2016.09.15

時間の経過がもたらしたホロコーストの重層的なとらえ方――ドイツ映画を手掛かりに

齊藤公輔 文化科学

国際 #ホロコースト#帰ってきたヒトラー

はじめに

戦後70年という時間のなかで、様々なことが検証・検討されてきた。特にドイツはユダヤ人絶滅作戦を指示したヒトラーを生んだ国であるだけに、戦後は常にナチスの罪が問題になった。反省と贖罪が日常生活のあらゆるところに根づいていたために、ドイツでは「過去」というと自動的に第二次世界大戦を意味することになってしまうほどであった。

一方で、70年という「時間」の検証はどうであったか。ナチスの罪に向き合い続けた70年という時間は、「過去」に何かをもたらしたのだろうか。もしくは、「我々」に何かをもたらしたのだろうか。この種の検証はこれから始まるであろう。明らかなことは、ナチスやホロコーストを直接体験した世代が不在となる時代が到来しているということである。

イェーナ大学歴史学教授であるノルベルト・フライはすでに2005年の時点で、次の一言をもって戦後70年のすべてを予言している。

「『私は覚えている』と言える人はほぼ誰もいなくなった、ということが真実である。私たちの大多数にとってヒトラーの時代は体験した過去ではなく、歴史である。History, not memory.」(Frei, Norbert: 1945 und Wir. München: C. H. Beck, 2005, pp.7)

 

本稿は、戦後ドイツにおける「過去」について時間の流れに焦点を当てるものである。特に、時間の経過とともに何が変わったのかについて記憶の視点から論を進める。

現代ドイツのヒトラー

映画『帰ってきたヒトラー』(原題:Er ist wieder da!)が日本でも公開され、衝撃的な内容が話題を呼んでいる。ヒトラーが現代ドイツに蘇り、巧みな話術が受けて一躍スターダムにのし上がるというコメディである。同名の小説を映画化したものであるが、小説も映画もドイツのみならず世界中で話題になっている。

ヒトラー役を演じたオリヴァー・マスッチ氏はインタビューの中で「10年前ならこんな撮影は成り立たなかっただろう。」(注1)と述べているが、実は10年前にユダヤ人映画監督の手によってヒトラーのコメディ映画が撮影されている。2007年公開の『わが教え子、ヒトラー』(原題Mein Fuhrer – Die wirklich wahrste Wahrheit über Adolf Hitler)がそれである。

(注1)藤えりか:「優等生」のもう一つの顔~『帰ってきたヒトラー』、Cinemania Report(http://globe.asahi.com/cinema/2016061500002.html)2016年9月8日アクセス

エンディングには「ヒトラーを知っているか?」という質問に対し、一般人と思しき様々な世代の人が「姪とできていた」「ヤク中だった」などと答えるシーンが挿入されている。特徴的なのは、こうしたふざけた回答の中で、高齢の婦人が「私たちドイツ人は皆、彼のことを良く知っているわ!」と嫌悪感をむき出しに答えていることであろう。N・フライの言説を思い起こしてみると、現代ドイツにおいて彼女と同じ世代の人は確かに少なくなっているに違いない。

すると自ずと次のことが疑問に思われるだろう。すなわち現代のドイツ人は、ヒトラーを笑いの種にしたり人気者と見なしたりするようなナチス観しか持ち合わせていないのだろうか。ヒトラーに嫌悪感を抱くドイツの良心の呵責は失われ、過去に対して盲目になってしまったのだろうか。

ドイツ人描写の変化

ここでさらに年月を遡り、2000年代と1980年代のメディア作品に焦点を当ててみたい。2000年公開のテレビドキュメンタリー『ホロコースト』(Holokaust)と、1985年公開の映画『ショアー』(Shoah)である。

いずれもホロコーストを生き延びたユダヤ人やホロコーストに関わったドイツ人たちによる証言によって構成された作品であり、強制収容所で行われた大量虐殺の実情を伝える資料として非常に貴重なものである。西暦2000年は戦後55年に、1985年は戦後40年にあたり、いずれもホロコースト体験者や目撃者がまだ多く存命であったことは間違いない。

しかしこの時からすでに、両者におけるホロコーストの「語り」に差異があることが観察される。特にホロコーストの加害者であるドイツ人と被害者であるユダヤ人の描かれ方が、この2つのメディア作品では決定的に異なっている。以下ではまずドイツ人描写について概観する。

