2011.09.21

週刊誌との付き合い方 ―― 放射能の人体への影響を読む

佐野和美 サイエンスコミュニケーション

情報 #放射能#食品汚染#放射能汚染#サイエンスコミュニケーション#内部被ばく#外部被ばく#被ばく#20mSV問題

東日本大震災、およびそれに伴って発生した福島第一原子力発電所の事故発生から半年が過ぎた。先日放送された、NHKの「サイエンスゼロ」という番組内で、1号機核燃料のメルトダウンからメルトスルーまでが、ほんの数時間のうちに進行していたという東京電力のシミュレーション結果に基づくCG映像が公表された。

核燃料のほとんどが溶けて格納容器内に落下しているとする東電の予想には、否定的な意見を述べる専門家もいるが、いずれにしても、事故の詳細が検証されるにつれ、この事故は、シビアアクシデントを予見すらしていなかった当事者たちの『安全神話』への妄信が招いた人災であったという思いが強くなる。

官公庁からの放射能測定データは毎日更新されるが、そのデータの解釈は市民の側に求められている。数値が高いのか低いのか、健康に影響があるのかないのか。データの解釈に必要な科学的な知識を、市民一人一人が持たなくてはいけない事態になっている。そのための知識や情報を伝える大きな役割を担っていると思われるのがメディアだ。メディアがどのような情報発信をしているのかは、充分に検証する必要がある。

筆者は、科学コミュニケーションの観点から、週刊誌の情報発信の仕方を半年間リサーチしつづけている。初期の段階の週刊誌の報道比較については、以前の記事 http://synodos.livedoor.biz/archives/1764205.html で報告した。本稿では、その後の週刊誌ごとのテーマ変化を追うとともに、論調の変化をも考える。

原発内で何が起こっているのかを報じていた初期の頃の内容から、現在は、放射線の人体への影響や放射性物質による食品汚染の問題へと記事内容そのものが変化してきている。なお、当時の報道にもとづいて記事を比較検討しているため、いま現在の状況とは多少異なっている場合があるのでご注意いただきたい。

週刊誌の記事内容の変遷

まずはじめに、8月末現在、週刊誌がどのような記事を取りあげているのかを見てみよう。容易に想像できることだが、原発や放射能汚染を取り上げた記事はだいぶ数を減らしている。

ちょうど、首相交代の時期と重なったこともあり、8月以降、『週刊新潮』『週刊文春』から原発関連の記事は姿を消している。また、科学的によく検証された記事で冷静な情報提供をしてきた『週刊ポスト』も、7月22日/29日合併号以降は、まとまった記事として取り上げていない。『週刊朝日』からも、8月以降急速に記事数が減っている。

一方、『週刊現代』『サンデー毎日』は、8月いっぱいまで変わらずに主に食品等の放射能汚染問題、健康問題を中心に記事を掲載し続けていた。

特に力を入れて健康への影響を記事にしているのが『AERA』で、5月16日号以降、子を持つ母親からのコメントを積極的に掲載するようになった。他の週刊誌と違い、母親の気持ちに合わせた記事を掲載するのは評価できるが、個人的な体験に即しすぎた記事は、記事の客観性を保てなくなる恐れもある。決して、個人の不安に向き合うことが悪いと言っているわけではない。『AERA』の記事の大半は、念入りに取材して書かれた正しい情報ではあるが、個人の体験に根ざして書かれた部分は、掲載する側も読む側も慎重になっていただきたいと思っている。特に健康問題については客観的で正確な情報が求められるので、個人的体験とは適度な距離を置かないと危険ではないだろうか。現状はいささかバランス感覚に欠くきらいがある。

以下では、この半年間、週刊誌がどのような記事を扱ってきたのかを、さらに具体的に紹介したい。記事内容を大まかに分類して述べていくが、あくまでも筆者の主観的なもので、記事の大小ではなくその文面から判断したものである。

