2016.11.30
第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)から読み解く日本と世界の未来――1993年に日本で始まった3つの試みからカイゼンまで
シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。
この8月、蒸し暑い日本を離れ、ケニアのナイロビを訪れた。空港に到着すると空気がひんやりと涼しい。ナイロビは高地に位置するからだ。訪問したのは、この冷涼なナイロビで開催された第6回のアフリカ開発会議(TICAD VI: Tokyo International Conference on African Development)に参加するため。TICADは1993年に日本のイニシアティブにより東京で開始された。今回は、日本を離れ、初めてのアフリカにおける開催だ。
これまでナイロビ行きの飛行機には何度乗ったか分からないが、今回ほど多くの日本人が搭乗しているのを見たことはない。外務省やJICA(国際協力機構)の職員はもちろんだが、民間企業、NGO関係者、さらに若い学生達の姿も多く見え、これから始まる会議への期待や熱気を感じる。
空港からバスで市内に向かう途中、若い人たちと話しながら、ふと大学を卒業してJICAに就職した頃のことを思い出した。TICADが始まったのは1993年、社会人2年目の年だった。当時のTICADは今とは随分違う雰囲気だったように記憶している・・・。
本稿では、TICAD VIだけではなく、特に1993年という援助の歴史にとって特別であった年から、この20年強、我々はアフリカ開発、特に民間セクター開発で何を議論してきたのかを振り返りつつ、未来を展望してみたい。そのためにまず、TICADが生んだ大きな成果と言えるカイゼンから話を始めたい。
TICADが生んだカイゼンの協力――2008年の第4回TICADが転機に
日本人なら誰しも「カイゼン(改善)」という言葉を聞いたことがあると思う。戦後から日本企業が行ってきたカイゼン、つまり品質・生産性の向上が、今回のTICADでも大きな注目を集めた。その理由の一つは、カイゼンが日本製品の品質を高めたことがよく知られているからだ。また、大規模な投資が必要でない、つまり資金がなくても始められるということも大きい。
さらに言えば、日本の経済成長の経験も理由の一つだと思われる。日本は高い経済成長率と格差の是正を同時に成し遂げたが、カイゼンもこの包摂的な成長(Inclusive growth)に大きく寄与した(これについて詳しくは、最後に述べる本に詳しく書いたので興味のある方は参照していただきたい)。
特に、1955年に日本がカイゼンを導入する際に、労働組合との長い交渉の末に出された「生産性運動の3原則」(雇用の維持拡大、労使の協力、協議成果の公正な分配)に見られるような、企業の業績が上がるとそれが賃金に反映されるような労使間の交渉など、単に生産性を上げることにとどまらない様々な工夫が戦後の日本の経済成長には見られたのだ。
カイゼンはJICAの協力によりすでにエチオピアなどで導入されている。下の写真にあるように、散らかっていた工場の倉庫が綺麗に整理されるようになるなど、実際に企業の生産性の向上に効果もあげてきている。
日本語である「KAIZEN(カイゼン)」という言葉はアフリカでも通じるようになり、エチオピアには「カイゼン・インスティチュート」という政府の機関まで設立された。現在はエチオピアのみならず、タンザニア、ザンビア、ケニア、カメルーンを始め、多くのアフリカの国々に拡大している。このカイゼンのプロジェクトがアフリカで始まるきっかけになったのが、2008年の第4回のTICADで、その後、アフリカ全体に拡大しているのである。
ではなぜ2008年だったのか? アフリカに対する日本企業の関心が高まっていたからだろうか? 冒頭に書いた通り、今年(第6回)のTICADでは多くの日本企業がアフリカに訪問した。しかし、このようにアフリカに関心を持つ日本企業は、資源関係の企業は別として2008年時点ではまだ極めて少なかった。
そもそも、他国の援助機関でも、そしてJICAでもアフリカ援助の中心は農業、教育、保健の3分野で、民間セクター開発は時期尚早という見方が強かった。そうした状態からJICAがエチオピアでカイゼンのプロジェクトを開始し、アフリカで広く知られ、さらにアフリカ全体に広がりつつあるというのが、2008年から2016年までの大きな変化であり、TICADの成果であると言って良いと思われる。
では、なぜ2008年の第4回のTICADからカイゼンの協力が始まってきたのか? それを探るには、第1回のTICADが開催された23年前の1993年までさらに歴史を遡る必要がある。
1993年――日本が仕掛けた産業政策・論争
1993年に日本は援助政策について重要な国際的な動きをいくつもおこなった。TICADだけではなかったのである。それはどのようなもので、なぜそうした政策が打ち出されたのかを考えるために、当時がどんな時代であったか振り返ってみたい。
