2017.01.13

「疑惑の選挙」の顛末――2016年のガボン大統領選を振り返る

松浦直毅 人類学・アフリカ地域研究

国際 #等身大のアフリカ/最前線のアフリカ#ガボン#ガボン大統領選

シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。

2016年8月31日、アフリカ中部のガボン共和国の首都リーブルヴィルが、大きな混乱に包まれた。この日の午後に、8月27日におこなわれた大統領選挙の公式結果が発表され、現職の再選が報じられたのだが、その結果を不服とする対立候補の支持者らのデモがエスカレートし、政府関係施設や店舗などが襲撃されたり、議会に火が放たれたりするなどの暴動に発展したのである。

デモの群衆が鎮圧のために出動した警察と治安部隊が衝突し、死者数十人、負傷者数百人、逮捕者1000人以上を出す事態に至った。このような事態を引き起こした選挙結果は、いったいどのようなものだったのか。そして、その背景にはどのような社会状況があるのか。本稿では、騒動の渦中に居合わせた筆者の経験もふまえながら、2016年のガボン大統領選挙の顛末についてまとめるとともに、ガボン社会の現状について考察したい。

本論に入る前にまず、筆者の立ち位置を示しておかなければならないだろう。筆者の専門は人類学であり、ガボンで14年にわたって、狩猟採集民の生活・文化や、環境保全政策と地域住民の関わりなどについての研究をおこなってきた。騒動のときも、国立公園周辺に暮らす地域住民を対象とした調査をするために、近隣のコンゴ民主共和国からガボンにやってきたところであった。

もちろん、選挙日程は把握しており、報道にも注意を払ってはいたが、これまでの経験からも事前の情報からも、これほどの事態になるとは予測できなかった。したがって、混乱に巻き込まれたのは「不測の事態」だったわけだが、こうした経験をきちんとまとめておくことは、図らずも「最前線」の現場にいた者の責務ではないかと考え、本稿を執筆するに至った。そのうえで、地方の村落社会に長くかかわってきた人類学者の立場から選挙を振り返ることで、国際関係学や政治学などとは異なる、アフリカの政治状況を理解する視座を提供することができればと考える。

1.選挙の概要

ガボンの大統領の任期は7年であり、2016年の選挙は2009年以来であった。多数の候補者が乱立したが、実質的には、現職のアリ=ボンゴ (Ali Bongo)(選挙当時57歳)と対立候補ジャン=ピン (Jean Ping)(選挙当時73歳)の一騎打ちとなった。アリ=ボンゴの父は、1967年から7期41年(注)ものあいだ大統領の座につき、在任中の2009年に亡くなったオマール=ボンゴ (Omar Bongo) 前大統領であり、アリ=ボンゴは、父のあとを継ぐかたちで2009年8月の選挙で大統領に選出された。与党「ガボン民主党 (PDG: Partie Democratique Gabonais)」の所属で、出身の民族集団は、南東部のテケ(Téké)である。

(注)もともと任期5年であったが、6期目となる1998年に7年に変更している。5年を5期、7年を2期務め、8期目の途中に死去した。

一方のジャン=ピンは、中国人の父とガボン人の母をもち、母親は西部の海岸地域に分布するミエネ(Myéné)の出自である。もともとはボンゴ一族に近しい立場にあり、オマール=ボンゴ政権時代には大統領補佐官や外務大臣などの要職を務め、オマール=ボンゴ前大統領の長女と結婚していた経歴まである。2008年から2012年までAU(アフリカ連合)の議長を務めたが、2012年に議長に落選したあとは、コンサル業を営むなどして政界からは離れていた。しかし、2014年にガボン民主党を離党し、「政権交代のための野党統一戦線 (FOPA: Front uni de l’opposition pour l’alternance)」を設立してふたたび政治の舞台に戻り、アリ=ボンゴと対立する姿勢を強めていた。

2.選挙の背景

ここでそれぞれの出身地域と民族を示したのには意味がある。ガボンの人口は約180万人と少ないが、そのなかに40以上という多様な民族がおり、最も多い民族でも人口の10数パーセントにすぎないというように、際立った多数派がいるわけではない。また、それぞれに言語が異なるなど民族間の境界は明瞭であり、分布する地域もはっきり分かれている。リーブルヴィルなどの都市部では多数の民族が混淆しているが、同じ地域の出身者が同じ地区に集まってコミュニティを形成する傾向が顕著にみられる。選挙でも、地域/民族によって候補者が分かれる傾向があり、かならずしも政策や政治思想が同じだからといってまとまるわけではない。

