2014.10.28
偽証との向き合い方、修正主義の受け止め方――ホロコーストと比較して
従軍慰安婦に関する「吉田証言」の真偽が早くから疑われながらも、朝日新聞がその検証とこれに基づいた記事の撤回を怠ってきたとして批判の矢面に立たされている。過去の朝日の報道により日本の国益が損なわれたと保守勢力は非難し、首相が朝日新聞に対して、偽証であった事実を国際的に周知させるように求める事態にまでなっている。
確かに、ジャーナリズムの本分である批判的検証を怠ってきたという点で朝日は批判されるべきだが、本来これは特定の個人による「偽証」の問題である。かつて従軍慰安婦制度というものが存在し、これが極度の人権侵害にあたるという事実には変わりはない。それにもかかわらず、慰安婦そのものが虚構であるような論調が幅を利かせ始めているのが現状だ。こうした国内の動きを韓国や中国、オランダなどの直接の関係諸国のみならず、欧米諸国も、「河野談話」見直しへの動きとして警戒を示している。
日本国内の議論に対して欧米の視線が厳しいのは、これが負の歴史における偽証に対する社会の向き合い方と、修正主義の問題と関わるためだ。そこで、本稿では偽証と修正主義について、ホロコーストの過去との取り組みと比較しながら考えたい。なお、本稿においては、偽証罪に該当する行為に限定せず、何らかの動機により、意図的に事実と反することを証言することを広く偽証とする。
加害者・傍観者・犠牲者の偽証
第二次世界大戦後、ドイツを中心とした欧米諸国がナチズムやホロコーストなど負の歴史と向き合う中で、偽証は避けて通れない問題であった。
第一に確認すべきは、偽証を行う者は、刑事罰の対象となる加害者集団から出ることが圧倒的に多いという事実である。犯罪の隠蔽、処罰の回避など、直接的な動機が存在するためである。実際、ナチ犯罪者が過去を偽り、偽名で戦後を生きた例は枚挙にいとまがない。アイヒマンがその典型的な例であろうし、良き隣人とされていた人が何十年もの後に素性を明かされ、裁判で終身刑が宣告されるといったニュースが時折紙面をにぎわしてきた。
他方、法的な意味で責任を問われない者、つまり犯罪の場に居合わせながら傍観した者なども、事実を語らない、認めないことが多かった。自らの社会的地位を守るため、家族や地域の良好な人間関係を維持するためなどの理由が考えられる。これはさまざまなレベルで発生するため数値化できるようなものではないが、沈黙する祖父・父親世代に反発したのが60年代末のドイツの学生運動であったと言える。
犠牲者の側が偽証を行う例も存在する。その背景には、主に金銭的な動機がある。迫害への補償においては、多くはないが、必ず一定の割合で偽証に基づく補償金詐取が発生してきた。これはある意味では当然と言える。保険金詐欺という犯罪がどの社会にもあるように、特定の条件を満たした場合に金銭給付のなされる制度においては、詐欺は必ずおこると最初から想定して制度をつくる必要がある。
他方、加害者集団の犯した犯罪の規模や性格を思うと、多少の詐欺などたいしたことではないと考える犠牲者もいる。彼らは詐欺を個人の小さな復讐として捉え、犯罪意識も低い。こうした例は補償措置が始まった当初から見られてきた。ただし虚偽申請はたいてい請求を審査する場ではじかれるため、ほとんど表面化することはない。しかし中には大規模な詐欺事件もあり、これが耳目を集めることとなる。
例えばユダヤ人の補償申請の窓口として長い歴史を持つNGO、「ユダヤ人対独物的損害請求会議(Claims Conference)」の職員が何人かで大量の虚偽申請を行い、何と5,700万ドル(約60億円)も横領した事実が近年発覚した。職員らは、本来受給権のない人びとに声をかけ、生年月日を偽ったり、医師の鑑定書を偽造したりして補償を申請し、給付が認められた折には見返りを得ていたのである。この件は2013年に有罪が確定している。
こうした事例はかなり例外的だが、一般に犠牲者による偽証や詐欺は、加害者によるそれより重大な問題と見なされる傾向にある。それは加害者集団が犠牲者集団に何らかの「非」を求め、自らの犯罪の相対化、罪悪感の軽減を試みるためと思われる。
