2022.03.29
ウクライナ紛争に対してわれわれにできることは何か? ――アナーキーな国際社会における戦略と価値
はじめに
2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻した。このことに、多くの日本人が驚きと恐怖を覚えたように思われる。同時に、この紛争の原因をめぐって、プーチン大統領の健康状態や精神状態に関して真偽不明の言説が流布しているが、筆者はこのような状況を少なからず危惧している。われわれの論理で理解困難なことを手っ取り早く理解し安堵するために、「プーチン大統領の精神状態に異常があるからこの紛争は起こったのだ」と、真偽不明な情報をもとに結論づけるのは拙速である。
また、仮にプーチン大統領の精神状態に何かしらの問題があったとしても、われわれ日本の市民にはどうすることもできない。では、ルールこそあれ、それを破ったものを明確に罰したり制したりする手立てのないアナーキーな国際社会において、いまわれわれはどうするべきか。このことを考えるための一つの提言として、「この事態に際し、われわれにできることはなにか」という問いをたて、戦略と価値の両面から考察したい。
プーチン大統領の健康状態と紛争の原因
ウクライナ侵攻以来、プーチン大統領の健康不安説が取り沙汰されている。精神状態が正常ではないのではないか、右腕を振らず左腕を大きく振る動作は脳卒中等の症状なのではないか、などである。もちろん、独裁者の健康状態というのは、西側をはじめあらゆる国家の最大の関心事の一つである。「独裁者は自身の死期を悟った際に、予測不能な行動をとる可能性がある」と外交の世界ではよく言われるが、そのような言説も理由のひとつである(1)。
2012年前後、筆者が在ジョージア(旧グルジア)日本国大使館で勤務していた際にも、プーチン大統領の健康状態は西側の大きな関心事の一つであった。たしかにそのときは、プーチン大統領は演壇に腕をつかなければまっすぐ立つことができず、背中に何らかの異常を抱えているように見えた。当時、筆者の知る西側の特務機関職員も、プーチン大統領の健康状態に関連する情報を収集していた。
一方、このプーチン大統領の特異な歩き方に関しては、2015年時点で一定の答え(仮説)が出ている。欧州の医師らが分析した結果、プーチン大統領の特有な歩き方は健康状態の問題ではなく、銃を素早く抜くための所作であるという仮説である(2)。これは、KGBでも軍出身でもないメドベージェフ大統領も類似の歩き方をしており、ロシア政府高官は、このようなトレーニングを受けているのであろうという考えに基づいている。プーチン大統領以外のロシア政府高官も同様の歩き方をする点、そして、欧州の医師らによる仮説が英国の著名な医学ジャーナルBMJに査読付きで掲載されている点などを総合的に判断すると、情報の確度は低くはないと思われる。
プーチン大統領やクレムリンの論理が理解困難だからといって、健康状態が悪く精神状態が異常であるから侵攻したのだ、というように、曖昧な情報にもとづき結論づけて理解しようとするのは拙速である。さらに言えば、そうした理解の仕方は危険な態度のように思われる。
経済制裁とクレムリンの世界観
西側の経済制裁は、中・長期的には、クレムリンに対して効いてくるであろう。しかし、2016年、筆者はモスクワである教授から、2014年のクリミア併合と西側の制裁の評価について聞いたことがある。彼女は欧州や米国ともつながりをもち、リベラルな思想の持ち主と定評のある人物だ。
彼女の見解は、「ソ連崩壊前後に極度の貧困を経験したわれわれにとって、(西側の経済制裁による)数%のGDPマイナス成長など大きな問題ではない。自身はプーチン大統領のクリミア併合を支持する」というものであった。この意見はクレムリンの考えを一定程度、代弁しているように思われる。これはつまり、クレムリンは経済も重視してはいるが、国家主権や領土に対して非常に強い執着を持っている、ということである。
また、ソ連崩壊後の混乱を一定程度落ち着かせ、いまのロシアを形づくったプーチンを支持する者が、ロシア国内には一定数いることも事実である。自らの生活をかなりの程度犠牲にしてでも、指導者の進める侵攻を支持し、科される経済制裁の影響に耐え抜くことをよしとするこの論理は、日本や西側の人々にはなかなか理解されづらいだろう。
また、クレムリンは国際法遵守の意識が必ずしも高くはなく、世界をウィンウィン(win-win)ではなく、ゼロサム・ゲームとして見ている部分がある。今般のウクライナ紛争で改めてわれわれに突きつけられた課題は、国際社会には警察のような法執行機関が無く、ルールこそあれ、それを破ったものを罰したり、止める明確な手立てのないアナーキーな世界であるという現実である。
われわれにできることとできないこと
では、こうしたアナーキーな国際社会で生じた紛争の真っ只中で、われわれはどのような対応を取ればいいのだろうか。いまわれわれにとって重要な態度は、まず確度の高い情報に触れる努力をするということである。誰が書いたか分からないブログやSNSの記事を鵜吞みにせず、信頼できると考えうる情報源、たとえば世界的に権威ある大学、シンクタンク、通信社の文責が明記されている記事、インパクトファクターの高いジャーナルの査読付きや被引用件数の多い論文などからの情報収集が望ましいだろう。上述の医学ジャーナルBMJもその一例である。