原発そのものの記事が減った5月頃から、各地の放射線量が掲載されるようになった。身近な地域の放射能レベルを知りたいという市民の欲求に応える形であり、また、市民が個人で線量を測る流れを作ったとも考えられる。それに伴い、各地の放射線量を実際に測定したデータが出始める。一部の都市の放射線量はかなり早い時期から測定されていたが、東京都内を網羅的に測定した初めてのデータは、『AERA』6月20日号に掲載された共産党都議団のデータだった。これは比較的信頼度の高いデータである。

しかし、週刊誌の編集部が独自に計測したデータの中には、安物の測定器をもちいたものや明らかに測定器の使い方が不適切なものも見られた。これらはおうおうにして放射線量を高めに見積もってしまう傾向にあり、本来の値の数倍になっていると考えられるものも少なくない。測定器のスイッチを押して目盛を読めばいいのだろうという甘い考えで測定したのだろうが、これは社会に大きな混乱をもたらしたと思う。専門家のアドバイスを受ければ防げたはずの単純ミスばかりなので、その程度の手間を惜しんだことは非難されるべきである(ガイガーカウンターを使う際の注意は、6月11日に秋葉原で行われたガイガーカウンターミーティングの公式サイトなどをごらんいただきたい http://g-c-m.org/)。この問題でも、『週刊ポスト』が正しい測定法についての記事を掲載していたことは評価できる。

食品の汚染については、牛乳や牛肉からセシウムが検出された時期に記事として取り上げられる数が増え、健康問題についての記事は6月に多いものの、これまでのところ常にコンスタントに掲載されているように見える。

週刊誌は20mSV問題をどう伝えたか

少し具体的な内容について考えてみたい。

福島の学校での許容線量について、文部科学省が被曝線量が年間20mSv以内となるようにするという方針を発表したのは4月19日だった(「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」)。それを涙ながらに批判した小佐古内閣官房参与(当時)の4月30日の辞任会見も含め、多くの批判が沸き起こったことで記憶に新しい。この問題について、各誌はどのように扱ったのだろうか。すべての週刊誌が、子供にまで20mSvを強要するのはけしからんと激しい文面で批判的な記事を掲載したのは間違いない。

多くの人の批判を受け、5月27日には、政府は「なるべく早く除染をして年間1mSv以下を目指す」という方針に修正した。

では、そもそも年間20mSvとは何だったのか?

国際放射線防護委員会(ICRP)は、放射線を扱う職業に従事する人などを別として、放射線をこれ以上浴びるべきではないという年間許容量を1mSvと定めている。これには、医療放射線(日本人の場合1.5mSv程度が平均と言われる)と自然放射線(日本では1mSv程度)による被曝を除くという注釈がつくので、実際には1年間に3.5mSv程度が許容限界となる。ただし、被曝による発ガンリスクは被曝の累計で決まるとされており、年間の許容限界を超えたからといって顕著な健康影響が現れるというわけではない。事実、自然放射線強度は土地によって違い、世界には自然放射線だけで年間10mSvを超えるような地域もある。とはいえ、国際的に定められた基準が、いきなり20mSvに引き上げられた理由は何だろうか。

平時の基準が年間1mSv以下であることは既に述べたが、これは事故以前から決められていた値だ。福島の事故を受けて、ICRPが3月21日に日本政府に提案した値には2種類ある。『週刊新潮』6月30日に掲載された山下俊一氏のコメントの中でそれが紹介されている。それは、ICRPの2007年勧告に基づく「事故後緊急時が続く間は、20~100mSvの積算線量の範囲内で基準を策定し、事故が収束したら1~20mSvの範囲内でできるだけ低減化を図る」というものだ。

