2015.04.15
韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題――戦争の記憶と和解
かつて韓国軍はベトナム戦争に参戦した。精鋭部隊のべ31万人以上を派兵し、5000人前後の死者を出した。この間に生じた民間人虐殺は、最近の「嫌韓」ブームのなかでしばしば取り上げられている。しかしそれは、従軍慰安婦問題などに対する日本の責任を問う声への反撃材料として利用することに終始した、生産性のないものである。
ここで論じたいのは、韓国とベトナム双方での虐殺の語られ方である。そして韓国軍による民間人虐殺に関して韓国世論が二分された背景をさぐり、自国の負の歴史を直視することの困難さに触れたい。
さらに負の歴史を記憶し未来の平和に役立てようとする韓国NGOの活動がベトナムで果たした役割について考えたい。
一方ベトナムでは、戦争に関する歴史認識が公定記憶に強く支配されているため、公定記憶になりえない記憶がこぼれ落ち、国際関係に影響を与えない範囲でしか歴史を語れない状況にあることを指摘する。
記憶の語り方――韓国の場合
韓国では、全斗煥・盧泰愚両大統領がベトナム戦争の元参戦軍人であったこともあり、武勇伝以外の形でベトナム戦争にふれることはできなかった。1999年になって風穴を開けたのが、民間人虐殺事件を報じたハンギョレ新聞社の週刊誌『ハンギョレ21』であった。
「武勇伝」が「虐殺」となり韓国社会に記憶の混乱が生じた。そのなかで事実の解明と謝罪を求めるNGOが活動を開始、『ハンギョレ21』が謝罪のための募金を呼びかけた。反面、「正義の戦争」と主張する元参戦軍人を中心とした保守派の反発を招き、2000年6月27日には、2400人もの元参戦軍人によるハンギョレ新聞社襲撃事件が起きた。
■ク・スジョンと『ハンギョレ21』の報道
『ハンギョレ21』の記事を書いたのは、ホーチミン市在住のハンギョレ新聞社通信員、ク・スジョンだった。1966年生まれの彼女は、韓国民主化運動期は大学生で活動家だったが、1992年末の大統領選で金大中が敗北、学生運動が方向性を見失ったため、社会主義がどのようなものであるか見ようと同年末に国交回復したベトナムに渡る。
通信員の一方でベトナム国家大学ホーチミン市校の大学院歴史学科に在籍し「ベトナムにおけるアメリカの戦争への韓国軍の介入」のテーマで修士論文を執筆していた。
執筆に際し「ベトナム南部における南朝鮮軍の罪悪」というベトナム共産党政治局の内部資料を入手したが内容の信憑性、韓国や日本の世論に与える影響を考え公表をためらっていた。
しかし、NGOナワウリ(「私と私たち」の意)のメンバーと会って考えを変える。かれらは1998年の日本のNGOピースボートの船旅で、後述するハミ村をたまたま訪問、村人の証言に衝撃を受け、独自調査のため1999年4月に訪越した。ク・スジョンは通訳を兼ねてこの資料にもとづく調査に同行した。
最初に訪れたのは、ニントゥアン省ファンラン市のリンソン寺で、僧侶4人の虐殺事件(1969年10月)の唯一の生存者の僧から話を聞き、ビンディン省博物館編の「ビンアンの虐殺」(後述)に関する資料もあることを知る。そして聞き取った虐殺の様相を「ああ震撼の韓国軍」として1999年5月6日号の『ハンギョレ21』に発表した。
この記事が出た当時通信員を統括する仕事を兼ねていた、ハンギョレ新聞社のコ・ギョンテ記者は、特集として扱いたいと考えた。ク・スジョンはそれに応じ、先の共産党政治局の資料に沿って、数十日かけてベトナム中部5省の9県13行政村をまわり、100人以上の人々にインタビューをし、1999年9月2日号で10頁にわたる特集を組んだ。
これが約2ヶ月後に始まる募金活動と合わせて、のちに「ごめんなさいベトナムキャンペーン」と呼ばれる運動のはじまりであった。キャンペーンは1年間続いた。
この運動は、ベトナム側で当初何度も虐殺事件について記事を掲載した『トゥイチェー』紙のアドバイスも入れ、民間人虐殺があった地域での学校建設を目標とした。目標金額は最低1億ウォン(約1000万円)で、その後50床の病院をつくる計画に変わったが、金大中政府がベトナム中部5省に病院を建設する計画を発表したことから、最終的に2001年に平和公園をつくることに決まった。
