧困が包括的で統合的な社会保険計画によって根絶できることを示したのです。

なかでももっとも重視されたのが社会保障で、ベヴァリッジの原則は、次のように要約できます。第一に、社会保障は、政府が国民に対して保障する生活水準としての「ナショナル・ミニマム」に設定すること、第二に、すべての人への均一給付に対応して拠出もまた均一でなければならないこと、第三に、すべての人を包摂することでした。

――そうした原則にもとづいて、戦後イギリスに福祉国家ができ上るわけですね。

はい。戦後のイギリスは、おっしゃったように「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる福祉国家を築き上げます。

1945年5月、ヨーロッパ戦線が終結したあと、最初の総選挙で勝利したのはクレメント・アトリー率いる労働党でした。アトリーら労働党の有力政治家たちは、チャーチルの戦時挙国一致内閣で重要閣僚を占めていました。戦時内閣で労働党員が築いた実績と信頼、そして「ベヴァリッジ報告」に対する賛意などによって、保守党に対して労働党が地滑り的な勝利を収めたのです。

アトリーらが実施した政策は、福祉国家(社会保障)、完全雇用、国有化など、抜本的な改革をともないました。これらの政策は保守党によって批判されましたが、1950年代に保守党が政権に返り咲いた後も継続されます。つまり、福祉国家体制は、二大政党間での「コンセンサス」となったのです。

――その結果、イギリスにはどのような社会が生まれたのでしょうか?

福祉国家体制のもと、医療が無償化され(国民保健サーヴィスNHS)、教育が無償化され、児童手当が付与され、公営住宅が建設され、生活のインフラやセイフティネットが整備されました。その結果、イギリスにベビーブームが訪れます。

1950年代からは経済も復興し、「豊かな社会」へと移行していきます。そして1960年代には、購買力を持ったベビーブーマーたちを基盤に、音楽やファッションの領域で「文化革命」が引き起こされていきました。この時代のアイコンであるビートルズやミニスカートは、ここから生まれることになります。

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サッチャーと新自由主義

――それが70年代になると、イギリスは一転、「英国病」と呼ばれる停滞期を迎えます。そこに「戦後コンセンサス」の行き詰まりをみたサッチャーが、新自由主義的な改革をはじめる、というのが一般的なストーリーですね。

そうなのですが、じつは「戦後コンセンサス」という言葉が登場してくるのは、1970年代です。

歴史的変化が起ころうするとき、それを推進する社会勢力は、古い体制を批判する言語を発明する。これは歴史の鉄則ともいえます。フランス革命期の「旧体制」(Ancien régime)、イギリス自由主義改革期の「旧き腐敗」(old corruption)などがそうです。

1970年代は、コンセンサスに対する批判が各方面から提出され、「思想の自由市場」(the marketplace of ideas)と呼ばれるほど論争が活況を呈します。まず二大政党内部で、戦後政治の異端分子が進出していきます。保守党内部では、ニューライトと呼ばれる勢力が反福祉国家と自由市場を前面に掲げます。対して、労働党内部では、ニューレフトともいえる勢力が、公有化と計画経済化の社会主義路線の徹底化を掲げました。こうして両陣営が戦後政治に異議申し立てをしていったのです。

――方や自由主義の徹底、方や社会主義の徹底を唱えて、「コンセンサス政治」を挟撃していくのですね。

はい。結局、ご存知のように、サッチャリズムに連なるニューライトの路線が勝利して、70年代の歴史は新自由主義の「成功物語」に組み込まれていきました。つまり、「英国病」と呼ばれる停滞に陥った経済を建て直したのが、サッチャーの新自由主義であったというのです。

――本ではそうしたストーリーが疑われていますね。

金融危機後の2010年代、新自由主義的な緊縮政策による政治や社会の混乱が続くなかで、かつての新自由主義による「成功物語」が説得力を失っていったのです。そうしたなか、さまざまに70年代の見直しが進んでいます。

