2018.05.17
「非暴力」という抵抗――キング牧師の戦い
20世紀半ば、アメリカ社会における黒人の地位向上と、人々の平等を目指し活動したマーティン・ルーサー・キングJr.牧師。彼の暗殺から半世紀がたった今年、その軌跡をたどる『マーティン・ルーサー・キング――非暴力の闘士』が岩波新書から出版された。非暴力闘争による社会変革に生涯を費やしたキング牧師。その生きざまを、著者の黒﨑真氏に伺った。(聞き手・構成/増田穂)
抵抗としての非暴力
――ご著書の冒頭には、公民権運動を始めた当初、キング牧師の非暴力に対する認識は不完全だった点が述べられています。キング牧師というと、ガンディーと並び「非暴力の人」という印象が強かったので意外でした。
ええ。彼が最初に出版した著書『自由への大いなる歩み』のなかでも、大学院時代にガンディーに関する本を大量に購入して非暴力の考え方に目覚めたと書かれています。そのため、キング牧師が最初から徹底した非暴力主義者だと思っている方も多いと思います。
しかし、『自由への大いなる歩み』は、キング牧師が指導者として行ったアラバマ州モンゴメリーでのバスボイコット運動のあとに書かれたものです。想定している読者の中には白人も含まれており、多少編集が加わっているんですよ。
――非暴力主義との出会いが大学院時代であったことは間違いないようですね。
はい。黒人名門大学ハワード大学の学長がインドへの渡航歴があり、現地のガンディー主義者とも交流がありました。キング牧師は、大学院時代に彼の講演を聴いて感動し、ガンディーに関する本を買い集めたそうです。
しかし、この時点でのキング牧師の非暴力に対する認識は、非暴力と無抵抗が異なること、そして非暴力が社会変革のために大きな力になる、というものでした。後にキング牧師は非暴力を「生き方」として実践していきますが、そうした覚悟はこの時点ではありません。
転換点になったのは、モンゴメリーでのバスボイコット運動です。この運動は、バス利用における人種差別を撤廃することを求めていました。キング牧師は周囲に推薦されるかたちでこの運動の指導者になります。黒人大衆には暴力で返すのではなく、愛という武器を使おうと説きました。これはもちろん、キング牧師の信仰の核であるキリスト教的愛の概念にも起因しますが、同時に現実的考慮という側面もありました。つまり、人口が少ない黒人が暴力に訴えれば、多数派の白人に暴力でつぶされてしまうという側面です。
ですが、そうして運動を続けて二カ月近くたったころ、白人至上主義者によってキング牧師の自宅のポーチ付近が爆破されます。幸いけが人は出ませんでしたが、それを機にキング牧師は仲間の強い勧めもあり、自宅に武装警備員を配置しました。護身用に拳銃も所有していたようです。
ちょうどそのころです。数か月にわたってバスボイコット運動を非暴力的に進めるキング牧師の中に「黒人ガンディー」としての資質を感じ、北部から応援に出向いた者がいました。それが、ベイヤード・ラスティンとグレン・スマイリーです。2人はガンディー主義の熟達者でした。ところが、彼らからすると、キング牧師の非暴力への理解は不十分と言わざるを得ませんでした。とくにラスティンは、キング牧師の自宅を訪れた際、その警備の様子に驚いたといっています。
そこで、ラスティンは数日をかけてキング牧師と非暴力について話し合います。ガンディーに従う人々すべてが非暴力を生き方としていたわけではないこと、多くは戦術として受け入れたこと、それでもインドの独立は勝ち取れたこと、したがってモンゴメリーの黒人が非暴力を生き方とすることを期待しなくていいこと、しかし重要なのは、指導者はガンディーのように非暴力を生き方にしなければならないこと。もし自宅を爆破された指導者が銃で撃ち返すようなことがあれば、大衆が非暴力で行動する根拠がなくなってしまう。だから、指導者だけはかならず非暴力を生き方として実践しなければならないのだと伝えました。
もう一人のスマイリーも、キング牧師がガンディーについて理解を深めるのを助けます。キング牧師はスマイリーから何冊も本をすすめられ、それらを読みながら非暴力の哲学と戦術を深く学んでいきました。そうした経緯を経て、キング牧師は間もなくして自宅にあった銃を処分し、護衛の武装もといて、生き方としての非暴力を実践するにいたったのです。
――非暴力というと平和主義者の温厚な意思表示、というイメージだったのですが、じつは非常に戦略的な面も印象的でした。
