2018.03.27

「War Childhood Museum」の挑戦――子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」を通して

黒澤永 /「War Childhood Museum」インターンシップ生

国際 #War Childhood Museum

“かつて幾度もそうしてきたように、サラエボは今、再生という挑戦に立ち向かっている。町を包囲してにらみ続けていた邪悪な闇は、20世紀末に民主化の移行という暗雲に変わった。戦争終結への願いは、永遠の平和への願いに変わった。こうして今、サラエボは笑顔の都市となった。”

(「War Childhood Museum」館長ヤスミンコ・ハリロビッチ氏の著書『ぼくたちは戦場で育った』より)

サラエボ

みなさんは、「サラエボ」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。聞いたこともない町? 世界史で学習したサラエボ事件やユーゴスラビア紛争? もしくは、1984年サラエボオリンピックやサッカーのオシムさんかもしれない。

いまサラエボを訪れるみなさんは、たくさんの笑顔に出会うことだろう。ひとなつっこくて世話好きな人々、美味しいボスニアン料理にコーヒー、陽気に町を散歩する猫たち。子どもたちは時間を忘れてサッカーボールを追いかけ、夕方になれば家族が迎えに来て優しく抱きしめてくれる。おばあちゃんはニコッとしてその様子を見つめる。

サラエボ01

しかし、目を閉じて二十数年前のサラエボを思い描けば、こうした笑顔が当たり前ではないことに気づく。そこでは、突如として爆発音が鳴り響く。ずっと続く空腹のなか、一日パン一斤を9人で分ける。飲料水も乏しい。暗闇のなかでの生活が続く。目の前で大切な人がスナイパーに狙われ殺される。

1995年生まれの僕は、たくさんの人の「戦争の記憶」を手掛かりに、これらの様子を想像することしかできないが、それでも十分に恐ろしい。

そう、1992年~1995年のサラエボは、ユーゴスラビア紛争中に起きたボスニア・ヘルツェゴビナ戦争によって町を敵軍に包囲され、11,000人以上が殺された「戦場」だったのである。それから、26年。今私たちがサラエボで目の当たりにするたくさんの笑顔は、それを手にしたくてもできなかったたくさんの人々の上にある。

子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」

2017年1月28日、サラエボに新しい博物館がオープンした。「Muzej Ratnog Djetinjstva」である。(英語表記は「War Childhood Museum」、日本語では例として「戦場の子ども時代博物館」や「子ども戦争博物館」と訳せる。)

この博物館では、かつてボスニア・ヘルツェゴビナの戦場で子ども時代を過ごした人々から寄せられた「戦争の記憶」と、それに呼応する「対象物」を展示している。現時点で寄せられた「戦争の記憶」は約350点、「対象物」は4000点以上にのぼる。「戦争の記憶」と「対象物」の数に差があるのは、一つの記憶に複数の対象物が伴うことがあるからだ。そして、その記憶一つひとつの背景には、子どもたち一人ひとりの体験と世界観がある。

子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」に焦点が置かれた博物館は、おそらく世界で初めてだろう。「戦争の記憶」を扱う博物館は世界中にたくさんあるが、多くはまず時系列に戦争前~後の大まかな歴史や国際情勢が並べられ、個人の「戦争の記憶」に割かれるスペースは少ない。概要を掴む世界史の勉強には役に立つかもしれないが、国家や民族、宗教といったものさしで測られた単一的で排他的な「戦争の記憶」も目立つ。

では、一人ひとりの、それも子どもたちの、「戦争の記憶」に焦点を置き、展示し伝えてゆくことにはどんな力があるのだろうか?

まずは、博物館に展示された子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」をみなさんともすこし共有したい。ぜひじっくり時間をとって読んで、観てほしい。そこから感じ取れることが何かきっとあるはずである。(展示の原文はボスニア語および英語。ここでは執筆者が英語から日本語に訳したものを紹介する。なお、『』内には展示の名前、()内は所有者の名前、生年、記憶と関連する場所、が明記してある。)

1.『魔法の杖』(デニーサ、1981年、サラエボ)

戦争当時活動していた人道支援団体から、色とりどりの装飾がたくさんついた新年のちょっとしたプレゼントが配られた。この魔法の杖はそのうちの一つ。新年のお祝では、演奏会があって、子どもたちにこの魔法の杖がプレゼントされたとき、私たちは願ったの。「アブラカタブラ」を唱えたら、戦争が終わらないかなあって。

悲しいことに、戦争が終わるまで、たくさんの月日が流れた。でも私はこの杖をずっと持ち続けたの。年下の子どもたちに願い事をさせてあげるために、この魔法の杖を貸してあげたこともあったけど、「ちゃんと私に返してね」っていう約束つき。

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2.『小さなオーブン』(サニャ、1979年、サラエボ)