たとえば、「英国病」の中心に位置するイギリス「衰退」論ですが、この議論に対しては、1960—70年代はイギリス経済史上の黄金時代を経験していたと主張されるようになりました。あくまで、ドイツや日本といった、敗戦の荒廃から急激に復興した国と比較した場合にのみ、イギリスの相対的劣位がみられると、70年代の見直しが進展したのです。

あるいは、社会や文化をみても、この時代は女性の解放運動が進展し、移民との人種関係が改善されました。ゲイやレズビアンなどのLGBTの解放も進み、マイノリティの社会的地位も上昇しました。北アイルランドでは公民権運動の影響を受けながら、自治権を求めて激しい闘争を展開しています。人びとが自己決定権を強めて、自己実現を追求する時代であったといえます。

いずれにしても、「英国病」や「衰退」といった言葉で括れるような時代ではありません。

――にもかかわらず、「戦後コンセンサス」という言葉が発明され、それが克服されるべき「英国病」の原因として攻撃されたわけですね。そうしたなか、サッチャーはどのような政治を行ったのでしょうか?

サッチャリズムとは、一般的には「新保守主義」と「新自由主義」とのイデオロギー的混成体であるといわれます。

イギリスのマルクス主義理論家スチュアート・ホールの適切な表現を借りれば、サッチャリズムの本質は、国家、国民、家族、そして「法と秩序」といった伝統的な保守主義のテーマを、新自由主義的経済政策と結びつけた「権威主義的ポピュリズム」にありました。

――それぞれ具体的にはどのようなことをしたのでしょうか?

新自由主義についていえば、民営化による市場原理を導入して、肥大化した国家セクターをスリム化しました。これは広くは、有産階級の私的所有権を保護して、財産処分の自由を拡大していくことを目的としていました。

このような政策は、「ゆりかごから墓場まで」といわれた手厚い社会保障制度にメスを入れ、福祉国家を解体することを意味していました。社会保障給付の後退は、とくに若年層や母子家庭を直撃し、貧困と格差を拡大させ、社会に亀裂をもたらしました。

新保守主義という点からすれば、サッチャリズムは、新自由主義的政策で生じた社会的不満に対して、権威的秩序を再強化していきます。たとえば、フォークランド紛争の際には、メディアが排外主義的なナショナリズムを喚起し愛国心が高揚しましたが、こうした事例が典型的ですね。

また、「法と秩序」という点では、サッカー場で生じた暴動や事故を利用して監視と警察力を拡大したり、社会保障の負担を家族に転嫁したりと、国家、国民、家族、「法と秩序」といった伝統的秩序の再編・強化に訴えたのです。

――サッチャーの言葉に、「社会などというものは存在しない」という有名な言葉がありますね。

サッチャーは1987年に、『女性自身』という雑誌のインタビューに答えて、「社会などというものはない。あるのは家族と国家だけだ」と発言します。「社会」という言葉は、「共同性」とか「福祉国家」と言い換えてもよいのですが、それらが福祉に依存する体質を生み出し、人びとから勤労の意欲を奪ってきたという認識をサッチャーは持っていました。そうした認識に立って、徹底した経済的自由主義にもとづく個人主義を、サッチャーは説いたのです。

その際、サッチャーは、19世紀の古典的自由主義の時代を理想化して、「ヴィクトリア的価値観」への回帰を唱えます。このことは、彼女の生い立ちと深く関係があります。

サッチャーは、イングランド中部リンカンシャーのグランサムという田舎街で、雑貨商を営む父の娘として生まれました。父からは、サミュエル・スマイルズ『自助論』を地でいく、立身出世を目的とする方法的な生活態度を受け継ぎます。彼女は刻苦勉励して、奨学金をえてオクスフォード大学に進学しますが、その後も父の信念を守り続けたといいます。

