2014.01.07
災害多発の時代――国境を超えて繋がる福島とフィリピンの相互支援の輪
「台風で被害を受けたフィリピンの人を同じ被災者として支援したい」
昨年11月8日に、中心気圧900ヘクトパスカル、最大瞬間風速80メートルを超えた台風30号(台風ハイエン、現地名ヨランダ)がフィリピン中部を襲った。その直後、長年フィリピンの支援活動を続けてきた福島市民を中心としたグループ「シェア・ラブ・チャリティの会」(菅野良二代表)が福島県内外で募金活動を始めた。
同会は、1996(平成8)年にフィリピン・マニラ首都圏郊外のラグナ州ビニャン町出身のコラソン紺野さんを中心に、福島県内で募金活動を展開。同町に小学校校舎を建設したほか、99年にはハノイ西60キロのハタイ県バービー郡イエンバイ村にも小学校の校舎を建設した。震災後の2012年には、福島大学の国際交流サークル「カラーズ」の学生とともに、ビニャン町を訪問し、96年に同会の支援で建設された小学校の子どもたちと交流を深めた。
「現地の人々に本当に役に立つ支援を実施したい」。現在までに同会には100万円を超す募金が集まった。今後、募金を有効に、そして確実に現地の被災者に活用してもらおうと、支援物資や支援先を決めるため、12月13日から17日、代表の菅野さんが現地調査に入った。
筆者はこの調査に同行し、甚大な被害が出た東ビサヤ地区レイテ島のレイテ州都タクロバン市(人口約22万人)と、同島西部のオルモック市(人口約19万人)、政府やNGOなどの後方支援基地になっているセブ島セブ市を視察、自分自身も被災者でありながら、ほかの被災者の支援も同時に行っている現地の人々から話を聞いた。
フィリピンでも貧しい地域が多いビサヤ地方を直撃
筆者は2008年から09年、マニラ首都圏ケソン市を拠点に約1年間フィリピンに滞在していたが、この間、ビサヤ地区を数回、調査のために訪ねている。
調査の内容は「臓器(腎臓)売買」。1990年代後半から、フィリピン国内では違法な臓器売買の問題と、それを取り締まらない政府や警察機関の問題が表面化した。2008年にはフィリピン人と外国人の間での偽装結婚による臓器売買を含め、外国人への臓器売買を禁止する法律が成立した。それでも臓器を買い上げるブローカーは、貧しい人が多いビサヤ地区の島々や小さな漁村を「臓器村」などと呼び、常に臓器を買い上げるターゲットにしていた。「外国人や資産家といった裕福な人々に臓器を売りたい」という貧困者もいて、人権擁護や人身売買の問題に取り組むNGOは臓器売買を懸念していた。
台風ヨランダは、そうした貧困層の住む一帯で特に深刻な被害を出した。国連人道問題調整事務所(UNOCHA)によると、12月18日から23日までの調べで、子ども500万人を含む1,410万人が被災し、6,069人が死亡、1,179人が行方不明になっている。特に台風の高波被害は甚大で、110万棟が破壊され、その約半分の55万棟が全壊し、家を失った410万人が避難生活を送っているという(台風の規模と被害状況はシノドス11月15日『フィリピンを襲った観測史上例を見ないほど猛烈な台風30号』 参加型地域社会開発研究所 フィリピン事務所長・織部資永氏のレポートで詳報。その後も被害は増えている)。
海岸沿いの高波被害地域は水上家屋が多かった。タクロバン南部の海岸地域では細い材木の柱でできた住まい、南部の島々ではニッパヤシの屋根に細い材木の簡単な住まいも多く、今回の台風ではひとたまりもなく吹き飛ばされてしまうという厳しい状況だった。車やトライシクル(三輪バイク)など避難のための移動手段もない、テレビやラジオ、携帯電話などの情報機器もないという人が多く、逃げる場所も手段もない人々が直撃されたのだった。
台風から1ヶ月後もがれきの山で暮らす人々