これはまた、犠牲者をめぐる位置づけの変化とも関係しているだろう。というのも、人道に反する重大な犯罪に関与した社会は道徳的権威を失う。加害者集団に付与された否定的な価値ゆえに、犠牲者集団は相対的に価値的な上位者となる。この過程で、本来犠牲者の集まりであること以外にはさしたる特性のない集団に、高次のモラルが期待されるようになる。
あんなに苦しい思いをしたのだから、犠牲者が嘘をついたり、金のために詐欺をしたりするなどありえないというダブルスタンダードが生まれてくる。迫害の犠牲になった事実により、ある集団が道徳的高みに到達するわけではないにもかかわらず、犠牲者集団に過度な威厳や道徳が要求されてしまうのである。イスラエルのパレスチナ政策に関し、「ホロコーストであのような経験をしたユダヤ人が、なぜ」という言い方がされるのが良い例だ。
なりすましの偽証
加害者・犠牲者に加え、直接的には加害者でも犠牲者でもない第三者が偽証することもある。今問題になっている吉田証言がこれにあたると思われる。関係のない人が偽証する動機はさまざまであるが、金銭的理由、個人の人間関係などの他にも、その時代の価値観や支配的イデオロギーも影響するだろう。吉田清治氏が慰安婦狩りをねつ造したように、ホロコースト体験を創作し、自伝と偽って出版するケースは1960年代から散見される。ただし、いかなる実体験記であろうとも、文字に記された時点でそれらはすべて「作品」である。その意味でルポタージュと自伝、小説の境界は重複することを忘れてはならない。
過去に問題になった例は多いが、近年のものを挙げると、ホロコーストの「チャイルド・サバイバー」として、幼少期に体験した強制収容所の記憶を記したとする自伝『断片』を1995年に発表し、複数の文学賞を受賞したビンヤミン・ヴィルコミルスキの事件がある。
ヴィルコミルスキは、リガのゲットーで生まれ、ホロコーストで家族をすべて失ったが、自分だけポーランドの二つの強制収容所を生き残り、戦後スイス人家庭に養子として迎えられたと主張した。1990年代半ばといえば、ちょうど「忘れられた犠牲者」である子供の生存者に注目が集まり始めていた時期である。ヴィルコミルスキはアメリカで「60ミニッツ」などのテレビ番組にも登場し、強制収容所で一緒だったとされる女性との「再会」まで果たして視聴者の涙を誘ったが、実際にはユダヤ人でさえなく、未婚の母による非嫡出子として戦時期をスイスで育ったことをジャーナリストにより暴露された。
ヴィルコミルスキの事件のすぐ後に、年端のゆかぬ少女がナチから逃れてひとり森に潜伏し、時には狼の中で暮らしながら両親を探し回るという自伝、『ミーシャ:ホロコーストと白い狼』がベストセラーになるが、これも創作であったことが判明した。著者のベルギー人、ミーシャ・レヴィ・デフォンスカの両親は、ドイツ占領下のベルギーでパルチザンとして抵抗運動に関わったものの、ナチにより逮捕され密告者となり、最終的に収容所で死亡している。孤児となり、対独協力者の子供として白眼視された経験が、カトリックであるデフォンスカにユダヤ人チャイルド・サバイバーとしての過去を創作させたと言われている。
本を売るという実利的な目的からだけでは、こうした「なりすまし」を理解することはできない。そこには欧米社会においてホロコースト生存者が身にまとう象徴性だけでなく、記憶の氾濫する社会の病理も映し出されている。犠牲者に付与されたより高き価値の場に身を置こうとする願望や、自身を何かの犠牲者であると考えずにはいられない現代社会の風潮が透けて見える。その意味では、吉田氏の偽証においても当時の社会が好んで耳を傾けたものが反映されているはずであり、ここにおいてマスコミの役割は小さくなかったと思われる。
ドイツはどう対応してきたか
負の歴史に関する虚偽の語りはさまざまな社会背景の中から生まれてくる。では、こうした偽証やそれに基づく詐欺に対して、ドイツはどのように向き合ってきたのだろうか。
まず、ドイツでは主に刑事罰に問われるべき人間による偽証の問題が取り組まれてきたという点を確認しておく。これに対し、犠牲者の側の偽証や詐欺は問題化する数自体少ないこともあり、世論が過剰反応を示すことはほとんどなかった。