TICADの始まった1990年代の前半は途上国援助にとってどんな時代であったか。よく言われるのは、冷戦終結後でアフリカへの開発支援が減少傾向であったこと、その中で日本がアフリカ支援にイニシアティブを取ったということである。当時、日本が援助供与額で世界1位であったから、その意味は大きかった。実際、アフリカの中でもその頃のことを覚えている人は多く、国際会議でよく感謝の声を耳にする(例えば、AUC(アフリカ連合委員会)のムウェンチャ副委員長)。
当時、援助の主流は世界銀行・IMFを中心として「構造調整政策」と呼ばれる小さな政府を標榜する路線であった(“新古典派”と呼ばれる)。自由化、民営化、そして価格の安定化が重視され、政府が市場に介入する産業政策については市場を歪め、非効率に陥らせるものとして否定的に議論されていた。
こうした中、TICAD第1回目の1993年にこれに反旗を翻したのが日本であった。日本のODAの実施機関であった海外経済協力基金(OECF, 現在はJICA)が「世界銀行の構造調整に対するアプローチの課題」と題するペーパーを発表したのである。産業政策の重要性を強調して反論を行なったのだ(このペーパーを中心となって取り纏めたのは当時、OECFに在籍していた下村恭民・法政大学名誉教授だった)。
この日本・世銀論争は、当時の世界の開発関係者の間に大きな反響を及ぼした。スーザン・ジョージらが「『世界銀行は世界を救えるか』(1996年、朝日選書)で日本の主張を強く支持し、さらに、当時の英国の開発学会の重鎮らによる本でも巻頭で大きく取り上げられるなど事例に事欠かないほどだ(例えば、Mosley, Paul, Jane Harrigan and John Toye. 1995. Aid and Power –Vol. 1: The World Bank and Policy Based Lending 2nd Edition. London: Rutledge)。
しかし、論争はここで終わらなかった。同じ1993年に世銀が『東アジア成長の奇跡』という報告書を発表したのである。この報告書の出版のための資金助成をおこなったのは、日本の財務省(当時は大蔵省)であった(日本側からは元日本銀行・理事の緒方四十郎氏なども原稿にコメントするなど参加。緒方貞子・元JICA理事長の夫である)。そして執筆陣にはジョゼフ・E・スティグリッツ教授(コロンビア大学)、ジョン・ページ氏(ブルッキングス研究所)を始めとして日本に近い立場の執筆陣も多く配置されていた。
しかし、世銀内の特に主流派からの様々な介入もあり(スティグリッツ教授にインタビューした際の述懐による)、報告書全体としては産業政策に対して保守的な立場になり、同時に章によって微妙に立場が違うものとなった。
第一回のTICADは、この議論の最中、同じ年に開催されたのである。日本としてはTICADを国際会議とするために、世銀を巻き込んでおきたかったのだろう。そんな中、「アジアの経験をアフリカに」という通底するテーマのもとでは、世銀、日本ともに構造調整政策についての評価を気にせざるを得ない状況だったと思われる。「アジアの経験」にはそのアンチテーゼとなる産業政策の歴史をも含むからである。
こんな中、第1回のTICADで挨拶に立った当時の羽田外務大臣は、次のとおり世銀の政策を肯定的に評価した。「アフリカ諸国が推進している経済構造調整は、短期的には国民に大きな負担をかけることになりますが、経済発展のための基盤強化に必要な試練であります。(下線は筆者)」。一方、会議の結果出された宣言は、以下のように、逆に構造調整の問題点を指摘するものとなった。
我々、TICADの参加者は、構造調整計画は、それぞれの国の個別の条件と必要をより積極的に考慮に入れるべきであることを再確認する。我々は、政治・経済改革は最終的には貧困の軽減及び全国民の福祉の向上をもたらすべきであることを改めて強調する。そのような効果を得るために、構造調整計画は、これまで以上に、所得を得る機会及び効果的な社会サービスへの特に貧困者のアクセスを改善する方策を含むと同時に、彼らを出来る限り社会的な悪影響から守るための努力が払われるべきである。(TICAD I(第1回アフリカ開発会議)「アフリカ開発に関する東京宣言」より(下線は筆者))
これは、日本単独ではなく世銀なども巻き込んだ国際会議にするために、ホストである日本が世界銀行の政策にもアフリカ側からの視点にも配慮したまとめを戦略的に行った結果と言えるだろう。
1993 年の1年間でここまで述べた(1)日本−世界銀行論争、(2)東アジア経済成長の奇跡、(3)TICADという援助の歴史上でも重要な3つの出来事が起きた。しかし、特に世界銀行内の主流派の巻き返しが強まったため、この後、世界銀行は産業政策からさらに距離を取るようになってしまう。そして、その流れはその後、ごく最近まで長く続いた。TICADは続いたが、日本が仕掛けた産業政策の議論は一旦、忘れ去られたのである。
産業政策研究の第一人者の一人であるサンターナ大学院大学のジョバンニ・ドシ教授などに言わせれば、「『産業政策』という言葉は子供の前で言ってはならないタブーな言葉となった」というほどで、援助の世界では産業政策に対して厳しい論調が続いたのである。この傾向が変わるには、15年後の2008年、カイゼンの協力が始まるきっかけになった第4回TICADまで時を待つ必要があった。