「見てください。がれきばかりで人が住んでいないように見えるでしょう。でも洗濯物があちこちに干してある。信じられないかもしれないけれど、このがれきの中で生活している人々がいるんですよ」。
セブ市で缶詰工場を経営する実業家で、タクロバンで支援活動をしているステファン・カスティーリョさんが、タクロバン市南部の海岸地区パロを案内しながら、説明してくれた。一帯は「家があった」場所も含めてがれきの山で、コンクリートの建物の1部分、あるいはコンクリートの柱や壁が残っているものの、どうみても安心して生活できるような環境ではない。
タクロバン一帯の道路は、台湾の財団によりがれき撤去が行われたという。資金を現地の住民を1日500ペソ(約1200円)で雇い、バスやジプニー(フィリピンの公共交通であるジープ型小型バス)、トライシクル、そしてトラックや大型重機が入れるように輸送経路を確保した。フィリピン政府や軍、地方行政が対処できない中、海外援助による公共事業、復旧事業として行われた。
ステファンさんとともに現地を案内してくれたタクロバンロータリークラブの前代表アンドリュー・ナンさんは「道路を確保しても、がれき処理が進んでいない。現段階ではすでに食料品は届いている。今はデング熱などの感染症予防、安全などの面から、住宅の再建が必要になっており、タクロバンロータリークラブでは、住民にトタンを配布する活動を始めた」と話してくれた。
海岸沿いに視線を伸ばすと、東ビサヤ地方最大の屋内競技場「タクロバン・コンベンションセンター」が見える。センターに寄ってみると、家を失った多くの人びとの避難所になっており、NGOなどの支援のテントもずらりと並んでいた。
現地の人の案内で、さらに海岸地域を回った。
海岸沿いの住宅のあった地域には何隻かの大型商船が打ち上げられていた。その船の間を数人の子どもたちが歩き回り、住宅になる木材を選んでいる。周辺では、使えそうな木材を使って住宅を再建しようという人々が家の再建に汗を流していた。
「子どもたちのケアのために音楽が必要」 先生方が鍵盤ハーモニカに笑顔
渡航に先立って、マニラ首都圏在住の通訳・ジャーナリストの穴田久美子さんと連絡を取り、今回の調査に同行してもらった。フィリピンの人々にとって生活の中で重要な位置を占めているのが「音楽」。それを被災して精神的にダメージを受けた子どもたちに何とか提供できないか、と。アンドリューさんや穴田さんから提案を受けた。
菅野さんは2012年、福島の小学生が学校で使わなくなったり、不要になったりした鍵盤ハーモニカを集め、福島大学のサークル「カラーズ」の学生に消毒してもらい、フィリピンの子どもたちに贈呈している。そこで、今回のタクロバン訪問では3台の鍵盤ハーモニカを持参した。また福島県いわき市に本社のあるレディス・カジュアルファッションメーカー「ハニーズ」(江尻義久社長)からも女性用の夏物衣類の提供を受け、その一部をサンプルとして持参。タクロバン市中心部にある私立学校サクリッド・スクール・タクロバンを訪ねた。
「1月中旬には学校を再開したいけれど、どれだけの子どもたちが戻ってきてくれるのか……」。学校の先生、シスター・ローサ・チャンは悲しそうに目を伏せた。台風以降、先生方は子どもたちの安否確認作業をずっと続けているが、携帯電話も通じず、停電や断水が長く続いた環境のなかで、一人ひとりの居場所や生活状況を把握するのは容易ではない。
先生方の案内で、台風の被害に遭った校舎に入った。1階の体育館は、生徒たちのいすや本棚、支援物資などの倉庫になっていた。最上階の教室に上ると、校舎の屋根は台風の強風で吹き飛ばされ、木材の柱の一部があるだけ。「校舎の被害が大きい。台湾の支援で修理することは決まっているが、物資の調達もスムーズにはいかない」とチャン先生。
