2012.03.26

音の遺跡 ―― アラブの人々に受け継がれた身体感覚としての科学

木村伸子 アラブ音楽理論

国際 #アラブ音楽#アブドゥ・ダーゲル#ファーラビー#音楽大全

アラブ音楽との出会い

2009年1月、足掛け三年のエジプト留学の第一日目に、アムステルダム経由で深夜のカイロ空港に到着した。空港から市街地に向かう埃っぽいタクシーに乗り込むと、古びたラジオからアラビア語の歌が流れてきた。

そのときわたしはヴァイオリンを一台、日本から抱えてきていた。音楽はまったくの専門外で、ときおり遊びで好きな曲を弾く程度のアマチュア・ヴァイオリン奏者だったけれど、長期滞在のあいだにエジプトでも何かしら演奏の機会があるかもしれないと考えて、留学先に抱えていくことにしたのだった。それまでのわたしにとって、ヴァイオリンとは西洋クラシック音楽を演奏するための楽器であり、ヤッシャ・ハイフェッツ(20世紀を代表するロシア出身のヴァイオリニスト)の演奏がヴァイオリン演奏の最高峰だと考えていた。西洋クラシック音楽以外のヴァイオリン演奏を聴くことは普段の生活ではほとんどなかった。

ラジオから流れてきた歌のバックにはヴァイオリンらしきものの音も聴こえたのだけれど、それはわたしの知っているヴァイオリンの音とはずいぶん違っていた。エキゾチックといってしまえばそれまでであるが、西洋音楽と違うその音程感に、強い違和感を覚えた。率直にいって、音程が狂っているとすら感じた。エジプトのヴァイオリニストは、西洋や日本のヴァイオリニストよりも演奏技術が低いのだろうか、と漠然と考えていた。

その年の夏の終わり頃、エジプトで出会った友人に誘われて、アラブの古典音楽を演奏するバンドを組むことになった。サークル活動のような気軽な気持ちで参加した。リーダーに手渡された演目リストは、譜面を見るかぎり難しいものではなさそうだった。最低限のクラシックヴァイオリンの基礎はあるので、アラブのヴァイオリンもそこまで苦労せずに弾けるだろうと、はじめは思っていた。

しかしそれは甘い考えだった。ラジオを聞き流していたときには気づかなかったことであるが、自分の手で、自分の楽器でアラブ音楽を弾こうとしてはじめて、「自分にはアラブの音がまったく分からない」という事実を思い知らされたのである。それまで自分はアラブの音を聴いたつもりでいたけれど、じつは何ひとつ聴き取れていなかったのだった。エジプト人のヴァイオリンの音が狂っているのではない。わたしの耳に、その音を捉えるセンサーがないのだ。自分の体のなかにない音を、自分の手でつくることはできない。そのときのわたしは、自分の出すべき音を見つけることすらできなかった。

自分には弾くことも聴き取ることもできない音を、エジプト人ヴァイオリニストたちは易々と弾きこなしていた。何を弾いても(西洋音楽さえも)彼らが弾くと、しっかりとアラブの音に聴こえた。プロの演奏家だけではない。道端にたむろしているごく普通のおじさんたちも、じつに鋭敏な耳を持っていた。ラジオから流れる、わたしには聴き取れない不思議な歌声にしみじみ涙を流したり、やんやと盛り上がったりしていた。おじさんたちの鼻歌すらもアラブの音だった。

同じカイロに住んではいても、自分と彼らがまったく違う世界の住人だということを思い知らされた。カイロ在住の日本人のなかには、エジプト人をあまり良く思わない人も多かったけれど(几帳面な日本人にとって理由のないことではない)、わたしはすべてのエジプト人に対して、彼らが持っているその耳の力を、何かしらとても尊いものだと感じた。なんとかしてわたしも、そちら側の景色を見てみたいと思った。

伝説的ヴァイオリニスト、アブドゥ・ダーゲル先生への師事

翌年の春、知人の紹介でエジプトの伝説的ヴァイオリニストであるアブドゥ・ダーゲル先生にはじめてお会いした。75歳と高齢のダーゲル先生の演奏は、他のどんなヴァイオリニストとも違っていた。一切の無駄をそぎ落とした音。そのまっすぐな音色があまりにも豊かなので、装飾音も、メロディーすらも不要と感じるほどだった。これまで、「アラブっぽい音」を出そうとして、音にあれこれ「アラブ風」のかざりをつけていた自分の姑息な手段を、正面から打ち砕かれたように感じた。

