2022.06.03

ターリバーンの統治下、アフガニスタン国家建設はどこへ向かうのか

青木健太 国際安全保障、現代アフガニスタン・イラン政治

国際 #安全保障をみるプリズム

タリバン台頭 混迷のアフガニスタン現代史

青木健太

1.はじめに:アフガニスタンの現状はどう位置付けられる?

ニュース等でたびたび目にするように、現代の世界では、人々の生命や財産を脅かす紛争や政変に苦しむ国家が、依然数多く存在している。アフリカではソマリアやスーダン、中東ではイエメンやシリアやリビア、アジアではミャンマーなどが一例として挙げられる。これらの国々は「失敗国家(failed state)」や「脆弱国家(fragile state)」のように分類されることも多い。

「失敗」や「脆弱」といった言葉は、主権国家が治安、法の支配、福祉などあらゆるサービスを一手に提供するという国家の理念型を前提にしている。しかし、現実の世界では、そうした理念型に沿った国家建設がうまく機能しないケースをたびたび目にするだろう。ある国が理念型に収まらないことを「失敗」や「脆弱」と一括りにすることは、実は私たち自身の視点に過ぎない。「失敗国家」や「脆弱国家」がこれほどまでに多いという現実は、その発想自体の転換を私たちに迫るものだ。

こうした中、近年、「限定的な国家状態(limited statehood)」という概念が注目を集めている。限定的な国家状態とは、政府が意思決定事項を履行あるいは強制する能力を欠き、独占的な暴力行使のための権力の寡占が存在しない状態をいう【注1】。紛争国の多くが限定的な国家状態にある領域の典型例である【注2】。こうした領域にも住民らがいる限り、住民らが尊厳のある生活を保障される統治のあり方を確立することが急務だ。

本稿では、2021年8月15日にターリバーンが再び実権を掌握【注3】したアフガニスタンを事例に、限定的な国家状態にある国において、どのような形で国家建設が進められることが、現地の人々にとって望ましいのかを検討したい。

2001年からアメリカが主導する有志連合による軍事介入を受けたアフガニスタンは、当初の国際社会側の「民主主義に則り中央政府のもとに統合された新国家の樹立」という想定と反対に、国家建設が上手くいかず限定的な国家状態の領域が広がった国の最たる事例であろう。だが、ターリバーン統治下で、基本的人権、民主主義、法の支配などの実現を目指す自由主義的統治モデル――前述した国家の理念型の典型――を導入することは果たして可能なのだろうか。ターリバーンが掲げるイスラーム的統治モデル(第3節で詳述)と、ジルガ(集会)に代表されるローカルな紛争解決手法を有するアフガニスタンの伝統的統治モデルとの間にはどのような連続性と逸脱があるのだろうか。

これらの疑問に答えるべく、2001年~2021年の間に試みられたアフガニスタンにおける「紛争後」の国家建設を概観しつつ(第2節)、捲土重来を果たしたターリバーン統治下での国家建設のあり得る方向性について(第3節)、現時点での試論を述べたいと思う。なお、本稿では、国家建設を「国家-社会間の関係によって推進される、国家の能力、制度、正統性を強化する内生的なプロセス」【注4】とし、必ずしも欧米による民主化支援と同義ではない用語として用いる。また、前述のアフガニスタンにおける3つの国家統治モデルは便宜的な分類であり、各統治モデルの間には共通性もある点には留意が必要である。

2.アフガニスタンにおける「紛争後」の国家建設の概観(20012021年)

1)国際社会が目指した目標、そしてアメリカによる介入の目的の曖昧さ

アフガニスタンでの国家建設を考えるにあたっては、そのプロセスが現地側の自発的な意志によってではなく、欧米を中心とした国際社会側が主導する形で始まったことをまず想起しなくてはならない。往々に「20年に及ぶ国際社会による国家建設の努力」といった言葉で語られるが、それは国際社会が一貫して明確な国家モデルに基づく国家建設を行ってきたということではない。国際社会は中央集権国家の建設を目指したが、アメリカによる介入の目的が常に一貫しておらず、紆余曲折を経てきたことが、アフガニスタンの国家建設の迷走と密接に関わっているからである。

