2014.06.30

異なる何か/誰かに触れる――中東地域研究の魅力とは

中東地域研究・末近浩太氏インタビュー

情報 #教養入門#イスラム主義#地域研究

砂漠、イスラーム、石油王……。「中東」と聞いてみなさん何を思い浮かべるでしょうか。今回の「高校生のための教養入門」は、中東を研究されている末近浩太先生にお話を聞いてきました。シリア・レバノンってどんなところ? 「イスラーム主義」ってなに? 素朴な疑問から、外国を研究することの難しさまで、中東研究の世界をちょっとのぞいてみましょう。(聞き手・構成/山本菜々子)

「でこぼこ」した場所

―― 先生のご専門はなんですか?

中東地域研究、それに国際政治学と比較政治学です。中東地域研究とは、文字通り、中東という地域についての研究です。歴史、文化、芸術、思想、社会、経済などさまざまなものが研究対象となりますが、そのなかでも、私が取り組んでいるのは政治です。なので、国際政治学と比較政治学も専門に勉強しています。

―― 中東のどの地域でどんな研究をしているんですか?

シリア・レバノンを中心とした東アラブ地域の政治です。特にイスラーム主義組織・運動の思想や活動に注目しています。中東情勢についてのニュースを少し注意深く見てみると、イスラーム主義組織・運動が実に頻繁に登場していることに気がつくでしょう。ムスリム同胞団、ハマース、ヒズボラなどの名前は聞いたことがあるかもしれません。しかし、それらの実像については、まだ十分に知られていません。

そのため、私自身は、イスラーム主義組織・運動の実像を描き出すことにつとめてきました。彼ら彼女らが一体何を考え、何をしようとしているのか。研究はそこからスタートしました。そして、これを手がかりに、この地域の政治の仕組みや特徴を明らかにする。イスラーム主義組織・運動は、真空状態に突然生まれたわけではなく、中東政治や国際政治の歴史と力学のなかで生まれました。だとすれば、中東政治や国際政治をかたちづくる重要な要素の1つということになります。

こうした視点から、ここ何年かはレバノンのシーア派イスラーム主義組織「ヒズブッラー(ヒズボラ)」(SYNODOS「ヒズブッラーとは何か――抵抗と革命の30年」)に注目してきました。

―― シリア・レバノンってどんなところですか?

一言で言えば、中東のなかでも特に「でこぼこ」したところでしょうか。

―― でこぼこ?

「でこぼこ」にはいくつかの意味があって、まず、地理的に「でこぼこ」しています。広大な平野もあれば、険しい山々もある。中東でおなじみの砂漠もあれば、地中海沿いは雨も多く緑もたくさんあります。シリアとレバノンのあいだには南北に広がる大きな山脈があるのですが、標高は3,000メートルを超えます。そこでは万年雪があって1年を通してスキーができる。

―― 中東と言えば、砂漠ばかりのイメージがありましたが、スキーもできるんですね。

食べ物も豊かで、肉・魚・野菜・果物なんでもあります。ちなみにイスラーム教徒が人口の大多数を占める中東において、シリアとレバノンは昔からお酒がおおっぴらに飲め、特にレバノンはおいしいワインやビールで有名です。

―― 食べ物もあって、お酒も飲めて、素晴らしいですね。

一方で、これが別の意味の「でこぼこ」にもつながります。宗教・宗派・民族の「でこぼこ」です。シリア・レバノンは、中東のなかでも特に宗教・宗派・民族が多様な地域です。

レバノンの首都ベイルートの街を歩いていると、イスラームの礼拝所であるモスクとキリスト教の教会が軒を連ねている風景がすぐに目に入ってきます。中東と言うと、イスラームのイメージが強いですし、実際に人口の大半はイスラーム教徒ですが、歴史的に見れば、そもそもユダヤ教もキリスト教もシリア・レバノンを中心とした東アラブ地域に生まれた宗教です。