ダーゲル先生の演奏のもっとも驚異的な点は、その音程だった。それは、これまで完璧だと思っていたあのハイフェッツの演奏ですら、ダーゲル先生の演奏を聴いた後に聴くと、わずかに音程が甘いと感じられるほどだった。もちろんハイフェッツの演奏に問題があるわけではない。ハイフェッツの演奏技術は、西洋音楽というジャンルのなかではやはり完璧だったのである。しかしダーゲル先生の音はその外から来ていた。ハイフェッツが弾きわける必要のなかった音、西洋音楽が一種類の音とみなしている音を、ダーゲル先生はいくつもの音に分類して弾きわけているのだった。それは今まで自分が知らなかった美しいハーモニーの世界だった。これがアラブの音なんだと思った。自分には届かない場所にある多彩なアラブの音が、光の輪を描いて響きあっているのをはっきりと感じた。

ダーゲル先生は学校での音楽教育を受けたことがなく、10代の前半からほとんど路上生活者のような暮らしのなかで、モスクに寝泊りし、独学でヴァイオリン奏法を学んだという人である。したがって五線譜を読むことができない。先生の音楽的素養の大部分は、コーランの朗誦を聴くことで培われたものだという。

先生のレッスン方法は、先生の隣に生徒が腰掛けて、先生の楽器から溢れてきたさまざまな即興のフレーズを、ひたすら先生が弾いたとおりになぞって弾くというものだった。譜面におこしたならば、とくに難しいフレーズではない。しかしわたしが先生のレッスンを受けはじめたばかりの頃、わたしが出すほとんどすべての音に対して先生は首を横に振りつづけた。

そうじゃない、もっと良く音を聴け。アラブの音はもっともっと繊細な音だと。先生のレッスンを受けているうちに、先生が楽譜を使わないのは、先生がたんに五線譜を読めないという理由だけではないんだ、ということが少しずつ分かってきた。アラブ音楽はその音ひとつひとつに、五線譜に書かれたものよりもはるかに多くの情報が含まれているのだと。

ダーゲル先生のレッスンに通うようになって数ヶ月、少しずつ先生の音の「まね」ができるようになっていった。しかし、本物の音は遥かに遠いところにあった。「まね」が少しできるようになったことで、本物との違いをますます深く感じるようになるばかりだった。自分の音は贋物だ、という思いに苛まれた。同時に、いっそうアラブの音を美しく感じるようになっていった。もがいても、もがいてもまったく近づくことが出来ないほど、それは高いところにある音だということに気づきはじめた。この信じられないほど精密な音楽は、いったいどこで生まれたのだろう。その根本的な原理をどうしても知りたくて、現地の音大でアラブ音楽理論の授業を受講するようになった。

しかし、そこにも答えはなかった。現代のアラブ世界には、近代以降、西洋音楽の影響を受けて発展した独自の音楽理論がある。音大で学ぶことができるのは、そういった現代的な、分かりやすい、小綺麗にまとめられた理論だった。大学の授業でひととおり学んだ後、それらの理論はいずれも「アラブの音とは何か」という問いの答えではない、とわたしは思った。

たしかな根拠があったわけではない。大学で教えてもらった理論で、ダーゲル先生の音を合理的に説明できないわけではない。しかしそれらの理論は、ダーゲル先生が奏でる音楽ほどには美しいと感じられなかった。一見辻褄があっているようで、そのじつ、分からないところには目を覆っている。古い町並みを模した、テーマパークの張りぼてを見せられているような気がした。そんな安いもんじゃないだろうと思った。ダーゲル先生の音は、大学で教えられているような理論よりももっと遠い場所からきているのではないか、と予感していた。

「数字」の啓示とファーラビー『音楽大全』

秋の日のある朝、いつものようにヴァイオリンを弾いていると、頭のなかにふっとひとつの数字が浮かんだ。その数字は、ダーゲル先生の音のイメージと、自分が使っている楽器の構造とのあいだに、ちょうどうまくおさまるような数字だった。その数字がとても美しいような気がしたので、しばらくその数字について考えていた。

その日は午後から外出する用事があったので、ラムセス通りを歩きながらその数字をぼんやり思い浮かべていた。すると突然、雪のように数字が降ってくる感覚があった。ダーゲル先生が聴かせてくれた、さまざまな美しい音の組み合わせが、突然、数字というかたちで降ってきたように感じた。あわてて帰宅して、それらの数字を目についた紙切れに書きとめた。その感覚は数日間つづいて、そのあいだに書き積もった数字の羅列 ―― それらは、ダーゲル先生の音楽が生まれた場所と同じところからきたものだと直感した。

それからしばらくして、中世アラブ世界を代表する哲学者、ファーラービーの『音楽大全』を読みはじめた。古代ギリシャ・ローマ時代の音楽論をアラビア語に翻訳し、さらにアラブが独自に発展させた音楽理論についての考察を加えた歴史的大著である。アラブ音楽の歴史を研究する上でもっとも重要な史料として知られているものの、イスラーム哲学についての知識の乏しい自分には、あまりにも難解そうで読むのを躊躇していたものだった。