このキャンペーンに賛同した人々は、ちょうど同じ時期に表面化したノグンリ問題(朝鮮戦争時の米軍による民間人虐殺事件)に対し、米軍の責任を問うなら、自分たちが起こしたベトナムでの虐殺にも向き合わねばならないと考えた。
同じハンギョレ新聞社が、日本軍の慰安婦にされたおばあさんたちの支援のために集めた寄付に比べると、政財界からの寄付がなく低調であったが、地道な運動の結果、2003年に韓越平和公園が建設された。
■NGOナワウリの活動
先述のように、ク・スジョンが韓国軍に関する記事を書くきっかけをつくったのは、ナワウリのメンバーがホーチミン市にやってきたことであった。かれらはク・スジョンと合流して調査の旅に出るが、この数週間の調査は断続的に計4回4年に及び、参加者にはかつての参戦軍人もいた。
ナワウリはこの後、2001年にホーチミン市でグッドウィルというNGOを結成した。グッドウィルの当初のメンバーは、ホーチミン市在住の韓国人ばかりで、ベトナム人はこの問題に全く無関心だった。ベトナム人自身に虐殺の問題を考えてもらうため、ホーチミン市の大学の韓国語学科の学生をリクルートし、数人を韓国に留学させた。帰国後にかれらがグッドウィルの中心メンバーとなっていく。
2002年からナワウリとグッドウィルは、韓国軍が虐殺を引き起こした地域で、いくつかの活動をはじめた。韓国人青年とベトナム人青年(ホーチミン市と村の若者たち)が二週間、寝食を共にしながら両国の過去を振り返り、真の平和に向けた実践を模索しながら、一緒に労働して汗を流し親睦を深める「韓越平和キャンプ」である。
まずは虐殺の犠牲者のための慰霊碑をつくり、舗装道路や橋の建設、生き残りの高齢者たちの家の修理などをした。ベトナム人でも、「過去にフタをして未来へ向かおう」という共産党の方針のために青年世代はベトナム戦争の歴史にあまり詳しくなく、ましてや韓国軍の虐殺事件については知らない。そのため、家族を殺されて苦しい思いをし、今もおきざりの状態にある生存者の人々に手をさしのべることを自覚してもらうことも意図していた。
記憶の語り方――ベトナムの場合
ベトナムでは、各級行政組織(国家、省、県、行政村)、地域、時間の経過によって、韓国軍の虐殺行為の記憶について多様な語り方を示した。
たとえば『ハンギョレ21』のキャンペーン開始時は、虐殺の生存者が当時の悲惨な状況を素直に語り、『ハンギョレ21』の報道を追う形でベトナムの全国紙にも同様の記事が掲載された。
しかし、韓国の世論が割れていることをベトナム国家が認識し、また『ハンギョレ21』の記事がロイター通信によって全世界に拡散しかけると事態は変化した。国家にとって、虐殺の記憶が県レベルを超えて国民に共有されてはならなかったからだ。
反韓感情が強くなり外交・経済交流に悪影響を及ぼすことを懸念して、ベトナム国家は継続的な報道を許さなかった。これは、「過去にフタをして未来へ向かおう」というベトナムの1986年末のドイモイ(刷新政策)後の方針による。
これはもともと1990年代初めにアメリカとの関係改善を目指して出したスローガンだったが、その後すべての国に適用し、歴史上ベトナムに被害を及ぼした国に賠償を求めず未来の関係改善を重視する方針となった。
一見未来志向だが、戦争被害を掘り起こして真実に沿った歴史を刻むよりも、共産党の公定記憶に貢献するもののみが、ナショナルな「歴史」を構成することになる。その結果、被害国にもかかわらず、国家関係・国家利益を優先して、現政権への貢献がなかった戦争被害者の声を封殺し、多様な記憶の表明を許容せず、弱い立場の自国民を犠牲にするケースさえ見られる。
■クアンナム省ハミ村の慰霊碑をめぐる騒動――優先された外交関係
その一例として中部の大都市ダナンのすぐ南にあるクアンナム省ハミ村の事例を紹介する。1968年2月ハミ村で135人の村人が韓国軍に虐殺された。男性は南ベトナム解放民族戦線に入るか南ベトナム政府軍に徴兵されるかだったので、ほとんどが高齢者、女性と子供だった。