二番目に、自分たちにはどうすることもできないこと、変化させることのできないことは一旦わきに置き、自分たちにできること、変化させられることに対象を限定すべきである。つまり、プーチン大統領の精神状態がどうであれ、その点についてはわれわれにはどうすることもできない。したがってわれわれにとってプーチン大統領の精神状態の問題は、一旦わきにおくべき課題である。
三番目に、プーチン大統領の言動を歴史的文脈に照らして理解するよう努めることである。NATOの東方拡大、「色の革命」と呼ばれる旧ソ連圏での民主化のうねり、そして2008年ジョージア紛争からの歴史的文脈などを理解することで、今回の紛争に関し、理解可能な部分もでてくるのではなかろうか。パブリック・リーダーシップ論では、リーダーの言動を意図、手段、結果の三つに分け分析を行う手法がある(3)。たとえばこの手法を手掛かりに、プーチン大統領の言動を細分化し考察することで、彼の言動を理解できる部分もあるのではないだろうか。
少なくともプーチン大統領の意図(ジョージア紛争と同様に非承認国家を樹立することで、ウクライナのNATO加盟を阻止し、ウクライナを西側との緩衝地帯とすること、そして親ロシア派の政権をキエフに樹立し、ロシアの影響力を維持することなど)、手段(軍事侵攻)、結果(市民の犠牲、第三次世界大戦の可能性など)を細分化してそれぞれを考察し、それらの関連性などにつき議論することで、日々変わる状況を一定程度、把握することができるだろう。
そのうえで最後に大切なのは、その議論したことを基礎に、日本政府へ働きかけを行うことである。われわれ日本の市民は、超大国アメリカのバイデン大統領の意思決定に直接介入することは基本的には不可能であるし、ロシア政府に対しても同じである。一方、日本の有権者であるわれわれは、自国の政府への直接的な働きかけは可能である。
そして、いま日本ができることは、国際人道法上も明確に禁じられている市民への攻撃、市民への影響を最小化することであり、同時に、権威主義体制の国々に誤ったシグナルを送らないことである。このような事態を起こしても国際社会は見過ごすのだ、という誤ったメッセージを権威主義体制の国々に送ることになれば、事態は悪化する。これはわれわれが信奉する自由と民主主義の価値の問題である。
また、日本は殺傷能力のある兵器をウクライナに送ることはできず、そのような形で今般の紛争のウクライナ市民への影響を極小化するという貢献はできない。一方、国際機関、たとえば赤十字国際委員会(ICRC)や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などに、日本政府がわれわれの血税を拠出する際に、組織全体への予算貢献ではなく、イヤマークといって、特定の国の特定のプロジェクトに支出するよう条件をつけることもできる。そのような運びになるよう、日本政府に注文を付けることも、われわれ市民ができることの一つではなかろうか。
2022年3月10日、米国は、約1.5兆円規模のウクライナ支援パッケージを提示した(4)。日本にこの規模の支援は困難であるが、2008年ジョージア紛争後にブリュッセルで行われた支援国会合で、日本はプレッジ額約200億円と、米、EUに次ぐ規模の支援を提示することで、ジョージアへの支援と西側との連帯を示した。また、先日、ウクライナに対する日本からの義援金が20億円を突破したという報に触れたが、市民社会の横の連帯もわれわれが実行可能な行動の一つである。
アナーキーな国際社会における日本にとっての重要な戦略と価値
日本は、今般の紛争の当事者ではないとして、あるいはロシアにも言い分があるとして、侵攻に直面するウクライナを結果として切り捨てるかのような言説も見られる。だが戦略的には、日本にとって国内問題、国際問題の双方が等しく重要である。これは島国日本が国際社会でサバイバルしていく上で自明の理である。
天然資源や小麦等の食糧の多くを輸入に頼っている日本は、米国などとは違い、国内だけで需要と供給を完結させることは不可能である。よって、西側諸国と足並みをそろえつつ、アナーキーな国際社会で、時には狡猾にサバイバルしていくしかないのである。したがって、ウクライナ問題解決に対して、法的、政治的に可能な範囲で積極的に貢献し、西側と連帯していくことは、必ずしもウクライナのためだけではなく、翻って日本のためなのである。
次に、価値の問題がある。「困ったときはお互い様」と言えば、多くの人が理解できるであろう。国家を中心とした世界観を少し越えて、困っている無辜の市民が国内外にいるのであれば、助けになりたいと思うのも人間の自然な感情であろうし、そのような社会を実現するための自由と民主主義という価値を守っていくことが重要であろう。
2011年3月11日の東日本大震災発生時、筆者は前述の通り、在ジョージアの日本国大使館で勤務していた。その際、地方からボロボロのソ連製の乗り合いバスで、乗客で一杯になりながら、多くのジョージア人が日本国大使館まで弔問に訪れた。地方在住のジョージア人の暮らしは決して豊かではない。それにも拘わらず、多くの人が募金をし、住所を書き残していった。