後年、権力と名声を手にしたサッチャーは、この生まれ故郷からは距離を置き、ノスタルジーを感じることもなかったといわれますが、グランサムは、サッチャリズムの道徳的レトリックを構築するうえで象徴的な役割を果たすことになります。

自助努力によって困難を解決するという生活態度を称揚し、新自由主義的政策によって生じる失業や貧困などの社会問題を、個人の道徳的レベルの問題に還元しようとしたのです。

ブレアと「第三の道」

――まるで現在の日本の状況を見るようです。そうなると当然、自助努力では解決できない格差や貧困が社会問題化してきます。そこに1997年、「第三の道」を掲げたブレア政権が現れます。

ブレアの「第三の道」とは、伝統的な社会民主主義でもなく、サッチャー流の新自由主義でもない。その対立を乗り越えていく新たな路線を意味していました。

そこでは、「結果の平等」ではなく「機会の平等」が強調され、国家による福祉供給ではなく、コミュニティの活力を利用した相互扶助の原則などが示されました。また犯罪にも厳しくするが、犯罪を生み出す原因の克服にも真剣に取り組むといったことも強調されました。

「第三の道」は、1990年代の社会構造の変化に対応した、中道政治の再編と捉えることができます。この背景にある社会変容は、きわめて複雑です。

1980年代と90年代を通じて、おっしゃるように格差は拡大しましたが、労働者階級は縮小し続けました。その結果、厖大な「階級を欠いた中流」が、イギリスの文化の中心であるように感じられ始めました。この「階級を欠いた不平等」と呼ばれる変化のなかで、労働者階級は消滅することはなかったものの、その数は三分の一までに縮小していきます。

新しい中産階級は、労働者階級の環境で育ってきた人びとによって構成され、旧来の労働者階級と中産階級の文化の要素をひとつにまとめて、新しい1990年代の中流のスタイルをつくりあげます。労働者階級からは公教育への熱意を継承し、中産階級からは高等教育への意欲を継承しました。これは、1990年代になって、保守党と労働党の政権双方とも、一八歳以上の高等教育進学率をヨーロッパの水準にまで引きあげる政策を掲げたことによるものです。

――ブレア政治を象徴する政策は何でしょうか?

「第三の道」路線を象徴するのは、「貧困」への新たなアプローチです。そこでは「社会的排除」social exclusionという人口に膾炙した言葉が用いられています。社会的排除は、貧困の原因を社会参加からの排除として捉え、排除の主体や排除のプロセスを問題とするところに特徴があります。

ブレア政権での経済社会政策を主導したのは、財務大臣のゴードン・ブラウンでしたが、彼はサッチャリズムとは異なり、貧困の緩和や再分配を志向する点では、社会民主主義的なエートスを復活させる政策をとりました。

ただし、ブレア政権は失業給付の増額といった直接的な再分配ではなく、「福祉から労働へ」というスローガンのもとで、失業者など福祉受給者を労働市場へ誘導する職業訓練プログラムを整備するなど就労支援政策を推進していきます。

これらの経済社会政策は伝統的な労働党の手法とは異なりますが、サッチャー政権期以降の新自由主義的政策の修正を目指しており、「新しい社会民主主義」という「第三の道」を体現するものでした。 

――他方で、サッチャーとブレアとのあいだには「新自由主義的コンセンサス」があるともいわれます。

戦後のコンセンサスが、福祉国家、国有化、完全雇用、労働組合との妥協だったとすれば、サッチャリズムと「第三の道」に共通する「新自由主義的コンセンサス」とは、これらとは対極のものになります。

社会保障に関しては、先ほどお話ししたように、福祉から労働へというかたちで、労働へのインセティヴが高められます。国有化に対しては、民営化。鉄鋼・炭坑・造船など重工業から、金融・サーヴィス業へと基軸産業がシフトしましたが、製造業が衰退すると失業が慢性化します。労働組合の力も弱まります。かくして、福祉国家のもと完全雇用が保障された時代は、はるか昔のものとなりました。

キャメロンの「サッチャリズム2.0」

――結局、ブレアの「第三の道」は新自由主義と変わるところはなかったと評価されるゆえんですね。ブレアを継いだ保守党のキャメロンはどうだったのでしょうか?

