2017.10.26

カタルーニャ「独立宣言」がもたらすスペイン社会の分断

八嶋由香利 スペイン近現代史

国際 #スペイン#カタルーニャ独立

カタルーニャのブレグジット?

2017年10月1日、スペイン北東部に位置するカタルーニャ州で、スペインからの分離独立の是非を問う住民投票が行われた。それ以後、この地域の政治情勢は混乱している。10月21日、スペイン政府はついに自治州への介入を認める憲法155条を適用し、自治の一部停止に踏み切ることを決定した。これにより、プッチダモン州首相以下、カタルーニャ自治政府の全閣僚は更迭される。また州議会も解散され、6カ月以内に新たな選挙が実施される見通しである。カタルーニャの独立派はこれを、カタルーニャ住民の意思に対する「クーデター」と反発を強めている。近日中にも正式な「独立宣言」が発せられるかもしれない。

野党第一党の社会労働党は、今回のスペイン政府の決定を支持している。サンチェス書記長はカタルーニャ州がスペイン人の共存を一方的に破棄しようとしていると非難し、「カタルーニャのブレグジット」と呼んだ。1978年憲法が制定されて以来、前代未聞の深刻な事態である。

それにしても、スペイン中央とカタルーニャ州の対立はなぜここまでエスカレートしてしまったのだろうか。カタルーニャ独立をめぐる一連の政治危機の底流には、英国やギリシャなど他の欧州諸国にもみられる、高度に発達した資本主義社会の様々な歪み(中間層の没落、リーマン・ショック後の経済危機、緊縮策による市民生活の困窮化など)があり、それが特殊スペイン的な形(国家ナショナリズム対地域ナショナリズムの対立)をとって噴出したと言えるのではないか。かつてスペイン内戦(1936~39)の引き金の一つともなった、歴史的に根深い問題である。ここまで事態が悪化した原因とこの問題が社会に何をもたらしたのかを考えてみたい。

強行された10月1日の住民投票

カタルーニャでは、2015年9月27日の州議会選挙で、スペインからの独立を支持する諸政党(PDeCAT, ERC, CUP)が議席の過半数を制し(注1)、住民投票へ向けての準備を始めた。2017年9月6日に「住民投票法」が州議会で可決され、カタルーニャのスペインからの分離独立を問う住民投票が実施されることになった。

マドリード中央政府はこれに強く反発し(注2)、投票日は警察を出動させ、投票所の一部を閉鎖するなど、実力でこれを阻止しようとした。しかし、有権者数の42%にあたる226万人が投票し、その90%が独立を支持した。警察と市民との間で小競り合いが発生し、無抵抗の市民に警官が暴力をふるう場面が、メディアを通して世界中に流された。バルセロナは日本人にもよく知られた観光地であるだけに、わが国でも一斉に報道された。

住民投票で国家警察ともみ合うバルセロナ市民  [エル・パイス紙、 2017年10月1日、Alberto Estévez, EFE]
住民投票で国家警察ともみ合うバルセロナ市民
[エル・パイス紙、 2017年10月1日、Alberto Estévez, EFE]

この住民投票は前回(2014年)と異なり、結果がそのまま独立へ向けたステップへと「法的」につながっている。プッチダモン州首相は、独立への住民の意思が明らかになったとして、10月10日、「カタルーニャ共和国」の樹立を宣言する文書に署名した。と同時に、独立の一時凍結を発表し、中央政府との対話を要求した。

一方、スペインのラホイ首相は、住民投票実施が違法であるとの立場を崩さす、「独立宣言」を撤回した上で交渉に応じるよう求めていた。そして、交渉の期限である19日が過ぎ、州首相からの回答が納得できるものではなかったとし、ラホイ首相は閣議で、カタルーニャの自治への介入を決定したのである。

「合意の精神」の希薄化と若者の意識変化

現在のスペイン憲法が制定された時、多くのスペイン人は、内戦やフランコ独裁の辛い過去の歴史を二度と繰り返してはならないという強い思いを抱いていた。それを象徴するのが憲法第2条である。ここには「スペインは一つである」という統一的な国家観と、バスクやカタルーニャなど固有の言語や文化をもつ地域の自治を保障する多元的な国家観とが併記されている。第2条は起草時に最も議論を呼んだ条文である。しかし、当時は民主化を成功させるために「スペイン人の共存の枠組みづくり」が最優先された。

しかし、憲法制定からすでに40年近くが経過し、特にバスクやカタルーニャなどでは、現行の自治制度に不満を抱える人々が増えている。カタルーニャ州の調査機関CEOによると、2013年に現行の自治権に満足している人の割合は全体の20.6%に過ぎず、70.4%が不十分であると不満を示している。

