2020.07.03

現実を見つめる、自分で考える

『皇国日本とアメリカ大権』著者、橋爪大三郎氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー

日本がかつて不合理な戦争を始めたのはなぜだろうか。始める前から敗北がほぼわかっていたような不合理な戦争に、国民を総動員させてしまったことには、どのような思想的背景があったのだろうか。

当時、国が『國體の本義』というテキストを発行し、日本全国の学校現場でこれが使われた。このテキストには、「日本の知識層が触れるであろう知的世界がすっぽりと収められており、これに基づいてものを考えると、自分が知的に優位であるような感覚がわいてくる」という。(『皇国日本とアメリカ大権』橋爪大三郎, 筑摩書房)

日本はかつて負けるとわかっている戦争を始め、そして負けた。その原因を当時の軍部が勝手に暴走したことに求め、軍を忌避している人は多い。しかし、『皇国日本とアメリカ大権』によれば、「人びとは、戦争に負けたのでも、軍部に負けたのでも、ない」という。人びとは、『國體の本義』が用意した、皇国主義の「ロジック」に負けたのだという。

なにか幻のような主体が不合理な戦争を始めたのではなく、皇国主義のロジックに納得した上で、一人ひとりが主体的に戦争に向かっていったのである。

『皇国日本とアメリカ大権』は続ける。『國體の本義』の世界観は、皇国主義からかたちを変えて「アメリカ大権」となり、現代日本に生きているという。だからこそ、戦後を生きる私たち一人ひとりが、今も生きる『國體の本義』のロジックから目を背けずに見つめることが必要なのである。

『皇国日本とアメリカ大権』を著した橋爪大三郎氏に、『國體の本義』の構造や、今なお生きるその世界観の強靭さについて聞いた。(聞き手・構成 / 服部美咲)

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480016942/

現実から目を背けないためには「言葉」が必要

――どのような問題意識をもって、『皇国主義とアメリカ大権」をお書きになられたのでしょうか。

戦前と戦後の、切断と連続を問題にしました。

戦前は皇国史観。軍国主義。国家神道。大政翼賛会。それに対して、戦後は、戦後民主主義。平和憲法。国民主権。1945年を境に、悪いものが善いものに、一夜でひっくり返った。これが、切断です。

学校では、切断を習います。でも、そんなはずはないのです。多くのものは連続している。実際にも、戦後憲法は帝国憲法を改正したもので、憲法以外の戦前の法制は基本的にそのまま存続し、官僚機構も(陸海軍が解体されたのを別にすれば)そのまま存続したのです。天皇も、責任を追及されることなく、在位し続けた。

戦前からの連続を理解しないと、戦後は理解できない。自分の社会を理解できない。連続を理解するのは、都合の悪いことも多いが、それでもしっかり見つめる。

連続から目を背けず、見つめるためには、言葉が必要です。「皇国史観」や「軍部」といった言葉は、戦前の言葉であって、戦後に延長できないことがわかっている。そこで、「皇国主義」という言葉をつくりました。皇国主義は戦前の世界認識ですが、それが戦後、かたちを変えた。そして皇国主義と同じく、目に見えない。目に見えないから、存在しないことになっている。存在しないことになっている概念を見つめるために、「アメリカ大権」という言葉をつくりました。アメリカ大権は、戦後日本を理解するためのキーワードです。

このように、社会を科学的にみつめるためには、言葉がまず、必要なのです。

なお、戦前と戦後の連続については、『天皇の戦争責任』(橋爪大三郎・加藤典洋・竹田青嗣、径書房、2000年)という本で、戦争責任の側面から、加藤典洋さんと徹底的に論じ尽くしました。本書は、その続編でもあります。

日本語でものを考える日本人につきまとうもの

――『國體の本義』が戦後の社会から失われて、忘れられたのは、戦後にGHQによって禁書とされたためでしょうか。また、世界観のもとになるテキストが失われたために、その世界観による洗脳が解除されないということは考えられるでしょうか。

GHQが禁じたというより、日本人自身が忘れたかったのだと思います。

自分で考え、紡いだ思想であれば、誰が禁じようと、そう簡単には忘れない。『國體の本義』の皇国主義はそうではなく、学校で教えられたもので、政府の都合で押し付けられた思想です。戦争遂行や総動員体制という政府の目的には合致していたが、戦争に敗れれば不要になった。

戦後、本当は、それを日本人自身の考え、紡いだ思想で上書きする必要があった。でもそうしないで、また新しく学校で教えられた通りに考えることにした。その点では、皇国主義とそっくりです。

これを洗脳というのかどうか。その思想にとらわれ、しかもとらわれている自覚がないことを洗脳とするなら、これは洗脳です。この洗脳の実態をみつめることが、自分の思想を自分で考え、自分で紡ぐためにまずやるべきことです。

