2016.03.04

伝統に携わる――チベット難民芸能集団の現在

山本達也 文化人類学

国際 #チベット難民#TIPA

本稿は、北インド・ダラムサラにて活動するチベット難民芸能集団Tibetan Institute of Performing Arts(以下TIPA)を対象に、伝統表象に従事する彼らの活動と状況を、現在難民社会がおかれているグローバルな状況とともに描きだすことを目的とするものである。問いのかたちとしては、「グローバル化の波が、伝統を演じる者たちにいかなる影響を及ぼしているのか」「演者たちに及ぼした影響が伝統の存続にいかなる影響を及ぼしているのか」というものとなるだろう。(初出:2011.3 「FINDAS 東京外国語大学拠点 現代インド研究センター」)

インドにおけるチベット難民芸能集団の来歴と活動

ダライ・ラマ14世がインドへ亡命した年である1959年、多くのチベット人が難民としてインドに亡命してきた。無論、それ以前からチベット人のインドへの移動はあったわけであるが(たとえばダージリン方面に住むチベット人)、亡命政治史において記される亡命元年は、インドでダライ・ラマ亡命政府設立が宣言された1959年だということになるだろう。現在、チベット難民にとっての首都として機能しているヒマーチャル・プラデーシュ州のダラムサラへダライ・ラマが移住したのは1960年のことであったが、それに先立って、いくつかの亡命政府機関が設立されてもいた。本稿が対象とするTIPAはそのひとつである。とりわけ、TIPAは亡命政府がはじめて設立した機関であったことから、亡命政府にとっての重要性が推し量られる。

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ダラムサラ

TIPAという集団が目指すもの、それはチベット文化、とくにチベット伝統芸能を保存、促進し、チベットの独立のためのツールとすることである。TIPAの保存する伝統とは、具体的には、各地に伝わる舞踊や歌唱、劇、そして「最重要文化」と目されるチベット歌劇が挙げられる。しかし、これらの演目がなぜ独立のためのツールになるのだろう。この問いに答えるには、チベット難民やTIPAの人びとを取りまく社会的な状況を考慮にいれる必要がある。

カルコウスキ[1991、1997]らチベット難民研究者の多くが指摘するように、90年代周辺の文化政治的な風潮はチベットを取りまく政治にも大きな影響力をもっていた。具体的には、文化が政治における争点となり、文化表象に従ってチベットと中国双方の政治主張が展開される事態となったのである。文化の真正性が政治的主張の真正性と重ねあわされ、そのキャスティング・ボートが聴衆としての西洋社会に委ねられるという事態は、以下のような主張と結びつく。すなわち、亡命政府側からすると「中国支配下のチベットに真のチベット文化はない。支配される以前、チベットから逃げだした難民たちが真の文化の保持者である」という主張になり(注1)、対して、中国政府はチベット文化を大きく中国化することでチベットを中国に取りこもうとしている(注2)。

(注1)詳しくは山本(2009)を参照。

(注2)とはいえ、中国もチベットを観光の対象とするために、近年、差異を保持する方向へと転換している。

文化と政治が接合する流れにおいてTIPAが果たしている役割はきわめて重要である。亡命政府機関であるTIPAが演じるチベット伝統文化はいわば「公定のチベット文化」であり、彼らの公演や指導を通して、難民社会はおろか、世界中に散らばっているチベット難民はチベット文化を学んでいくのである。このような状況下において、彼らの演じる伝統は、チベット難民の存在意義にかかわるものである以上、政治化を避けえない。TIPAが従事する伝統芸能とは、中国からの破壊をさけるために保存される、という「目的」の相をもつと同時に、まさにその芸能を通じて国際的なアリーナへとチベット問題をもちこむ「手段」という相をもつことになるのだ。手段と目的が合わせ鏡のように結びつくこういった様相にこそ、文化と政治が結びつく契機がある。TIPAが従事する伝統とは、まさしくこれらの結びつきを体現するものである。

