2011.01.27
日系アメリカ人の強制収容所問題と朝鮮学校の無償化除外問題の相似について
先ごろ、ツイッターにて『アンネの日記』の知名度が低いというテーマでタイムラインが賑わっていたのですが、そこから派生した「日系アメリカ人に対する迫害の歴史」という別の話題が面白かった。きっかけになったツイートは、こちら。
yu_ichikawa:あと意外に知らない世界の歴史★日系人はアメリカでめちゃめちゃ差別されていた! 奴隷制度&ナチスのホロコーストと並び、日系人を戦争中、強制収容所にいれたことはアメリカ人が考える「歴史3大反省ポイント」。原爆とかではなく、日系人キャンプ。しかし、日本でこのネタ意外と知られてなくない?
[http://twitter.com/yu_ichikawa/status/3249265287626752]
なるほど、1980年代以降は、たしかに日系人の強制収容所が北米における戦後補償(リドレス)の中心的テーマだったといえるかもしれません。
1942年2月、「敵性外国人」の隔離を許可する大統領令によって、約12万人の日系アメリカ人が内陸部へと強制移住させられ、その多くは強制収容所に抑留されました。敵性外国人といっても、移住対象とされた日系人の6割以上がアメリカ生まれの国籍保持者であり、当初から憲法上の疑義が指摘されていました。
この問題へのリドレス(歴史的不正への謝罪と補償)が注目されるようになったのは、1978年に日系アメリカ人市民協会が大々的に運動をはじめてからのことです。戦時中の出来事を糾弾する運動にしては、時期が遅いと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、ひとたび「敵性市民」とされてしまえば、名誉回復に必要な条件(偏見の払拭、運動資源の貯蓄、有力な運動家の育成など)が整備されるまでに、とても多くの時間がかかるものです。
ただし、いざ運動を興してからの動きは早かった。1980年、連邦議会に専門の調査委員会が設置されます。83年、同委員会が「人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった」と結論づけ、連邦議会に謝罪と補償を勧告します。そして紆余曲折を経ながらも、88年には「市民の自由法」制定という形で運動が成就するのです。同法は、日系アメリカ人市民協会の要求をほぼ丸呑みする大胆な内容で、(1)連邦議会による公式謝罪、(2)拘留に抵抗したことへの有罪判決の大統領恩赦、(3)戦時の差別により剥奪された地位や資格の原状回復、(4)強制収容に関する教育を全米の学校で行うための総額12億5千万ドルの教育基金設立、(5)強制収容の生存者(現在の国籍を問わず)一人当たり2万ドルの金銭的賠償、が実施されることになったのです。
機が熟して運動が政治化するまでの期間が長かったとはいえ、わずか10年でこの劇的な成果をあげたわけです。この問題が1980年代の北米でいかに不正義に対する義憤をかきたてたか、容易に推察することができるでしょう。
ただ、この問題は、戦時ヒステリーの危険性や、尊厳の回復方法など、北米の政治状況に限定されない普遍的なテーマについてもさまざまな教訓を与えてくれます。現代の日本に暮らすわれわれにとっても、参考になるところが多いといえるのではないでしょうか。
私としては、今日的文脈から、特に以下の4点に注目しています。今日的文脈とは、日本政府が朝鮮学校に対して無償化適用除外を長期にわたって公式に検討している現状との比較において、という意味です。
(a)母国のイメージが民族的マイノリティの扱いに影響を与えたこと。
(b)レイシズムと流言が、法的にも軍事的にも妥当性を欠く政治的意思決定を後押ししたこと。
(c)マスメディアが前項の重要な手段となったこと。
(d)ようするに、民族浄化であったこと。
以下、この順に、現在の在日コリアンが置かれた状況との異同を考察してみることにしましょう。
(a)母国のイメージが民族的マイノリティの扱いに影響を与えたこと。
移民研究の中には、「出身国のイメージが改善したり劣化したりすることで、移民に対する周囲の処遇が変わった」という報告が非常にたくさんあります。最近の日本でも、日中関係の悪化にともない、中国からの旅行者に集団で嫌がらせをする事件が起こったりしましたし、直感的にもわかりやすい話ではないでしょうか。