同じ中東でも、例えば、エジプトやアラビア半島の国々は宗教・宗派・民族に関してもう少し均一的で「平ら」な印象です。

(レバノンの首都ベイルート 撮影:末近氏)
(レバノンの首都ベイルート 撮影:末近氏)

―― 異なる宗教や民族が共存している場所であると。

ただし、政治的に見ると、この宗教・宗派・民族の「でこぼこ」が紛争や独裁の背景にあったことは否めません。宗教・宗派・民族の断層線に沿って紛争が起こったり、特定のグループが権力や富を独占してしまうようなケースは、シリアでもレバノンでも見られてきました。

―― つまり、「でこぼこ」がケンカの原因になっているんですか?

1つの原因になっているかもしれませんが、宗教・宗派・民族が違っていれば必ず対立が起こる、と考えるべきではありません。中東に限らず、世界のどこを見ても、人と人との違いは常にあります。重要なのは、なぜそれが紛争や独裁とつながってしまうのか、その後ろにある様々な条件や原因をしっかり見ていくことです。

紛争や独裁は、ほとんどの場合、制度にダメなところがあったり、外国の介入によって混乱してしまったりと、政治が原因であることが多い。もし、宗教・宗派・民族の違いが必ず問題を起こすのであれば、世界中がパニックになっているはずです。でも、実際はそうではない。だとすれば、違いを持ったさまざまな人びとのあいだの利害関係を上手に調整できていない政治のあり方に問題があると言えるでしょう。

この問題に取り組むことは、紛争や独裁がなぜ起こるのかという問いを考えるだけではなく、違いを持ったさまざまな人びとがどうしたら平和的・民主的に暮らせるのか、という課題に取り組むことになります。その意味において、中東の問題は中東だけの問題ではなく、他の地域やより学問の一般理論への示唆や教訓を見いだしうる大きな問題です。そこに中東地域研究の学問的な面白さと重要さがあると思っています。

「イスラーム主義」とはなにか

―― シリア・レバノンがどんな場所なのか、イメージが湧いてきました。シリア・レバノンの「イスラーム主義」について研究しているとのことですが、そもそも「イスラーム主義」ってなんですか。

イスラーム主義は、文字通り宗教としての「イスラーム」に「主義」を加えた言葉です。共産主義や民族主義と同じく「〜主義」ですので、基本的にはイデオロギーということになります。イスラームの教えに基づく政治や社会の建設や運営を目指すイデオロギーのことを指します。

このイスラーム主義を信奉する人びとを「イスラーム主義者」と言いますが、今の中東にもたくさんいます。少なくとも、イスラーム主義を掲げる組織、政党、団体を支持する人は少なくありません。そのことは、2011年の「アラブの春」後のエジプトでの議会選挙と大統領選挙において、イスラーム主義組織のムスリム同胞団の系列を組む政党が勝利したことに表れています。

もちろん、人びとがイスラーム主義組織を支持するとしても、その理由を「イスラームだから」と言い切ることはできません。イデオロギーだけではなく、政策の内容の善し悪しや他の組織や政党との比較のなかで支持/不支持を決めるからです。しかし、重要なのは、今の中東において、イスラームという宗教を掲げる組織や政党が普通に存在しており一定の影響力を持ち続けているということです。

―― イスラームの教えを、政治にもあてはめようとしているんですね。そして、人びとからの支持もあると。でも、「イスラーム主義」ってすごく過激なイメージがあります。よく、「イスラーム過激派」とか「イスラーム原理主義」なんて言葉をニュースで聞きますし。

イスラーム主義者はいわば政治や社会の「イスラーム化」を目指すわけですが、彼ら彼女らのなかには穏健な人もいれば、少数ではありますが過激な人もいます。

過激な人――「過激派」あるいは「急進派」と呼ばれます――には2種類あって、1つは、社会のすべての人に対して(彼らが考える正しい)「イスラーム」を押しつける、個人の心の奥までターゲットにするタイプ、もう1つは、暴力で政治や社会のイスラーム化を推し進めようとするタイプです。この2つは重なることが多いです。