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南インドの難民居住地で公演する演者たち

ダラムサラで本格的に活動を開始したTIPAではあったが、その前途は多難であった。難民という地位からも想像がつくように、人員の不足、物資の不足など、さまざまなトラブルに見舞われてきた。海外からの寄付で少しずつ状況が改善されても、火事で建物が全焼するなど、TIPAを取りまく状況は決して安定したものではなかったといえる。たとえば、食料をまかなうために宿舎で牛を飼育するなど、いまでは考えられないようなさまざまな取り組みをTIPAはおこなってきた。そして、少しずつではあるが、着実に彼らは前進し、現在の地位を確立するにいたる。ただ、それは必ずしも良い方向に結実したと言いきれないところが皮肉なものである。こうした足取りの変遷を追うには、TIPAの伝統教育システムに注目するのがよいだろう。次節では、伝統教育システムとそれを取りまく諸事に着目する。

町の中心部マクロード・ガンジ
町の中心部マクロード・ガンジ

変わりゆく伝統教育のありかた

1959年の設立以来、多くの演者たちがTIPAで伝統を上演してきた。しかし、その伝統上演を取りまく状況は大きく変化しており、それが伝統というもののありかたにも大きな影響を及ぼしているのだ。以下では大きく三つの時期に分けてその変遷を描きだしていく。

設立当初は、制度としての歴史も浅いことから、システムが整備されておらず、また、人員が決定的に不足していたことから、TIPAは舞踊や歌唱に詳しい人びとを各地の難民キャンプからリクルートする、という方法で演者を集めていた。必ずしも専門家のみが集まったのではなく、チベット文化を保存しようとする心意気のある人びとが集まってTIPAを盛りたてていた。演者として参加しない人でも、伝統の保存に役立つような物品を持っていればそれを進んで寄進するなど、直接的な伝統保存とは異なったかたちでTIPAの伝統保存の一部を構成していた。このように、TIPAが保存しようとするチベット伝統とは、本土から逃げて間もない演者たちによって、そして、演者を支える人たちによって、その大枠が形成されたのである。この当時は海外公演もなく、難民社会で活動を展開する彼らは、制度としてのTIPAの基盤を着実に固めていった。

インドへの人びとの流れは止まることなく、また、難民社会が形成されて20年が経過しようかという時期に、これまで成人のリクルートによって組織を構成してきたTIPAは大きな方向転換を決定する。難民社会における伝統の保存・促進をより充実させるために、難民二世らの誕生とともに、幼少期からの寄宿生活による指導を開始したのである。自分たちの手で人材を育成し、チベット伝統文化をまさに体現させようという方向を採用したことで、チベット伝統芸能の保存はますます促進された。また、1975年以降、単発的にではあれ、海外で公演する機会が増えてきてもいた。難民社会とグローバルな回路との接続が、この時期以降、加速していく。いまやTIPAの聴衆は難民社会にとどまらず、演者たちは不特定多数の人びとへとチベット文化を提示する機会を得ることになったのである。

公演に向けてリハーサルする若年演者たち
公演に向けてリハーサルする若年演者たち

こうした状況では、幼少期からの寄宿制は、きわめて有用であった。というのも、国内外でチベットの伝統文化をみせることを意識するようになったTIPAは、音楽的な才能に加え、容姿にも重きを置くようになったからである。先行投資的な色合いはあるものの、未来の美男美女に狙いを定め、なおかつ彼らにチベット伝統文化を叩きこむのに、寄宿制以上のシステムはありえなかっただろう。金の卵の獲得を夢見て、TIPAは各地でオーディションを開催し、実際、将来的にTIPAを代表することになるさまざまな演者の獲得に成功した。

こうして選ばれた演者の卵たちは、学校で教育を受けるかわりに、毎日の練習で伝統芸能のなんたるかを叩きこまれ、エキスパートになっていく。現在、TIPAをリードする演者の大半がこうした寄宿生活を経て、伝統保存活動に携わっている。長期にわたって練習をおこなってきた彼らの技量は素人目に見ても優れたものであり、実践共同体的な環境下で伝統芸能がまさに身体化されている。TIPAにおける伝統文化の保存にとって、寄宿制での教育はきわめて有効なものであったということができよう。

(注3)ただし、この選出において、子どもたちが積極的に演者になりたがっていた、とは言い難い。ある演者は、筆者との対話において、TIPAにやってきたものたちは、いわば「親による身売り」状態であったということを語っている。