下表は、オマール=ボンゴ前大統領の後継者が争われた、前回2009年の大統領選挙の結果であるが、三つの地域/民族の候補者で票が分かれていることがわかる。もしかりに対立候補が一本化していればアリ=ボンゴを上回っていたが、とくに北部と南部では文化・歴史的な背景が大きく異なるため、そのような展開にはならず、結局はボンゴ一族による支配が継続することになった。

表:2009年の選挙結果

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2016年選挙でも、公示の時点では有力と目される対立候補が複数いて、票が割れる予想があったことから、各種メディアでは現職有利の下馬評であった。父親から数えて50年近くにわたって独裁的な体制を維持してきたボンゴ一族は、海外メディアなどから「国家の富の25%を独占し、民衆の人権を著しく侵害している」と批判されている。2015年にサッカーのリオネル・メッシ選手がガボンを訪問して大統領らと親交を深めたことが人権団体から激しい批判を浴びたのは、記憶に新しい。市井の人々との日常会話のなかでも、富を「食べてしまう」政権に対する批判がしばしば聞かれる。にもかかわらず、長期にわたって独裁が維持されてきた理由のひとつは、地域ごとに多様な民族があり、それぞれの力関係が拮抗しているからだろう。

もうひとつの理由として、上述のような地域/民族の力関係のバランスに配慮した利益配分がなされてきたことが挙げられる。ボンゴ家の出身民族はもともと主流派ではなく、そのため、それぞれの民族に有力な地位を割り振ることによって懐柔が図られてきた。たとえば首相のポストは、かならず北部を中心に分布する多数派民族であるFangの出身者のものとなっていた。

このような利益配分が可能なのは、ガボンが産油国であるとともに、マンガン、木材などの豊富な天然資源を有し、経済的に裕福だからである。2014年の一人あたりGNIは10,410USドルで、サハラ以南アフリカ諸国の平均(1,738USドル)の6倍をこえる(World Bank 2014)。独裁というと、強権的で抑圧的な体制を想起しがちだが、ガボンの政権はそれだけでなく、潤沢な富をいうならば「ばら撒く」ことによって維持されてきた側面がある。

このように、支配者(=パトロン)がその取り巻き(=クライアント)に資源をばら撒いて政治的支持を確立する手法は、独立後のアフリカの多くの国家でとられてきた(武内 2009)。しかしながら、「ポストコロニアル家産制国家」と呼ばれるこれらの国家を支えてきたパトロン・クライアント・ネットワークは、1980年代以降、経済危機、経済自由化、政治的自由化によって脆弱化し、そのことが1990年代の紛争の頻発につながったとされている(武内 2009)。これに対してガボンは、1990年に複数政党制を導入するなどの変化はあったが、豊かな天然資源に頼った経済力を背景に、2000年代に入ってもパトロン・クライアント関係が維持されてきたといえる。

しかしながら近年、豊かな経済力にかげりが見えていた。その大きな原因のひとつが、原油価格の下落である。2014年からの2年弱のあいだに1バレルあたり100USドルから30USドルへと大幅に落ち込み、そのことが石油収入に頼るガボン経済に大きな打撃を与えた。ガボン政府は、経済活動を多様化して石油依存を脱却するとともに、貧困層の社会保障を確保するための緊急対策を急いだが、6%前後を推移していた経済成長率は、2016年には3%にまで低下する予測である(IMF survey March 2016)。

長年ガボンに通っている筆者の「生活実感」としても、モノの値段が上がる一方でサービスが低下していたり、ストライキが頻発したりすることなどから、経済の低迷を肌で感じる。公務員への給料が滞っていたせいか、検問の箇所が増えて、それぞれで賄賂を要求されるなどということもあった。