21世紀に入り、内戦も独裁も知らない若い世代が国民の多くを占めるようになった。世代交代は人々の意識をどう変えていったのか。現在カタルーニャは医療、教育、治安、税などの幅広い分野で自治権を享受し、日常生活を送る上で中央政府の存在を感じることはあまりない。公教育はすべてカタルーニャ語で行われ、「生まれながらに独立主義者であると感じる」若者が多くなっている。ジローナ県ビック市のある市議(独立派)は「スペイン国家と繋がっていないと感じる若者が増えており」、それが「両親の世代を独立へと転向させている」と指摘する(エル・パイス紙、2017年9月25日)。

もはや「独立」とは、はるか遠い目標ではなく、無理をすれば達成できる現実の選択肢でしかない。独立へのハードルは低くなったといえる。23年間州首相を務めたジョルディ・プジョルは、「自治」か「独立」かを明言せずに、中央政府から自治権を引き出す戦術によって、社会の幅広い層の支持を集めてきた。しかし、彼の息子ウリオル・プジョルは根っからの「独立派」であり、父親の路線に反して政党「カタルーニャ民主集中(CDC)」を「自治」から「独立」へ方針転換させるのに尽力したことは、まさにそれを示している(注3)。

一方、スペインの他地域についてはどうだろうか。民主化に貢献した中道左派のスペイン社会労働党が徐々に衰退していく一方で、新自由主義的な経済政策を掲げ、統一的スペインを称揚する中道右派の国民党が議席を増やし、1996年に初めて政権を奪取した。一旦下野したが、リーマン・ショック後の経済危機のなか、2011年に政権に返り咲いている。

調査機関CISによると、2006年に「自治のない中央政府だけの国家」を支持する割合が、カタルーニャでは8.7%でしかないのに対して、中央のマドリードでは21.1%に上る。また、現行の自治制度への満足度は、カタルーニャの29.5%に比べ、マドリードでは51.3%とかなり高い(全国平均は54.1%)。他の地域は現在の自治の枠組みを変更することに消極的で、統一的なスペインが損なわれることにも反対である。カタルーニャ独立の動きに反発するかたちで、今後スペイン・ナショナリズムの高まりが予想される。

二つのナショナリズムの対立激化

カタルーニャの独立派が一貫して求めてきたのは、現行のスペイン憲法下で、カタルーニャを「ナシオン(民族)」として認めてもらうことである。現在、憲法第2条では、バスクやカタルーニャなどを指すのに「ナシオン」ではなく、曖昧な「ナシオナリダー(民族体)」という言葉が使われている。

カタルーニャでは21世紀に入ってから、カタルーニャ共和主義左翼(独立派)の勢力が伸長し、それに伴って従来の自治憲章に代わる新しい憲章の制定が目指された。国会で可決された改正自治憲章案は、住民投票を経て2006年に正式に成立した。法的拘束力のない前文で、カタルーニャが「ナシオン」と明記された。

しかし、スペインこそ唯一の「ナシオン」であるとみなす国民党は、これを不服として憲法裁判所に提訴する。2010年に自治憲章の一部に違憲判決が出されたことで、カタルーニャでは失望と怒りが広がった。多くの人がこれを「屈辱」と感じ、78年憲法による共存の枠組みが壊されたと受け止めた。「自治」から「独立」へ向かうことになったのである。もし、ここで国民党が提訴を踏みとどまっていたら、今日の状況はもっと異なっていたかもしれない。

違憲判決が出されのと同じ2010年、新たに州首相の座についたアルトゥール・マスは、当初中央政府との間で「財政自主権」に関する協定を締結しようとした(注4)。つまりバスクやナバーラで実施されているように、州による徴税権を求めたのである。しかし、ラホイ政権はこれを一蹴した(注5)。

カタルーニャでは市民の間に独立を目指す気運が高まっていく。2011年には「カタルーニャ民族会議」が組織され、ディアダ(カタルーニャのナショナルデー)で大規模な動員をかけ、独立への気運を盛り上げた(注6)。また、フランコ独裁期の1961年に設立された「オムニウム」は、カタルーニャ語やカタルーニャ文化を普及させる文化団体として発足したが、最近は独立のための様々なキャンペーンを展開している。世論調査で独立支持派は、2006年の14%から2013年には3倍以上の47%へと急増した。

このような政治・社会的雰囲気の中、マス州首相は「民族自決権(autodeterminación)」を唱え、カタルーニャの将来を自分たちで決定する住民投票の実施を呼びかけたのである。それ以降、警戒感を強める中央政府とカタルーニャ州政府は互いの主張を繰り返すばかりで、ほとんど実質的な交渉ができないまま今日に至っている。

