2010.07.13

米国・ブッシュ政権は、米国の一極的支配を追求するような外交を展開し、多極的世界を追求した中ロとは関係を緊張させていった。その緊張がピークに達したのが、2008年8月のグルジア紛争であった。

オバマ、米ロ関係の「リセット」宣言

筆者は、同紛争の勃発の背景には、国内レベル(グルジア、ロシア両国内)、国家間レベル(グルジア・ロシア関係)、地域レベル(旧ソ連・東欧)、国際レベル(欧米・ロシア関係)の各々の問題があり、なかでもブッシュ政権時代の米ロ関係の緊張がとくに大きな意味をもったと考えている。

実際、同紛争後、米ロ関係は顕著に悪化し、「新冷戦」が到来するという懸念すら囁かれるようになった。結果的には「新冷戦」は生じなかったとはいえ、米ロ関係の緊張は2009年に米国大統領に就任したオバマが、米ロ関係の「リセット」を宣言するまではつづいたといってよい。

「リセット」後、米ロ間の懸案事項はかなり解消された。今年4月には、昨年12月に失効した戦略兵器削減条約(START1)に代わる「新START」に調印、軍縮に弾みがついた。

また、6月23日にロシアのメドヴェージェフ大統領は米国・カリフォルニア州のシリコンバレーを訪問。モスクワ郊外のスコルコボで進められているロシア版シリコンバレー計画への投資を呼び掛ける一方、ロシアが40億ドル相当のボーイング737型機50機を購入することも明らかになるなど、経済関係も緊密化している。

対ロシア協力、米国にとっての不可避の道

両国大統領の6月24日の首脳会談では、対イラン制裁や欧州ミサイル防衛構想、NATO東方拡大の事実上の中止など、両国間の懸案となっていた多くの重要課題で合意に達した。

米国はポーランドとチェコへのミサイル配備を中止し、グルジアのアブハジア、南オセチアをロシアが事実上占領していることや、ロシア国内の反民主的・反人道的動きなどについても黙認する一方、ロシアのWTO(世界貿易機関)加盟にも支援を表明している。

ロシアも米国の対アフガニスタン政策に必須である、キルギスの空軍基地を閉鎖させることを断念。新STARTや対イラン制裁に合意するなど、一定の譲歩はしているものの、圧倒的な米国の譲歩が目立つ。それでも、ブッシュ時代に最悪になった米ロ関係を解消し、世界の政治的、経済的不安定状態を解消するためにロシアと協力していくというシナリオは、米国にとっては不可避の道であるともいえる。

ロシアの裏庭を歴訪するクリントン米国長官

ところが、こうしたなか7月初旬に、米ロ関係を本質的に揺るがしかねない事態が旧ソ連、東欧で進行していた。

ヒラリー・クリントン米国務長官によるポーランド、ウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの歴訪である。

これら諸国はアルメニアを除き、「反露」傾向が強い国であり(*1)、米ロの関係「リセット」後、米国に「見捨てられた」という思いを強めていた。今回のクリントンの歴訪は、それら諸国に対する埋め合わせ行脚であったといってよい。

(*1)ただし、アゼルバイジャンはウクライナ、グルジア、モルドヴァとともにGUAMという反露的な地域組織を組む一方、絶妙なバランス外交をとってロシアとも無難な関係を維持しており、ウクライナは2010年2月にヤヌコビッチ が大統領となって以降、ロシアとの関係を改善している。

ウクライナのNATO加盟問題とポーランドの新ミサイル防衛協定

ウクライナはユーシチェンコ前大統領時代、NATO加盟を切望していた。ロシアの強い反発があったとはいえ、少なくとも2008年グルジア紛争直前までは、それはかなり現実的であった。だが、グルジア紛争を契機に、ウクライナのNATO加盟はかなり難しくなり、ヌコビッチ大統領はNATO加盟を目指さない方針を示している。

ところが、今回の訪問でクリントンは、「NATOへの扉は開かれている」と発言するなど、ウクライナがロシア一辺倒になることを牽制しているかのような姿勢を示した。

ポーランドでは、新ミサイル防衛(MD)協定に調印した。

前述のように、2008年にブッシュ前政権が、大陸間弾道ミサイル(ICBM)にも対応できる地上配備型の迎撃ミサイル10基を、ポーランドに配備する計画を決定した。オバマ政権はロシアの反対を受け、この計画を反故にしていたのだが、ポーランド側の強い依頼で、MD計画を見直して実行することとなったのである。