また2014年末には、石油会社の従業員による大規模なストライキが発生し、リーブルヴィルではあちこちのガソリンスタンドで車が列をなした。地方部の状況はもっと深刻で、石油がまったく届かず、給油どころか町からすべての明かりが消えてしまうことさえあった。独裁的な体制に対する不満があちこちでありながらも、これまでは豊かな経済に頼ることでバランスが保たれてきたが、その拠り所が揺らぎはじめてきたのである。

アリ=ボンゴ政権になってから、オマール=ボンゴ政権時代の重鎮が冷遇されており、かれら重鎮やその支持者らが不満を抱いていたことも見逃せない。そこに経済悪化がくわわったことによって、とりわけ重鎮らの地盤である地域に配分されるお金は大きく減少し、不満がさらに増幅することになった。2015年に北部出身の重鎮で、対立候補の筆頭と目されていた人物が亡くなったあと、このような勢力の中心となり、アリ=ボンゴとの対決姿勢を鮮明に打ち出していたのが、ジャン=ピンであった。

3.選挙の結果

ここまで述べてきたように、2016年の選挙は、お金の力で保たれてきた政治的バランスが揺らぎ、50年にわたって積もってきたボンゴ家による長期の独裁的な体制に対する民衆の不満が噴出してきた中でおこなわれたのである。選挙期間中には、アリ=ボンゴがじつは前大統領とは血のつながりがないナイジェリア人で、選挙に出る資格がないと公然と批判するなど、野党側が攻勢をしかけた(注)。そして、公示当初には多数乱立していた野党側が、8月半ばになってジャン=ピン支持で一本化を図ったことで、選挙直前にしてアリ=ボンゴとジャン=ピンが激しく拮抗する状況となったのである。

(注)2009年の大統領選挙のときから同様の疑惑があったが、フランス人ジャーナリスト・ピエール=ペアンが、この問題を取り上げたルポルタージュを2015年に発表したことで再燃した。なお、ピエール=ペアンは、オマール・ボンゴ政権時代に政府の顧問として活躍した人物でもある。

投票後に優勢が伝えられたのはジャン=ピン側であり、それを受けてジャン=ピンは、最終的な開票結果が公式に発表されるのを待たずに、8月28日に勝利宣言をした。これに対して、アリ=ボンゴ陣営も譲らず、両者が勝利を主張するという異常な状況となった。開票結果は、予定されていた8月30日になっても発表されず、さらに緊張が高まっていった。

そして、予定よりも1日遅れた8月31日の午後4時、ついに開票結果が発表された。アリ=ボンゴが49.80%(17万7,722票)、ジャン=ピンが48.23%(17万2,128票)、5,000票余りという僅差でアリ=ボンゴの勝利という結果であった。当然、ジャン=ピン陣営は、この結果に猛反発した。とくに、州ごとに開票結果が発表されるなかで、唯一、1日だけ遅れて最後に発表されたオート=オグエ (Haut-Ogooue) 州の結果に対して強い疑義が呈された。その結果とは、全体の投票率が56%であるのに対してこの州だけ投票率99.9%で、そのうち95.5%がアリ=ボンゴ票という「明らかに異常に」偏ったものであった。そして、この州は、ほかでもなくアリ=ボンゴの出身地域であった。

4. 当日の現場のようす

筆者は、コンゴ民主共和国で調査を終えたあと、8月31日の午前中にガボンに移動した。開票結果の発表を前にした到着時点では、ふだんよりはだいぶ少ないものの、車はふつうに走っていて、多くの場所が通常営業しているようだった。ただし、選挙結果が出たあとに混乱があることも考えたので、常宿としているホテルにチェックインしたあと(ホテルもいつもよりすいていた)、スーパーで水や食料などを買いこんでおくことにした。スーパーは逆に、ふだんよりだいぶ混んでいて、品薄というほどではなかったが、一部にすでに売り切れているものもあった。スーパーの向かいのパン屋では、バゲットを買い込む人たちで入口付近にまで行列ができていた。

この日は、筆者よりあとに研究チームのメンバー2名が到着する予定で、初渡航となる大学院生である二人を筆者が空港まで迎えに行くことになっていた。しかし、パリを出発した飛行機がリーブルヴィルに着く前という悪いタイミングで上述の開票結果が発表され、筆者はホテルで身動きがとれなくなった。デモの混乱が飛び火するのを避けてホテルの入口は施錠されており、従業員からも外出をやめるように助言された。外をみてもタクシーはほとんど走っておらず、ヘリコプターの音や銃声らしきものが聞こえてきた。欝々として待つしかなかったが、しばらくして到着したメンバーから電話があり、さいわい二人は、周囲の人にも助けられてなんとか無事にホテルに到着した。

