2013.08.22

ドイツを席巻した恐怖小説 ―― ホラー小説の源流

亀井伸治 ドイツ文学

情報 #恐怖小説#ホラー#ゴシック小説

「まっ黒なお化け」の話

大学のドイツ語授業でもちいる教科書のひとつに、『Hexen, Tod und Teufel (魔女、死、悪魔)』(パウル・シュヴァルツ、小栗友一著、第三書房、1980) という中級読本があります。これは、ドイツの各地方の口碑を集めてテクストにした読本です。まずはじめに、その中から、ドイツ中南部フランケン地方に伝わる「まっ黒なお化け(黒い男)」をご紹介します。

ブーヘンとヘッティンゲンの間の田舎道に黒い男のお化けが出る。ブーヘンに住む二人の少女は、カード占いが好きで、よく宵に別の村へ出かけていたが、ある時、帰りが遅くなってしまった。二人がエーバーシュタットを通って家に戻ろうとした時、道のまん中にまっ黒なのっぽの男が横たわっているのを目にした。彼女らが近づくと、そいつはひとりの少女の背中に飛びつき、引きずられるままになった。恐怖に打ち震えながらも少女らは先に進んだが、しばらくすると、男は今度はもうひとりの少女の背中にも飛び移った。そうして、ようやく二人がこのお化けから解放されるまでの長い時間、それが交互に繰り返された。

この時以来、その少女たちはもう夜遅くに外出することはなかった。

黒い格好をした変質者の話じゃないのと言われてしまえばそれまでなのですが、占い好きの少女たち、夜道での得体の知れないものとの遭遇、それを非合理な存在として語っていること、少女の身体への襲撃の性的な含意といった要素は、昨今の掌編ホラーにおけるのとほとんど変わるところがありません。最後の文章には教訓的な意図も見られます。

この教科書に載っている話はどれも、ドイツ語で〈ザーゲ〉Sage と呼ばれるジャンルに属するものです。

〈ザーゲ〉というのは、その経緯が公的に認証されていない歴史的事象を語るジャンルで、地方色と時代衣装に彩られているのが特徴です。有名人の行跡や名勝の来歴といったものもありますが、その多くは、標題にもあるように、魔法や幽霊、魔女などに関する不可思議な内容のものです。

ただし、〈民話〉Volksmärchen との違いは、それが「本当に起こった出来事」とされている点にあります。上の話でも、具体的な地名の明示がリアリティを高めており、いわば、昔のドイツの〈実話怪談〉となっています。

こうした言い伝えは、ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウスが集成したドイツの民話(邦訳『ドイツ人の民話』全三巻、鈴木 滿訳、国書刊行会、2003-2007)と同様、十八世末以降、次第に口承形式から書字テクストへと確定されて行きました(日本語では、ヘルマン・シュライバー著『ドイツ怪異集』関 楠生訳、社会思想社・教養文庫、1989 などで読むことができます)。

そして、その一方でそれらは、当時、活版印刷技術の改良などによってドイツ語圏でも大量に出版・流通し始めた娯楽小説、とりわけ〈恐怖小説(シャウアーロマーン)〉Schauerroman の中で、題材としても大いに活用されることになりました。

カイェタン・チンク『ある招霊術師の話』第一部 (ウィーン、1790年) 口絵版画及び扉
カイェタン・チンク『ある招霊術師の話』第一部 (ウィーン、1790年) 口絵版画及び扉

ドイツのゴシック小説としての〈恐怖小説〉とその流行

十八世紀末、娯楽小説の洪水がドイツ全土を覆い尽くしました。その主たるジャンルのひとつが、上に述べた〈恐怖小説(シャウアーロマーン)〉です。これは、ホレス・ウォルポールの『オトラントの城』(1764)を嚆矢とする英国のゴシック小説に相応する小説ジャンルのドイツでの名称です。

〈恐怖小説〉と呼ばれるのは、そこに属するすべての作品に、戦慄の感覚を与えようとする物語効果が共通して認められるからです。〈恐怖小説〉は、英国の作品群に比べても質・量共に決して遜色のないものであったにもかかわらず、残念ながら本国のドイツでもほとんど顧みられることのないままに置かれて来ました。

この状況に変化が生じ始めたのは、1960年代半ばにドイツの通俗小説一般を対象にした研究が現れるようになってからのことです。そして、さらなる大きな展開はカナダの研究者マイケル・ハドリーによってもたらされました。その『知られざるジャンル』(1978) において彼は、〈恐怖小説〉の〈恐怖(シャウアー)〉の概念を明確にすると共にこのジャンルを包括的に論じ、〈恐怖小説〉を国際的な研究の俎上に上せるべく、〈ドイツのゴシック小説〉German Gothic Novel という名称を提案したのです。

