2024.02.21

民主主義がうまくいかない理由――タイ政治では何が起きているのか?

シノドス・オープンキャンパス02 / 外山文子

国際 #シノドス・オープンキャンパス

はじめに 

21世紀に入ってすでに20年以上もの年月が経過しました。しかし、未だに世界における民主主義や人権といった価値の実現までの道のりは険しい状況にあります。米ソ冷戦終結後の1990年代には、「民主主義」や「人権保護」といった欧米の価値が、世界中で実現されると大いに期待されていました。ところが2006年頃から世界的に「民主主義の後退」(recession of democracy)という現象が注目を集めるようになりました。近年では、米国のトランプ大統領、トルコのエルドアン大統領の強権政治、ロシアや中国といった権威主義国家の国際的な政治的影響力の拡大が注目を集めています。 

日本と関係の深い東南アジア地域の国々も政治に問題を抱えています。タイでは2006年と2014年に軍事クーデタが起きました。2021年にはミャンマーでも軍事クーデタが起き、国際社会を驚かせました。カンボジアではフンセン首相の独裁が継続しており、ベトナムとラオスでは一党支配体制が維持されています。

また、フィリピンではドゥテルテ大統領による麻薬戦争、マレーシアではナジブ首相による巨額の汚職などが批判されてきました。毎年195の国・地域の「政治的権利」と「市民的自由」の保障に関する指標を発表している国際NGO「フリーダム・ハウス」(Freedom House)によれば、現在、東南アジア地域には「自由」な国は存在していません。タイやミャンマーをはじめとする大陸部の国々は「非自由」、マレーシアやインドネシアなどの島しょ部の国々は「部分的自由」と評価されています。(https://freedomhouse.org/explore-the-map?type=fiw&year=2023

東南アジア諸国は経済的に順調に成長しており、大卒者の割合も多くの国が30%以上に達しています。決して発展が遅れた地域ではありません。では、なぜ東南アジア地域で民主主義がうまくいかないのでしょうか? 21世紀になっても民主主義が定着しない理由は何でしょうか。本稿では、2023年5月14日に総選挙が実施されたタイを事例にとりあげ、民主主義をめぐる諸問題について考察していきます。

タイの基本構造 

まずタイという国の基本構造を確認してみましょう。タイは過去に19回の軍事クーデタが実行され、20本もの憲法が制定されてきたことで知られています。複雑に思われるタイの歴史を概観すると、いくつかのキーワードが浮かび上がってきます。絶対王政、立憲革命、クーデタ、冷戦、反共産主義運動、米国からの軍事援助、海外からの投資、グローバリゼーション、格差社会、大衆デモなどです。そして、タイを語るうえで忘れてはならないのが「国王を元首とする民主主義政体」です。以下、これらのキーワードに触れながらタイ政治史を概観します。 

タイは、日本と同様に立憲君主制の国家です。19世紀半ばから1932年に立憲革命が起きるまでは絶対王政による統治が行われてきました。ラーマ4世王(在位1851-1868年)、ラーマ5世王(在位1868-1910年)の時代に王室の政治権力や財政基盤が強化されました。またこの時期にバンコクに政治権力や経済の中枢が集中するようになり、中央集権国家化が進みました。国家の近代化が進む中で、次第に軍部と官僚勢力が力を付けていきました。

1932年に絶対王政に不満を持った若手軍人と官僚からなる人民党が革命を実行し、絶対王政から立憲君主制へと政治体制が変更されます。立憲革命後は、人民党により憲法が制定され、国王も憲法により制約を受けるようになりました。また選挙が実施され、西欧型の議会制民主主義による統治が目指されます。しかし議会制民主主義は安定せず、立憲革命の翌年には早くも最初のクーデタが起きました。その後は、陸軍、海軍、官僚、王党派の4つ巴の政治争いの時代が続きました。 