筆者に証言してくれた男性は、家にいると政府軍に徴兵されるので毎日早朝から家を空けていたが、その日帰宅すると母や兄弟、親戚が殺されていた。明かりをつけると韓国兵に撃たれるため暗闇のなかで埋葬したが、翌日韓国軍は戦車でそこを整地していった。男性はこれを「二度殺された」と表現した。
ドイモイ後の1999年、元参戦軍人が訪問した際に資金不足で慰霊碑が建てられないと聞き25000ドルを寄付した。ハミ村の属するディエンズオン行政村は慰霊碑と集団墓地建設のための土地を提供し村人は労働力を提供した。昼寝休憩をとる習慣の村人たちが慰霊碑建設のために昼寝もせずに働いたという。
その甲斐あって2000年11月に立派な慰霊碑が建ち多くの家族が集団墓地に遺骨を移動した。慰霊碑の表に犠牲者の名簿が、裏には虐殺を詠んだ詩が彫られた。その内容は生存者の話を忠実に反映していたが、これが騒動の原因となる。
碑を見た元参戦軍人たちはリアルな表現に耐えられず、韓国政府を通じて文章の修正を要求した。韓国大使館はベトナム政府、ベトナム政府はクアンナム省に圧力をかけた。
クアンナム省は、当初は人民委員会副主席、日本でいえば副県知事に相当する女性幹部が韓国の助成に頼らずに省とディエンバン県の負担で建設する、と屈しなかったが、韓国からの投資は民間だけでなく、KOICA(JICAの韓国版)を通じた多額の援助も増大しており、ODAによる省中央総合病院の建設計画が進んでいた。
そこでベトナム政府は、韓越関係の悪化で病院が建設されないことになると損失であると省を説得、ディエンバン県を通さずに直接ディエンズオン村に職員を派遣した。その結果、上部行政機関と村人との板挟みになっていたディエンズオン村の村長は圧力に屈してしまった。
村人たちは、村長に穏健な文言を受け入れるか、すべての文言を消すかという二者択一を迫られ、最後まで抵抗していた生存者も折れるほかなかった。
しかし、韓国側は「削除」したと思っているが、実は蓮の絵柄を彫った石版で裏面を覆い、「フタ」をしたのであった。筆者の訪問時には、自嘲めかして「これこそまさに過去にフタをすることだ」と言っていた。
一方、先に述べたク・スジョンたちの活動によって生存者や遺族は少しずつ癒されてきている。韓国社会にこの問題を知らせ今後の教訓にしようと奮闘するかれらの姿を目にし「韓国人に対する憎しみが薄れていった」と感じているお年寄りは複数いる。
(写真:ハミ村追悼碑のフタがされた裏側 2008年2月撮影)
■県主催の「ビンアンの虐殺」慰霊祭――地方レベルを越えさせない「虐殺の記憶」
上の事例は、つまりは国家との摩擦を起こさない限りは問題にはならないということでもある。たとえば、省や県独自の慰霊祭の挙行、被害者名簿の作成、事件概要のパンフレット作成などは複数なされている。省や県や行政村はこうした形で住民の不満の緩衝材となっている。
一例としてビンディン省テイソン県テイヴィン行政村の事例を紹介したい。ここでは「ビンアンの虐殺」という最大級の虐殺事件が起こった。テイヴィン村のゴーザイという丘ではわずか二時間で380人もの民間人が韓国兵に殺されたという。
現在テイヴィン村には、肩に白い猛虎の紋章を付けた韓国兵がベトナム農民に襲いかかる大きな絵がある立派な慰霊碑が建設され、県主催の大規模な慰霊祭も毎年行われている。ハミ村の慰霊碑よりも衝撃的だが、問題となっていない。
(写真:ビンアンの虐殺の追悼碑のモザイク画 2008年2月撮影)
なぜだろうか。ビンディン省はドイモイ開始直後から、証言の収集、遺骨の発掘調査、博物館での遺品展示、慰霊碑の建設など、早くから最も熱心に虐殺問題に取り組んできた省である。2008年には筆者も参加したが、慰霊祭には事前学習をしたテイヴィン村の小学生約100人と中学生約500人を含む1000人以上が集まっていた。虐殺でケガをして生き延び、のちに村の党書記などを務めた人物が証言をし、皆で献花を行った。
このビンディン省と先のクアンナム省の違いは、国家間の懸案に拡大したか否かである。つまり、外交問題になる可能性がない限り規制されることはない。