ドイツのゴシック小説は、三つの主要なサブジャンル、〈騎士小説〉Ritterroman、〈盗賊小説〉Räuberroman、〈幽霊小説〉Geisterroman から構成されます。そして、これらは折にふれ、単純化されてその由来を辿られてきました。

すなわち、ゲーテの戯曲『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773) は〈騎士小説〉を、そして、シラーの戯曲『群盗』(1781) は〈盗賊小説〉を生み出したと言われてきたのです。また、シラーの小説『招霊術師』(1789) (邦訳『見靈者』櫻井和市訳、冨山房、1931 と『招霊妖術師』石川 實訳、国書刊行会、1980) は未完に終わりましたが、〈幽霊小説〉の先駆と見なされています。

これらは、次のような事実に基付いています。

『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』は、〈騎士小説〉で繰り返されることになる幾多のモティーフ— 中世という設定、鎧に身を固めた騎士、不誠実な聖職者、奸婦、秘密法廷(フェーメ)、ドイツ的性格の強調など――を含んでいるということ。『群盗』の主人公で義賊のカール・モールの造形は後の〈盗賊小説〉の主人公たちのそれに似ていること。そして、『招霊術師』は、降霊術や秘密結社が登場するその内容から沢山の模倣作を輩出したことです。

しかしもちろん、ドイツのゴシック小説の発生要因を単独の文学作品だけに帰すことはできないでしょう。一個の文学的源泉よりも複数の事柄が考慮されねばなりません。ドイツのゴシック小説の誕生を導いた複合的な諸要因には、まず、先行する通俗小説の役割があります。

レオンハルト・ヴェヒターは、伝奇的な『往時の物語』(1787-98) 七巻によって、そして女流作家ベネディクテ・ナウベルトは、『ウナのヘルマン』(1788) をはじめとする多くの歴史小説によって、しばしば、この新たな文学ジャンルの最も重要なさきがけとされます。主に中世を舞台とする彼らの作品は、ドイツのゴシック小説の性格を決定付けました。われわれはそこに、迫害される乙女、城、隠者、地下納骨堂、洞窟、超自然、暴君や破戒僧などの悪漢といった諸要素に加え、地下牢、隠し扉、秘密の地下通路、アイデンティティの取り違えなど、多くのゴシック的特徴を見つけるでしょう。

さらに、これらの作品の影響に加え、新しい文学的嗜好に寄与する別種の要素—現実の社会的要素—が存在しました。

ひとつは、当時、広く行われていたオカルティズムとヨーロッパ中を徘徊していた山師たちです。その頃のドイツでは、理性の力に対する信頼が目に見えて衰微していました。理性哲学の約束は実現しておらず、かつての広汎な熱狂を維持できたならそれだけでもまだ成功と言えました。予期された理性的で高潔な人間のタイプは実際には生じることなく、その代わりに利己主義と競争的態度が増え広がって行きました。新しい人間の出現への期待が亡失すると共に、社会状況の速やかな変化への希望もまた消滅しました。

あらゆる努力にもかかわらず、封建的・絶対主義的な支配機構はいまだ完全な形で残っており、諸邦の分裂とそこから導出された特種権益は、将来的にも市民的な政治参加運動の進展を阻害しました。市民階級の指導による反封建的団結の形成は、この状況下で現実的な成功の見通しを失い、啓蒙主義の観念を実現し得たかも知れぬ集団的な力を持つものは、もはやありませんでした。

この、将来的な見込みのなさと不確かさの帰結として諦念と虚無主義、厭世主義的諧調が生じ、現実からの離反と、快楽的なものへの逃避、及び、それと密接に結び付いた、秘密めいたものや非合理なものへの志向傾向が形作られました。光の世紀の中で抑圧され休止状態に置かれていた反啓蒙的な力が、再び影響力を獲得するに至ったのです。

こうした風潮を利用した山師たちの中では、とりわけカリオストロの行状が有名です。それは、シラーの『招霊術師』に反映され、また、ゲーテに『大コフタ』 (1792) を書かせる契機となりました。モーリッツ・アウグスト・フォン・テュメルの十巻から成る『1758年から1759年までのフランス南部地方の旅』(1791-1805)の第一巻には、こうした詐欺師たちに対する当て擦りの記述が見られますし、カール・フリードリヒ・ベンコヴィッツ作『エーリスの魔法使いアンゲリオーン』(1798-1800) の第一部は、ヒロインがいかさまを暴かれる箇所でカリオストロに言及します。