筆者が「住所は結構ですよ」と言うと、先方は泣きながら、「日本の人々が放射能の影響で日本に住めなくなったら、ジョージアのわたしの家まで来ればいい」と言い残して去っていった。当時、日本は国際社会から有形、無形の大きな支援をいただいた。やはり、「困ったときはお互い様」、そしてそのような社会を実現するための自由と民主主義は、重要な価値であろう。
第二次世界大戦後、西側による日本の復興支援は、戦略と価値の両面があったと思われる。ナチス・ドイツの勃興は、第一次世界大戦後にドイツに対して膨大な賠償を科したことによる失敗という反省。つまり日本がナチスのようにならないよう支援するという戦略的な側面である。
そして、価値の側面としては、リベラルな国際秩序構築の一端として、自由と民主主義を日本にも波及させるという点である。そのような国際社会の戦略と価値の両面に基づく支援もあって、日本は戦後、復興していったのであり、決して日本人のみで現在の経済的繁栄を手に入れたわけではないことをわれわれは忘れてはならない。
いま日本ができることは、ウクライナを支援する国々との連帯を示し、日本が戦後、築き上げてきた平和国家としての矜持と価値を世界に示すことである。日本は、安全保障上も経済上も、現在の国際秩序から恩恵を受けるだけのフリー・ライダーではなく、国際社会の構成要員としての自覚を持ち、国際秩序の構築と維持のために積極的に貢献するという覚悟が必要であろう。この貢献は、戦略的な側面、そして価値の側面の両方から行われることが肝要である。
おわりに
コロナ禍では、権威主義体制の迅速な対応がもてはやされるような風潮も見られた。一方、今般のウクライナ紛争で、権威主義体制の危険性を再認識された方も少なくなかったのではないか。アクトン卿の言うとおり、「絶対的な権力は絶対に腐敗する」のである。
クレムリンへの制裁とウクライナへの支援を行うことは、短期的な経済利益を追求するよりも、われわれにとって重要な価値は何であり、受け入れられないことは何かを世界に対して明確に示すこととなる。このことを通じ、権威主義体制の国々に対してもわれわれが信奉する価値を発信し、正しいシグナルを送ることとなろう。これが、ひいては日本のためとなるであろうし、自由と民主主義の擁護という価値の側面においても、いまわれわれにできる重要な活動なのである。
(1)ルーマニアのチャウシェスク政権は、ソ連から事実上見捨てられたのちに、市民の暴動を軍で制圧しようとしたものの、当時の国防大臣がそれを拒否。その国防大臣が不審死(政権による暗殺と言われている)を遂げたことで革命へと発展した事案もその一例と言えるかもしれない。また、別の例では、リビアのカダフィ大佐が断末魔に化学兵器を使用することを西側は最後まで懸念していたことなども挙げられる。
(2)Rui Araújo et al. 2015. “Gunslinger’s gait”: a new cause of unilaterally reduced arm swing.” アクセス日:2022年3月13日. https://www.bmj.com/content/351/bmj.h6141. British Medical Journal (BMJ).
(3)Nye, Joseph S. Jr. 2020. Do Morals Matter?: Presidents and Foreign Policy from FDR to Trump. Oxford university Press.
(4)AP NEWS. 2022. “United House OKs $13.6B for Ukraine in huge spending bill.” アクセス日:2022年3月13日. https://apnews.com/article/russia-ukraine-war-us-aid-package-41cc2e66c7714b37eca9d2bb8add53aa
プロフィール
内田州
【現職】早稲田大学地域・地域間研究機構次席研究員/研究院講師
【経歴】大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程修了。国際公共政策博士。
在グルジア(現ジョージア)日本国大使館専門調査員、コインブラ大学欧州連合マリーキュリーフェロー、ハーバード大学デイヴィスセンター客員フェロー等を経て、現職。
【主な研究テーマ】国際政治学、国際安全保障論、パブリック・リーダーシップ論、旧ソ連地域研究
【主要業績】●UCHIDA,Shu.2019.“Georgia as a Case Study of EU Influence, and How Russia Accelerated EU-Russian relations.” Rick Fawn eds., Managing Security Threats along the EU’s Eastern Flanks. Palgrave Macmillan (Springer Nature), pp.131-151. ●内田州.2022.「文明の衝突を越えて‐EUの倫理的資本主義とパブリック・リーダーシップ」.『ワセダアジアレビュー:ポストコロナ禍と国際公共政策』.明石出版, pp.36-44.等