ビンアンの虐殺の場合、慰霊碑はベトナム側の経費のみで建設されており、韓国側が口を出す余地はない。つまりベトナム国家は、地方の村、県、省レベルで追悼事業を行っている限りは、「亡くなった肉親や祖先を残された者たちが手厚く供養するのは当然」という地元の論理を黙認しているのである。
報道10年後の軋轢
韓国では1998年に民主化運動の柱であった金大中が大統領に就任し、ベトナムに謝罪の言葉を述べ、その後ODAによるベトナム中部への投資が増大した。
しかし、金大中の謝罪は自分たちの尊厳の冒涜だとみなす元参戦軍人は、反発を強めて韓国全土で巻き返しをはかった。2000年代後半に入ると「ベトナム参戦碑」を各地に建て自ら顕彰する動きが顕著となる。保守政権に替わったことも後押しし、自分たちの地位向上を政府に働きかけ法律改正などを目指しはじめるなど、圧力団体としての活動を活発化させた。
一方、激しい民主化闘争を経て政権交代が普通のこととなった韓国とは異なり、ベトナムではドイモイ開始後も共産党一党独裁が続き、一時政治改革も目指されたが、1989年の中国の天安門事件以降、改革の多くは経済面に限定されるようになった。
そうしたなかでも当初外務大臣がク・スジョンの活動に感謝する親書を送るなどしていたが、韓国世論の鋭い「記憶の闘争」状況を知るにつれて、「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガンによる自国民の記憶の統制を重視するようになったのである。
民間人虐殺をめぐる両国のナショナルな歴史認識(公定記憶)は矛盾したものであるにもかかわらず、国際問題とならないように心をくだく皮肉な状況がある。ベトナム国家は被害者の記憶を管理しようとし、両者の和解のもとで後世に語り継ごうという韓国NGOの努力を阻んでいるのである。
(済州島のベトナム参戦記念塔 2009年9月撮影)
■韓国国会の議決
両国の経済関係は、韓国が1997年の通貨危機から立ち直るにつれ急速に深化した。貿易規模は2003年の30億7000万ドルから2008年には98億4000万ドルに拡大し、2011年に178億9100万ドルとなり伸び率は日越間を上回る。このような両国関係をさらに強力な「戦略的協力パートナーシップ」に格上げすることを目指して、大統領の訪越が計画された。2009年10月、当時の李明博大統領は国賓として訪越したが、この直前に一悶着あったことが、翌年報道された。『朝日新聞』の報道を引用する。(2010年1月6日付朝刊)
ベトナム戦争の解釈「平和維持」 韓国にベトナム反発
【ソウル=牧野愛博】韓国が、45年前に派兵したベトナム戦争の解釈をめぐってベトナム側と衝突し、昨年10月の大統領の訪問が宙に浮きかけていた。功労者の顕彰制度に関する法改正に際して、派遣された兵士たちが「世界平和の維持に貢献した」と表現したことにベトナム側が反発。政治決着がなされたが、日本との間では「侵略行為」を批判してきた韓国が「侵略者」と追求される立場になった。
複数の韓国政府関係者によると、発端は昨年9月、韓国の国家報勲庁が発表した「国家報勲制度」の全面改訂作業だった。法律で「戦争参加功績者」とされていたベトナム戦争参加者の扱いを「国家的功労者」に格上げする方針を決定。国会に法案改正の趣旨説明文を提出した。
この文書で参加者を「世界平和の維持に貢献したベトナム戦争参戦勇士」と表現。ベトナムが「我々は被害者。ベトナム戦争の目的が、なぜ世界平和の維持なのか」とかみついた。10月20日から予定された李明博大統領の国賓としてのベトナム訪問も「このままでは訪問を歓迎できない」との考えを非公式に伝えた。驚いた韓国側は、柳明桓外交通商相を急きょベトナムに派遣。外相会談で「世界平和の維持に貢献」の文書を削除することを約束し、李大統領のベトナム訪問を予定通り実現させた。一連の外交交渉で、ベトナム政府は「侵略者は『未来志向』といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」と指摘。小泉純一郎首相(当時)の参拝で中国や韓国の反発を招いた靖国神社問題を例に取り上げ、「この問題で日本を批判している韓国なら、我々の考えが理解できるだろう」と訴えたという。