ゲーテはまた、思想家ヤコービに宛てた1791年6月1日付の手紙においてもカリオストロについて報告し、世間の軽信の風潮を非難しています。「人々が不可思議なものに如何に飛びつき、そうして、自身の下らなさと愚かさに固執し、人知や理性が至上であることに抗っているかを眼にするのは嘆かわしい」と。

ドイツのゴシック小説の形成にとってのもうひとつの実際的な要因は、当時ドイツ語圏で盛んに活動していたさまざまな秘密結社の存在です。ドイツの文学研究者ヴァルター・ブスマンやミヒャエル・ノイマンらは、〈秘密結社小説〉Geheimbundroman が、結社の実際の儀式から多くの要素を採り入れたことなどを論じています。代表的な結社には、インゴルシュタット大学の教授アーダム・ヴァイスハウプトによって1776年に設立されたイルミナーティがあります。

ところで、最近、欧米では秘密結社を題材にした娯楽小説が人気で、日本の書店でも、ダン・ブラウンの『天使と悪魔』(2000)(これもイルミナーティの話です)や『ロスト・シンボル』(2009)を筆頭に、その類いの小説が幾つも翻訳されて並んでいます。

ウンベルト・エーコが大ベストセラーとなった『薔薇の名前』(1980)に次いで書いた小説第二作『フーコーの振り子』(1988)も、中世に存在したテンプル騎士団の末裔たちの現代における暗躍を描くものでしたし、〈カウンターカルチャー〉を定義付けたことで知られる米国の歴史学者セオドア・ローザックが、映画に関する蘊蓄を傾けて書いたミステリー『フリッカー』(1991)は、異端カタリ派の思想を奉じる秘密結社の陰謀の物語でした。

秘密結社を題材にした小説の流行は、実はこの二百年前のドイツが最初だったのです。そしてここで重要なのは、秘密結社小説が流行したり陰謀論が話題になるのは、十八世紀末のフランス革命期や二十世紀の初め、あるいは米ソ冷戦の時代など、いつも社会が混沌として見通しのきかない不安な状況にある時だということです。そんな時代には人は、たとえ物語的な虚構であっても、不断に流動する様相を条理ある固定した意味空間として把捉することで、とりあえずの安心を得ようとするのです。

ドイツの出版市場におけるゴシック小説の流行は1780年代末から始まっていましたが、それは1790年代に入って爆発的なものとなります。ここでは、その最も有名な作品のみその名を記すに留めましょう。

1791年には、悪魔の手先の小人に誘惑されて恐ろしい罪を重ねる騎士の物語、クリスティアーン・ハインリヒ・シュピースの『侏儒ペーター』(邦訳は、波田節夫訳、国書刊行会、1981)の第一巻が出て、翌年には同じ著者による、贖罪と救済をテーマとする幽霊小説『老いたる放浪者』(1792-93) が続きます。

1794年には、ハインリヒ・チョッケの盗賊小説『アベリーノ』(1794)が現れ、1795年には、秘密結社の恐怖を描くカール・アウグスト・グローセの『守護精霊』全四巻(1791-95)が完結しました。そして、エマーヌエル・フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・フォレニウスは『招霊術師、第二部及び第三部』(1796-97) によって、未完のシラー作品の補完を試みました。しかし、ドイツのゴシック小説の内で何といっても有名なものは、ゲーテの義兄クリスティアーン・アウグスト・ヴルピウスの盗賊小説『リナルド・リナルディーニ』(1799) でしょう。

クリスティアーン・ハインリヒ・シュピース『老エジプト人の秘密』第二部(ライプツィヒ、1798年) 口絵版画と扉
クリスティアーン・ハインリヒ・シュピース『老エジプト人の秘密』第二部(ライプツィヒ、1798年) 口絵版画と扉

これらの小説の人気がどんなに一般的であったかは、フリードリヒ・ニコライ編集による書評集『新・一般ドイツ文庫』(1793-1806) における、ヴルピウスの『伝奇的描写精選』(1793) への批評(1794)の記述に窺うことができます 。

御婦人方の私室から奉公人部屋まで、いまや総ての者が読書への抑え難い欲求を感じている。都市も田舎も読書会でいっぱいだ。しかし、教養を得たり趣味を高める為に読む者は読者の中でほんの僅かである。[…]それ故、しばしば、品のない小説や無意味な小説が成功を収めて版を重ね、恐ろしい幽霊譚や中世の騎士譚が氾濫しているのだ。