2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が勃発したことで、同20日、ジョージ・W・ブッシュ米大統領はターリバーンに対し、彼らが支配する土地に潜む全てのアル=カーイダ(AQ)指導者をアメリカに引き渡さなければ軍事行動も辞さないとの警告を突き付けた【注5】。ターリバーンがこの要求に応じなかったことで、アメリカと同盟国は10月7日に空爆を開始し、以後20年にわたるアフガニスタン戦争を始めた。11月13日には反ターリバーンを掲げる複数の軍閥の連合体、いわゆる「北部同盟」が首都カーブルを陥落させた。

しかし、その時点でなおブッシュ大統領は国家安全保障評議会の席で「誰がアフガニスタンを統治するのか?」と側近らに尋ねており、明確な戦後復興の青写真を持っていなかったことは明らかである【注6】。当時のアメリカはアフガニスタンへの地上軍派遣を伴う大規模な関与には及び腰であり、あくまでも同国を国際テロ組織の策源地にさせないことを目標とし、できるだけ「軽い足跡」を残すこと、つまりアフガニスタンへの関与を最小限に留めることにしか関心がなかった。

しかしその後、アメリカは、次第に民主的な国家建設に着手することとなった。2002年4月17日、ブッシュ大統領はバージニア州立軍事学校での演説で「平和は、アフガニスタンにおける安定した政権樹立を支援することで達成される」と発言した【注7】。とはいえ、2003年にアメリカによるイラク侵攻が始まると、アメリカの政策決定者にとってアフガニスタンは次第に「忘れられた戦争」となっていった。

2009年に就任したバラク・オバマ米大統領は現場からの米軍増派の要請と、アメリカ国民の厭戦感情の狭間で出口戦略を推し進めることになる。2017年に就任したドナルド・トランプ大統領が、ターリバーンとの間でドーハ合意を締結(2020年2月29日)し、民主的な国家建設から決別するまでの間、アメリカの介入の目的は曖昧なままであり続けた。

2)ボン合意が残した「瑕疵」

もっとも、1973年のザーヒル国王の従兄弟であるムハンマド・ダーウードによる無血クーデタ以来、その時点で約30年に及ぶ内乱を経験していたアフガニスタンにおいて、国際社会からの民主化支援は多くの国民からは歓迎された。2001年12月に結ばれた戦後復興のロードマップを定めたボン合意は、明るい未来を約束したはずだった。

ところが、ボン合意には、設計時点において大きな「瑕疵」があった。同合意では、アメリカと同盟国が軍事介入するまで、国土の9割以上を実効支配していたターリバーンが排除されたのだ。ターリバーンは女性の教育・就労の制限や娯楽・偶像崇拝の禁止などの独自のイスラーム教の解釈に基づく厳しい統治を行ったことで国際社会からの反発を招いたが、出現当初は軍閥らにより荒廃した社会に辟易としていた国民からは支持された勢力であり、アフガニスタン政治の文脈において完全には無視できない存在だった。

ボン合意をまとめた立役者の一人であるラフダル・ブラヒミ国連事務総長特別代表は、のちのインタビューで、ターリバーン各派をボンに招くべきだったと述懐しつつ、ターリバーンをボン・プロセスから排除したことを、その後アフガニスタンが国家として安定しなかったことの「原罪(the original sin)」と表現している【注8】。当時、ターリバーン側としても軍事的劣勢を受けて、北部同盟を主体とするのちのアフガニスタン・イスラーム共和国政府側に投降の意思表示をしたようだ。ターリバーン幹部らはボン合意の同日、最高指導者ムッラー・ウマルの書簡を携えてハーミド・カルザイ暫定行政機構議長の元に向かったという。しかし、ブッシュ政権はこれを受け入れず、逆にこれらのターリバーン幹部はグアンタナモ刑務所に囚人として送られた【注9】。この拒絶は、アメリカにのちに高い代償を支払わせることになる。