文部科学省の発表では、後者の1~20mSvの範囲を目安として、年間被曝量がその上限である20mSvを超えそうな場合は屋外活動を制限するなどとされた。実際にはこれは「夏休み後までの暫定的な」ものであると文部科学省発表は明言している。つまり、もともと20mSvという値は実際に20mSvの被曝を許容するという意味ではなく、当面許容する放射線の「強度」は1年間浴び続ければ20mSvになる量という意味だった。この点をきちんと説明した週刊誌はなかったと言っていいだろう。

ところが、小佐古参与の辞任を受けて4月30日に高木文部科学大臣菅総理(当時)が行った衆議院予算委員会での答弁では、この20mSvは緊急時の値である20~100mSvの最も厳しい値であり、そこを出発点として1~20mSvを目標に線量を下げるとされた。数値こそ同じ20mSvであるが、かなり技巧的な説明である。ICRPは収束後の基準(実は参考レベルというものであり、基準という表現は正しくないが)を1~20mSvの間で低めに設定するとしており、この範囲の上限に設定する積極的な根拠はないことから、現状を緊急時として「緊急時の最も厳しい値から出発する」という論理にしたのではないかと思われる。

では、この説明を週刊誌はどう伝えたか。緊急時か収束後かを問題にした週刊誌は見当たらない。たとえば、6月16日の『週刊新潮』では、放射線生物学の専門家である松本義久氏も[ICRPが事故後の復旧段階においては“年1~20mSvの範囲で考えることも可能”としているため、文部科学省は当初、最大20mSvを基準にしたのです]と述べ、緊急時の基準には触れていない。

しかし、『サンデー毎日』6月12日号は、原口一博元総務省の言葉として、[20mSvを巡って、安全委(原子力安全委員会)と文科省の担当者が口論になった]と記し、決定の経緯について責任のなすりあいをしたと伝えている。また、これを裏付けるものとして、『週刊現代』の6月4日号には、この件について国会でも鋭い質問した森ゆうこ衆議院議員へのインタビュー記事が掲載されている。それによると、原口氏と森氏の2人が先の安全委と文科省の担当者を呼んで話を聞いたようである。「安全委の助言を受けて決めた」という文科省に対し、「20mSvでもいいと言った覚えはない」とする安全委。随分ずさんな決定経緯だったことが伺える。この時点では、関係者の多くが、ICRP勧告の意味を正しく理解していなかったのではないかとさえ推測される。

週刊誌の多くが1~20mSvの上限と書き、そう決めた理由をほとんど問わない中、この値の意味に疑問をもったのは『AERA』だけだった。『AERA』8月1日号では、文部科学省に問い合わせた結果として、[「緊急時ですので」「緊急時を脱していませんので」文科省に話を聞くと「緊急時」に力点を置いた説明がかえってくる]とある。そのことから、ICRPの勧告にある緊急時の20~100mSvのことを指している可能性を述べている。しかし、文科省の主張はあくまでも1~20mSvなので、その関係をもっと追求するべきだった。最近の9月5日号には、ICRPの勧告が2007年に作られたものであることや、100mSv以下の健康影響がはっきりわかっていないことなどから100mSv以上のデータをもとに基準を決めている旨が丁寧に説明されている。ICRP勧告との関係をある程度きちんと書いている週刊誌は、この『AERA』9月5日号くらいである。

もちろん、筆者も、放射線に対して感受性の高い子供にまで20mSvを容認するのは間違いであると判断しているが、少なくとも20mSvという値の意味は正しく伝えられるべきだったと考えている。週刊誌上でも、この数値の意味はなんとなく曖昧にされたままだが、これはジャーナリズムが追求するべき問題だったはずである。また、ICRPの勧告は単に数値を挙げるだけではなく、参考レベルの決定には住民が関与することなど民主的な手続きの必要性を述べている。残念なことにこれを表立って問題視した週刊誌も見当たらない。総じて、ICRPの勧告が週刊誌の記者にもよく理解されていなかったように思える。