格差拡大と緊縮政策への不満

独立問題をエスカレートさせたもう一つの要因が、2008年のリーマン・ショック後の経済危機と、それに続く緊縮政策である。銀行危機・ソブリン危機によって、それまでバブル景気を謳歌してきたスペイン経済は一気に奈落の底に突き落とされた。地中海に面し、産業が集積し、観光も盛んなカタルーニャは、経済危機の影響を強く受けた州の一つである。企業の倒産や失業者が増大し、危機の開始から2013年までに民間で567,000人分の雇用が失われた。ローン返済に行き詰まり、家を失った人も多かった。バルセロナの現市長アダ・コラウは、ローン返済に苦しむ市民を救済する市民運動の出身である。 

カタルーニャは豊かな州だと思われているが、それは一面的な見方である。確かにGDPは国全体の約19%を占め(人口比は16%)、一人当たりのGDPもマドリード、バスク、ナバーラについで四番目に高い(全国平均を越えているのは17自治州のうち7つ)(注7)。しかし、住民間の経済格差は拡大しているのだ。

カタルーニャの貧困率は、労組CC.OO.の調査機関によると、ヨーロッパ平均を上回っている。カタルーニャ人の1/4が貧困あるいは社会的排除の危機にあるとされる。バルセロナ市とその周辺地域では、中間所得層の割合が58.5%(2007)から44.3%(2013)と14.2ポイントも減少し、逆に低所得層は21.7%から41.8%へと増加した(注7)。職業別にみても、中間層を構成する小企業主、自営業者、公務員、専門的事業者の割合は40%(1985)から20%(2011)へ激減した。一見すると豊かな社会も空洞化しているのだ。こうした格差拡大は、1990年代に国民党政権と州政府(CiU)のもとで進められた税制改革に一因があるとされている。 

さらにこれに追い打ちをかけたのが、緊縮政策である。中央政府はEUやBCE(欧州中央銀行)から課された財政赤字削減のノルマを達成するために、各州政府に公共事業費のみならず医療や教育など、市民生活と直結する分野での予算削減を押しつけている。自治州の財政赤字について、一人当たり債務額が最も大きいのがカタルーニャ州(10,311ユーロ)で、国からの借り入れ額が最も大きいのもカタルーニャ州(約525億ユーロ)である(注9)。困窮した市民の不満は、州政府よりもむしろ中央政府に向けられた。

分断されるカタルーニャ社会

格差の拡大と中間層の没落は、政治の不安定化を助長する。1980~90年代、カタルーニャではCiUとカタルーニャ社会党の二つの政党が支配的であった。人々は国政選挙では社会党を、自治体や州レベル選挙ではCiUを支持してきた。しかし、21世紀に入ってから、こうした安定的な政党システムは壊れ始める。州政府を長年掌握してきたCiUは、資金不正疑惑も発覚して2015年に消滅した。カタルーニャ社会党もこの15年間で得票数を37%から12%に減らした。

票はそれまで少数派であった他の政党に流れている。一方には、内戦前から独立を掲げてきた共和主義左翼、あるいは反資本主義的立場をとる新興政党の人民連合(CUP)がある。他方、やはり新興の市民党が、カタルーニャの分離独立に反対する人々の支持を集めはじめた。統一的なスペインによる経済発展をめざす市民党は、2006年の初選挙(3.03%)から2015年には17.90%へと得票率を伸ばし、現在州議会内で野党第一党にある。今回、逡巡するラホイ首相に、自治権の制限を強く迫ったのは、他ならぬ市民党のリベラ党首である。

独立運動の盛り上がりを前に、今まで沈黙してきた独立に反対の立場の人々も声を上げ始めた。彼らはカタルーニャ人であると同時にスペイン人でもあるとして、スペインからの離反に反対する。スペインのナショナルデーである10月12日、バルセロナでは大規模なデモが行われ、カタルーニャ州旗とスペイン国旗が同時に振られた。フランコ死去後、これほど多くのスペイン国旗がこの街で翻ったことがあっただろうか。独立問題がカタルーニャ社会にもたらした亀裂は深い。

自治の停止がもたらす影響

事態は日々変化しているので、今後の展望は極めて不透明である。憲法155条は、自治州が憲法や法律によって課されている義務を果たさない場合、中央政府は自治州に義務を履行させるために必要な措置を取ることができる、と規定している。中央政府の措置は上院の過半数の支持で実行に移される。

上院は、直接選挙で選出された議員と州議会から指名された議員とから構成され、「地域代表議会」としての性格をもっている。中央政府による自治州への介入については、上院に権限がある。政府提案は過半数の支持が必要だが、国民党が過半数を確保しているので、10月27日にも承認されるだろう。プッチダモン州首相も審議への参加を呼びかけられているが、出席するかどうか不明である。