キング牧師にとって非暴力は社会変革のためにマイノリティが取り得る唯一有効な抵抗方式でした。非暴力運動の狙いは、交渉を拒み続けてきた相手、この場合政府や白人コミュニティですが、そうした相手が争点と対峙せざるを得ない状況を作り出し、相手を交渉の場に立たせることです。事態を進展させるための非常に現実的な行動として、非暴力は存在しています。
また、理念的なレベルでいうと、キング牧師の究極的な目標である、全人類が互いを尊重し合い、ともに生きる世界を築くという点において、暴力は使えないということもあります。暴力による闘争は、基本的に一方が負けて一方が勝つという前提で行われます。結果として一時的に問題を解決するかもしれませんが、相手を抑え込んで表面的に解決した問題は、水面下ではより複雑化しています。ですから、キング牧師の最終的な目標である「全人類の和解」のためには非暴力こそが有効となるのです。
さらに、政治的な側面から考えると、市民や大衆が暴力を行使すると、国家権力により非合法として抑え込まれてしまう点もあります。社会には国家をはじめ、さまざまな集団や組織がありますが、国家(アメリカの場合は連邦政府と州政府)とそれ以外の集団や組織との間には一つの決定的違いがあります。それは、国家のみが、社会で起こる暴力に対し、それを合法とするか、非合法とするかを決める主体になれるという点です。
そして、非合法と判断した場合、国家権力は圧倒的な物理的暴力を行使できます。具体的には、軍隊や警察のことです。もちろん、国家権力による暴力行使が必ずしも道徳的正しさと一致するとは限りません。ですが、国家のみが社会で起こる暴力の合法性を判断する主体となれるという現実がある以上、市民や大衆が暴力に訴えれば、市民や大衆の側にいくら正当な大義があったとしてもつぶされることになる。マイノリティであれば、なおさらです。
――なるほど。
非暴力は日本では無抵抗と混同されがちですが、じつはそうではありません。暴力は使いませんが、非常に戦闘的です。暴力と非暴力による抵抗には共通点もあります。なによりもまず、抵抗であること。犠牲者もでます。勇気もいるし、訓練も必要です。成功する場合もあれば、失敗する場合もある。これらは両者に共通する点です。
一方で、マイノリティや市民が取りうる方法として、非暴力が有効である固有のメカニズムがあります。まずは、非暴力による抵抗は、争点をずらさないという点。暴力に対して暴力で対峙してしまうと、人々の関心は暴力に移ってしまいます。すると、争点が暴力の正当性の議論や暴力による被害などに移ってしまって、本来の争点がかすんでしまう。そうした焦点のぶれを防ぐために、非暴力は有効です。
また、非暴力では自らが苦しむことによって、自分たちの道徳的な正当性を獲得する点があります。非暴力の活動家を敵が暴力で攻撃してくれば、暴力を行使している側の道徳的正当性が崩れます。それにより、敵や周囲の人間の良心に訴える。言いかえれば、世論に訴えかけ、支援を求めるのです。メディアを通すことで、敵側が暴力をふるいにくくなるという点もあり、自衛にもつながります。さらに敵も一枚岩とは限りません。こうした動きを通じて、敵の内部に分裂がおき、その力をそぐことにもつながります。
――「世論」という非常に近代的な力を意識した戦略ですね。
そういえるかもしれません。さらに、非暴力のメリットは参加のしやすさにもあります。武装して暴力を行使する抵抗は大衆運動として成立しにくいんです。武装闘争への参加は、若い男性が中心になります。相手を殺傷する可能性があるため、道徳的に参加のハードルが高くなる。しかし、非暴力には集会や行進、座り込みやボイコットなどさまざまな方法があるので女性や高齢者でも参加しやすく、また相手を傷つける可能性も低いので道徳的に参加のハードルが低くなり、より多くの参加者を動員できます。
加えて、長期的な意味では、非暴力によって実現された社会では、暴力に訴えなくても問題解決が可能だという意識が人々の中に潜在的に残るので、より自由な社会に近づくことができます。
解放後も残る差別
――南北戦争後に黒人は解放され自由になったわけですが、人種差別はなくならず公民権運動につながりました。当時の状況はどのようなものだったのですか。