タイ政治に大きな変化をもたらしたのは冷戦です。タイは米国の同盟国となり、反共闘争の最前線の1つとして位置づけられました。米国による軍事援助と日本からの経済支援を受けて、タイは経済発展を始めるとともに軍部の政治権力が強化されます。また反共政策の一環として王室の権威が復活・強化され、王室を頂点に軍部と官僚が支えあう「国王を元首とする民主主義政体」という体制が構築されました。また華人資本家たちは、自らの安全とコンセッションなどへのアクセスの確保のために献金を通じて、この新しい政体に取り込まれていきます。 

1970年代からは途中クーデタによる中断期間を挟むものの、選挙を通じて地方実業家が政党政治家となり国政に参加するようになりました。1980年代以降は、軍部の政治的影響力を残しながらも、日本や韓国などからの投資を受けて急速な経済発展を遂げ、タイ国内の教育レベルは向上していきました。1991年に軍事クーデタが起きたものの、バンコク市民などからの猛烈な反発を受け、軍部は一旦政治の表舞台から去ることとなります。 

1990年代から20世紀初頭までの15年間は、定期的に総選挙が実施され、軍事クーデタも起きず、タイは東南アジアにおける民主化の優等生と評されていました。しかし経済発展の中で所得格差は拡大し、都市部と農村部、バンコクや中部と東北部との間の経済格差は是正されることがありませんでした。またグローバリゼーションの深化とともに経済格差はますます拡大していきます。

これに対して、総選挙は定期的に実施されるものの、民主主義は格差問題の処方箋とはなりませんでした。中央集権国家であるタイでは、官僚たちは中央ばかりを見ており、地方が抱える問題についてきちんと対応をしてこなかったのです。また同様に政党政治家たちも地方有権者たちの要求に十分に応じてきたとはいえません。 

都市―農村、中央―地方格差に変化をもたらしたのはタックシン・チナワット首相(在職2001-2006年)です。タックシン政権の政策は、保守派層などから「ポピュリズム」(ばらまき政治、大衆迎合政治)と非難されましたが、タイ政治史上はじめて多数を占める地方農村部の有権者をターゲットにした政策を実施したことで高い支持率を誇りました。

農民の負債の返済猶予、村落基金の設置、30バーツ医療制度など農村部有権者のための政策とともに、世界のグローバル経済にあわせて自由化、規制緩和を進めて国際競争力を高めることを目指しました。また同時に、タックシンは軍部や司法機関の人事に介入し、当時の皇太子(現国王)にも接近するなど、「国王を元首とする民主主義政体」の切り崩しを図るかのように受け取られる行為も行いました。 

タックシンによるタイの構造変革に危機感を覚えた軍部は、2006年9月に15年ぶりとなるクーデタを実行しました。2007年12月には総選挙が実施され民政移管されましたが、再びタックシン派が勝利したため、保守派とタックシン派との争いは継続することとなりました。

また民主主義の意義に目覚めた有権者たちが、クーデタによる政権打倒に抗議するための大規模な大衆デモを実施するようになります。反対に保守派は、反タックシンを掲げて同様に大衆デモを行うようになります。赤色と黄色に分かれる大衆デモ同士の対決は2014年に軍部が再びクーデタを実行して強権的にデモを禁じるまで10年近くも継続しました。

また反クーデタの大衆デモを通じて、国民の間にタイ政治の基本構造に疑問を感じる人々が多数ではじめました。具体的には、それまで敬愛の対象となってきた9世王(プーミポン前国王)こそが、繰り返される軍事クーデタを支える存在であり、タイにおける民主主義の定着や国民の権利実現を妨げてきた諸悪の根源であるとの認識です。このような認識が広まった背景には、ソーシャルメディアなどインターネットを通じた情報拡散や意見交換が盛んになされるようになったという変化が存在します。 

ここまで概観してきたように、タイの基本構造は、(1)バンコクを頂点とした中央集権国家、(2)王室、軍部、官僚勢力が政治権力を掌握する「国王を元首とする民主主義政体」、(3)中央部-地方(特に東北部)、都市部―農村部の経済格差が大きい、以上3点にまとめられます。これらの基本構造は絶対王政期から冷戦期にかけて構築され、経済発展を通じて経済格差が拡大していきました。現在、タイ国民の多くは、タックシン政権期と2006年・2014年クーデタを経験したことにより、この基本構造が民主主義や法の支配の定着を妨げ、自らの権利を侵害していることに気が付き、戦うようになったという状況です。