一般的には、イスラーム主義よりも「イスラーム原理主義」という言葉が知られていると思いますが、それがそもそも他称・蔑称であること(当事者たちは使わないこと)や、偏狭で頑迷といったネガティブなイメージがつきまとうこと、それからしばしば武装勢力や過激派の同義語として用いられることから、日本の学界ではほとんど使われることはありません。

―― イスラーム主義の人が、みんな過激というわけではないんですね。穏健な人もいることがわかりました。

繰り返しになりますが、実際には穏健な人がほとんどです。イスラーム主義者は、法律や政治制度がイスラームの教えに基づいてつくられるべきだと主張します。そうだとすれば、現実はそうでない、あるいは、イスラームとは何か別のものによって法律や政治制度が規定されていると考えているわけです。

19世紀以降、中東には近代西洋起源の考え方や仕組みがたくさん入ってきました。特に、政治と宗教を分離すべきである、という世俗主義は中東の社会に大きな変化をもたらしました。近代西洋を範とした政治や社会が拡大するなかで、イスラーム主義者たちは政治や社会がイスラームの教えからどんどん離れていると感じている。

つまり、イスラーム主義者には、近代の西洋と同じような政治モデルをそのまま採用すると政治におけるイスラームの役割がダメになってしまうのではないか、という危機感があるんです。その意味において、イスラーム主義は、大昔からあったのではなく、近代以降に生まれたイデオロギーなのです。

関心を抱くきっかけはどこにでもある

―― そもそも、中東地域に興味をもったきっかけはなんですか?

中東を研究していると、この質問をよくされるんですよ(笑)。アメリカやヨーロッパの研究をしていたらあんまり聞かれないと思うんですが。

―― 中東はあまり身近な感じがしないので、興味を持ちにくいと思うんです。

中東を意識しだしたのはかなり早く、小学生から中学生にかけての頃だったと思います。その頃は1980年代後半で、夕方のテレビのニュースでは、連日ベイルートとテヘランからレポートが報じられていました。「ベイルート発共同〜」、「テヘラン発時事〜」とか。中東では、レバノン内戦(1975-1990年)とイラン・イラク戦争(1980-88年)がありました。レバノン内戦は15年、イラン・イラク戦争は8年、それぞれ1980年代を通して続いた長い戦争でした。

―― 戦争に興味があったんですか?

戦争が好きなわけではありません(笑)。むしろ、その理不尽さや不毛さが気になっていました。きっかけは、たぶんガンダム(あくまでも1980年代のガンダム作品)です。

―― ガ、ガンダムですか。ロボットで戦うアニメですよね。

ガンダムは、少年アニメ特有の「戦うことのかっこよさ」もふんだんに入っていますが、それよりも戦争というものの理不尽さや不毛さ、むなしさのようなものを表現した作品でもあります。

そんなガンダムを観ながら、はるか遠い中東の地で繰り広げられていた終わりのない戦争にどこか心を痛めていたのだと思います。なぜ不毛な戦いを続けるのか、と。レバノン内戦もイラン・イラク戦争も、「どこどこの街を奪った、奪われた」といった一進一退の長期戦であり、消耗戦でした。

こういうときにガンダムを引き合いに出すと、その時点でガンダムを知らない今の高校生の皆さんはおろか、「またガンダムの話か」と一般の方までもドン引きしてしまうかもしれません。上司や先生から無駄に熱いガンダム話を延々と聞かされてガンダム・アレルギーになった方は少なくないでしょう。

しかし、それだけガンダムの影響を受けた人が世の中にいるということでもあります。アラフォー以上の政治学者は皆ガンダムを観て政治学に目覚めた、というのが私の勝手な仮説です(笑)。