ところで、伝統というものは、ときがたつにつれて不可避に変化していく。そのため、その保存にパラノイア的にこだわるのならば、より慎重にかつ高強度で保存に取り組まなければならないのは必定である。だが、TIPAを取りまく事態は、その要請に逆行するかたちで進展していく。2004年、TIPAは十数年ぶりに新たな演者の採用をおこなった。その採用に際し、対象になったのは、幼少の子供たちではなく、高校卒業程度の学歴を有する者たちであった。いわば、第一世代の年齢より若い程度の人員がリクルートの対象となったということである。制度の方法論としては明らかに逆行しているように見えるこうした選択は、単純なものではなく、難民社会の社会情勢を反映したものであった。その情勢とは、高学歴化と就職難であり、それと密接に関連する家族や教育を取りまく言説である。

現在、難民社会の家族空間は、大いにグローバル化の影響を受けている。テレビから垂れ流されるインド映画および海外の(とくにハリウッド関連の)情報は家族空間に充満している。そこには、「家族とはときを共にするものである」という「神話作用」を含意する記号が溢れかえっている。チベット難民社会では、学校教育においても寄宿制が採用されているが、寮生活を望まず、家族のもとから子どもを通わせる親も多い。このような状況は、TIPAが採用する寄宿制、それもかなり早い段階で寄宿を勧めるそのシステムと齟齬をおこすものとなる。実際、TIPAの寄宿制は、子どもを親から奪うシステムだとして批判されてしまったのである。

(注4)とはいえ、これは皆に共通する話ではない。とくに、チベット生まれで難民社会に拠点を移した新難民と呼ばれる人びとは、自分の手元から子どもをさっさと手放してしまうケースが散見される。

また、高学歴化という状況にもTIPAの採用していた寄宿制はそぐわない。学校教育をろくに受けられないTIPAの演者たちの学歴は無に等しい。TIPAの提示する将来像は、高学歴化が進む難民社会のなかで親が望むような子どもの将来像と合致しないのである。このような批判にさらされ、TIPAは方向転換を余儀なくされたのである。

とはいえ、高卒程度の学歴保持者の採用には、確かに一定のメリットがあった。それは、申請者自身が音楽的才能をもっているか、また興味をもっているか自覚したうえでTIPAにやってくるということであった。新たな演者が、これまでの寄宿制の演者たちとは異なって、自らの意思でやってくる、そして、職業として伝統芸能に従事するということが明確になっているというのは大きなポイントではあった。だが、それでも寄宿制がもたらしていたメリット、すなわち、幼少期からの伝統の身体化は完全に失われてしまう。

こうした演者たちは学校教育などで伝統芸能に触れることはあれど、それがライフワークになっていたわけではなく、その芸能はあくまで趣味の領域であった。それに対し、幼少期から寄宿制で鍛えあげられてきた演者たちは、その有無を言わさぬ教育もあって、徹底的に身体化される芸能は趣味という領域で語られるべきものではなく、まさに技芸と呼ばれるにふさわしいものである。それは、上述のように実践共同体のなかで育まれたものであり、一朝一夕で身につくようなものではないのである。結果的に、2004年以降の演者たちとそれ以前の演者たちの技量には大きな隔たりができてしまうということになる。この結果、次世代への伝統の伝達それ自体に大きな問題が生じかねない事態となっている。

このように、教育システムが変遷することで、演者たちが伝統を身体化する度合いに大きな変化が生じている、といえる。それは、継承という観点からとらえれば、伝統というものそれ自体の存続や変更にも大きな影響を及ぼしかねないものである。

移住(に関する言説)が伝統に及ぼす影響

本節では、難民社会でもうひとつ大きな焦点となっている移住問題と、それが伝統に及ぼす影響を描きだす。

1990年代以降、多くの人びとが欧米、とくにアメリカへ移住している。難民社会では、高学歴保持者や社会的地位の高い人間ほど早い段階で移住しており、こうした移住者たちは、インドに残されたものたちから「道徳的に堕落している」「地位や知識のある人間が残って難民社会を引っぱっていくべきなのに」などと語られてきた。実際、筆者がはじめて調査をおこなった2002年時点では、海外に移住する人間は批判される一方で、批判する者も本当は海外移住願望をもっている、というアンビヴァレントな状態におかれていた。しかし、2005年の調査時以降、状況が大きく変化している。これまで後ろめたいものであった移住が積極的に受容され、どんどん語られるようになっているのである。