『ショアー』ではドイツ人をわずかでも肯定的に評価する証言は皆無である。例としてジャーナリストおよび作家であるベルリン生まれのユダヤ人インゲ・ドイチュクローン(Inge Deutschkron)の証言を取り上げる。彼女は第二次世界大戦当時ベルリンに潜伏することでホロコーストを生き延びた過去をもっている。

I・ドイチュクローンは『ショアー』の中で、戦後に「ホロコーストを知らなかった」と弁解しはじめたドイツ人を厳しく批判するとともに、潜伏時代を振り返り「すっかり孤独になった」「人間らしい温かみが、身の回りから、消え去りました」と潜伏期間中を独りで乗り切った印象を与える証言をしている。

一方『ホロコースト』の中で彼女は、1942年末にユダヤ人がガスで殺されているという”うわさ”話があったことのみを証言している。ここに、『ショアー』と『ホロコースト』のあいだにある証言の隔たりを読み取ることができる。この両者におけるドイツ人描写の隔たりは、先述した『ホロコースト』のI・ドイチュクローンの証言に続く次の文章によって決定的となる。

「およそ六〇〇〇人のユダヤ人が「Uボート」と呼ばれながら、非合法にベルリンの地下に潜伏して生き延びた。少なくとも同数の「アーリア人」協力者が食糧を運び、隠れ家を提供し、密告者から守ってくれたからだ」。(グイド・クノップ著、高木玲/藤島淳一訳:『ホロコースト全証言』、原書房、2004年、358ページ)

『ホロコースト』では、当時ベルリンに潜伏していたユダヤ人たちに対してドイツ人が助けの手を差し延べていたことを明らかにしている。このほかにも『ホロコースト』には、ヘルマン・ゲーリング元帥の実弟アルベルト・ゲーリング(Albert Göring)がユダヤ人を救済していた事実や、SS伍長がユダヤ人輸送の際に命の危険を顧みず数人ずつ逃がしていた話、国防軍少尉が処刑現場に偶然出くわし、中止させた上で実行者を逮捕させたことなどが証言されている。

もちろん、同作品は手放しにドイツ人のユダヤ人救済を賞賛しているわけではない。しかし当時のドイツ人がホロコーストを前にどのような反応を見せたかについては、次のような描写があった。

「嫌悪感をあらわにした」「抗議した者はごくまれだった」「犯罪についてまったく知らず、前線で自分が生き延びることだけに忙しかった者も少なくなかった」「虐殺に喝采を送り、実行者をたきつけ、死を目前にした犠牲者をなおも愚弄する」――このように、非常に多面的に描き出していることは注目に値する。このドイツ人描写の多様性こそ、『ホロコースト』における『ショアー』との大きな差異のひとつといえる。

ユダヤ人描写の変化

ドイツ人が多面的に描かれていたことと同様に、ユダヤ人に関する記述および証言もより複雑になってきている。つまり『ショアー』においてユダヤ人は一貫して被害者としての視点からのみ証言されているが、『ホロコースト』においては加害者としての視点も盛り込まれている。

今日では知られていることだが、当時各都市で行われたユダヤ人狩りにおいてはユダヤ人自身が深く作戦に関わるケースもあった。また、強制収容所内では囚人ヒエラルキーが確立され、職長やカポ(Kapo)など権力をもっていたユダヤ人が囚人を殺害することもあった。これらの事実は『ショアー』において全く語られない一方で、『ホロコースト』では加害者としてのユダヤ人が描かれているのである。

例えば、ユダヤ人ゲットーから強制収容所への移送に関する次のような証言である。

 

「恥ずべきことに、そもそもユダヤ人信徒協会がこの種の輸送を編成し、参加者を選別したのです。ドイツ人は表に出てきませんでした。ドイツ人に会った者などいませんでした。わたしたちは八時以降外出を禁じられていたのですが、夜中に召集状を持ってきたのもユダヤ人の使者でした。」(グイド・クノップ著、高木玲/藤島淳一訳、2004年、167ページ。)

また、この種の命令に背いた場合、ユダヤ人信徒協会の役員が家に押しかけ護送することもあったという記述もある。このように、ユダヤ人がユダヤ人移送に深く関係していたことがはっきりと証言されている。