2008年、再び産業政策に脚光が――アフリカ開発とアジアの成長経験
この第4回のTICADで、JICAは緒方貞子・顧問(当時は理事長)を中心に「アフリカ開発とアジアの成長経験」と題するイベントを行った。パネルに参加したのは、エチオピアのメレス首相、タンザニアのキクウェテ大統領(いずれも当時)などで、スティグリッツ教授もビデオで参加した。このイベントで議論されたのが、まさにアフリカにおける産業政策の可能性であった。アフリカの首脳達は強く産業政策の重要性を語り、スティグリッツ教授がそれに理論付けを行うというものであった。
しかし、何より特筆すべきであるのは、緒方貞子・顧問自身が市場における政府の役割に強くこだわったことである。この点は中央公論(2007年10月号)の紙面で行われたスティグリッツ教授と緒方貞子・顧問の対談でも強調されている。トップのこうしたコミットメントの強さが、以降のカイゼンを含む産業政策支援の基調を作っていくことになった(イベントの報告はこちら)。
緒方貞子・顧問だけではなく、すでにその時点で設立に向けて準備されていたJICA研究所の前身でも、「アフリカ開発とアジアの経済成長」の研究会が組織され、政策提言に満ちた報告書が発表される。ここには日本―世銀論争の中心的存在であった下村恭民教授や、後にエチオピアでの産業政策対話に深く関わる大野泉GRIPS(政策研究大学院大学)教授をはじめとして、多くの研究者とともに実務家も参加し、実務と研究を橋渡しするような報告書が準備されていたのである。1993年から15年。時代の扉は一回転し、ふたたび、産業政策に光をあてる試みが始まったのである。
こうした流れの中で開始されたのが、エチオピオのカイゼン・プロジェクトと、政策レベルでの産業政策対話であった。TICADのイベントにも登壇したメレス首相から協力の要望があったのである。(これらの協力に日本の一線級の研究者が参加したことも特筆しておきたい。カイゼンにはGRIPSの大塚啓二郎教授(現、神戸大学)、園部晢史教授、産業政策対話には同じくGRIPSの大野健一教授・大野泉教授)。これが今回の第6回TICADでも高い関心を呼んだ、エチオピアからアフリカ全体に広がったカイゼン・プロジェクトの始まりであった。
アフリカの民間セクター開発の重要性は、TICADが始まった頃から認識されてきたが、それがTICADを通じて成果を上げ、そして本格的にアフリカの経済成長を押し上げようとしているのである。もちろん、ここで述べたのはアフリカにおけるカイゼンの取り組みの単に始まりの物語だけである。そこから今日まですでに8年。多くの関係者の努力なしには現場における成功はなかった。字数の関係からこれについては別の機会に述べることとし、ここでは先を急ぎたい。
新たな段階を迎えた産業政策論争――2016年、ナイロビでの第6回TICAD
2008年の第4回TICADをきっかけに始まったのは、エチオピアでの協力だけではない。筆者がニューヨークの国連代表部の在勤中に出入りしていたスティグリッツ教授が率いる政策対話イニシアティブ(IPD: Initiative of Policy Dialogue)とJICA研究所が、アフリカを中心とした産業政策に関する共同研究を開始したのである。日本からはJICA研究所の細野昭雄シニア・リサーチフェローや筆者が参画してきている。
産業政策をめぐっては賛否両論があり、未だに援助ドナーの間でもコンセンサスが得られていない政策である。カイゼンやスティグリッツ教授らとの共同研究が始まった2008年の時点で、援助国の間で産業政策に積極的な議論をしていたのはJICAのみで、いわばかなり特異な存在であった。しかし、そんな状況が少し変わったのが、ちょうどこの2008年の後半に起こったリーマン・ショック以降である。
リーマン・ショックによって国内経済が大きな影響を受けたアメリカやフランスなどが、自国経済のために積極的な産業政策の方角に舵を切ったのである。ハーバード大学のダニ・ロドリック教授はこうした動きを「産業政策が帰って来た(The Return of Industrial Policy)」と呼び、援助機関の中でもようやく産業政策について少し見直しが始まるのである。
世銀の主流派の考え方は現在でも、産業政策のように政策に介入すべきではないとするものである。むしろ政府の介入は「投資環境整備」だけに限るべきで、それ以上、市場に介入するべきではないという。もちろん、世界銀行の中も一枚岩ではない。たとえば、2008年からチーフエコノミストであった中国人のジャスティン・リン(現在、北京大学教授)は、産業政策に積極的なNSE (New Structural Economics) を提唱し始めていた。しかし、この議論により世銀内の主流派との間の論争が激しくなり、彼は2012年に世界銀行を去ることになってしまった。