まずベトナムが日本を持ち出して韓国を説得したことを重く受け止めねばならない。日本がベトナムを占領中に発生した1945年の大飢饉などに対して補償を要求したことがなく、日本の歴代首相の靖国神社参拝に関しても沈黙を守ってきたベトナムだが、黙っていることと、歴史を忘却していることは別である。
日本が「自国の引き起こした負の歴史を反省できない国家」だとの印象はベトナムにもある。日本が韓国、中国、台湾、ロシアという周辺国とはいずれも領土問題でもめるなか、「非常に親日的な国家」と日本ではもちあげられるが、アジア・太平洋戦争で大きな被害を受けた国家の一つであるベトナムが、日本の公的な歴史認識を批判的に見ていることには留意すべきだろう。
経済的利益を優先して自国の被害者に妥協や忍従を強いる局面も多いベトナム国家が、なぜ突然、韓国の歴史認識に異議を唱えたのだろうか。
このニュースは韓国では報道されたものの、ベトナムでは全く報道されなかった。したがって一般のベトナム人からの反発を招くことはなかったが、ベトナム戦争に勝利したことが現政権の正統性の根源なので、韓国国会のベトナム戦争参戦正当化の言説を認めることはできなかった。
さらに現在の政権中枢部の人々自身がベトナム戦争を経験しており、個人的心情からも、「侵略」を「貢献」と言いくるめる韓国の歴史認識や、国会という場でそうした歴史認識に基づく法律が制定されることは、許容範囲を超えたものだったと思われる。
虐殺被害住民に対して「過去にフタをして未来へ向かおう」と呼びかけてきたベトナム国家だったが、事が自らの「誇り」、「正統性」、「アイデンティティ」に抵触する問題として立ち現れると、我慢ならず声を上げた。
ただ、ベトナムとしては、参戦した韓国軍兵士の問題は内政問題であり、国家レベルでベトナム戦争を正当化する言説を除去することができればよいと考えていた。そのため、韓国が「ベトナム戦争」の語句を削ってくれさえすれば、ベトナムの国民世論を沸騰させるような措置はとらずにすませたいと願っていた。外交上手のベトナムならではの対応ではある。
こうして李明博大統領の2009年10月の訪越は無事終わり、両国関係は「包括的パートナーシップ」から「戦略的協力パートナーシップ」に格上げされた。日韓、日中関係と異なり、両国政府は問題がエスカレートすることを望まず、互いの異なる公定記憶には目をつぶり、互いの事情を「慮る」配慮を見せて、根本的な解決をめざすことなく問題を葬り去ったのである。
■阻止されたベトナム人記者の韓国派遣計画
韓国では、『ハンギョレ21』の報道後、14のNGOが「ベトナム戦争真実委員会」という組織を結成した。韓国軍の戦争中の行為の真実を明らかにし、ベトナムに謝罪して、和解への道を模索し、未来の平和を求めるのが目的である。
当初委員会は、ベトナムのフーイエン省につくることとなった韓越平和公園内に「平和歴史館」を設置することに力を注いだが、ベトナム側の許可が得られず韓国国内での建設に計画を変更した。
この委員会は、先の国会議決が外交問題化した際、ベトナムのマスコミ関係者や作家などを招請し、先にふれた元参戦軍人が立てた「ベトナム参戦碑」などを一緒に見に行く予定をたてた。
ベトナム側では、ク・スジョンがこの計画を提案したが、計画が上層部に上がっていくと、どの新聞社やテレビ局も記者に許可を与えず、逆にこのような計画自体が問題とされた。急増した「ベトナム参戦碑」などが、マスコミ報道によって外交問題の種になることを恐れたためだろう。
こうして両国関係は良好なまま推移しているが、「記憶の闘争」状況をベトナムに伝えようとした韓国NGOの新たな活動は阻止された。
おわりに
日本を含め、ベトナムと戦火をまじえた複数の国家は、「過去にフタをして未来へ向かおう」という方針を、過去をもちださない潔いものと評価している。しかし現代世界では、「過ぎたことを水に流す」のは戦争に関する限りもはや美徳ではなく、「平和ために<過去>を忘れない」ことこそが美徳である。
加害国なのに過去を認めない勢力が根強い日本と異なり、ベトナムは被害国であるため外部から非難されることはないが、時代の価値観に逆行している点では同じである。