――皇国主義は、西欧文明や中国の政治制度などの普遍主義に立脚し、それらを取り入れながら、同時に日本の特殊性を肯定したものと理解しました。日本のように、いろいろな文明の都合のよい部分をピックアップして、ハイブリッドな世界観をつくることは、他国ではあまり見られないように思います。日本は、なぜ他の文明をハイブリッドする必要があり、またそれが可能なのでしょうか。

たとえばイスラムは、自分たちの原理が世界にそのまま通用するし、すべきだと考えている、「普遍主義」です。普遍主義は、「自分の特殊性を認めてください」と、おっかなびっくり国際社会におうかがいを立てるような、へっぴり腰な態度はとりません。

日本の場合は、自然科学のような、拝借しなければどうしようもないものだけでなく、政治制度(憲法や議会や法律や…)、経済制度(資本主義経済)、文化制度(教育や美術や音楽や…)をまるごと、西欧文明からそっくり拝借しています。自分たちが普遍主義だと思っていないのです。そこで、西欧の普遍主義と自分の特殊性とを、ハイブリッドする必要が出てくる。そういう例は、たしかに多くありません。

ハイブリッドが可能である条件のひとつは、高等教育が自国語で行なえること。自国語で考える知識人や高級官僚が大勢いてはじめて、新聞や雑誌や、法律や科学や文学や、…が自国語で営めるようになる。国全体が、自国語で知識を編成する。でもその基本語彙は、西欧文明から借りてきたもので、自国とのギャップをごまかすために、トリックが仕込んであるのです。この秘密を握っているのが、その国の知識人や高級官僚です。そして何喰わぬ顔で、自国語の言論を指導しようとする。そこで自国語にハイブリッドが内蔵される。日本語でものを考える日本人は、いつでもその効果につきまとわれてしまうのです。

■宗教を知らずに警戒していても、逃れられない落とし穴

――たとえば、キリスト教の正典である聖書は、解読が簡単ではなく、今も研究者がたくさんいます。それに比べて、1937年に発刊した『國體の本義」が、短期間で日本のすみずみにいきわたった理由はなんでしょうか。そして、人びとに強い説得力をもったのはなぜでしょうか。日本に滞在するイスラム教徒の人が、断食をしなかったり、豚のエキスをつかったカレーやラーメンを食べたりという宗教的ではない行動をしたとき、「冷静で合理的態度だ」と褒める日本人がいます。日本で、宗教によって行動様式を定められている様子を侮る風潮があるのはなぜでしょうか。

『國體の本義』の言っているのは、「共同体のためにメンバーが犠牲になることは価値がある」です。これは、武士の伝統や、ムラ社会の伝統にもさかのぼる思想です。日本人には馴染みがあり、わかりやすい。

この思想を学校で教えると、日本社会の全体が、「メンバーが犠牲になっても当然」という共同体になります。

戦時中、硫黄島に着任した栗林忠道中将は、一日でも長く抵抗を続け飛行場の建設と本土爆撃を遅らせるため、バンザイ突撃などを禁止し、地下壕を張りめぐらして頑強に抵抗することにしました。結局、硫黄島の守備隊は全滅しましたが、アメリカ軍は全島攻略に1ヶ月あまりを要しました。この作戦には合理性があります。

いっぽう、本土決戦が迫ると一億玉砕が呼ばれ、非戦闘員を含めて全員が死を覚悟しました。政略と戦略(軍略)が切り離されると、軍は不合理な存在になります。日本人が全滅してしまえば、政略上の目的を達成するどころではないので、一億玉砕には何の合理性もない。けれども、戦争をやめる(降伏する)という合理的な決定を、誰も言い出せませんでした。

日本人は、一億玉砕という非合理な宗教的熱情に対して、合理的な決定を言い出せなかった。瀬戸際で玉砕はしないで済んだけれど、その経験があるので、宗教的熱情に対しては警戒的で、距離をとりたくなるのです。

しかし、これはただの、裏返しです。皇国主義で懲りたので、カルト宗教などの宗教的熱情に巻き込まれまいとする。でも、いかにもカルト宗教という外見をとっていない、誰でもが考えそうな思考の落とし穴のほうが、実は危険だし害も大きい。宗教のことをよく知らないでただ宗教を警戒するだけでは、宗教(に相当する言論世界のトリック)と距離をとることなど無理なのです

政府と権力をコントロールする覚悟と責任

――「とにかく権力(国家権力)に反対する」という立場をとる人たちがいます。『皇国主義とアメリカ大権」では、国民主権であるならば、自分たちが権力を自覚的に運用しなければならないと述べられています。わたしたち自身に主権があることを自覚し、権力を正しく運用するためにはどんなことが必要でしょうか。