学校にはプレスクール(幼稚園)から高校まで753人の園児、児童、生徒が在籍している。電気や電話、治安の良いセブ島に避難している子どももいる。今後、どれだけの子どもが戻ってくるのか。さらに3 割、約200人の子どもはこの時点でまったく連絡が取れず情報もない。この中には、台風の犠牲になった子どももいるのではないか、という。私立学校は比較的裕福な子どもたちが通っているが、公立学校は貧困地域に多く、それらの地域ではまだまだ支援が十分ではない。
菅野さんは同校に鍵盤ハーモニカを贈呈。電気を使わずに音楽が演奏できる楽器に、シスターの表情にも笑顔が輝いた。「台風の被害で家を失ったり、家族や親戚、友達をなくした子どもも多い。もうすぐクリスマス。この鍵盤ハーモニカで音楽を演奏して、子どもたちの心のケアに役立てたい」。
「何もかも足りない」 医療材料、機器不足続く医療センター
続いて、タクロバン市で唯一開院している東ビサヤ地区医療センターを訪ねた。
医師、看護師らが常駐し、ER(救急救命室)を備えた病院だが、実際に訪ねてみると、電力も水も、医療スタッフもまだまだ不足していた。
「スタッフが献身的な努力をしてくれているなかで、1日でも早く仕事をスタートさせたい」。正式には明日から院長になるという新院長のアントニオ・パラディラさんが院内を案内してくれた。
廊下にはマットレスもない金属製のベッドが並び、その上で男性が横たわっていた。
低出生体重児や臓器に障害を持って生まれた新生児の病室では、ほとんど医師や看護師が顔を見せない。医療従事者が不足しているのだ。新生児は2人で1つのベッドを共有していた。気温30度のなかで窓と入口ドアが開け放たれており、エアコンもついていない。子どもたちの祖父母や両親、兄弟姉妹たちが代わる代わるうちわであおいでいる。目を閉じてぐったりした子どもも多く、心配そうに家族が見守る。
今回、この病院を訪問したのは、マニラの病院の産婦人科医らを中心に11月から、東ビサヤ地区医療センターが支援の受け皿となって、タクロバンの新生児に「ミルク・バンク(母乳バンク)」の支援活動を始めたからだった。穴田さんもこの活動に協力しており、シェア・ラブ・チャリティの会でも、福島で集まった募金をこのミルク・バンク活動に役立てることを検討している。
ミルク・バンクは、日本ではあまりなじみがないが、出産直後の母親が、我が子に飲ませる最初のお乳(初乳)の一部をほかの新生児のために提供するというもの。初乳には多くの免疫抗体が含まれており、この初乳を飲めた子どもたちは病気のリスクが下がったり、栄養失調の対策にもなるという。災害によるショックや病気など、出産直後の母親が生まれたばかりの我が子に初乳をあげられない場合に備えて、ほかの母親が協力して初乳を提供するというこのユニークな支援事業は、欧米や途上国では新生児医療などの一環として展開されている。フィリピンではマニラの病院を中心に2008年からスタートしており、日本でも昨年、昭和大学病院(東京都品川区)で始まった。
ところが、実際に病院を訪問すると、院長のパラディラさんから出てきた言葉は、さらに深刻な現状だった。
「とにかく、医師も看護師も、機材も、何もかもが足りない。どんな支援が必要かと聞かれたら、何もかもが足りないというしかない」。新生児の体重計も1台だけ。病院では、津波被害にあったスリランカの医師らによる医療チームや、アメリカのボランティアの医師らが医療支援活動をしていた。
「隣のビルまで水が来ているのに、この病院には届いていない。病院内の掃除もままならない状態で、これが続くと、衛生面も含めて深刻な状態になる」とパラディラさんは危機感を募らせた。
このため、シェア・ラブ・チャリティの会ではこの時、タクロバンロータリークラブを通じて、緊急の医療機器を購入し、病院に寄贈する手配に入った。ミルク・バンクの活動も含め、病院への医療支援を継続することとした。