死を感じる。

私の弟が、飼っていたオウムにやるためのえさを取りに家を出た瞬間、スナイパーは弟の心臓のど真ん中を撃ち抜いたんです。弟はまだ10歳だっていうのに! 私たちは弟のお葬式にさえ行けませんでした。その時、私たちの世界はくずれていったんです。

生を感じる。

私の妹は戦争のさなかに生まれました。地下室で暮らしていた私たちは、空も、お日様も、そして雨も、長いこと見ていませんでした…。妹の誕生は、救いであり希望であり、死をもしのぐ生の象徴でした。

生き続ける。

この小さなオーブンは、戦場で生き続ける知恵を象徴しているんです。1993年に、私の父がサラエボで作ったこのオーブンは、圧力釜をもとにしてできています。本体を支える足は棒状の金属で、金属の開け口は砲撃で崩れ落ちた雨どいからできています。このオーブンで、豆やマカロニ、お米、レンズマメ、それからもみ殻を使ったパンを料理しました。それから、温まるための暖炉代わりに使うため、たくさんの本や新聞、床板や靴までもこのオーブンで燃やしたんです。

これらの経験が、私たちの人生を永久に変えました。

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3.『書類カバン』(マヤ、1984年、ルカヴァツ)

砲撃が激しいから、小学校二年生の時は地下室に設けられた学校に通ったのよ。私は、学校用の自分のカバンを持っていなかったから、お父さんが仕事用の書類カバンを私に貸してくれたの。私にはすぐに“秘書官”というニックネームがついて、残りの小学校生活はずっとそのニックネームで呼ばれることになった。

私に恋をしたその男の子は、私とのちに両想いになって、その子も“秘書官”って呼ばれるようになったの。一緒にいる時間がとっても多かったからね。ついにはね、その子は私の初めてのボーイフレンドになったんだ。

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4.『このリンゴたべてみる?』(リーリャン、1984年、ザヴィドヴィチ)

戦場ではものが少なかった。戦争が終わりに近づくと、ときどき、このリンゴが支給されたんだ。僕はとっても興奮して、それを見た瞬間かぶりついちゃったんだ。実際は、このリンゴはロウでできていて、もともとは鉛筆削りだっていうのにね。

リンゴに残されたぼくの歯形――戦場の子ども時代の思い出

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館長ヤスミンコさんの推測では、戦争中のサラエボには18歳未満の子どもたちが80,000人いた。現在、博物館には約350点の「戦争の記憶」が寄せられ、そのうち約50点が展示されている。みなさんと共有した子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」はほんの一握りにすぎない。

子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」に向き合ってみて抱く感情は、じつに多種多様である。読んで、観て、考えた人それぞれに異なる感じ方があるに違いない。子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」がそれぞれ異なるのと同じように。

僕は、この子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」に、次なる戦争を防ぐ力があると感じる。リアリティは、こうして「戦争の記憶」として残る子どもたち一人ひとりのこうした体験が、二十数年前に起きた、ということだ。私たちは事実を受け止め、二度と繰り返さぬよう努めなければいけない。

「War Childhood Museum」の挑戦とサラエボの笑顔

「War Childhood Museum」の挑戦の目的は、子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」を世界中の人々に読んで、そして観てもらうことで、次なる戦争を防ぐことにある。プロジェクトチームのまなざしは真剣だ。2018年2月現在、博物館の展示はすべてボスニア・ヘルツェゴビナ全土から集められたものである。博物館の挑戦はシリアおよびレバノン、ウクライナ、アメリカへと広がっている。シリア紛争下で子ども時代を過ごす子どもたちからの「戦争の記憶」と「対象物」はもうすでに集まり始めている。

残念なことに、子どもたちの「戦争の記憶」は昔話にはなっていない。レバノンにあるシリア難民キャンプから寄せられた子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」は、つい数か月前の出来事である。

シリアに置いてきた人形に瓦礫が落ちないことを願う。シリアにある自分の家のドアをもう一度開けるために、その鍵を大切に握りしめている。戦場の子ども時代は、サラエボに笑顔が増える一方でも続いている。

博物館でのインターンシップを通して、こうした事実を受け止めながら、僕も何かしなくてはと思い、執筆することにした。子どもたち一人ひとりの「戦争の記憶」を多くの方と共有することが、次なる戦争を防ぐ手段であると強く思ったからである。

これは、たくさんの犠牲を払ったサラエボの笑顔を絶やさないためでもある。

サラエボの国連オフィスに勤務し長らく平和構築に携わるクリスティナ氏はこう言う。“「戦争の記憶」は一人ひとりによって違うのだから、戦争を理解するためには、たくさんの人に会ってその声を聴かなければいけない。その先に、平和がある。”

※ヤスミンコ氏のインタビューもぜひあわせてお読みください。

『ぼくたちは戦場で育った』――子どもたちが語るボスニア紛争