さらに、ヨーハン・クリスティアーン・アウグスト・バウアーの1800年の著作『中世と騎士の時代』の序文の一節から「騎士小説を読みたいという病的なまでの欲求は一般的になった」 という証言を引いて、ここに付け加えておいてもいいでしょう。

ゴシック小説の二つのタイプ

さて、ゴシック小説の祖『オトラントの城』は、続く二十年間に幾人かの継承者を持ちましたが、英国でもゴシック小説が真の隆盛を見るには、やはり1790年代を待たねばなりませんでした。その十年間に、英国におけるこのジャンルの最良の作品が現れました。アン・ラドクリフの『ユードルフォの秘密』 (1794) と『イタリア人』 (1797)、マシュー・グレゴリー・ルイスの『修道士』(1796) です。

興味深いのは、この英国のゴシック小説を代表する二人の作家が、超自然を表現するにあたってまったく異なったアプローチをとっているという点です。ウォルポールは、描写の写実性というコンヴェンションをもちいることにより、作中の超自然が読者にとって経験的に「リアル」に成り得ることを示していました。ルイスもこれに倣って『修道士』で、悪魔などの超自然を作中に実在するものとして描き出しました。

これに対して、ラドクリフの作品を範とするタイプでは、恐怖や不安の効果を達成するべく導入された超自然現象が、その物語自体の中で合理的に解明されて終わります。すなわち、そこでは、結果として超自然は仮象に過ぎないことが暴かれるのです。

この手法は、十八世紀における懐疑主義の文学への反映を示しており、〈解明される超自然〉explained supernatural と呼ばれています。そして、ラドクリフはこれをエドマンド・バークの崇高美学に照らして、自身が〈テラー〉terror よりも劣ると見做した〈ホラー〉horror を描くことの拒絶と不可分のものであるとしました。もし超自然的事象をそのまま叙述すると、そこに表出する恐怖の種類はテラーではなくホラーになるとラドクリフは考えたのです。ラドクリフが定義付けたテラーとホラーの違いは以下の通りです(「詩における超自然について」1826)。

テラーとホラーは全く反対のものです。前者は、魂を広くし、その機能を高度な人生へと覚醒させます。後者は、魂やその機能を萎縮させ、凍えさせ、絶え絶えの状態にしてしまいます。シェイクスピアもミルトンもその創作の中で、またバーク氏もその考察の中で、純然たるホラーを崇高の源泉と見做すなどということはどこにも行っていないと、わたくしは理解しています。しかし、彼らは皆一致して、テラーこそ崇高の優れた源泉であると認めているのです。

ラドクリフの小説には本物の幽霊は登場せず、超自然は大抵の場合、ヒロインの思い込みや偶然による錯覚と説明されて終わることになります。

ドイツ語圏のゴシック小説も、英国のゴシック小説と同じく、超自然を扱うにあたって二つの形式をもちいました。「本当の」超自然と「説明のつく」超自然です。前者には、前述の『侏儒ペーター』や、オーストリアの作家ヨーゼフ・アーロイス・グライヒの『短剣と燈火を持った血まみれの姿』(1799)を代表とする無数の作品があります。他方、グローセの『守護精霊』など『招霊術師』の成功に負う作品群では、超自然的な不思議は、秘密結社に代表される強力な組織や人間による陰謀の一部としてか、あるいは、主人公と読者の双方に、超越的な世界に対する不健康なまでの熱中や夢想に耽ることの危険性を教えるべく故意に設計された仕掛けとして、その謎が解明されます。

エードゥアルト・クリストフ・ヴィルヘルム・マイスナー『幽霊たち』第三巻 (ベルリン、1806年) 口絵及び装飾画付扉
エードゥアルト・クリストフ・ヴィルヘルム・マイスナー『幽霊たち』第三巻 (ベルリン、1806年) 口絵及び装飾画付扉

ドイツのゴシック小説の表現方法

ゴシック小説では、英国の作品でもドイツの作品でも、恐怖を作り出す為に二種類の表現方法がもちいられました。直接的なものと間接的なものです。

後者は、恐怖をもたらすものや出来事が登場人物に与える衝撃を描くことで成り立っています。そこでは、恐怖の元それ自体は示されません。これは先に述べたように、ラドクリフ流の表現の仕方です。女史は、神秘を描くにあたって、つねに「起こった」、「だった」という断定的な表現を周到に避け、「のように見えた」、「見たと思った」という一人称的な視点が入り込んだ語りをもちいています 。脅威的なものは、ただ主人公の聴覚を通じてか、あるいは、瞬間的な視覚の印象としてのみ伝えられ、読者は、解明の時までは、超自然現象が本当に起きたのかどうかを知り得ないスタンスを保ち続けさせられる訳です。