では、そもそもどのようなかたちで難民社会における移住言説が形成されてきたのだろうか。特権的な階級の移住は別として、民衆レベルでの移住言説、そして実際の移住にとくに大きな役割を果たしたといわれるのが、マーティン・スコセッシ監督の『クンドゥン』という映画を巡っての顛末である。ダライ・ラマ14世の亡命をテーマにしたこの映画は、キャストにたくさんのチベット人を擁していた。なかでも、TIPAの中心的な演者がかなり多数この映画に出演している。

この映画の撮影は半年以上の長期にわたり、撮影期間中、演者たちはアメリカでの生活を満喫することとなる。出演料は、インドの経済状況からすれば莫大なもので、演者たちの懐を大いに膨らませた。そして、撮影が終わった演者たちは何をしたかといえば、概して貯蓄を好まぬチベットの人たちらしく、給料を散財し、アメリカから大量の舶来品を持ってダラムサラに戻ってきた。彼らの持って帰ってきたものはインドではなかなかお目にかかれるものではなく、多くの人びとが羨望のまなざしでそれを見ていたという。だが、彼らの多くが羨んでいたのは、そうした物質だけではなかった。

クンドゥンの撮影に行った演者たちは、アメリカの「10年ビザ」が支給されており、またアメリカに行ける、というそのことに対して人びとは羨んでいたのである。このビザを演者たちが手にしていたということが、問題となり、結果的に大きな批判を生んだのだ。このビザに関して、保持者と疑われた者たちからは「そんなものは存在しない」という説明がなされていたようだが、事実、クンドゥンの撮影で長期間アメリカに滞在していた演者のほとんどが、すでにアメリカにとくに苦労することもなく移住してしまっていることからも、このビザは発給されていたと考えるべきであろう。

憶測の段階での批判は、実際の移住を目の当たりにした聴衆たちによって加速され、「演者たちが海外に公演に行くのは移住するコネを作るためだ」などという陰口が叩かれるようになる。しかし、こうした批判にさらされるのが撮影に参加していない演者たちであったということを考えると、そこでのTIPA批判はきわめて理不尽なものであった。ときがたつにつれて、TIPAを批判していた当人たちが海外に移住していったことから、こうした批判は鳴りを潜めたかに思われたが、TIPAの演者が移住するたびに、「やはりTIPAにいると移住しやすいらしい」といううわさが立つことになる。

TIPAに新しく演者たちが入ってきたのはこうした文脈のうえで、である。新しい演者は上述の通り、芸能に関心をもってTIPAにアプローチしてきた人びとであった。だが、彼らのなかには、海外移住に関するうわさを考慮にいれてTIPAに入団した者もいる。たとえば、ある若年演者などは、「就職難だし、あとでアメリカに移住するためにTIPAに入った」と、なんの衒いもなく語っている。こうした人びとにとって、TIPAは次のステップに移行するための腰掛のようなものであり、TIPAがこれまで保存してきた伝統は、まさに移住のための文化資源として活用されてしまっている。

こうした現状を見て、寄宿制で芸を磨いてきた演者たちのなかには憤りを隠さない者もいる。いくらグローバル化の波にさらされ、西洋的な風習が生活のなかに入りこんでこようとも、こうした演者たちのなかには、まだチベットの伝統芸能を演じることの意味を引き受けようとする者たちも多いし、彼らはおおっぴらに海外移住生活を称揚することに対して抵抗を感じている。しかし、新しく入団した演者たちは、伝統に対して年長者たちが政治的な目的を達成するために同じように文化資源的なアプローチをおこなうにしても、あくまでグローバル経済のなかで自分のポジションを向上させるためのツールとしてもちいているきらいがある。このような姿勢に対し、真面目な演者たちは批判的な立場をとるのである。

だが、こうした真面目な演者たちも、移住という現実に向き合うとき、伝統というものに対するアプローチを変えざるを得なくなってくる。移住先でチベットを売りにして生計を立てることはきわめて困難であり、多くの者がベビーシッターやファストフード店の裏方として働くことになる。筆者のチベタン・ギターの師などは、果物工場でリンゴにワックスがけをする作業に従事しており、その仕事は、伝統の保存や促進という彼らがインドにいる際に携わっていた職とは大きく異なるものとなっている。結果的に、伝統は、仕事に忙殺される彼らにとってはメインに据えられるものではなくなってしまっている。