民主化の条件とタイの現実 

読者の方々は、多くのタイ国民が民主主義や法の支配といった価値に目覚めて、王室や軍部を中心とする「国王を元首とする民主主義政体」を修正しようと立ち上がったのであれば、タイは順調に民主化に向かうと考えるかもしれません。タイに限らず、他の東南アジア諸国も似たような構造的問題を抱えています。国民の教育レベルが上昇し、インターネットなどを通じて情報を入手しやすくなり、国民の多くが政治経済の問題点に気が付いたという状況は同じです。しかし、タイでも他の東南アジア諸国でも民主主義の実現はそう簡単ではないのです。 

民主化の条件について、比較政治学の分野から多数の研究が出ています。民主化が達成されるためには、どのような条件が必要なのでしょうか。民主化研究では、ラストウが民主化の移行過程について、(1)国家統一、(2)非民主主義体制の崩壊、(3)民主主義的制度の確立、(4)政治文化への民主主義の浸透の4段階について指摘しています。また民主化を促す要因としては(1)経済発展、(2)社会の分断(中間層の成長)、(3)国家、政治制度の確立、(4)市民社会、(5)政治文化、(6)国際社会からの圧力の6点が指摘されています。 

上記の条件をタイに当てはめると、民主化にとってマイナスの要素が多数存在することがわかります。(2)社会の分断については、タイでも経済発展に伴い中間層が成長しました。しかし、民族、宗教、言語などの分断はマイナスであると指摘されています。タイの場合は他の東南アジア諸国とは異なり、民族、宗教、言語などの分断はありませんが、都市部と農村部、中央と地方の間で経済格差が大きく、タックシン政権期以降、北部、東北部、中部、南部の地域間で選択政党にも明確な差がみられます。

また国民の間の所得格差が大きい場合も民主化にはマイナスの影響がでると指摘されています。(3)国家、政治制度についても、強すぎる国家は民主化にマイナスと指摘されているのです。タイは官僚政体とも指摘され、長らく「官>>>民」の関係でした。(4)市民社会の成長も重要ですが、同時に市民社会は必ずしも民主的な指向性を持つわけではないとも指摘されています。タイ市民社会の状況を概観すると、王党派に近い保守派層も多く、政治的指向性については社会構造の変革を望まず、既存の社会秩序の維持を好む人々も多いです。 

そして、民主主義の「定着」のために最も必要とされる条件は、「民主主義が街で唯一のゲーム」となることだとされています。(1)暴力行使により自らの目的達成を図るアクターが存在しないこと、(2)民主主義的な制度や手続きは、政治を運営するうえで最も好ましい方法であるとの信念をほとんどの人々が抱くようになること、(3)法律の範囲内で対立を解決するようになることが条件として指摘されています。

これら3つの条件からタイの状況を検討すると、(1)暴力行使により目的達成を図るアクターとして、現在も軍部が存在します。(2)についても、保守派市民が選挙に基づく民主主義に対して不信感を持っている点が問題です。2006年以降、黄色シャツが、反タックシンや反選挙のデモを長らく展開しており、民主主義的価値が国民の間に十分に浸透しているとは言えません。ただし後述するように、選挙を重視する人々は増加中です。(3)についても、民主主義と同様に法の支配も確立しておらず、裁判所の裁定も公正ではないと頻繁に批判されています。

タイ知識人たちの言い分と抵抗 

タイでは軍事クーデタ後に、恒久憲法の破棄、暫定憲法の制定、新しい恒久憲法の制定というサイクルを繰り返してきました。そのため、多数の公法学者たちが憲法起草に関与してきました。非西欧世界における民主主義の定着の難しさについて理解するために、1997年憲法、2007年憲法、2017年憲法の起草に関与した公法学者たちや、彼らに影響を与えた知識人たちの民主主義に対する考えについてみてみましょう。 