週刊誌の対立構造

週刊誌は、発売日や想定読者がほぼ同じである『週刊朝日』と『サンデー毎日』、『週刊文春』と『週刊新潮』、『週刊ポスト』と『週刊現代』が、いわゆるライバル誌と呼ばれる関係にある。また、『週刊ポスト』と『女性セブン』のように、出版元が同じ雑誌で相互に記事をリンクしているケースもある。『AERA』と『週刊朝日』も同じような関係にあるはずだが、立ち位置は微妙に違う。

これらの雑誌の記事内容を通読し、現時点での傾向を主観的に「煽り雑誌/煽らない雑誌」に区分けしてみると、煽り雑誌の筆頭は『週刊現代』、それから『週刊文春』と続き、煽らない記事も載せる『サンデー毎日』『週刊朝日』、中庸の『AERA』を挟んで、煽らない雑誌の筆頭が『週刊ポスト』と『週刊新潮』である。以前も述べたが、週刊誌はいずれも政府の「安全である」という言葉を疑う立場なので、これはよく言われる「安全派」「危険派」という分けかたではない。記事の内容を分析してみると、危険を強く訴える雑誌のほうが科学的には怪しい説を掲載していることがはっきりしているので、過度に不安を煽っているという判断をし、敢えて「煽り雑誌」「煽らない雑誌」とした。

こうしてみると、雑誌としてのライバル関係がそのまま原発や放射能問題に対する立場の違いになっている例が目につく。ライバル誌との差別化を図って、相手と違う立場で記事をまとめようとしているのかもしれないが、そうだとすると、事実を伝えるという観点からすればかなり奇妙と言わざるを得ない。その最たる例が前回も検討した『週刊ポスト』と『週刊現代』の対立だ。この両誌は、当初から対立関係を明確にしており、お互いが自誌の中で相手を批判するということを繰り返して来た。

例えば、『週刊現代』7月16日/23日合併号では、[20年後のニッポン がん 奇形 奇病 知能低下]というタイトルで、子供、そして子供の子供にまで影響が及ぶという内容で危険を煽っているが、翌週発行の『週刊ポスト』7月22日/29日合併号では、[「恐怖の放射能」の嘘を暴く]として、冒頭から『週刊現代』の特集を批判している。

週刊誌同士の対立構造が、放射能汚染による健康問題のように、正確な情報が求められるテーマにまで反映するとすれば問題である。

いったん煽り雑誌のレッテルが貼られると、そこから抜け出すのは難しいのではないだろうか。少なくとも科学者は、自分の意見が間違って掲載されたような雑誌に、二度とコメントを寄せてくれない。まともな研究者ならなおさらそうだろう。時系列を追って週刊誌をみていくと、煽り雑誌に分類されるものでは、徐々に取材対象が狭まり登場する専門家の名前が固定化していくのがわかる。登場する専門家の固定は、読者が雑誌の信頼度を判断する重要なファクターとなるかもしれない。

子供たちは、母親たちは何に気をつけたらいいのだろうか

女性、特に子を持つ母が一番気にかけているのは、子供に対する放射線の影響だろう。東京でも心配するかたはおられるが、もちろん放射性物質による汚染はあるので注意するに越したことはないものの、福島の放射性物質の飛散が多かった地域に暮らしている人と、東京に住んでいる人とでは心配するべきことが違う。

子供への放射線の影響は、大人に対する影響の3~5倍と言われている。特に細胞分裂が盛んな時期はDNAが放射線の影響を受けやすい。もちろん、DNAには自己修復能力があり、多少の傷なら修復されるが、細胞分裂が盛んな時期は修復される前に増殖が起こるため、変異がそのまま残る確率が高くなる。特に、受精後数週間以内の被曝は影響が大きい。『週刊現代』4月9日号には、[「どんな量の被曝でも、安全な被曝など無い」というのは常識です。]という記述がある。