さらに『ホロコースト』は、強制収容所の中でユダヤ人同士でも非人道的な行為があったことを告発している。特にアウシュヴィッツから生還したユダヤ人の証言が当時の様子を生々しく伝えている。

「自分自身囚人である人たちが、同じ囚人を苦しめる。それは恐ろしい経験でした。カポたちには、囚人の生活を地獄にすることはおろか、死にいたらしめることさえできました。殴打したり、その他ありとあらゆる懲罰手段を駆使して、もう生きていたくないと思うまで囚人を痛めつけることが許されていました。」(グイド・クノップ著、高木玲/藤島淳一訳、2004年、242ページ。)

ここで注目したいのはユダヤ人の罪ではなく、加害者および傍観者としてのユダヤ人という描写が可能となっている点である。『ショアー』のなかでは徹底して被害者としてのみ描かれていたユダヤ人が、『ホロコースト』ではそれ以外の側面があったことが明らかにされている。このように、前節で確認したドイツ人だけでなく、ユダヤ人の描写においても多様性が認められるようになってきたのである。

世代の変化

問題は、こうした証言の変化をどのように説明するかということにある。『ショアー』が公開された時代は、1985年のヴァイツゼッカー元大統領の演説『荒れ野の40年』を引き合いに出すまでもなく、戦後世代の集団的共通責任までもが問われていたときである。

『ホロコースト』が公開された20世紀最後の年は、ナチスの罪を相対化しようとする機運が高まっていたのだろうか。そして、こうした機運が現代ドイツにおけるヒトラーコメディに繋がっているのだろうか。

時間の経過がもたらすものはいくつか考えられるが、その中の一つに世代の変化をあげることができる。集合的記憶研究者のアライダ・アスマン(Aleida Assmann)によれば、人はおよそ12歳から25歳くらいまでの体験、歴史的に重要な出来事などを通して自己が形成される。そして将来にわたって思考や世界観などを他者と共有することになる。このような思考や世界観などを共有している集団を世代と呼ぶが、ある世代が社会的に影響を持てる年齢に達すると、当然の帰結としてその世代の価値観が影響力を発揮するようになる。

 

「支配的世代の交代とともに、経験、価値、希望、強迫観念に対する特定の雰囲気が解放され新しい特性が登場したことを、回顧的に確かめることができるようになる。世代交代の大きな意味はある社会の記憶の変化や刷新であり、また後世においてトラウマ的で恥じ入るような想起を修正する際にも重要な役割を果たすのである。」(Assmann, Aleida: Der lange Schatten der Vergangenheit. Erinnerungskultur und Geschichtspolitik. München: C. H. Beck, 2006, p. 27)

 

端的に言うなら、『15歳から25歳のあいだに何を体験したのか』を基準に、世代は「自分たちは前後の世代とは異なっている」と理解していると言えるだろう。前後世代と異なっているという意識は世代アイデンティティの源泉とも言える。そのようなアイデンティティに裏打ちされた各世代の価値観こそ社会刷新を可能にするものである。

それゆえ世代交代は、必然的に価値観の変化をともなう社会刷新を引き起こすのである。もちろん、価値観の変化は世代交代によってのみ達成されうるものではない。他の世代も含めた社会全体がそれに合意するか、少なくとも許容することが求められる。

過去意識の変化

世代交代による価値観の変化は、社会全体の価値観の変化を不可避的に引き起こすものであった。それゆえ、時間の経過にともなう過去意識の変化は必然と言えるだろう。ただし、次の点に注意しなければならない。それは、ある時点において世代は一つだけあるのではなく常に複数の世代が共存しているということである。

現代は戦争体験世代がほぼ不在になりつつある一方で、終戦直後の貧しい時期に青春時代を過ごした世代、ナチスの罪と激しく向き合った68年世代、再統一後の世代(注2)などが、各々異なる過去意識とともにドイツ社会の中に混在しているのである。それゆえ、社会全体が単一の価値観に覆われることはない。

(注2)旧西ドイツは早くからナチスの罪と向き合ってきたのに対して、社会共産主義国である旧東ドイツは「軍国主義とナチスを根絶した」という立場を貫いていた。

このように考えると、現代ドイツにおける過去意識は複雑であり単純化できないことがわかるだろう。反ナチスから出発した国家とナチスの過去を引き受けて出発した国家が統一したことや、異なる価値観を持つ複数の世代がそこに混在しているということは、ドイツ全体として過去に対し統一的な方向性を見いだしにくい環境にあると言えよう。この意味において、戦後ドイツの「過去の克服」の歴史を一本のストーリーラインにまとめながら俯瞰することも難しい。