しかし、旅行者ならまだしも、移民にとってみれば、異郷の地で生き延びることに精一杯なのに、自分が関与することのできない母国のイメージしだいで、人権状況が改善したり悪化したりするというのは、ずいぶん理不尽な話です。
例えば、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのですから、それも当然でしょう。
しかも、当時はまだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとしたふしがあります。つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したり。
とはいえ、現在の日本でも、憎悪の対象が韓国から北朝鮮に変わっただけで、1950年代当時とずいぶんよく似た構図が観察されます。
外国人に対する日本人の好悪感情を測定した各種の調査によると、戦後は一貫して北朝鮮への感情が最悪に近い位置で推移してきました。ただでさえ否定的な感情の強いところに、1994年の核開発疑惑、98年の「ミサイル」発射実験、2002年の拉致問題といった出来事が起こったわけですから、日本における北朝鮮イメージは、ますます悪化の一途をたどっています。
また、日本政府としては相手国と正式な国交がないこともあり、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点も、1950年代と共通しています。朝鮮学校のみを無償化の対象から除外するよう検討している問題は、その代表格といえます。
(b)レイシズムと流言が、法的にも軍事的にも妥当性を欠く政治的意思決定を後押ししたこと。
北米では19世紀末から黄禍論に代表されるアジア系移民に対するレイシズムが強まり、さまざまな差別が半世紀にわたって常態化していました。そこに、宣戦布告を欠いた奇襲から太平洋戦争が始まったわけです。「日本は何をするかわからない不気味な国だ」という偏見交じりの敵対感情が強制収容の背景にありました。
また、潜水艦でやってきた日本軍がアメリカ本土に上陸するのではないかという恐怖は、さまざまな流言を生み出しました。「太平洋沿岸の日系人漁民が日本軍上陸の手引きをしているところを見た」とか、「日本軍上陸後は日系人がスパイとして誘導する手はずになっている暗号文を解読した」といった内容のものです。
その結果、レイシズムに起因する日系人隔離論は、あたかも軍事的合理性を持った政策であるかのように語られていったのです。なお、日系人の強制収容に軍事的合理性は一切なかったと証明できたことが、「1988年市民の自由法」を制定するための決定打になったそうです。
一方、朝鮮学校の無償化除外はどうでしょうか。朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策です。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のです。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることでとうに除外で決着が付いているでしょう。
また、外交的観点からも、無償化除外は合理的でありません。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになり、日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねません。また、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕もありました。
つまり、朝鮮学校を無償化から除外するというのは、法的にも外交的にも、妥当性はないのです。そこに議論の余地はありません。問題はむしろ、妥当性がないにもかかわらず、世論調査では半数ほどの方が朝鮮学校を無償化から除外することを支持しているのはなぜなのか、ということです。
理由はいくつも考えられますが、その中に、北朝鮮や在日朝鮮人に対するレイシズムと流言が含まれているとしても、私には不思議ではありません。ネットをごく簡単に検索するだけで、以下のような文章が見つかるはずです。
(1)日本の私立高校は完全な無償化にはならないのに、朝鮮学校だけ無償化するなどおかしな話だ。
(2)他の外国人学校は無償化の対象ではないのに、朝鮮学校だけなぜ無償化するのだ。