3)中央集権化を目指した治安部門改革

こうした中、2004年に憲法が公布され、2002年から移行政権大統領の座にあったカルザイが選挙を経てアフガニスタンの新国家の初代大統領に就任し、国家建設への取り組みが段階的に着手された。イスラーム共和国体制の憲法(全162条)は、イスラーム教を国是とすることを定める(第1~3条)ものの、民主的手続きを通じた国家元首(第61条)、及び、国会議員の選出(第83条)や、基本的人権の尊重を定める(第58条)他、司法面ではシャリーア(イスラーム法)を根拠としない(第116~135条)など、自由主義的な面が色濃く見られた。原則的に、強大な権限を有する大統領を国民が選出し、国民を代表する議員からなる議会が立法を担うことになった。

その一方で、アフガニスタンの伝統的な意思決定の仕組みであるロヤ・ジルガ(部族大会議)も、憲法の中に盛り込まれた。伝統的な部族社会であるアフガニスタンでは、合議制で物事を決めることが尊重されてきた。ロヤ・ジルガは、独立や主権など国家的に重要な事項、改憲、及び、大統領の罷免などを行う権限を付与された(第111条)。その開催要件の一つに郡議会議長の参加が定められた(第110条)。しかし、アフガニスタンでは準備不足から郡議会議員が行われることはなかった。すなわち、憲法が規定するロヤ・ジルガを開く条件を満たすことが事実上不可能であり、あくまでも諮問的な意味合いを持つ機構としてのみ存在した。

治安面では、2002年4月に開催されたG8治安会合において、アフガニスタンの治安部門改革(SSR: Security Sector Reform)が大国主導制で進められることとなり、国軍創設をアメリカ、警察再建をドイツ、麻薬対策をイギリス、司法改革をイタリア、そして元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰(DDR: Disarmament, Demobilization, and Reintegration)を日本と国連が担うことが決定された。アメリカは北部同盟が中心だった国防省の改革に着手し、それと並行して日本と国連が元軍閥の武装解除を推し進めた。全体的な構図としては、全国に群雄割拠した元軍閥から武器を取り上げる一方で、全ての「正当な物理的暴力行使」【注10】については治安機関が独占的に掌握する形を目指した。

しかし、歴史的に、アフガニスタンでは国王が近隣地域から富を略奪し、部族長に配分して忠誠を得る形での統治を行ってきた。国王の支配下にある領土ですら直接統治はしておらず、ほとんどは部族の内部統治に拠っていた。例えば東部ナンガルハール州などの地方都市や農村部では、最大民族パシュトゥーン人の各部族勢力が地方豪族のように各管轄地域を統治しており、国王はそうした部族勢力が有する地位や権限を承認する代わりに、部族勢力から金銭や贈り物の授受などによる人的交流を通じて自らを維持する緩やかな主従関係を築いていた【注11】。また、さらに地方の部族社会では、ジルガをはじめとする部族慣習法にしたがい、住民らによって自律的にコミュニティが維持されてきた。

こうした力関係は、現代でも大きく変化しておらず、イスラーム共和国体制が成立した時点でも、元軍閥らが多大な権力を維持する状況に変わりはなかった。目指す理念型としての国家と、アフガニスタンの統治構造の現実の間に大きな乖離があったため、国際社会による中央集権化に向けた国家建設の取り組みは、目に見える成果を挙げることができなかった。

4)小括

総じて、カーブル陥落以前のアフガニスタンでの国家建設は、アメリカが後ろ盾となったイスラーム共和国政府の統治能力を外部から強化する方針で進められた。しかし、農村部では、住民らからの支持を背景にターリバーンの影響力が伸張する状況が続いていたため、イスラーム共和国政府がターリバーンを軍事的に討伐する方向性は実現し得ないとの認識が広がっていた【注12】。