ホテルでは、はじめはインターネットがつながっていたが、8月31日の夕方からSNSだけが使えなくなり、夜にはインターネットがすべてつながらなくなった。テレビをつけてみたが、国内の局では能天気なアフリカ音楽のビデオクリップか、コテコテのメロドラマみたいなものしかやっていないので、フランスのニュース番組で情報収集につとめることにした。もちろん、外出できるような状況ではないため、夜はホテルにこもって買い込んだ食料を食べて過ごした。

翌9月1日の朝、ニュースをみて前夜の混乱が予想をはるかに超える規模のものだったと知り、戦慄を覚えた(写真)。画面には、焼け焦げた国会の建物、横倒しにされた車両、襲撃された店舗などが映し出され、死者・負傷者も多数出ていることが報じられていた。外に出てホテル周辺の様子を見てみると、キオスクが横倒しにされていたり、ゴミ箱が焼かれたりした跡があり、路上にも燃えかすが散乱していた。ホテルのすぐ向かいにある小さな商店は、営業はしているものの、襲撃をおそれて入口の鉄格子は閉めたままの状態であった。水、缶詰、ビスケットなどを追加で購入し、鉄格子の隙間から腕を伸ばして商品を受け取った。

大統領選後の騒乱を報道するテレビ番組(ホテルにて撮影)
大統領選後の騒乱を報道するテレビ番組(ホテルにて撮影)

騒動がすぐ周辺にまで及んでおり、襲撃の対象も政府関係施設だけにとどまらなかったことがわかり、しばらくホテルから出ないことにした。万一のため、空いたペットボトルに水をためたり、ヘッドランプやすぐ持ち出せる荷物を用意したりもした。電話は通じていたので、ガボンの関係者や日本の研究チームメンバーと連絡を取り合い、このような状態となっては調査地に行くのは困難と判断して、帰国することになった。

8月31日の夜以降は大きな混乱はなく、9月3日(土)、4日(日)あたりには、周囲のようすをみても少しずつ日常が戻りつつあった。ホテル入口の施錠も解かれ、従業員や他の宿泊客の話でも、近所への外出くらいなら問題なさそうであった。連日トップで報じていたフランスのニュース番組も、9月3日の午後には別の話題が中心になっていった。とはいえ、初渡航のメンバーもいるので、むやみにリスクを冒して外出するのは控え、ホテルにこもって過ごした。本当は調査地で食べるはずだった、日本から持ってきた保存食もすっかり消費してしまった。

週明け9月5日(月)の朝には、SNSを除いてインターネットが使えるようになり、騒動後はじめて外出し、近所の食堂で食事をしてスーパーで買い物をした。車もたくさん走っていて、人々のようすも日常にもどったようにみえるが、街頭のところどころに警官が立っていたり、警察や軍関係の車両がときおり走りすぎたりもする。18時にインターネットが使えなくなり、夜は外出をひかえて部屋で食事をした。研究チームのメンバーの助けで帰国便のチケットを変更して、9月6日(火)の昼に後ろ髪をひかれつつガボンを離れた。

5.その後の展開

予測をはるかに上回る騒動であったが、長期化も避けられないという予測とは裏腹に1日で鎮圧され、その後は落ち着いた状態に戻っていった。ただし、この「鎮圧」をジャン=ピン陣営は強く非難している。すなわち、ジャン=ピンの政治本部を爆撃して幹部20数名を拘束(翌日には解放された)、死者も2名出したというのだ。デモの民衆のなかには、逮捕拘束されたあと、行方がわからなくなっている人たちも多数いるという。