(3)朝鮮学校は閉鎖的な環境で反日教育を行っている。ちゃんと情報公開して相互理解の努力をしてくれないと、予算の支出は支持できない。
(4)反日教育でテロリストを育成している学校になぜ日本人の血税を支出するのだ。
(5)ここまでして朝鮮学校に私達の税金を投入したいという心理が分からない。利権が絡んでいるのか。
(6) 北朝鮮の国益に直結する心配がある。
いずれも、事実に反する粗雑な主張です。順に反論していくと、(1)もちろん「無償化」は単なるレトリックであり、一般の私立高校と同じく、公立高校の授業料相当が支給されます。(2)他の外国人学校は、すでに無償化の対象となっており、朝鮮学校だけが支給を留保されている状態です。(3)朝鮮学校は常時、授業参観を歓迎しており、日本国内のどの学校よりも開放的だといえます。また、政府の公式な調査チームが視察に臨んだにもかかわらず、「反日教育」と呼べるような教育実態はみられませんでした。(4)朝鮮学校出身のテロリストなど、過去半世紀の間に一人として登場していません。(5)在日コリアンも納税しているという当然の事実が視野から脱落しています。(6)朝鮮学校は恒常的な赤字経営で、教員の給料すら滞りがちな状態。北朝鮮に送金するなど完全なファンタジーです。
中には(1)(2)のように単純な誤解もありますが、あまりにも基本的な誤解が容易に修正されることなく放置されている状態そのものが、朝鮮学校の置かれた過酷な状況を示唆するものといえるでしょう。(3)は朝鮮学校について情報を知らないにもかかわらず閉鎖的で反日的だと思い込んでいるわけですから、偏見以外の何ものでもありません。そして、そういう状況の中で、(4)から(6)のように意図的に作り出されたとしか思えないデマも流布しているわけです。誤解と偏見とデマ――今の朝鮮学校を取り巻くものは、そう要約できそうです。
(c)マスメディアが前項の重要な手段となったこと。
戦時中は情報戦の一環として、対戦国への憎悪を煽り、偏見を強めるような宣伝が行われることが少なくありません。大戦中、日本で「鬼畜米英」と題したカリカチュアや、人種憎悪をあおるような記事が新聞に掲載されたように、北米でも日本人を揶揄するためにずいぶんレイシズムの濃厚な表象が用いられました。
それ自体は戦時の現象として広く観察されることですが、そのことを指摘したからといって、居住国でレイシズムにさらされる移民の苦難はいささかも和らぐものではないでしょう。なぜなら、煽り立てられたレイシズムは、対戦国への戦意高揚に昇華するだけでなく、国内に居住する移民への敵意やヘイトクライムにも転化するものだからです。
マスメディアがレイシズムを煽り立てるのは、なにも戦時中にのみ見られる現象ではありません。20世紀初頭のアメリカでは、新聞王ハースト系のメディアが中心となって、激しい日系人排斥キャンペーンが繰り広げられたことはよく知られています。また、1950年代における日本の状況についても、前述した通りです。2002年以降の北朝鮮報道も、その一つ。そして、朝鮮学校への無償化除外に関する報道にも同じことがいえます。
ここでは、やや長くなりますが、無償化除外問題についてツイッターで積極的に発言しておられる方のブログから関連部分を引用したいと思います。(Scrap-Laboratory 「徹底的な『他者』へのまなざし―朝鮮学校への無償化適用を巡る顛末に思う」より)
けれどもっと重い責任を指摘されるべきなのは、言うまでもなく朝日・読売・毎日をはじめとする「本物の」全国紙だ(産経とか所詮全国紙まがいですから)。あいつらの論調は軒並み糞でしかなかった。もちろん朝日も読売も毎日も、当初から「原則として」無償化の適用に賛成という立場を取っていた。
その無償化適用に「原則賛成」というロジックこそが糞だった。どいつもこいつも朝鮮学校の教育や政治的立ち位置に(それこそ産経と変わらないレベルの)罵倒を散々投げつけた上で、「まあ教育の権利という点から言えば、朝鮮学校も無償化するのが筋であろう」と恩着せがましく付け加える社説の数々。実にクソ極まりない。朝毎読(ついでに日経)のどれ一つとして、朝鮮学校への無償化適用が法案の趣旨からも当然であれば「国際条約に照らしても」適用されるべきであることを正面切って論じなかった。今思い出しても反吐が出る。