憲法155条の発動によって、今後カタルーニャの自治は大幅に制限されることになる。冒頭で指摘したように、自治政府の現閣僚は全て更迭され、行政は中央政府各省の監督下に置かれる。ラホイ首相は州議会を解散し、6カ月以内に新たな選挙を実施する。州議会は閉鎖されることはないが、中央政府は州議会のいかなる決議に対しても拒否権を持つ。また、州議会は州首相候補を立てることもできない。州警察も一時的に内務省の管轄下におかれることになるだろう。

ラホイ首相は「カタルーニャの自治は停止されるのではない。自治を危険にさらした人間を更迭するのだ」と述べた。一方、プッチダモンは155条の適用を「カタルーニャの主権を踏みにじるもの」「フランコの時代以後、自治に対する最悪の攻撃」であると反発している。上院が自治への介入を承認する前に、州首相が事態を正常化させる(独立宣言の撤回と州議会選挙の実施)ならば、155条の適用は免れるだろう。しかし、独立派は市民運動のリーダーたちが逮捕されたことで、危機感を強めている。独立派内の強硬派CUPは独立を正式に宣言するようプッチダモン州首相に圧力をかけているが、自治政府内には慎重な意見も高まっており、州首相は厳しい選択を迫られることになる。

カタルーニャはEUなどの調停を期待したが、結局EUは介入しない姿勢を崩さなかった。独立問題が民族的マイノリティを抱える他の国々(英、ベルギー、イタリア、仏など)に飛び火することはなんとしても避けたいのである。

独立問題はカタルーニャの経済にも影を落としている。住民投票実施の10月1日からすでに、1,000社を越えるカタルーニャの企業が本部をカタルーニャ外に移した。株式市場(IBEX35)も下がっている。今後カタルーニャだけでなくスペイン経済全体が打撃を受ける可能性がある。

野党第一党の社会労働党はラホイ政権への支持を与え、同時に国会で憲法改正問題を取り上げるよう要求した(注10)。しかし、独立宣言にまでこぎつけたカタルーニャ独立派が、今さら「まるで何もなかったかのように(CUP広報担当の発言)」自治の枠組みをめぐる議論に戻るとも思われない。カタルーニャでは、独立派と反独立派の双方がデモを行っており、カタルーニャ内の亀裂は深まる一方である。スペイン人の政治的共存の枠組みが壊れてしまった今、それをどう組み立て直していくのか、残念なことに、その道筋はまだ見えてこない。

(注1)この選挙は、有権者に独立への是非を問う「住民投票(plebiscitario)」としての意味合いが強かった。独立派は得票率47.8%と過半数に届かなかったので、独立へ向けて州民の信任を勝ち得たとは必ずしも言えない。

(注2)今回の住民投票の法的根拠となった「住民投票法」(2017年9月6日に州議会で可決)は、翌日ラホイ政権の訴えにより、憲法裁判所から執行差し止めが出された。

(注3)CDCの幹事長であったウリオル・プジョルは汚職スキャンダルによって、2014年州議員を辞職した。

(注4)マス前州首相は、「非合法」とされながらも、2014年11月9日の住民投票を強行した罪で、2017年3月、カタルーニャ高等裁判所から2年間の公職追放を言い渡された。

(注5)バスクとナバーラだけは「歴史的諸法」によって、税金を各州(あるいは県)が徴収できる特別な取り決めを中央政府との間で結んでいる。一方、カタルーニャを含む他の15州は共通の税制度に組み込まれ、税は国が徴収した後、交付金という形で分配されている。

(注6)運動の先頭に立ってきたカルマ・フルカデイは、現在州議会議長を務める。

(注7)INE, Contabilidad Regional de España. Base 2010. PIB regional año 2015.

(注8)エル・パイス紙(2015年10月31日)

(注9)2017年第Ⅱ四半期のデータ。https://www.datosmacro.com, ¿A quién debe cada una de las CC AA?

(注10)社会労働党が155条の適用を支持したことで、カタルーニャ社会党内では党中央の方針に反発も出ている。

 

プロフィール

八嶋由香利スペイン近現代史

東京大学総合文化研究科博士課程修了。学術博士。

専攻:スペイン近現代史。特にカタルーニャとキューバの関係史。

現在、慶応大学経済学部教授

主要業績:『近代都市バルセロナの形成 都市空間・芸術家・パトロン』(共著、山道佳子、鳥居徳敏、木下亮、慶応大学出版会、2009年)、「19世紀スペインの植民地支配と商業移住者のネットワーク―カタルーニャの「インディアーノ」ミゲル・ビアダを通して―」(『史学』第81巻第4号、2013年)

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