そのため、ベトナム国家の方針は、地元だけでなく、ク・スジョンや『ハンギョレ21』の報道、NGOナワウリの活動などの、暗い歴史を明るみに出し過去を教訓にして未来に生かそうとする動きとも微妙な齟齬を生じてきた。
それが典型的に表れたのがハミ村の慰霊碑騒動であった。ハミ村のような最前線の村々の虐殺被害者たちは、高齢者、女性、子供ばかりで、解放戦線に参加してゲリラ活動をしていた人々ではない。虐殺の生存者や遺族も、革命に功労があったわけではないため、現在ほとんど何の手当ても得ていない。このような「中途半端」な村の虐殺事件の記憶は、経済発展に邁進することこそが至上命題の現在のベトナム国家にとっては、掘り起こしても何の得にもならない「歴史」に過ぎない。
それに対し、ベトナムの戦争をめぐる公定記憶は、北の正規軍や解放戦線の命がけの、あるいは自身を犠牲にした戦いの輝かしい勝利の記憶である。したがって、生存者の語る「ハミ村の虐殺」はベトナム国家の公定記憶になりえず、ナショナリズムとも結びつかない。
以上のように、国家が記憶を解釈しナショナルヒストリーを構成すると、都合のよいものだけが記憶され、切り捨てられる記憶が出てくる。
小菅信子は、「ナショナリズムと強固に結びつかない悲惨な<過去>は、時の流れによって風化する。戦争世代の死は、<過去>をめぐる感情対立をともかくも解消へと導いていくことになる」としている。
ハミ村など韓国軍によって引き起こされた虐殺の記憶は、通常なら生き延びた人々の死とともに消えていく記憶だが、皮肉なことに、韓国のNGO関係者が、外部者として別の回路で記述・記憶しつづけている。ベトナム戦争の記憶を語り継いで未来の平和に生かそうとする韓国NGOの活動こそが、国家に包摂されない戦争の多様な記憶を維持しているのである。
ク・スジョンは、「国賊」などといわれながらも、韓国のナショナルヒストリーに風穴を開けた。また、ナショナルヒストリーを占有したいベトナム共産党からも厄介者扱いされながらも、ナショナルヒストリーになりえない記憶をすくい上げ、記憶の当事者たちの癒しに貢献している。
本稿では、韓国のNGOや個人など民間の地道な活動が、虐殺を生き延びたベトナムの人たちの心を解きほぐし、記憶の歪曲や忘却によってではなく、記憶を新たにすることで赦しと和解が生まれてきた過程を論じた。
韓国軍によるベトナム民間人虐殺の話をするには日本の植民地支配と戦争に関する記憶のあり方を抜きには語れないが、この問題も含めた詳細は拙著をお読みいただきたい。『戦争記憶の政治学-韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』平凡社2013年
参考文献
・ハンギョレ新聞社(川瀬俊治・森類臣訳)『不屈のハンギョレ新聞-韓国市民が支えた言論民主化20年』現代人文社、2012年
・金賢娥(安田敏朗訳)『戦争の記憶 記憶の戦争-韓国人のベトナム戦争』三元社、2009年
・伊藤千尋『たたかう新聞-「ハンギョレ」の12年』岩波ブックレット、2001年No.526
・鄭殷溶(伊藤政彦訳)『ノグンリ虐殺事件-君よ、我らの痛みがわかるか』寿郎社、2008年
・金栄鎬「韓国のベトナム戦争の『記憶』-加害の忘却・想起の変容とナショナリズム」『広島国際研究』第11巻、2005年
・小菅信子『戦後和解-日本は<過去>から解き放たれるのか』中公新書、2005年
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プロフィール
伊藤正子
1964年広島市生まれ。1988年東京大学文学部東洋史学科卒業、毎日新聞社を経て、2003年東京大学大学院総合文化研究科から博士(学術)取得。2006年から京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授。著書に『エスニシティ“創生”と国民国家ベトナム―中越国境地域タイー族・ヌン族の近代』(2003年、三元社、第2回東南アジア史学会賞受賞)、『民族という政治-ベトナム民族分類の歴史と現在』(2008年、三元社)、共編著に『原発輸出の欺瞞-日本とベトナム、「友好」関係の舞台裏』(2015年、明石書店)などがある。