―― 今まで、年上の方がするガンダムの話にあまり興味がなかったので、適当に聞き流していましたが、深い話なのですね。これからは背筋を伸ばして聞きたいと思います。

ガンダムの良し悪しはともかくとして(笑)、大事なことは、何かに関心を抱くきっかけはどこにでもあるということです。「なぜ?」と疑問を持ったり、「知りたい!」と興味を持ったりしたときは、自分の心に正直に向き合いアクションを起こしてみるとよいと思います。

というわけで、私自身、高校に入る頃には中東への関心を強く持つようになっていました。ちょうど、高校入学の前後には、中東にかかわる2つの大きな事件がありました。

1つは、イラン・イスラーム革命の最高指導者ホメイニー師がイギリスの作家サルマン・ラシュディに死刑宣告をした事件(1989年)です。この作家の書いた『悪魔の詩(The Satanic Verses)』という長編小説がイスラームに対する冒涜であると断罪された事件です。ある国の最高指導者が別の国の作家に死刑宣告をするという無茶苦茶な理屈と「熱さ」に、自分の知る世界とは異なる世界が存在することを強く感じ、ハートをわしづかみにされました。

もう1つの事件は、その翌年に起こった湾岸危機・戦争(1990-1991年)でした。イラクがクウェートに侵攻したこと自体にも驚きましたが、それまで対立してきた米国とソ連が事実上同じ陣営でイラクのサッダーム・フサインと向き合うという構図――ソ連は米国主導の多国籍軍の介入を支持しました――に驚き、また、それまで世界を規定していた東西の冷戦構造がガラガラと音を立てて崩れていく感覚を覚えました。

この2つの事件からは、中東には自分が住んでいる世界とは別の世界があるという感覚を持ちましたし、中東が世界全体の動きと強く結びついていることを知りました。中東を専門にする研究者になりたいと思ったのはこの頃だったように思います。

この頃、「いつかトルコかイランに留学したい」と親に言ったら怒られたことを覚えています。当時、留学と言えば、アメリカかイギリスが主流でしたから。大学に進学したら中東について勉強したかったのですが、現代中東を扱った研究は今と比べると本当にマイナーな分野でしたし、現代中東について教える大学の学部も皆無で、いろいろと悪戦苦闘することになります。それよりも、あまり勉強が好きではなかったので、大学に入ってからもしばらくは足踏みを続けました(結局は、大学卒業後に留学したのはイギリスの大学院でしたが……中東政治学を専攻しました)。

研究はおもしろくて、難しい

―― 研究をしていて「おもしろい!」と思った瞬間を教えてください。

いつも、おもしろいです。特に、自分自身の当たり前、社会通念、あるいは学問における通説がひっくり返るような強烈な事実(fact)や論理(logic)に出会った時はおもしろいです。

例えば、イスラエル占領下のパレスチナでは、紛争の構図が日常の一部となっています。自動小銃を携えた兵士が人びとに対して日々監視の目を光らせていても、彼ら彼女らにとってはそれが日常であったりします。紛争が非日常である日本列島に住んでいる私たちには想像することすら難しいですが、パレスチナを見るときは「紛争が日常である」という事実を出発点に物事を考えていく必要があります。

他にも、世界から危険視されているグローバルな「テロ組織」が、拠点としている村にとっては地元の「自警団」のような存在だったり。強面の戦闘員たちは恐れられるどころか、頼もしいお兄さんとして子供やお年寄り慕われていたり。傍若無人な「独裁者」が、実はとても巧妙な方法で社会を分断して支配していたり。外国人移民を徹底的に差別し隔離することが、国家の安定にプラスになっていたり。

中東地域研究は、根本のところは外国研究・異文化研究だと思っています。まだまだ未開拓の問題領域がたくさんありますので、頭を柔らかくして、アンテナをしっかり立てていれば、頻繁に「おもしろい!」と思う瞬間がやってくるお得な学問ではないでしょうか。