例外が1952年の「アウアーバッハ事件」で、これはバイエルン州でナチ被害者の補償局長官であったホロコースト生存者アウアーバッハが、補償金横領・恐喝・学歴詐称等で起訴され、冤罪を主張した被告が、有罪判決の下った夜に獄中自殺したというものだ。この際にはバイエルンの政治、司法、メディアまでもが一大反アウアーバッハ陣営を形成し、社会からナチ勢力の除去がまだ進んでいないことを印象付けた。後に一部不当判決があったとしてアウアーバッハの名誉回復がなされており、ドイツが戦後民主主義へと移行する過渡期におこった事件と位置づけることができる。
また先述の「ユダヤ人請求会議」職員による詐欺事件においても、市民の反応はごく冷静で、犯罪を犯罪として断罪する以上の論調は見られず、ましてや補償の意義に対する疑念が呈されることもなかった。そこには当然、加害者側が犠牲者側を非難するのは気が引けるというタブー意識もあっただろうが、むしろ偽証や詐欺はおこるものであるという、現実的な認識があったようだ。
第一、補償事由の発生から時間が経過すると記憶もあいまいになるうえ、物証がなくなる。しかし逆に歴史研究の進展より専門的な知識が誰にでも入手可能になると、補償金詐取の余地は拡大する。請求会議職員の詐欺事件は、まさにこうした状況の産物である。では、発生が予測される偽証や詐欺に加害国としてはどのように対応するかだが、加害者側が犠牲者側の行為に対して価値判断を下すのはかなりセンシティブな問題である。厳しく臨めば批判を受けるが、全く看過するわけにもいかない。
ドイツは長い補償の歴史で試行錯誤を繰り返してきた経験から、こうした問題をうまくやり過ごす術を身に着けたように見える。それは、国家として補償は行うが、犠牲者を代弁する団体(もしくは国家)に対して補償を支払った後は、その分配や使途については相手側に任せ、口を出さないという姿勢である。
例えば、2000年に強制労働の補償のために『記憶・責任・未来』財団が設立され、官民合わせて100億マルクが拠出されたが、補償申請の審査や補償金の分配には、財団は直接に関与していない。こうした実務はポーランドやウクライナなど犠牲者の居住国のパートナー機関に一任されていた。したがって虚偽申請や、補償金配分をめぐる犠牲者同士の対立という予測可能な事態に対応したのも現地の機関であった。結果として、申請が却下された人や補償が十分でなかった人の不満は、財団よりむしろ現地機関に向けられ、ドイツは犠牲者との摩擦とそれに伴うイメージダウンを避けることができた。
もちろん、偽証や補償金詐取の問題を回避するためだけにこういったシステムが採用されたわけではない。それでも相手国もしくは犠牲者団体に迅速に補償金を払い込むことにより国際的な批判をかわし、ドイツの対外評価を高めるという点では賢明なやり方といえる。
懸念すべきは、日本の反知性主義
では、吉田証言をめぐって朝日新聞を非難する世論が、欧米において冷ややかに受け止められているのはなぜだろう。
それは、個人による偽証の一つや二つをもって歴史的事実の存在自体を否定もしくは矮小化しようとする主張は、修正主義(Revisionism)と見なされるためである。かつて「ホロコースト否定論者」と呼ばれる人々が、ホロコーストにおける死者数を意図的に小さく見積もって論争が起こることがたびたびあった。もちろん修正主義にもレベルがあり、極右サークルなどで支持される単純な否定論から、学術の装いをまとい、あたかももう一つの「解釈」を提起しているように見せかけつつ、本当の意図は史実の否定にあるものまでさまざまである。
修正主義の特徴は、犠牲者の証言や歴史記述の不整合を逐一あげつらい、自分の主張に都合の良い事実だけ選び出して拡大解釈し、逆に自分に都合の悪い史実の山を無視することにある。こうした行為は、死者や生存者の尊厳を踏みにじる悪意あるものとして断罪される。ホロコースト否定や矮小化を法律で禁止する国においては、犯罪となる場合もある。
ただし修正主義を拒否する欧米共通の基盤も、一夜にして成ったわけではない。その分水嶺とされるのが、いわゆる「アーヴィング裁判」である。ホロコーストにおけるヒトラーの役割を意図的に過小評価する英国の著述家ディヴィット・アーヴィングが、彼を修正主義者として批判する歴史家を1996年に名誉棄損で訴えた事件だ。