読みはじめて、あっと思った。はじめて読む文献なのに、自分の知っている数字ばかりが並んでいた。あのとき雪になって降ってきた数字だと思った。書かれた文字の羅列が、そのまま音としてはっきり聴こえてきた。そのことをもう不思議だとも思わなかった。むしろ、懐かしいような感覚だった。中世アラブの音楽家と、現代エジプトのダーゲル先生が、千年の時間を隔てて同じ音を奏でているのだと確信した。

古代ギリシャ時代や中世アラブの音楽理論についての研究は数多いが、現代の多くの研究者たちはそれらの古典理論に対して、口をそろえて次のように言う。

「このようなさまざまな数の組み合わせは、彼らが熱中した数理のゲームの産物であり、実際の音楽とはかけはなれたものであった」

彼らの言うところの「実際の音楽」とは、つまるところわたしたちが想像することのできる音楽のことであり、さらにいえばわたしたちが実際に体験したことのある音楽のことである。人工降雪機の雪しか知らない人にとって、空から降るすべての雪片がさまざまなかたちの美しい結晶体を成すということを信じることが難しいように、平均律を中心とした音楽教育を受けた現代のわたしたちにとって、アラブ音楽には全音から半音までのあいだに数十通りもの美しい音程があり、そしてそれらを自在に操る能力がわたしたちに備わっている、と信じることは難しいであろう。

しかし昔の哲学者たちは、数理のゲームなどをしていたのではなかった。彼らは、彼ら自身の切実な音楽体験のなかで(彼らの多くは哲学者であると同時に演奏家でもあった)、音が自ら語った言葉 ―― それはこの場合数理というかたちをとっていた ―― を、淡々と書き留めたにすぎない。空の雲と無関係な雪が存在しないように、実際の音楽とかけ離れた理論などというものは、彼らのなかには存在しなかった。目を閉じて音楽と一体になった彼らの脳裏に、数理という景色が見えていただけのことである。ファーラービーの言葉の一字一句に確信が満ちているのを見て、わたしはそう感じた。

わたしたちに聴こえていない音とは何か?

現代のアラブの演奏家たちのなかで、ファーラービーの音楽理論を読む人は稀にしかいない。しかし、彼らに哲学書は不要である。文献からの知識に頼らなくとも、彼らの奏でる音はファーラービーが書き残そうとした音と同じものである。数理は彼らの演奏のなかにある。アラブの音を千年にわたって伝えてきたのは、哲学者ではなく彼らである。

演奏家だけではない。すべての音楽好きのエジプト人が、アラブ音楽の微細な響きを感じ取り、それを味わう能力を父祖から受け継いでいる。その身体感覚としての知性は、もはや彼ら個人の所有物ではない。それは千年も、それ以上も昔に人々の心に建設され、耳から耳へと受け継がれてきた、音の遺跡である。わざわざ郊外までピラミッド見物に出かけなくても、喧騒のカイロを歩くだけで、わたしたちは世界が壮大な知性の建造物で満ちていることを感じることができるのである。

アラブの人々のなかにアラブの歴史が流れているように、わたしたちのなかに流れているのはわたしたちの歴史である。アラブの音はアラブ人の歴史の産物であって、わたしたちのものではない。エジプトで3年間、音楽に囲まれた時間を過ごしたけれど、わたしの耳はいまだにカイロの道端のおじさんにもかなわない。個人の努力では超えることのできない壁がそこにある。

それでも、自分が聴き取ることの出来ない音に出会ったとき、それを「聴こえたふり」だけはしたくないとわたしは思う。ましてや自分に聴き取れない音を「存在しないもの」と決めつけることは、もっとしたくないとわたしは思う。

残念ながら、わたしたち非アラブ人が研究対象としてのアラブ音楽に対してとってきた態度の多くは、そのどちらかであったと言わざるを得ない。科学的には証明できない、と言って未知のものを切り捨てる際の、その「科学的」と称して振りかざす物差しに、どれほどの普遍性があるのかという反省は、もっとなされてもよいのではないか。

今わたしが伝えたいのは、「わたしたちに聴こえていない音とは何か」ということである。彼らには聴こえていて、わたしたちに聴こえていない音が、どれほど必然的で、澄み切っているかということである。その音がどこから来たのか、彼らがどのようにしてその音を伝えつづけてきたのか。その道程を知ったときわたしたちは、アラブの人々の歴史に畏敬の念を抱かずにはいられない、とわたしは思う。

プロフィール

木村伸子アラブ音楽理論

東京大学文学部歴史文化学科卒業、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。早稲田大学大学院文学研究科後期博士課程在籍。2009年よりカイロ大学に留学。当初はエジプトの中世社会史研究のための留学であったが、留学中にアラブ音楽に出会い、エジプトを代表するヴァイオリニスト、アブドゥ・ダーゲル氏に師事。カイロでの演奏活動を行う傍ら、アラブ音楽理論の実践的研究を行う。2012年現在、アラブ音楽理論の歴史について、論文を執筆中。

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