これに対してドイツの小説の多くは、しばしば直接的な手法に訴えました。つまり恐怖の事象そのものを語るのです。まずは、グライヒの小説『死後三百年さまよう女』(1800)から、いかにもゴシック的な描写を引用しましょう。

月は陰鬱な墓石を上からくっきりと照らし、格子で囲まれた近くの納骨堂に一条の光を投げ掛けていた。そこには頭蓋骨や四肢の骨が恐ろしげな様子で積み重なっていた。[…]深い静寂が彼を取り巻き、死のイメージが辺りに広がっていた。うつろな呻き声を耳にした時、彼は氷のように冷たい手で頬と背筋を撫でられたように感じた。しかし、すぐそれに続いて、墓のひとつが口を開き、そこから死者がゆっくりと起き上がって来るのを見た時、彼は一層その身を震わせた。恐るべき瞬間であった。白い経帷子に包まれた人影が彼の方へと近付いて来た。

次は、現代のホラー小説にも通じる人体毀損のグロテスクな描写です。フォレニウスの『招霊術師』補完作から、悪漢のアルメニア人が生きたまま体が腐敗して死ぬ場面です。

彼の体の至るところに裂け目ができた。その生きている腐肉から広がる疫病(ペスト)のような悪臭が多くの部屋に浸透して行った。彼の眼は頭蓋の中で腐り、黒ずんだ舌の先は溶解して粘液となり、それが容れられていたところから流れ出した。一部分ずつ肉が、すでに蝕まれて脆くなった骨から剥がれ落ちて行った。そして彼は、その総ての関節が分離するまで生き続け、ついに、それまでまるで意図的に取り置かれて達者なままにされていたかのような心臓が冒された。

これらの描写は、ジャンルの意図を強調する目覚ましい手技を示しています。恐るべき見世物の中にどこまでその効果を生じさせ得るかという能力を問われていた恐怖小説の作者たちは、もっと多くの恐怖を、もっと多くの戦慄を作り出そうと鎬を削っていました。これは、生理的な種類のゴシック小説の恐怖、つまりラドクリフの言う〈ホラー〉であり 、登場人物たちの怯えの反応も、もっぱらその恐怖刺激を強めんが為に奉仕しています。

しかも、ドイツの作家たちは、超自然を実在として描くタイプのみならず、〈解明される超自然〉タイプでも、ラドクリフの書法から逸脱してそうした直接描写をもちいるのです。次に、作中の神秘に対して最後には合理的解釈が示唆されるイグナーツ・フェルディナント・アルノルトの『血の染みのある肖像画』 (1800)から、主人公に誘惑されて捨てられ、絶望から短銃自殺した娘の霊が、降霊術で彼の眼前に出現する場面を見てみましょう。

「厚かましい男、わたしにまだ何を望むの」 凄まじい声で彼女は叫んだ — その息は燃えるように熱かった。頭蓋はこめかみで砕け、裂けた動脈から大量の血が白い服へと迸り出た。美しい黒の巻き毛は、頭の側面に血ですっかりくっついてしまっていた。

〈解明される超自然〉タイプの作品で、超自然現象が「起こった」というような客観性の濃厚な直接的表現によって描写され、それに対する反証としての合理的解明を行おうとすると、そこには間接的な表現に対する場合よりも一層強い説得力が求められねばならなくなります。

そして、読者への効果の為に神秘が不可解になればなるほど、当然その人為的な仕掛けとしての解明は複雑にならざるを得ません。探偵小説では、謎の合理的解明がクライマックスを形成しますが、ドイツのゴシック作品は、〈解明される超自然〉タイプでも、そうした観点では書かれておらず、物語全体の語りは、自然な因果関係の論証に努める理性的な調子を維持している訳ではありません。

上のアルノルト作品にしても、物語の最後に「実はそれはトリックだった」と述べる程度の、取って付けたようなごく簡単な説明があるだけです。ひたすらに読者の戦慄の感覚を刺激する目的に最優先順位を授けていることによって、ここでは、描き出された超自然現象が本物かそうでないかは、もうほとんど重要ではなくなっています。