「明らかに異常な」開票結果を受けては、国連やEUなどが透明性を確保することを強く求め、ジャン=ピンは、票の数え直しを求めて憲法裁判所に訴えた。ボンゴ一族と親族関係にある裁判官を代表とする憲法裁判所は、アフリカ連合やEUの監視団の参加は拒絶し、すでに処分してしまっているために票を数え直すことも不可能だとしたが、集計結果を改めて精査して、9月24日に裁定結果を発表した。疑惑のオート・オグエ州は、投票率が98%、そのうちアリ=ボンゴ票が83.2%に修正されたが、最終結果はアリ=ボンゴが50.66%、ジャン=ピン47.24%で、約11,000票差に広がって結果は覆らず、アリ=ボンゴの再選が承認された。

これを受けてアリ=ボンゴは早々に就任を宣言し、新内閣を組閣した。新内閣の人事で注目すべき点は、父の時代から続いてきたポスト配分のやり方が大きく変えられたことである。たとえば、これまでずっと不文律として、多数派であるとともに、政権に対して最も対立的でもある民族集団のFangから選出してきた首相のポストは、Kotaの人物に変わっている。また、報道長官や官房長官として大統領府関係者が入閣した点も、これまでとは変わっている。

なお当然ながら、ジャン=ピン陣営から入閣した者はゼロであった。今回の選挙結果について、アリ=ボンゴが再選してこれまでと同様の体制が継続したとだけ理解するのは誤りである。オマール=ボンゴ時代から続いてきたパトロン・クライアント・ネットワークは再編され、ガボンの政治勢力図は大きく描き替えられているのである。

ジャン=ピンは、憲法裁判所の裁定結果を認めておらず、自分こそが大統領だと繰り返し主張しているが、2016年10月に憲法裁判所におこなった再度の訴えは棄却された。その後、ガボンを離れてフランス、ベルギー、アメリカなどで、ガボン人ディアスポラや政治関係者らと精力的に面会し、2016年11月末にガボンに戻った。2016年12月には支持者らに対して反対行動を呼びかけ、警察や軍関係にも協力を求めるなど、何としてでも「盗まれた勝利」を奪い返すと主張している。これに対して政権側は、ジャン=ピンが一線を越えるようなら逮捕も辞さないと、脅迫ともとれる声明を出して牽制している。

あまりに長く独裁的な体制がつづいてきたことによって、ガボンの多くの民衆は、いわば「平和ボケ」していたかもしれない。筆者でさえも、選挙だからといって大きな混乱は起こらず、結局は現職が再選するに決まっているだろうと高を括っていた。しかしながら、その一方で、民衆のあいだには確実に不満が募っており、独裁的な体制にノーをつきつける機運も高まっていた。今回の投票結果とその後の騒乱は、そのことを如実に物語っている。

地方の人々は、道路工事がなかなか進まないこと、物資が十分に流通していないこと、教師や医師・看護師の給料が遅配していることなど、政権に対する不満を日常的に語っていた。いまから振り返れば、政治的な動きやメディアの報道にくわえて、このような民衆の声に耳を傾け、生活実感に敏感になっていれば、そうした萌芽はあちこちに見られたように思う。

政権側による徹底した鎮圧によって騒動はすぐに終結し、あの混乱は何だったのかと思えるほど、あっさりと「もとのさや」に収まった感がある。しかしながら、人々の意識は選挙の前とは明らかに変わっており、これからガボンで何が起こり、どのように展開するのかは、ひきつづき注目していかなければならない。

謝辞

中部学院大学の竹ノ下祐二先生をはじめとする調査チームの皆様には、現地滞在時に日本から多大なサポートをいただきました。元・在ガボン日本大使館専門調査員の木幡政弘氏は、現地でさまざまな便宜を図ってくださり、本稿に関しても有益な助言と情報提供をいただきました。心より感謝申し上げます。

参考文献

・武内進一(2009)『現代アフリカの紛争と国家―ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店.

・World Bank (2014) World Bank Open Data (http://data.worldbank.org/)

プロフィール

松浦直毅人類学・アフリカ地域研究

静岡県立大学国際関係学部助教。博士(理学)。京都大学大学院理学研究科修了後、日本学術振興会特別研究員などを経て2012年より現職。ガボンの狩猟採集社会の変容に関する研究、ガボンとコンゴ民主共和国の自然保護区における環境保全と地域開発に関する研究などをおこなう。主著に『現代の<森の民>―中部アフリカ、バボンゴ・ピグミーの民族誌』(2012年、昭和堂)がある。NPO法人アフリック・アフリカ理事。

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