南北戦争後、奴隷制が廃止され、黒人はいったん解放されました。戦後制定されたアメリカ合衆国憲法修正14条で黒人は市民権を保障され、同修正15条では投票権を保障されます。南部は1877年くらいまで北軍の介入による再建が進み、この時期は政治や社会への黒人の参加がある程度進みました。しかし、その後北軍が撤退します。すると、南部の政治は南部の政治家が行うようになる。ここで、白人の支配が復活します。黒人をふたたび労働力の底辺に位置づけようとするのです。
白人による支配の正当化に使われたのが、性的な言説をまとう人種イデオロギーでした。これは、「白人男性は、野獣的な黒人男性から白人女性を守らなければならない」という言説です。黒人、とくに黒人男性の脅威から自分たちを守るために、白人は黒人を管理統制しなければならないという論理で、人種隔離政策が強化されていきました。
――自衛の感覚であったと。
ええ。本当は黒人こそが白人の脅威にさらされていたのですけどね。そして、黒人に対する具体的な支配の方法としては、まず法的な人種隔離制度です。制度的に人種隔離をする。1896年に連邦最高裁が下した「プレッシー判決」がそれを後押しします。プレッシー判決は南部びいきの判決で、人種分離をしてもサービスの質が同じであれば、それは単なる区別であり平等である、つまり「分離すれども平等」というものでした。判決以降、南部諸州は学校、病院、交通機関、宿泊施設、レストラン、公園などあらゆる公共施設と公共的施設で人種隔離制度を確立します。
しかし、その内実は「分離して不平等」でした。当時の状況を示す写真として、よく水飲み場の写真があげられます。これも当然黒人用と白人用とわかれています。そして、白人用の水飲み場は電動式で冷たい水が出るようになっているのですが、黒人用は普通のぬるい水しか出ない。サービスの質が同じではなく、まったくの不平等です。
あとはやはり、政治的な力を奪いましたね。アメリカでは有権者登録をしないと選挙で投票ができません。登録の際に人頭税を課したり、識字テストを課すことで、黒人の登録を妨げました。識字テストは非常に恣意的で、白人の登録官が黒人に対してのみ、わざと答えられない質問をして突っぱねていたんです。結局黒人は投票ができないので、政治的な力を行使することができませんでした。
――制度以外の部分ではどのような差別が残っていたのですか。
人種秩序を乱すような行為や言動が、暴力によって押さえ込まれました。リンチもありました。とくに南北戦争後の再建期が終わってから1920年代くらいまでは、南部では法的人種隔離制度と白人優位が不動のものとなり、黒人は人種関係において「どん底」に置かれていたといわれます。
状況が変わり始めるのは1940年代ごろです。背景の一つには国際情勢があります。アメリカが第二次世界大戦に参戦した際、黒人も従軍しました。その際、アメリカ国内の黒人活動家たちが、国に奉仕するのだから、引き換えに黒人の地位を向上するよう連邦政府に働きかけます。これにより、とくに軍事産業における雇用差別の禁止が進みます。
また、戦後は国際連合により世界人権宣言も採択され、アジアやアフリカでは自由と平等を求めて独立の機運が高まりました。自尊心を獲得した黒人帰還兵の存在も、黒人の平等意識を後押しします。なにより、ヒトラーの人種主義と戦ったアメリカが、国内に人種差別を残していていいのかという問題もありました。こうしたさまざまな要素が重なり、戦中戦後を通じて、黒人の地位向上に向けて状況が動き始めたのです。
1954年には連邦最高裁が、公教育について「分離は本質的に不平等」とする「ブラウン判決」を下します。半世紀前の「プレッシー判決」を、最高裁自らが覆したことになります。これにより、南部を支配していた「分離すれども平等」の原則は崩れました。ブラウン判決には多くの黒人が勇気を得たといいます。一方で、南部白人は当然これまでの人種秩序を維持したい。変化の兆しはあるけれども、同時に揺り戻しが起こっている。そうした緊張関係のなかから公民権運動が生まれてきました。……つづきは「αシノドス」vol.244で!⇒ https://synodos.jp/a-synodos
プロフィール
黒﨑真
1971年生まれ。2003年筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。博士(文学)。現在、神田外語大学外国語学部英米語学科教授。専門は米国史、米国黒人史。著書に『アメリカ黒人とキリスト教――葛藤の歴史とスピリチュアリティの諸相』(神田外語大学出版局、2015年)、共訳書に『アメリカのエスニシティ――人種的融和を目指す多民族国家』(明石書店、2013年)など。