こうした状況を受けて、ドーハ合意に基づきはじめられたイスラーム共和国政府とターリバーンの和平協議は、イスラーム共和国政府の統治モデル(自由主義的統治モデルと伝統的統治モデルを折衷したもの)と、非国家主体であったターリバーンが主張するイスラーム的統治モデルを折衷しようとする試みであった(図1参照)。この時点において、和平協議が辿りうる方向性は、①イスラーム共和国政府とターリバーンが政治合意を妥結し包摂的政権を築く、②ターリバーンが武力で政権を奪取する、の二択であった。つまり、理想的には、①の方向性が実現し、イスラーム共和国政府がターリバーンを取り込み、限定的な国家状態の領域の住民らにも治安や福祉などのサービスを提供することが目指された。

(出所)筆者作成

3.ターリバーン復権後の国家建設(2021年8月~)

1)イスラーム的統治とは

それでは、ターリバーン復権後の国家建設はどのように進められるのだろうか。もとよりターリバーンは、2001年以降の外国軍による「占領」を問題視し、祖国の「解放」に向けて激しい武装抵抗活動を続けていた。同時に、ターリバーンはシャリーア(イスラーム法)に則ったイスラーム的統治を実現することを目標として掲げていた。したがって、ターリバーン統治下の国家建設は、イスラーム的統治モデルの実現を基本方針に進められると考えられる。

それでは、彼らがいう「シャリーアに則って」とは一体何をさすのだろうか。ここでいうシャリーアとは、成文法ではなく、アッラー(唯一絶対の神)から預言者ムハンマドに下された啓示であるクルアーン(コーラン)とスンナ(預言者の慣行)の内、人間の行為規範に関わる総体である【注13】。ターリバーンにとって、このシャリーア以外のもの(憲法などの人定法)を従うべき権威とすることは不信仰とみなされる。また、目指すべき行政の仕組みは、初期イスラームの時代に通用していた宗教規範に基づくものであり、基本的には世俗主義や民主主義などの欧米起源の思想と政治制度を排除する【注14】。

ターリバーンがイスラーム的統治という言葉によって何を目指しているのかは、ターリバーンの広報・宣伝媒体『ジハードの声』の中でも説明されている。2021年4月23日付の論説では、「イスラーム的統治の原則は、クルアーン、ハディース(預言者ムハンマドの言行録)、及び、イスラーム法学の中に記述・編集されている・・・・・(中略)・・・・・殺人犯はキサース刑(同害報復刑)によって裁かれ、姦通罪や窃盗を犯したものはハッド刑(量刑が定められた身体刑)による裁きを受け、公共の財産を傷つけたものは法に従い罰せられる社会制度を欲している」と述べている【注15】。

つまり、ここからは、ターリバーンがクルアーン、ハディース、及び、イスラーム法学を典拠に、彼らにとっての理想の実現に向けて邁進していることがわかる。ターリバーン構成員の目には、殺人・窃盗・暴行・汚職などの犯罪が横行し、女性キャスターが髪や肌を露わにしながらニュースを読み、男女の踊りの映像が放映される状況は、社会的混乱や道徳的退廃として映る。このような「乱れた社会」をシャリーアに則って正してイスラーム的な社会を実現しようというのが、ターリバーンが目指す基本指針となる【注16】。

2)ターリバーン暫定内閣の政治体制と治安部門の現状

2021年8月15日以降、ターリバーンは旧政権の機構を活用しつつ、新たな統治主体として国家建設を始めた。同年9月6日に天然の要塞パンジシール渓谷を制圧すると、翌7日には暫定内閣33ポストを発表した。若干名を除いて、閣僚は全て最大民族パシュトゥーン人で占められ、旧政権の政治有力者や女性は排除された。その後の漸次的な発表を経て、最高指導者1名、首相代行1名、副首相代行3名による指導体制が表明され、閣議で審議・決定された事項を既存の省庁・地方支部が執行する仕組みが示された。