ただし、「いつもおもしろい」というのは楽であることとは違います。研究自体は試行錯誤の連続ですし、孤独で地道な作業でもあるので、辛い時もしんどい時も多い。でも、時々訪れる「おもしろい」と思えることが、そんな辛さやしんどさを精算してくれます。

「おもしろい」ことを発見する方法、つまり研究の方法については、本や論文を読んだり、新聞やインターネットで情報を集めたりといろいろですが、やはり現地にフィールドワークに出かけるのが一番です。ドカーンと来ます。

suechika

―― 「難しい!」と思った瞬間も教えてください。

これまた、いつも難しいです(笑)。研究対象との距離の取り方が難しい。悩んでいると言ってもよいかもしれません。

研究をすると、最終的には論文や本のかたちで世に問うことになります。研究成果を文字にしていくなかで、中東という外国・異文化の何か/誰かを表象することになります。この表象とは、誰かに変わってその人のことを表現/代表する(してしまう)ことと言い換えた方がわかりやすいでしょうか。

つまり、自分の研究を読んだり聞いたりした人は、そこから中東の何か/誰かについての知見を得たり、イメージを持ったりするわけです。なので、研究者の側には、その責任や倫理が重くのしかかってきます。

言うまでもなく、学問には客観性が重要です。事実の発見であっても、論理の構築であっても、学問のルールにしたがって取り組まなければなりません。そして、研究の成果は学問のルールによって良し悪しが判断される。これが大前提です。

しかし、どれだけルールに従って客観的に書かれたものであっても、読み手の中東イメージに何らかの影響を与えることは避けられません。これは仕方がないことですので、「そんなことを考える必要はない!」と開き直るのも研究者としての1つの態度です。しかし、私自身としては、自分が文字にした中東がどのように受け取られるのかを常に意識しながら研究をすることを心がけています。「中東の専門家が語る中東」に社会的な影響力がないわけがありませんから。

―― 外国研究・異文化研究には論理だけではなく、倫理も大事だということですね。

文系理系問わず、すべての学問に言えることなのかもしれません。マッドサイエンティストにならないためにも(笑)。

とはいえ、中東をどのように語るべきか、こんなに真面目に考えているのに、中東の現実は観察者である私たちに優しくなかったりします。フィールドワークに出かけてみたら、「どうせ見物だろう」と煙たがられたりすることは日常茶飯事です。紛争地域では対立する勢力のどちらからも「お前、奴らの仲間だろ」と嫌がらせを受けたり、実際に拘束されたことも何度もあります。

要するに、どのような意図であれ、中東の何か/誰かを表象したときには、それに喜ぶ人と怒る人の両方が必ず出てくるということです。学問としての客観性が大事なのは繰り返すまでもありませんが、むしろだからこそ、学界の外に広がる社会とのつながりを常に見据えながら研究をしたいと考えています。

異なる何か/誰かに触れる

―― 中東地域について学ぶとどんな役に立ちますか?

キツイ質問ですね(苦笑)。所属先の大学で「中東・イスラーム地域研究」のゼミを持っていますが、学生たちにとって何の役に立つのだろうかと、いつも悶々としています。もちろん、外国・異文化としての中東のことを知ること、考えること自体に意味はあります。

しかし、私が期待しているのは、中東を学び、そこで得たものを通して世界を見直してみると、それまで見えていなかったものが見えてくる、当たり前だと思っていた価値観や常識が相対化されることです。だとすれば、中東を学ぶことは、結果的に学生たちの知性と個性を磨くことになる。

こうした作用については、中東は別に特別なものではありません。異なる何か/誰かに触れることで自分というものが相対化されるのはよくあることです。中東に限らず、他の地域、外国、異文化を謙虚に学ぶことは、その人の寛容さにつながっていきます。

日本を含む世界のあちらこちらで、自分が帰属する(と信じて疑わない)共同体の文化や歴史を絶対視して、他者を排除しようとする動きが増えています。そうしたなかで、自分の価値観や常識だけに縛られないことは非常に重要です。

―― 興味を持った高校生はどの学部に行けばいいですか?