日本では市民は、政府に反対し、権力と距離を置くことになっています。

とても奇妙なことです。

権力と無関係であることをよしとすると、権力に関わることができないので、結局、権力に依存することになります。人間として生きるふつうの人びとは、政府と権力をコントロールする、覚悟と責任がなければならない。

「人間として生きるふつうの人びと」を、「国民」とよぶことも問題です。

国民主権というと、国民がもっている権利、すなわち、選挙権のことで、選挙で示される国民の意思のことである、というイメージになります。それも主権の行使には違いないが、論理的に考えると、これだけではない。選挙権は、憲法が保証する国民の権利ですが、では憲法を憲法たらしめているのは、何なのか。憲法学の教科書では、「憲法制定権力」と書いてあります。「人間として生きるふつうの人びと」(人民)が、憲法があろうとなかろうと、権力の主体だ、ということです。

国民主権よりも、主権在民のほうが、よい言い方かもしれない。国民ではなくて人民とも解釈できる。国家がなければ国民もありませんが、人民は国家がなくても人民です。

よって、国家をつくる権力の主体は、人民です。だから、アメリカ合衆国憲法にも、フランス共和国憲法にも、「わたしたち人民は…」と書いてあるのです。

皇国主義には、人民が権力の主体だという考えがありません。でもそれを言えば、戦後民主主義も、人民が権力の主体である、とは教えないのです。その呪縛のなかで市民運動をやると、権力にただ反対したくなるのです。

政府は、自分たちの政府であり、自分たちが権力の主体であると思わなければ、民主主義になりません。

思想のマナーを身につけて、一人ひとりが理性で自立する

――『國體の本義』は、当時の知識を結集したものであり、世界の構造をすっきりと説明できる「万能カギ」であったために、とても説得力があったのだと理解しました。現代日本で、再び『國體の本義』のような「万能カギ」が生みだされうるでしょうか。もし現代版『國體の本義』が生まれたとき、洗脳されないためにはどうしたらよいでしょうか。

皇国主義は『國體の本義』を教科書としてうみ出されるものです。『國體の本義』は教科書ですから、正しいことが前提で、疑問や反論は許されない。教科書の通りにひと通りに考える、大勢の人びとをうみ出します。

科学や、哲学や思想は、これと違ったものです。

科学は、一人ひとりが独立して思考する。あらかじめ決まった、こう考えるという教条(ドグマ)はありません。むしろ、そんなものを否定する。理性にもとづいていれば、そして証拠(実験や観察の結果)に裏付けられていれば、どんな主張をしてもいいのです。科学者は大勢いるので、主張もたくさんあります。異なる主張(仮説)のあいだで論争があり、実験や観察によって決着していく。その繰り返しが科学です。

哲学や思想も、あらかじめ決まった教条がなく、理性と根拠にもとづいて、個人の責任で議論を組み立てて、論争する点は、科学と同じです。

科学も、哲学も、考え方がひとつに決まらないのですから、「洗脳」という現象はありません。知らず知らずのうちに、型にはまった考え方(パラダイム)しかできなくなる、という現象があるだけです。

歴史もまた、科学のマナーに従うのであれば、哲学や思想と同じです。

けれども、ネイション(国民国家)は歴史を芯にして形成されるものなので、歴史には個人を越えた、大きな重量がかかります。その重量を、国民が支えるわけです。すると、洗脳のような現象が、生まれないとは言えない。

しかし、科学や、哲学や思想のマナーをしっかり身につけ、一人ひとりが理性によって自立していれば、洗脳を心配しなくてよいと思います。

自分が生きる上での根本的な問題は、自分で考えよう

――現代もかたちを変えて私たちの無意識にいきる皇国主義のロジックは、どのような場面で表面化するでしょうか。

皇国主義のどこが問題かと言うと、「誰かが自分に代わって考える」という構造がある点です。

思考は、同時代を生きる人びとの共同作業なので、「誰かがみんなのために考える」があってもかまいません。専門家はそのためにいて、知力を傾け労力をかけて、その分野の知識に磨きをかけます。人びとが、それに依存するのは当然です。

でも、人民と政府はどういう関係にあるかとか、人間にとって大切なものは、命か自由か豊かさか、とかいった生きるうえでの根本的な問題は、誰もがみな自分で考えているべきです。

皇国主義は、学校でその答えを習って、それで満足し、使い回すひとを大勢うみ出しました。戦後教育も、学校で教わった答えを、使い回して、自分で考えるのをスキップしているひとが、多いのではないか。特に、学校で成績がよかったひとほど、そうなりがちな気がします。

答えを習ってすませた人びとは、問題を考えるのが苦手です。ほんとうに意思決定をしなければならないどんな場面でも、問題が表面化します。どう決めたらいいのかわからない、なぜそう決めたか説明できない、こう決めたのに責任がとれない。ちょっと見渡せばそういうひとだらけなのがわかります。