たしかに、どんなに少量の被曝も、被曝量に応じて発ガンリスクを上げると考えられているので、その意味ではこの表現も誤りとは言えない。ところが、『週刊現代』には、チェルノブイリ原発の事故に伴いベラルーシ周辺では奇形の子供が増えているという記載が度々登場する。しかし、こちらは発ガンとかなり事情が違い、100mSV以下の被曝量ではほとんど心配ないとされている。これは、福島の方々も同様だ。この発ガンリスクと、次世代への遺伝の可能性を同じと誤解したままの記事が多いのにも問題がある。

『週刊現代』の記述を真っ向から否定する記事は『週刊ポスト』5月6日/13日合併号の[福島第一原発「被曝と廃炉」完全大図解]に詳しくまとめられている。国連の機関およびベラルーシ、ロシア、ウクライナの政府が参加した「チェルノブイリ・フォーラム」が2005年の会議で報告したデータからの引用である。それによれば、「胎児の奇形、乳児死亡率と被曝を関連づけるデータはない」のである。「低被曝地域の方が奇形の増加率が高いことから、おそらく被曝とは関係ない別の原因による」と結論づけられている。『週刊現代』等が危険だという話の根拠は、公的な記録や科学的正当性が担保された研究論文には見つけられないのである。

『週刊現代』などで頻繁に語られる「放射能を受けると遺伝的障害が起きる」という考えは、動物実験のデータを根拠にしていることが多い。ヒトの場合、深刻な遺伝子損傷があれば、発生段階で流産することが知られており、遺伝子異常のある受精卵の着床拒否をおこなう防御機能は、ヒトの方がマウスよりも強固に働くと言われている。

「放射線をあてると後の世代に奇形や障害が現れる」という根拠となった実験のひとつが、ハーマン. J. マラー氏が1927年に発表したショウジョウバエに放射線を照射する実験だと言われる(注:ショウジョウバエにX線照射して人為的に突然変異を誘発できることを発見したこの業績により、マラー氏は1946年のノーベル生理学・医学賞を受賞している)。ところが、『週刊新潮』7月8日号によると、この実験に用いられたショウジョウバエは、DNAに修復機能がない特殊な種だったようである。この時代にはDNAに自己修復能力があることも知られていなかったため気づかれなかったらしい。

このような事実を冷静に見ていくと、ヒトの防御機能の巧みさもあり、低線量の被曝で奇形が生まれる可能性はほとんどなく、人口妊娠中絶を選択する必要はないことがわかる。しかし逆に言えば、着床拒否が行われるということは、妊娠初期で流産するということである。これについても、『週刊ポスト』が4月8日号などで述べているが、チェルノブイリ事故の際に、周辺地域で流産率が有為に増加したというデータはないようだ。

チェルノブイリ原発の事故の際には、ヨーロッパ、特に、ギリシャなどで人工中絶を選択する妊婦が増えたことが問題になった。今回、福島でも中絶をした方がいると聞き、大変残念に思っている。個人の選択は尊重するが、万が一、その選択をした理由にこれらの煽り系記事があったとすれば由々しき事態であろう。科学的に不正確な情報を引用し、過度に危険を煽る記事を掲載することが、週刊誌同士の対立構造を明確化にして売り上げにつなげるための販売戦略の1つだとすれば、猛省を切に願う。『週刊新潮』4月14日号で松本義久氏が述べているように、まさに[放射能は侮ってはいけないが怖がりすぎてもいけない。注意が必要なことは間違いないが、放射線を過度に怖がることで、大きなものを失うこともある]のだ。

重要な選択を強いられる状況では、正確な情報を提供することが重要となる。週刊誌は、「週刊」という時間経過早さによるめまぐるしさに追われることが多いのだろうが、なるべく多くの「専門家」に取材し、しっかりと内容を吟味した上で記事を書いて欲しい。次世代の命にまで関わるような重要な選択が読者の側に委ねられている今だからこそ、「記事の信頼度を高めることが、メディア側の倫理として相応しい」という流れが生まれることに期待する。情報を利用する読者の側も、常に内容を吟味する慎重さを持つ必要がある。