この裁判においてホロコースト研究の世界的権威として知られる歴史家数名により報告書が提出され、結果として司法の場でユダヤ人虐殺の「事実認定」がなされることとなった。2000年に判決が出され、アーヴィングは敗訴し、巨額の裁判費用の支払いを命じられた。これにより、修正主義的主張を公の場で行うことの政治的リスクのみならず、その金銭的リスクまでが認識されるにいたった。
現在では、修正主義は相手にする価値もないというのが欧米の常識である。特定の意図に基づいてなされる非歴史的な主張を「論破」するために、学術の立場から証拠を提示してゆくこと自体、不毛だという理解からである。
つまり、慰安婦に関する問題で欧米が警戒する一つの理由は、東アジアの政治不安定化への懸念と並んで、現在の日本の世論に修正主義的傾向が色濃く漂うためである。朝日新聞の慰安婦報道も、吉田証言だけを根拠になされたわけではないのは言うまでもない。歴史研究、聞き取り調査、裁判などの総体の中から形成されてきたはずだ。偽証という一点から歴史全体を切り崩そうとする手法は、修正主義のそれと同じに見える。
歴史解釈とは、長年の研究の積み重ねによって確立するものであり、一人の偽証によって無に帰すことなどありえない。特定の偽証を理由に歴史全体を否定する者があるとしたら、それは学術に対する冒涜である。史料の山に何十年も向かって得られた知見と、そうしたものを手に取ったこともない人たちの個人的な見解が、同じ土俵でたたかわされることを許している現在の日本の知的貧弱、いわば反知性主義こそ、最も懸念すべきものだ。
したがって修正主義に近いと見なされる主張が社会で増殖するのを放置していると、それこそ日本の国益に関わる問題になるだろう。いつまでも反省しない国という、欧米諸国の先入観はまさに「証明」されるどころか、学術研究に基づく歴史解釈と、修正主義の区別もできないとして、日本人の見識自体に疑問符がつけられる。さらにこうした修正主義的風潮から明確に距離を取らない政治家は、危険だと見なされるだろう。
そもそも、特定個人による偽証を大手メディアが報道してきたという事実は、慰安婦問題においては本質的な点ではない。慰安婦報道により「失われた」日本の「名誉」を取り戻すという言い方がよくされるが、実際、欧米でこれを国家の名誉の問題だと捉える人はほとんどいないだろう。先の大戦で甚大な性暴力を受けた女性がおり、彼女らへの補償が十分ではないという点が問題なのであり、個人の救済が焦点となっている。
ここで国家的名誉の回復という、いわば19世紀の国民国家論に見られたような情念が議論をけん引していること自体、ある意味で特殊「日本的」な状況と言える。欧米諸国家はおおよそ日本の名誉には関心がないし、日本で名誉が問題になっていること自体、認識されていないだろう。第一、「名誉」というものがそれを認知し承認する他者の存在なしでは成立しないことを思うと、これはいったい誰に向けられたものなのか。
吉田証言を引用するクマラスワミ報告が修正されない[*1]、韓国系米国人のロビー活動に効果的に対抗できないのだとすると、これはむしろ日本の外交力の欠如やPRの仕方に問題があるのではないか。もちろん、外交関係者は十分に努力していると答えるだろうし、アジア女性基金などもっと評価されてよいものが過小評価されている事実もある。それでも非難が続くのだとすると、これは単に、日本が常に遅きに失してきたからではないのか。
戦時・平時を問わず、女性に対する性暴力が深刻な人権侵害であるという認識があれば、戦後アジアの政治的諸状況を勘案したとしても、より早い段階で補償措置が可能だったと思われる。そしてそれはさまざまな意味で予防措置になり得ただろう。終戦からもうすぐ70年になろうという現在においては、こうした主張自体、遅きに失する。ダメージコントロールは、時間が経過した後では効果がないのだ。
プロフィール
武井彩佳
学習院女子大学国際文化交流学部教授。早稲田大学博士(文学)。
単著に、今回取り上げる著書の他、『戦後ドイツのユダヤ人』(白水社、2005年)、『ユダヤ人財産は誰のものか――ホロコーストからパレスチナ問題へ』(白水社、2008年)、『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』、(みすず書房、2017年)などがある。