今回の計画は、SM3搭載のイージス艦や、地上型の移動式SM3を配備するとしており、クリントン長官は「純粋に防衛を目的とするシステムで、ロシアへの脅威とはならない」と強調している。しかし、ロシアは計画が縮小されたとはいえ、ポーランドにMDシステムが配備されることに大きな反発を示している。

アゼルバイジャンをつなぎとめようとする米国

アルメニア、アゼルバイジャンでは、両国間の「凍結された紛争」、ナゴルノ・カラバフ紛争の解決に向け、ロシアと協調して努力していくことが強調された。同紛争は、米、露、仏三か国が共同議長を務めるOSCEミンスクグループが和平を主導してきたが、交渉が停滞している。そのようななかで「ロシアとの協調」を強調したことは、注目に値するといえる。

他方、米国がアゼルバイジャン大使のポストを1年以上空白にしたり(*2)、4月の核サミットにアゼルバイジャン大統領を招待しなかったり(隣国アルメニア、グルジアの大統領は招かれていた)、昨年から今年にかけてトルコとアルメニアの和解(今年4月にアルメニア側が白紙に戻した)を支援したりしたことで、アゼルバイジャンの対米不信感は頂点に達していた。

(*2)ただし、最近、新大使としてマシュー・ブライザ前米国務副次官補(欧州・ユーラシア担当)が任命され、近く着任予定となっている。これまでの失礼の埋め合わせをする ための大物人事とみられているが、隣国アルメニアはその人事に反発している。

アゼルバイジャンの協力を得られなければ、米国のアフガニスタン政策や、ロシアを迂回する石油・天然ガスのパイプライン敷設計画が立ち行かなくなる。米国はアゼルバイジャンとの関係を何としても改善しておく必要があった。

そのため、クリントン国務長官の訪問に先立ち、6月にはゲーツ米国防長官がオバマ大統領の親書を携えて訪問するなど、米国も必死の努力でアゼルバイジャンをつなぎとめようとしているようである。

ロシアとの関係改善とロシア周辺諸国との関係というジレンマ

最後に、グルジア訪問時に、クリントン国務長官は、「グルジアの主権と領土保全への支持は揺るがない」と強調、ロシアの南オセチア、アブハジアの事実上の占領を強く批判した。

「リセット」以後、グルジアは米国に見捨てられたという意識を強くしていたので、このクリントンの発言はグルジアにとって大きな励みになったはずだが、当然、ロシアは強く反発している。

このような「小国」への米国国務長官の訪問は異例だといってよく、米国がロシアの裏庭への影響力の維持と国益確保に貪欲に動いたことは明確だ。

また、MDシステム配備、ウクライナのNATO加盟問題など、クリントン国務長官が話題にした内容は、2008年のグルジア紛争の重要な背景となっている問題であり、米ロ関係「リセット」の難しさを改めてみせつけられることとなった。

とはいえ、訪問中に度々「ロシアとの協調」を強調するなど、当然ロシアへの配慮も強くなされており、米国が「リセット」宣言の背後で、対旧ソ連諸国外交においてジレンマに陥っているのは明らかである。

米国務省は「欧州安全保障はゼロサムゲームではない」と強調するが、ロシアとの関係改善とロシア周辺諸国との関係という、二つの相反するベクトルのなかで、米国の苦悩は当分つづきそうであり、今後の米ロ関係も紆余曲折を強いられそうである。

推薦図書

本書は、コーカサスの各国事情、国際問題などを一般の読者にも分かりやすいかたちで記した概説本である。2008年6月に出版されたため、同年8月に発生したグルジア紛争については触れられていないが、本書を読めばグルジア紛争がなぜ起きたのかという背景が国内、国家間、地域、国際の各レベルから多面的に理解できる。また、じつは紛争後もコーカサスとロシア、世界をめぐる基本構造はまったく変わっておらず、本書が示した枠組みで現在の状況も説明できることがお分かりになるだろう。コーカサス事情はもとより、米ロ関係、ロシアの裏庭をめぐる複雑な国際関係を理解するにはうってつけの本だといえる。2009年「アジア太平洋賞特別賞」受賞作品。

プロフィール

廣瀬陽子国際政治 / 旧ソ連地域研究

1972年東京生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は国際政治、 コーカサスを中心とした旧ソ連地域研究。主な著作に『旧ソ連地域と紛争――石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会)、『コーカサス――国際関係の十字路』(集英社新書、2009年アジア太平洋賞 特別賞受賞)、『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス)、『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書)など多数。

この執筆者の記事