ターリバーンは、イスラーム的統治の実現を掲げつつも、1964年の憲法をイスラームの教えに反しない範囲で適用する方針を示した。これは、ターリバーンがアフガニスタンという国家の枠組みにこだわっていることを示している。ターリバーンの大義だけを切り取れば、ターリバーン暫定政権は、宗教と国家統治機構が実態的に同等な政治体制である神権政治(テオクラシー)を理想形としているように一見すると見える。しかし、実際は、現実的な要請を受けて、このように世俗的な要素が入り込む余地を完全には排除していない。これは、ターリバーンが、ウンマ(イスラーム共同体)に基づく「国家」樹立を目指すイスラーム過激派諸派とは大きく異なる点である。

また、ターリバーンは統治方針として、全ての者に恩赦を与える、治安の回復、外交団の安全の確保、アフガニスタンは他国に脅威を投げかけない、外国からは内政不干渉を求める、イスラームの教えの範囲内で女性の権利を保障する、メディアは仕事を続けられる、包摂的な政権樹立を目指す、長期化する戦争を終結させる、ケシ栽培の撲滅、などを掲げている【注17】。

もっとも、こうした大義とは裏腹に、現場ではターリバーンによる報復行為、少数民族への迫害、強制移住、女性の権利侵害などが盛んに報じられている点には留意が要る。ターリバンの主張を、額面通り受け止めることはできない。

治安部門は、基本的に、旧政権の機構をそのまま活用する形で整理されている。現状、国防省、内務省、及び、情報局が引き続き活動を続けている。その一方、旧政権で大統領が議長を務めた国家安全保障評議会は解体された。国防省は、旧政権時代は19万5千名を定員としていたところを、現在は15万名規模の定員を目指してリクルートを行っている【注18】。風紀の取り締まりを、宣教・教導・勧善懲悪省が担い、反政府勢力による武装活動や違法行為は厳しく取り締まられる。この意味では、ターリバーンが暴力行使を独占する形を目指す国家建設の歩みが緒に着いた。

3)政府承認や大使館再開を巡る国際社会との関係

本稿執筆時点において、ターリバーンは如何なる国からも政府承認されていない。国連がターリバーンを事実上の権力(the de facto authorities)と呼ぶなど、各国は難しい対応を迫られている。ターリバーンが全土を実効支配する統治主体であるが、女性や少数民族への権利侵害の懸念があるというジレンマ状態が、現下の膠着状態を長期化させる一因となっている。ターリバンが、AQなどの国際テロ組織との関係を維持している疑念も拭えない。こうした中でも、カーブル陥落時点でなお現地の大使館を維持したロシアや中国やパキスタンなどの国もある他、アラブ首長国連邦(UAE)やサウジアラビアなどのように段階的に大使館業務を再開させる国もある。

国際社会との関係で旧政権時代と大きく異なるのは、アフガニスタンが国際社会からの援助への依存を減らし始めていることだ。2022年5月14日、ターリバーンはアフガン暦1401年(2022年3月21日~2023年3月20日)の予算を公表したが、その全体予算2310億アフガニー(約3250億円)の内、外国からの援助が充当される金額は初めてゼロとなり、全て国内の歳入によって賄われることになった。

4)小括

ターリバーンの思想体系に鑑みると、ターリバーンが自由主義的統治モデルを受け入れる可能性は非常に低い。ターリバーンはこれまでに独立選挙委員会を廃止した他、独立人権委員会や女性課題省など、旧政権時代にアメリカの肝いりで作られた諸機構も解体した。このため、ターリバーン暫定政権下では、イスラーム的統治モデルと自由主義的統治モデルとの折衷が見られる余地は限りなく狭いといわざるをえない(図2参照)。

一方で、ターリバーンは、アフガニスタンの伝統と文化を尊重する姿勢を見せていることから、イスラーム的統治モデルと伝統的統治モデルが折衷される可能性はある。例えば、現在、国際社会はターリバーン暫定政権が民意を反映していないことを問題視しているが、ターリバーンがロヤ・ジルガを開催し、民意を反映した政治体制であることを内外にアピールすることはあり得る。それが、いわゆる「官製」の集会になってしまい、ターリバンに利用されてしまう恐れは否定できないものの、ローカルな紛争解決手法を通じた一つの妥協点とも呼べるだろう。