今回のナイロビのTICADでも、北岡伸一JICA理事長、ヘレン・クラークUNDP総裁、スティグリッツ教授や筆者が参加し、「産業政策を通じたアフリカの構造転換とアジェンダ2063の実現」というイベントが行われた。このイベントは、JICA研究所とスティグリッツ教授らの共同研究の成果であり、スティグリッツらの編によるIndustrial Policy and Economic Transformation in Africaがコロンビア大学出版会から出版されたのを記念して行われたものである。筆者もこの本でエチオピアのカイゼンについて章を担当した(本書はAmazonなどで入手可能、内容詳細については、JICA研究所のHPを参照のこと。本稿では論じていない産業政策の論点についてもまとめており、ぜひ読んでいただきたい。)
さて、先ほど述べたナイロビでの今回のイベントで印象的な発言があった。筆者がモデレーターとして司会をするセッションで、セレスティン・モンガ・アフリカ開発銀行チーフエコノミストが述べたことである。
アジアの産業政策の経験というが、「アジアの」という部分は必要ない。アジアが行ったことは実は普遍的な政策で、アジアだけでなく西洋でも行われてきたものである。これからのアフリカはこの普遍的な政策である産業政策を実行に移していくべきだ。
セレスティン・モンガ氏も我々の共同研究者であり、彼の発言の背景には、同じく共同研究者の一人でもあるケンブリッジ大学のハージュン・チャン教授による経済史の研究の成果が反映されている。彼は丁寧に史実に当たることで、これまで産業政策を取ってこなかったと思われていたアメリカ、イギリス、スイス、フィンランドに至るまで先進国は全て産業政策を積極的に実施してきた歴史を「再発見」したのである。
1993年に日本が始めた日本―世銀論争。その政策論争はまだ続いているが、このセレスティン・モンガ氏の発言はアフリカの進む道を示しており、その議論は新しい段階に入りつつあるように思われる。最近の議論の進展をふまえ、JICA研究所とスティグリッツ教授らによる本が、11月下旬にコロンビア大学出版会より新たに出版される予定である。
タイトルは、Efficiency, Finance, and Varieties of Industrial Policy – Guiding Resources, Learning, and Technology for Sustained Growthであり、ジャスティン・リンを始めとする産業政策研究の一線級の研究者が参加しており、産業政策としての金融の役割に焦点が当たっている。筆者の担当した日本の章では日本開発銀行といった開発金融や、カイゼンの日本における導入の歴史について書いているので、ぜひ手に取っていただきたい。アマゾンのKindle などでも入手が可能である。詳細はHPでご覧いただきたい。
1993年に日本の始めた大きな援助潮流をつくる試みであるアフリカ開発と産業政策。23年の時の流れを経て現場でも、援助政策の部分でも少しずつ成果を出しつつある。しかし、また揺り戻しがないとは限らない。揺り戻しがある前に、現場での成果をさらに積み重ね、研究によって理論を固めていく必要がある。この日本発の壮大なプロジェクトは未完であるが、アフリカのみならず世界の未来につながる試みだと思う。次回の第7回TICADは東京で開催される。さらなる展開を期待したい。
プロフィール
島田剛
静岡県立大学国際関係学部准教授
1969年神戸市生まれ。博士(学術、早稲田大学)。
現在、コロンビア大学・客員研究員、JICA研究所・招聘研究員、早稲田大学・招聘研究員も兼ねる。1992年から2015年までJICAで勤務。JICA研究所主任研究員、企画課長、産業開発・公共政策部 産業・貿易課長、理事長秘書役、国連代表部・一等書記官などを経て現職。主な著作に以下のようなものがある。
・Go Shimada. Forthcoming. Inside the Black Box of Japan’s Institution for Industrial Policy – An Institutional Analysis of Development Bank, Private Sector and Labour. In Akbar Noman and Joseph Stiglitz, eds. Efficiency, Finance and Varieties of Industrial Policy. New York: Columbia University Press.(本年、11月に発行予定)
・Go Shimada. 2015. “The Economic Implications of Comprehensive Approach to Learning on Industrial Development (Policy and Managerial Capability Learning): A Case of Ethiopia.” In Akbar Noman and Joseph Stiglitz, eds. Industrial Policy and Economic Transformation in Africa. New York: Columbia University Press.