そこでこの複雑性と矛盾性を整理するために、A・アスマンによる時代区分を参考としよう。A・アスマンによれば、戦後ドイツのナチス時代に関する集合的記憶は次の三段階に分けられる。すなわち、

われわれは、沈黙という第一段階および道徳化と断罪という第二段階の後で、時間的隔たりがより広くなったことにともないイメージすること、すなわち理解願望および追体験の願望という第三段階へ移行したのだ。(Assmann, Aleida: Lichtstrahlen in die Black Box. In: Frölich, Margrit/Schneider, Christian/Visarius, Karsten (Hg.): Das Böse im Blick. Die Gegenwart des Nationalsozialismus im Film. Stuttgart; Edition text + kritik in Richard Boorberg, 2007, p. 47.)

 

第一段階は沈黙であり、過去への消極的な関わり方を意味している。具体的には、ナチスの罪を徹底追及することなく公的忘却を目指していた戦後初期の頃である。第二段階は道徳化と断罪であり、過去を反省しようとする態度へと変化した時期である。これは第一段階の反動として現れ、特に68年世代による糾弾や、それにともない公的空間において過去を反省する機運が高まった頃を指す。第三段階は追体験であり、当時をそのままにとらえなおそうという動きへと移行していく時期で、現代に該当する。

つまり現代は、ナチス時代を「当時のように経験すること」を目指す新しい時代に突入しているのである。68年世代ではドイツの汚点のみを視野に入れていたのに対し、追体験の時代である現代では過去は多様であったはずだとの認識が広まりつつある。それはちょうど、当時の人々がナチスや戦争に対して多様な思いを抱いていたであろうことと同様に、現代に生きる個人が過去を多様に解釈し評価することに他ならない。この点にこそ追体験の時代的特徴があると考えられる。

確かに戦争経験を語ることのできる人間の数は少なくなっているが、しかしそれは過去が退色することと同義ではない。むしろ、過去に関する言説は次々と湧きあがり、幾重にも折り重なることで重層的で色彩豊かな過去が現れてきているのである。

おわりに

以上のように現代ドイツにおいて過去はさまざまな姿を見せるようになってきた。その結果として、被害者か加害者かという二値的な過去像ではなく、複眼的でときには矛盾し対立しあうような視点が許されはじめていると言える。つまり大きな歴史としてナチス時代をとらえるのではなく、一人ひとりの身に起こった出来事として反芻し咀嚼することが求められる時代になってきたとも言えよう。

個人の出来事としてナチスをとらえなおすことは、ナチスを描写する視点が多様化するということに他ならない。過去の体験を多様な視点から語ることと、追体験しようとする動きが重なり、重層的で多面的な過去像が想起されているのである。

70年という時の流れは、世代交代と価値観の変化を不可避的に引き起こすものである。それが、ナチスやヒトラーを良く描いたり笑いとして描いたりすることを可能にしている。しかしこれは、かつてナチスを一面的にとらえようとする価値観を払拭し新しいナチスとの向き合い方を模索した世代の答えである。

ナチス未体験世代が社会を覆う時代にあって、せめて追体験することができないかと試行錯誤した結果である。この結果に対する評価は次世代が行うであろう。しかし、過去を多面的重層的に想起するという、これまでに無かった過去意識を可能にしたことを忘れてはならない。

※本稿は「ホロコースト証言におけるユダヤ人像とドイツ人像の変化―集合的記憶とメディアの視点から―」(『マイノリティ研究』2013年8月)を改稿したものです。

プロフィール

齊藤公輔文化科学

1979年生まれ。中京大学国際教養学部准教授。関西大学大学院博士課程単位取得退学、博士(文学)。専門は文化科学、ドイツ語圏の文化事情およびドイツ語教育。メディアに描かれたドイツの集合的記憶の研究に取り組む一方で、文化科学を語学教育へ応用することにも関心を寄せている。著書に『想起する帝国』(2016年出版予定)、『プロジェクト授業の設計と運営―ドイツ語教育の現場から』(2016年)など。

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