確認しておきたいが、これら全国紙の中でただの一つでも「そもそも朝鮮学校を無償化から除外するという論理こそが常識外れのあり得ない差別なんだよ」ということを堂々と言ったか?否だ、もちろん否だ。最低でも朝日と毎日は(連中がリベラルという面の皮を被るなら)信濃毎日新聞の社説(http://bit.ly/bCEwea)くらいのことは即座に表明するべきだった。中井の妄言が報道された瞬間に、朝日と毎日はその程度の正論は言うべきだったし、その上で朝鮮学校側は、「私たちはこれまで日本社会に自分たちを知ってもらうための努力をたくさんしてきています」と返す。最低でもそこら辺がスタートラインになるべきだった。
表現は攻撃的ですが、記述されている内容自体はきわめて妥当なものだと、私には思われます。
全国紙がまるで示し合わせたかのように、朝鮮学校を無償化対象に含むには条件が必要だと主張している。そんな状況下で、朝鮮学校にのみ教育内容に注文をつけるなど、法的には許されないことだという事実に気づくリテラシーのある読者は、いったいどれだけいるでしょうか。
それどころか、朝鮮学校は、特別に注文をつけられても仕方がないような、問題の多い劣悪な教育機関だという偏見を植えつけられる人も、少なくないような気がしませんか。
(d)ようするに、民族浄化であったこと。
民族浄化といえば、内戦中の旧ユーゴスラビアにみられたように、異民族の大量虐殺を指示する用語だと思っている人も多いでしょう。しかし、比較的意味が狭いとされている国連の定義でも、「特定の領土に民族的単一性をもたらすため、その領土から計画的、意図的に特定の民族を暴力や恫喝によって排除すること」となっています。虐殺に至らずとも、大量の強制移住があれば、それは民族浄化なのですね。
ただ、国連の定義は二つの意味で、いささか範囲が狭すぎると私は考えています。一つは、「民族的単一性をもたらすため」という要件が厳格すぎて取りこぼしてしまう事例があること。もうひとつは、「排除すること」という行為に関する要件が厳格すぎて、潜在的な民族浄化を取りこぼしてしまうこと、です。
前者の要件によって取りこぼされてしまう事例の一つが、日系人の強制移住・強制収容です。アメリカは多民族国家であるため、たとえ強制移住が行われても、「民族的単一性をもたらすため」という定義に合わないのですね。しかし、中国人労働者は1882年にはアメリカ入国を禁じられていましたので、 1942年当時に日系人を排斥したということは、すなわち、アジア人を排斥したということと同義だったのです。一つの人種を地域から消し去った政策を、民族浄化以外の言葉でどう呼べばいいのか、私にはわかりません。
一方、後者の要件はどうか。私は、物理的には排除されなくとも、「完全に無色無臭に同化して《見えない存在》になってしまわないかぎり徹底的にいじめるぞ」とか、「見えないところに消えてしまえ」とか、「この地に異物として存在することを許さない」といったメッセージを恒常的に受忍させられる状態は、やはり民族浄化としか呼べないだろうと考えています。朝鮮籍の在日コリアンは、その典型事例です。
朝鮮学校とその関係者は、内閣からの発言やマスメディアの報道を通じて、日本社会は朝鮮学校の存在自体を罪悪視しているというメタメッセージを受忍し続けています。朝鮮人になるための教育機関は、その存在自体が許されるべきでないという暗黙の意思を常に感得させられ続けています。これは、やはり民族浄化としか呼びようがない事態ではないでしょうか。
さて、ここまで4つの論点に沿って、北米における日系人の強制収容問題と、朝鮮学校の無償化除外問題の異同について考察してきました。時代状況の違いはあっても、国家的利益を優先し、民族的マイノリティの人権を抑圧する政策という点では共通していることを論じたつもりです。
ただ、最後に一つ、両者の大きな相違点を挙げておかなければならないでしょう。それは、北米ではこの問題がリドレスの対象となり、許されない歴史的不正義だったという共通理解が成立しているのに対して、朝鮮学校問題は毎年のように国連から改善要求を受けている、現在進行形の人権侵害問題だということです。
プロフィール
金明秀
関西学院大学社会学部教授。専門は計量社会学。テーマはナショナリズム、エスニシティ、階層など。1968年生まれ。九州大学文学部哲学科(社会学専攻)卒業。大阪大学人間科学研究科博士課程修了。京都光華女子大学准教授を経て現職。著書に『在日韓国人青年の生活と意識』(東京大学出版会)、他がある。在日コリアンについてのウェブサイト「ハン・ワールド」を主催。