隔週刊誌『クロワッサン』が7月10日号で[放射線によって傷ついた遺伝子は、子孫に伝えられていきます]という見出しを表紙に掲載して非難を浴び、数日後の7月1日にHP上で謝罪をしたという事件があった。本文中で柳澤桂子氏が述べているように、放射線による遺伝子への傷は、治りきらなかった分が少しずつ溜まっていくかもしれない。しかしそれによって人類に変異が起こるのは、はるか未来のことと考えられている。宇宙線や紫外線など、DNAを切断したり変異を作ったりする有害な物質はたくさんある。地球上の生物は、そのような変異を積み重ねて現代まで進化して来た。柳澤氏が述べていたのはそういう文脈の話だ。『クロワッサン』の見出しは間違ってはいないが、ミスリーディングであった。

福島の子供たちが、自分たちは結婚できるだろうかと悩んでいるという話を時々耳にする。脱原発を押し進めるために、遺伝子変異や奇形のリスクを過剰に煽ることは、大きな差別を生む恐れがあることを忘れてはならない。

科学リテラシーの重要性

福島第一原子力発電所の事故の後、原発は安全だと言い続けてきた科学者の責任を問う声が日に日に大きくなっている。研究者が原発の危険を隠していた、と言われるが、筆者は必ずしも意図して隠していたわけではないのではないかと考えている。隠していたのではなく、考えてこなかっただけではないかと。報道で知れる範囲では、研究者自身も科学の力を過信し、事故は起きないと考えていたのではないか。何かトラブルが起こっても、自分たちの科学技術はそれを解決してくれると信じていたのではないか。科学者が反省しなくてはいけない点だ。科学者は、自らの研究を批判的に見られる社会リテラシーを身につける必要がある。不確実な科学をどう伝えるのかは、今後の課題となるだろう。

一方の社会の側も、これまで科学と縁のなかった一般市民がガイガーカウンターを持たなくてはいけないような状況になるとは予想してこなかった。科学は万能ではない。不確実な科学こそ、科学の大部分を占めているのだ。

同じように、週刊誌に書かれていることが必ずしも正しいとは限らない。情報がインターネットを通じて簡単に集められるようにもなった。現代の時代を生き抜くためには、こういった情報リテラシーを身につけておくことは必須である。出されたデータを読んだり、情報の真偽を確かめたりすることまではできなくても、情報の裏付けがあるのか、他の情報と比較して正しいのか正しくないのかをある程度判断することはできるだろう。

専門家の所属/肩書きの「もっともらしさ」にだけ騙されないようにすることも必要である。例えば、ICRP(国際放射線防護委員会)に対立する組織であるECRR(欧州放射線リスク委員会)は、EU議会や国際連合、政府組織とは全く関係ない市民団体である。だからECRRの勧告など無視すれば良いと言いたいわけではない。ただ、国際組織と反原発の市民団体とでは主張が大きく違うのは仕方がない。そういった背景の理解なくして、コメントの信憑性は判断できない。過剰に危険を煽ろうとする人が根拠とする論文や報告には、科学的には全く認められないデータを採用しているものもある。ひとつの情報源だけに頼っていると、偏った報道がされていることに気がつかない恐れもある。

さらには、複数の情報源を比較する中でクズ石を掴まされないようにするために、最低限の科学リテラシーも身につけて欲しいと思う。読者個人にその理解をせよというのはハードルが高いが、少なくとも記事を掲載する側は充分にそれを理解した上での情報提供を行っていただきたい。

プロフィール

佐野和美サイエンスコミュニケーション

1975年生まれ。東海大学大学院医学研究科修了。博士(医学)。科学雑誌編集者、ポスドク、東京大学科学技術インタープリター養成部門特任助教を経て、4月より国立環境研究所 資源循環・廃棄物研究センター特別研究員として、リスクコミュニケーションに携わる予定。専門は、分子生物学、科学コミュニケーション。

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