(出所)筆者作成

4.おわりに:「和洋折衷」的な解決策はあるのか

本稿を通じて見てきた通り、アフガニスタンでは伝統的な部族社会であるにもかかわらず、国際社会によって中央集権的な国家建設が進められてきた。長期にわたり紛争に喘ぐ同国では市民社会機構は脆弱であり、選挙はむしろ民族的出自に基づく投票行動を促し、民族間の対立を煽った。また、SSRの結果としてできた治安機関は、反政府武装勢力を一掃して全国での暴力の一元的管理を実現することが期待された。しかし、元軍閥が隠然とした影響力を保つ中、全国を掌握することは結局叶わなかった。結果、中央政府の統治が行き渡らず、ターリバーンの台頭を許した。

ターリバーンが統治主体である新たな現実の中では、多民族国家であるアフガニスタンにおいてあらゆる政治・民族集団を包摂する政権の樹立が、平和と安定のために重要である。ボン合意ではターリバーンが排除されたことで、イスラーム共和国政府の権力基盤が脆弱になった。過去の教訓を踏まえると、今、ターリバーンが他勢力を権力から排除するならば、20年前と同様の事態が起こることが予想される。他方で、もし国民抵抗戦線【注19】の「自由と独立」のための戦いを国際社会が支援すれば、血で血を洗う内戦の再発も覚悟しなければならない。したがって、時には第三者の仲介を得ながら、対話を通じた包摂的な政権の樹立、ひいては全てのアフガニスタン人が尊厳をもって生活することが出来る状況の実現が求められている。

これからの将来、アフガニスタンはいかなる国家の形態に向かっていくべきなのか。そのあるべき統治の形を見出すことは至難の技だといわざるをえない。しかし、原則的に、アフガニスタン人自身が主体性を持って国の未来のあるべき姿を決めていくことがきわめて重要だ。現時点で、実効支配勢力ターリバーンがイスラーム的統治モデルを主張しているため、これが今後の国家建設の基本方針になると考えられる【注20】。その上で、ターリバーンはアフガニスタンの伝統と文化を尊重する姿勢を見せていることから、ジルガなどの伝統的統治モデルと折衷する形で、限定的な国家状態にある領域での統治が行われる可能性がある。

当然、国際社会からは、基本的人権、民主主義、法の支配など自由主義的な価値を尊重すべきだとの声が予想される。自由主義的な価値の尊重を理想として掲げることは重要である。しかし、過去20年間、欧米が巨額の資金を費やしても、自由主義的統治モデルをそのままアフガニスタンに根付かせることは出来なかった。この現実を、国家建設に関与する人々は冷徹に見つめ、教訓として学ぶ必要がある。これはターリバーンの主張を一方的に認めることと決して同義ではない。こうした理解の上で、例えば、女性がイスラームに則ってヒジャーブ(頭髪を覆うヴェールの一種)を被ることについては現地の尺度で認めつつ、男女の平等な教育へのアクセスの保障については確実なものにする、などの妥協点を編み出す必要がある。あるべき政治体制についても然りである(第3節の(4)で既述)。

アフガニスタン情勢はあまりにも複雑であり、誰にとっても最善の解は見つけられないかもしれない。しかし、この事例からわかることは、限定的な国家状態を抱える国において国民にとっての望ましい国家を建設するためには、非国家主体との連携や伝統的統治手法の活用など、今目の前にある選択肢の中から苦渋の選択として、国民自身が「和洋折衷」的な解決策を見出すしかないように筆者には思われる。そして、どうあっても人権軽視の姿勢が許されることがあってはならないことから、国民は不満があれば絶えず声を上げ、国際社会は統治主体に対し地道に自由主義的な価値の重要性を伝え、それらを取り入れるよう働きかけることが重要だ。

*本稿は、JSPS科学研究費補助金・基盤(C)(JP21K01345、「紛争後のハイブリッドな国家建設の妥当性に関する実証研究:アフガニスタンを事例に」)の成果の一部である。

【注1】Risse, Thomas, Governance Without a State: Policies and Politics in Areas of Limited Statehood, New York: Columbia University Press, 2011, pp.1-3.