ヨーゼフ・アーロイス・グライヒ『死後三百年さまよう女』第一巻 (ウィーン&プラハ、1800年) 口絵版画と円額装飾画付扉
ヨーゼフ・アーロイス・グライヒ『死後三百年さまよう女』第一巻 (ウィーン&プラハ、1800年) 口絵版画と円額装飾画付扉

おわりに

十八世紀末から数十年間にわたってヨーロッパの読書界を席巻した恐怖の文学は、文学テクストに対する読者の新たな関係を導入しました。つまり、麻薬中毒のような習慣性を持ち、倒錯的とさえ言ってもよい身構えでの読書のあり方をです。登場人物に自己を同一化させた読者は、自ら進んでその苦難と不安を共有するようになり、十八世紀後半の社会が感じていた現実不安は、僅かな変奏をもって出版社から次々と送り出される同趣向の物語にそれらを結び付けることによって緩和されます。

匿名作家『恐怖の城への旅』(ウィーン、1803年)口絵版画と彫版印刷による扉
匿名作家『恐怖の城への旅』(ウィーン、1803年)口絵版画と彫版印刷による扉

恐怖の愉しみにおける自発的な放縦は次第に抑制が利かなくなり、ゴシック小説が提供する恐怖の慰撫こそが、熱心な読者には理想的な快楽になって行きました。1790年代の前例のない法外な数量の作品群を頂点として、英国と同様、ドイツにおいても、限りなく高まり行く人工的な恐怖刺激を受け容れ、それを愛好することを学ぶというレッスンが続けられたのです。

時代毎の不安とその中に置かれた読者、それらと文学テクストの対話は、戦慄的な想像力が繰り返し新たな恐怖の文学ジャンルを生成し、あるいは生成し続けることを要請します。このシステムは、ゴシック小説が生れ、読まれるようになった瞬間から、そのことを通じて現実の不安を牽制し封じ込める文学上の決定的な形態として機能し始めたのです。

英国と同じようにドイツでも、1830年代にはゴシック小説のブームは終熄します。その後、次にドイツ語圏で恐怖の小説が流行するのは、1920年代のヴァイマル共和国時代になってからです。その時代には、ハンス・ハインツ・エーヴェルス(彼もまたシラー『招霊術師』の補完に挑戦しています)、グスタフ・マイリンク、カール・ハンス・シュトローブル、ミュノーナ(ザーロモ・フリートレンダー)といった作家たちが、今度は、第一次大戦後の混乱した社会の不安を反映した小説を生み出しました。

また、新しいメディアだった映画の領域で、催眠術による操作の不気味さを描く『カリガリ博士』(1920)や、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897)の最初の—非公式でしたが—映画化『ノスフェラートゥ』(1922)といった、ホラー映画の古典とされる作品が作られたのもこの時代です。

十九世紀末から二十世紀前半の怪奇的な小説の多くについては、わが国では、これまでに前川道介、種村季弘をはじめとする先達が紹介に努めてこられました。しかし、恐怖を娯楽とするブームとしてはドイツ文学史上、空前絶後の規模だったゴシック小説の流行に関しては、まだほとんど知られていません。その作品の邦訳も、いまのところ、文中で挙げたように『招霊術師』と『侏儒ペーター』の二作しかありません。

サド侯爵は、その「小説論」(『恋の罪』1800 の序文)の中で、ゴシック小説を「新しい小説」roman nouveau と呼んでいます。この点において、ドイツのゴシック作家たちの小説もまた、英国作品と並んでその先駆的な役割が評価されねばなりません。ハインリヒ・ハイネは、その著書『ロマン派』(1833)の中で、明朗なフランスと対比させて、「狂気や妄想や霊界のあらゆる恐ろしいものは、われわれドイツ人に任せよ」と述べましたが、そのドイツでは、今世紀に入ってようやく、十八世紀末の〈恐怖小説〉が学問的な対象として見直されてきています。日本でも今後、少しでもこの分野に興味を持つ人が増えて、紹介や研究が進めばと願っています。

プロフィール

亀井伸治ドイツ文学

1963年奈良県生まれ。早稲田大学法学部卒業。同大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。フライブルク大学に留学。文学博士。早稲田大学比較文学研究室助手、同大学非常勤講師を経て、現在、中央大学経済学部准教授。専門は、ドイツ文学、比較文学。主な著書に、『ドイツのゴシック小説』(彩流社、2009年)、『30日で学べるドイツ語文法』(ナツメ社、2008年)がある。

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