とはいえ、唯一の救いは、こうした元TIPAの演者たちのなかに、移住先に在住するチベット人の若者たちに対しワークショップを催し、伝統のなんたるかを語り継いでいる者たちがいる、ということだろう。アメリカでいえば、アメリカという地に生まれたチベット人たちが亡命政府化で提唱される「真のチベット文化」に触れる機会は限定されていたが、TIPAの人びとがグローバル経済の磁力に吸い寄せられたことが、逆に若者たちに学習機会を提供した、ということもできる。このような視点から見れば、ネグリやハート[2003]がその帝国論のなかで展開したグローバル化がもつ可能性の一端をここでは見いだせるかもしれない。

だが、この話がうまくいくのは、あくまで寄宿制で徹底的に伝統を身体化された人びとが移住する限りにおいてである。高卒以降、TIPAに加わった人びとが提示する伝統は、その正確性・真正性が問われるがゆえに聴衆にとってもまた違った意味合いをもち、アメリカでも違った意味をもたざるをえないことには配慮しておくべきであろう。彼らと寄宿制で育った者たちを同列に語ることはできず、また、彼らも演者として過渡期であるがゆえに、何とも判断しがたく、今後の事態に注目する必要がある。

(注5)ただ、このような人びとは決して多数派ではない。とくに、進んで主催する者となるとさらに少数になる。

グローバル状況下における伝統――まとめにかえて

これまで、とくに教育システムの変遷に焦点を当て、チベット難民社会の伝統文化の牽引役を担ってきたTIPAにおける伝統を巡る状況の移り変わりを見てきた。彼らの伝統保存は、難民社会の文脈と密接に関連しており、それが伝統の伝達に大きな影響を及ぼしている。本稿は、伝統とその表象に従事する人びとを取りまく状況を駆け足で描きだしてきた。彼らがいかにグローバル経済と結びつき、彼らが保存する伝統というものがそのなかで翻弄され、ときには思わぬかたちで外部へ広がっていく様相の一端を提示できたのではないだろうか。

チベット難民社会における伝統舞踊を支えてきたのは、難民社会のみならず、海外からの助力でもあったことはいうまでもない。西洋社会から見れば、国を追われた人びとの伝統を守る、という行為に参与することは、人道主義的な立場から見てきわめて魅力的な選択肢だったろうし、その破壊に共産主義勢力中国の関与があるがゆえに、冷戦構造期の自由主義圏の人びとは積極的にチベットの支援に関与したことだろう。

だが、支援と同時に、海外の消費者が消費の対象として「チベット」や「チベットの伝統文化」を設定したこと、そして、西洋的ライフスタイルを志向する難民社会の言説形成が入り混じった結果、政治的負荷をもった伝統は、その意味づけを経済的なものにも変化させていく。伝統に携わる人びとのなかには、伝統に対する価値づけを変化させ、まさにその伝統を使って海外に移住しようとしている者もいる。伝統に携わることがより剥きだしのかたちで経済にかかわるようになっているのだ。

TIPAが設立された1959年8月からはや52年がたとうとしている。新たに入団した演者たちもTIPAに来て8年が経過しようとしている。彼らもTIPAの歴史に名を残す者たちである。彼らが、寄宿制下で育った人びとから何を学び、いかに伝統と向きあっていくのか、これからも追っていきたい。

参考文献

・ネグリ、A ハート、M、2003、『帝国』、酒井隆史ほか訳、以文社。

・山本達也、2009、「伝統/現代を生きるディアスポラ」、博士論文、京都大学大学院人間・環境学研究科に提出。

・Calkowski, Marcia S., 1991, “A Day at the Tibetan Opera: Actualized Performance and Spectacular Discourse”, American Ethnologist., 18:643-57.1997, ”The Tibetan Diaspora and the Politics of Performance”. In, Tibetan Culture in the Diaspora., F. J. Korom (ed.), pp51-58.,Vienna: Austrian Academy of Science Press.

プロフィール

山本達也文化人類学

1979年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了、博士(人間・環境学)。現在、静岡大学人文社会科学部准教授。インドおよびネパール在住チベット難民に関する文化人類学的研究に取り組む。著書に『舞台の上の難民―チベット難民芸能集団の民族誌』(法蔵館)、共編著に『インド・剥き出しの世界』(春風社、近刊)。

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