【注2】これらの国々での平和の実現に向けて、どのように国家建設を進めるのかが焦眉の急であったことから、多種多様な研究や実践が試みられてきた。これらには、rebel governanceやhybrid state-building等を巡る議論がある。

【注3】詳しくは、以下の文献を参照。青木健太『タリバン台頭――混迷のアフガニスタン現代史』岩波書店、2022年。

【注4】OECD, State Building in Situations of Fragility, August 2008, https://www.oecd.org/dac/conflict-fragility-resilience/docs/41212290.pdf, accessed on May 21, 2022.

【注5】White House, Address to a Joint Session of Congress and the American people, September 20, 2001, https://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2001/09/20010920-8.html, accessed on May 20, 2022.

【注6】Woodward, Bob, Bush at War, Simon and Schuster, 2002, p.195.

【注7】White House, President Outlines War Effort: Remarks by the President to the George C. Marshall ROTC Award Seminar on National Security, April 17, 2002, https://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2002/04/text/20020417-1.html, accessed on May 21, 2022.

【注8】Brahimi, Lakhdar, Sack, Mary, Samii, Cyrus and Haver, Katherine, “An Interview with Lakhdar Brahimi: Interviewed by Mary Sack and Cyrus Samii,” Journal of International Affairs, Fall 2004, Vol. 58, No.1, p. 244.

【注9】コール、スティーブ(笠井亮平訳)『シークレット・ウォーズ――アメリカ、アフガニスタン、パキスタン三つ巴の諜報戦争(上)』白水社、2019年、150頁。

【注10】ヴェーバー、マックス(脇圭平訳)『職業としての政治』岩波文庫、1980年、9-10頁。

【注11】登利谷正人『近代アフガニスタンの国家形成――歴史叙述と第二次アフガン戦争前後の政治動向』明石書店、2019年、15頁。

【注12】筆者がアフガニスタンで勤務していた当時(2005~2013年)、既にターリバーンが農村部で影響力を浸透させていたため、地方出張を陸路で行うことは困難だった。

【注13】小杉泰「シャリーア」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、466頁;中田考『イスラーム法とは何か』作品社、2015年、21-22頁;松山洋平『イスラーム思想を読み解く』筑摩書房、2017年、154-156頁。

【注14】中田考訳『ターリバーンの政治思想と組織』現代政治経済研究社、2018年。

【注15】2021年4月23日付ターリバーン公式サイトに掲載された無署名の論説記事。括弧内の注は筆者による。

【注16】もっとも、ターリバーンの行動原理には、イスラーム教以外にも、パシュトゥーン部族文化、40年以上に及ぶ戦争の遺産、内部の団結の維持、民心、及び、外部からの圧力なども影響を与えている。詳しくは青木『タリバン台頭』第4章(100-125頁)を参照。

【注17】青木『タリバン台頭』114-115頁。

【注18】Tolo News, January 10, 2022.

【注19】 故アフマド・シャー・マスード司令官の息子、アフマド・マスード(タジク人)が率いる反ターリバーンを掲げる抵抗戦線。中央部、北東部で武装抵抗活動を続けている。

【注20】なお、シャリーアは成文法ではないため常に解釈の余地が残ることから、シャリーアに基づく統治自体も可変的なものであり得る点は重要である。同様に、アフガニスタンの伝統や文化も、時代とともに変化する動的なものである可能性がある。

プロフィール

青木健太国際安全保障、現代アフガニスタン・イラン政治

公益財団法人中東調査会研究員。1979年東京生まれ。専門は現代アフガニスタン、およびイラン政治。2001年上智大学卒業、2005年英ブラッドフォード大学平和学修士課程修了(平和学修士)。アフガニスタン政府省庁アドバイザー、在アフガニスタン日本国大使館二等書記官、外務省国際情報統括官組織専門分析員、お茶の水女子大学講師等を経て現職。著作に、『タリバン台頭――混迷のアフガニスタン現代史』(岩波書店、2022年)、他。

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