2010年5月11日、キャメロンが率いる新内閣が発足しました。この連立政権のジョージ・オズボーン財務大臣は、大幅な歳出削減を盛り込んだ予算案を発表します。保守党政府は、リーマンショック後の労働党政権による財政支出を引き締めようと、緊縮財政に転じました。緊縮政策下で公務員の賃金を凍結し、2011年からは社会保障給付金を削減するなどの「改革」を行います。

――しかし、キャメロンは「大きな社会」を唱えましたよね。

キャメロンの「大きな社会」構想の前提にあったのは、イギリスの社会が「壊れた」(ブロークン)状況にあるという認識でした。労働者階級のコミュニティでは暴力や殺人事件が多発している。そして、それらの社会問題の原因を、家庭崩壊、ドラッグ、アルコール依存、暴力ビデオなど、労働者階級の家族や道徳の問題に還元しようとしました。

オーウェン・ジョーンズという若手ジャーナリストが『チャヴ』(原著2011年)という優れたルポルタージュを書いています。この本は、労働者階級がエスタブリッシュメント(支配層)によって「悪魔化」されるメカニズムを暴露して評判になりました。

――「悪魔化」といいますと?

「チャヴ」は社会の荒廃をもたらしているが、国家の福祉政策がそれを助長しているというのです。「チャヴ」は、ロマ語に起源をもつ白人労働者階級への蔑称で、差別的な響きをもっています。中産階級のジャーナリストや政治家たちは、労働者階級のコミュニティで起こった特異な事件をフレームアップして、「チャヴ」を「荒廃した公営住宅に住む道徳的に堕落した存在」として戯画化しました。問題の根源に切り込むことを回避するかのように、「チャヴ」をバッシングの対象としたのです。

キャメロンの提唱した「大きな社会」構想とは、民間の活力を利用しながら、「福祉依存者」の自立を促そうとしたものでした。慈善団体やヴォランティア団体の力を使おうとする点で、ブレアたちの「第三の道」と変わるところがありませんが、その労働党政権の政策でさえ「大きな政府」であるとして批判されています。

――なるほど、「大きな社会」というのは、むしろ新自由主義を推し進めるものだったのですね。

その通りです。結局のところ「大きな社会」は、緊縮財政を進めるキャメロン政権の大幅な社会保障の削減政策を正当化するために用いられた感があります。

2011年にロンドン五輪に向けた再開発地域をはじめとするイギリス各地で暴動が発生しましたが、その原因として「大きな社会」の民活路線が批判されるようになると、「大きな社会」も次第に語られなくなりました。

――「サッチャリズム2.0」と呼ばれるキャメロン政権の緊縮財政によって、労働者のあいだでEUからの出稼ぎ移民への怒りが強まり、UKIPのようなポピュリズムの台頭につながったといわれます。

EUが東ヨーロッパに拡大していくにしたがい、加盟した東欧諸国、とくにポーランドなどからの移民労働者が激増することになりました。現在、イギリス国内に居住するポーランド人は60万人を超えており、それはインド系に次ぐ二番目の多さです。そのほとんどが2004年以降に移住しています。その結果、社会保障をカットされ、職を奪われていると感じた労働者の怒りが、EU圏からの出稼ぎ移民に向かっていったのです。

そうした労働者階級の不満を吸収し、急激に勢力を拡大しているのが、極右政党UKIP(連合王国独立党)です。1993年に設立されたUKIPは、急進的な移民制限やEU脱退を訴えて、2014年の欧州議会選挙では、既存の政党を押さえて第一党となりました。おっしゃるように、政府による緊縮政策が、UKIPのようなポピュリズムの台頭を招いたといえるでしょう。