中東の何に興味を持つかによりますが、中東地域研究を掲げた学部や学科はないので、まずは、いろんな大学のカリキュラムを見てみて、中東のことを教えてくれる授業、特にゼミがあるかどうかを確認することが大切です。そのとき、外国語・国際系学部はヒットしやすいですが、例えば、歴史に興味があれば文学部史学科、政治に興味があれば法学部政治学科で探してみるとよいでしょう。近年は、中東を専門にする先生の数も全国的に増えつつあります。

―― 最後に、高校生に一言お願いします。

グローバル化の進展とインターネットの発達によって、外国・異文化としての中東に触れる機会は右肩上がりに増えています。一昔前と比べると中東ははるかに身近な地域になりました。でも、ネット上の情報は仮想世界のものに過ぎないので、現地に行って現実世界を見てきなさい……というのはフェイントです(笑)。よくあるお説教ですね。もちろん一理はあります。

むしろ私は、逆にインターネットをどんどん使って下さい、と言います。せっかく素晴らしいテクノロジーがあるんですから。「インターネットでは自分が見たいもの、都合のよいものにしかたどり着けない」という批判もありますが、中東のことが気になったら見たいものをじゃんじゃん見て、疑問が湧いたらどんどん調べてみて下さい。どうしてもわからない、どうしても知りたい、と思ったら、中東に関する本もたくさん出ています。それでも満足できなかったら、中東に出かけてみて下さい。

異なる何か/誰かに触れることから中東地域研究ははじまります。

(2014年6月13日 立命館東京キャンパスにて)

おすすめ文献

高校生レベルを対象とした岩波ジュニア新書の1冊。近年の中東情勢についての基礎知識と理解のための枠組みを学ぶことができます。同著者の『<中東>の考え方』(講談社現代新書, 2010年)も中東の現代史を把握するのに便利です。

イスラームについての手軽でわかりやすい入門書。宗教としてのイスラームの誕生から、その基本的な教え、社会や政治に対する影響や役割など、包括的に論じられています。

2011年以降のシリア「内戦」を扱った小著。なぜ紛争が始まったのか、なぜ紛争が終わらないのか、知りたい人は必須。それだけではなく、副題にあるように、シリアの現代史と政治の仕組みについても学べます。

先生や上司のガンダム話を苦痛の時間から楽しくてためになる時間に変えたい人は必見。戦争の不毛さだけではなく、共和制/君主制、連邦制、独裁、ガバナンス、政治過程など、政治学の基本を勉強できます。TVシリーズは全43話でコンプリートが大変ですので、ひとまずダイジェスト化された劇場版3部作をおすすめします。どうしても本で読みたい人には、安彦良和『機動戦士ガンダム The Origin』(角川書店, 2002-11年、全23巻)があります。

プロフィール

末近浩太中東地域研究 / イスラーム政治思想・運動研究

中東地域研究、イスラーム政治思想・運動研究。1973年名古屋市生まれ。横浜市立大学文理学部、英国ダーラム大学中東・イスラーム研究センター修士課程修了、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科5年一貫制博士課程修了。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現在立命館大学国際関係学部教授。この間に、英国オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジ研究員、京都大学地域研究統合情報センター客員准教授、、英国ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)ロンドン中東研究所研究員を歴任。著作に、『現代シリアの国家変容とイスラーム』(ナカニシヤ出版、2005年)、『現代シリア・レバノンの政治構造』(岩波書店、2009年、青山弘之との共著)、『イスラーム主義と中東政治:レバノン・ヒズブッラーの抵抗と革命』(名古屋大学出版会、2013年)、『比較政治学の考え方』(有斐閣、2016年、久保慶一・高橋百合子との共著)、『イスラーム主義:もう一つの近代を構想する』(岩波新書、2018年)がある。

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