「日本ではどうやって埋葬したのか教えて」 区長が涙の訴え
「津波の被害のあった福島では、どうやって遺体を埋葬したのか、それを教えて欲しい」
津波の被害が特に深刻だったタクロバン南部のバランガイ(行政の最小単位=区)サンホアキン地区を尋ねると、バランガイ・キャプテン(区長)のパポス・ランタホさんが涙ながらに訴えた。
海外の支援で、地区の中心部にある教会の前に、白いテントが区役所として建つ。そして台風で残った大きなキリスト像がある。左手首から先が折れているが、すっくと立っている。キリスト像に守られるように、その周辺に無数の十字架が並ぶ。家族や友人らが、亡き人々のために手作りの墓地や墓標を整えている。
「この地域だけでも分かっているだけで、幼い子どもが200人以上亡くなっている。埋葬されているのは、ごく一部で、大半が別の場所に放置されたような状態になっている。重機もなく、それぞれの家族が穴を掘って埋葬しているが、穴が浅く、雨が降ると盛った土が流されて遺体の一部が出てきてしまう。それを残された子どもたちや家族が見て、本当に心を痛めている」。そう話すランタホさんも津波で実父をなくした。両目からハラハラと涙がこぼれた。
「政府も軍も何もしてくれない。日本では津波の後にどうしたんですか。この状態で、どうやったらいいのですか」。訪れた私たちはなんとかランタホさんを励まそうとしたが、実際には言葉もなかなか出てこない。「福島でも今、震災からどのように立ち直るか取り組んでいるところです」と話すことしかできなかった。
福島のフィリピン人コミュニティ「ハワク・カマイ・福島」が福島とフィリピン両方の支援を開始
「南相馬市で仮設住宅を送る高齢の方から、『新聞で活動を知りました。自分たちも被災者で同じ体験をしているので、フィリピンの被災者をぜひ応援したい』という連絡をもらった時には、本当に感動しました」。そう話すのは、東日本大震災から1ヶ月後の2011年4月に、福島在住のフィリピン人による福島の被災者支援のために活動を開始したグループ「ハワク・カマイ・福島」(手をつなごう福島)を立ち上げた前代表の後藤キャサリンさん(福島市在住25年、フィリピン・ルソン島バタンガス州出身)。
震災後から現在も引き続き、福島県内の仮設住宅を回って、炊き出しや歌や踊りの慰問活動などを続けている。その中で、仮設住宅で生活するフィリピン人や外国人と、周囲の日本人とのコミュニケーションの支援も行ってきた。現在は福島市内だけで33人、県内全域で85人がメンバーとして、福島とフィリピンの両地区の被災者の支援を展開している。
台風ヨランダの発生直後、古着を集めたり、募金活動も開始。昨年末のクリスマス休暇には支援物資を持って帰国し、被災者に渡したほか、目標50万円で、被災地でも特に支援が入っていない島々に仮設住宅を建設したいという。シェア・ラブ・チャリティの会の菅野さん、コラソン紺野さんが計画するチャリティコンサートへの協力も予定しており、各団体が繋がり合ってさらに支援の輪を広げる計画だ。
現在、シェア・ラブ・チャリティの会と、ハワク・カマイ・福島では、引き続きタクロバン支援のため、募金活動と支援物資(夏物衣類、鍵盤ハーモニカなど)を受け付けている。連絡先はシェア・ラブ・チャリティの会菅野代表(090-3647-8570、フェイスブックhttps://www.facebook.com/shealove.phl )、ハワク・カマイ・福島は後藤さん(090-8257-0523)。
プロフィール
藍原寛子
福島県福島市生まれ。福島民友新聞社で取材記者兼デスクをした後、国会議員公設秘書を経て、フリーランスのジャーナリスト。マイアミ大メディカルスクール、フィリピン大、アテネオ・デ・マニラ大の客員研究員、東大医療政策人材養成講座4期生。フルブライター、日本財団Asian Public Intellecture。