コービンの「社会主義2.0」

――他方で緊縮財政のもと、コービンのような左翼への期待も高まっている状況ですね。

アンドルー・ギャンブルという政治学者によれば、2010年代の金融危機は、1930年代の大恐慌、1970年代の石油危機に匹敵する危機であるといいます。危機の打開の方向性として、大恐慌は福祉国家を生み出し、石油危機はサッチャリズム(新自由主義)を生み出しました。リーマンショック後の金融危機は、その新自由主義が構造的危機にあるといえます。

金融危機は、2008年のリーマンショックを直接の契機として始まりますが、サブプライム・ローン(低所得者向け金融商品)の焦げ付きが原因であったように、背景には格差社会があります。「ゼロ契約」というシフトで雇用関係の不安定性が増し、低賃金状態におかれるなど、労働組合の規制力が失われた労働者の雇用環境は劣悪化して、労働者の購買力は減退しています。

それは、かつての大恐慌期と似た現象が、世界を覆っているといえるでしょう。大恐慌期のアメリカでは、賃金や農産物価格が下落するなかで、農民や労働者が、さまざまな信用ローンに組み込まれて、返済に窮していたからです。

最近、IMFや世界銀行といった新自由主義を推進してきた国際経済機関も、資本主義の存続に危機感をもってシグナルを送っています。購買力が失われてモノやサーヴィスが売れなくなり、経済が持続可能な状態ではなくなっているというのです。

そこに登場したのが、コービンの「社会主義2.0」です。2017年選挙の労働党のマニフェストが典型的ですが、彼らは福祉国家の再建を目指すラディカルな変革を掲げています。とりわけ高騰する学費に悩む学生層、投機的マネーの還流によって住宅不足が深刻化する若者世代にアピールしています。

――「労働党のコービン党首が引き起こしている現在の社会現象には、何か新しい時代の到来を予感させるものがある」と期待を込めて書かれていますね。

労働党はこの間に党員が大幅に拡大していますが、その多くは若年層であり、「モメンタム」と呼ばれる党内組織を設立して、コービンを支える役割を果たしています。これは、2016年のアメリカ大統領選におけるサンダースと類似の現象です。事実、2017年総選挙ではサンダースの選挙顧問を招いて戦術を学んだといいます。こうした若者の参加による政治の活性化は、新自由主義的な政治的風景を一変させているともいわれます。

――若者を政治に呼び込んでるんですね。

はい。若者の世代ということでは、日本ともよく比較されます。コービンのイギリス、サンダースのアメリカの事例だけでなく、スペインのポデモス、オランダの緑の党など、若い世代がSNSを武器に政治の領域に参入してきています。では、なぜ日本ではそうならないのか。日本では若い世代ほど、保守政党への支持が増しているといわれます。

この点を説明するのが、「長期の高度成長」説であると思われます。欧米先進国では戦後復興からオイルショックまで、1960年代を中心に高度経済成長が続きました。ところが、日本では1950年代後半から1980年代まで長期の経済成長が続き、若者の親・祖父母の世代の資産が若者に還流して、若者の経済問題などが先鋭化しにくいといわれます。

しかし、その経済的遺産も底をついてくると、早晩、こうした状況は崩れるように思われます。安保法制反対の「シールズ」現象は萌芽であって、ラディカルな変革運動はやがて日本でも起こるのではないでしょうか。日本の将来を占う意味でも、イギリスからは目がはなせません。

プロフィール

長谷川貴彦近現代イギリス史

1963年生まれ。現在、北海道大学大学院文学研究科教授。専攻は近現代イギリス史、歴史理論。著書に『現代歴史学への展望――言語論的転回を超えて』(岩波書店)、『イギリス福祉国家の歴史的源流 : 近世・近代転換期の中間団体』(東京大学出版会)など。

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