現在の選挙、政党、憲法裁判所などをはじめとする司法機関などの政治制度は、1997年憲法により登場しました。そのもとになった1990年代の政治改革運動を主導した公法学者アモーン・チャンタラソムブーンは、「国会独裁」という用語を使用して議会制民主主義を批判しました。「国会独裁」とは、執政権(内閣)と立法権(国会)の両方を多数派政党が掌握することを批判した言葉です。

議会制民主主義においては当然のことですが、タイでは軍部や知識人たちが、多数派政党による「独裁」を批判してきました。アモーンは、初期の議院内閣制は二元的統治であり、国王が任命した内閣と、国民が選んだ国会の2つの権力により構成されていたと述べています。相互の間で一種のチェック&バランスが存在していましたが、国王の権限が制限されたことにより、国会の多数派が政府を樹立する一元統治となったと指摘しています。これをアモーンは「独裁」として批判したのです。 

1997年憲法の起草に参加したスラポン・ニティクライポットも、同憲法の起草時には多数派による独裁としてナチスのヒットラーに関する議論が出たことを証言しています。民主主義を基礎固めしようという1990年代に、タイ知識人が問題にしたのは「多数派による独裁」です。また憲法起草の議論では、数では「マイノリティ」であるエリート層の声も政治に反映されるべきであるとの議論もなされました。

通常は「マイノリティ」とは弱者を指しますが、タイにおける民主主義をめぐる議論では、エリート層をマイノリティと位置付けて、いかに公平にエリートの声を政治に反映させるかという点が真剣に論じられてきました。2014年クーデタ前には、反タックシン派グループからは、下院にも任命制議員を導入するように提案がなされます。タイのエリート層の間では、数に基づく民主主義は「独裁」として解釈されたのです。 

タイに限らず冷戦期から東南アジア諸国では、「タイ式民主主義」(タイ)、「指導される民主主義」(インドネシア)、「仏教社会主義共同体」(カンボジア)、「ビルマ式社会主義」(ビルマ、※ミャンマー)など、民主主義や社会主義といった政治理論を、各国の事情に合わせて解釈しなおすということが行われてきました。いずれも政治権力者による支配(指導)を正当化するための議論です。巧みな正当化と教育を通じた国民への浸透を通じて、国民を支配しました。長い時間をかけて浸透させられた価値観を変更するためには、また同様に長い時間が必要です。

2023年5月14日総選挙――変革の時か 

本稿を執筆しているのは、2023年5月14日21時です。同日に実施された総選挙の開票作業が進んでいる最中であり、最終結果はまだ不明です。2014年クーデタ後、2度目の総選挙ですが、今回の総選挙はタイ民主主義にとりわけ重要な分岐点となる可能性が高いです。 

2014年クーデタ以降、長らくプラユット元陸軍司令官が首相を務めてきました。2019年総選挙後も親軍政党と任命制の上院議員の協力を得て、非民選首相としてプラユットが首相として続投してきました。このまま軍部を中心とする権威主義体制が継続するかとも思われましたが、2020年から若者を中心とした反クーデタ、反プラユット政権、そして王室改革運動が起きるようになります。

政権側の激しい弾圧にも負けず、若者たちの抵抗運動は継続しています。若者たちの最も重要な主張は、軍事クーデタを支え、タイの特権的な社会構造の要である王室の権限を大幅に制限しようとするものです。タイ政治において王室について批判することは長らくタブーであり、若者たちの主張は大人たちを驚愕させました。多数の学生活動家たちが不敬罪(刑法112条)により投獄されたものの、彼らは戦いをやめません。

若者たちの活動をサポートし、同様の主張を展開したのが新未来党です。同党は2019年総選挙で第3党となりましたが、2020年3月に憲法裁判所により解党されました。しかし、前進党が後継政党として創設され、国会において活動を継続しています。前進党は新世代の政治家たちにより構成されており、タックシン派のタイ貢献党とも異なる新しいタイプの政党です。

前進党は、不敬罪の改正や活動家たちの釈放を求めており、王室や軍部にとっても非常に大きな脅威です。当初は、前進党に対しては過激な主張をしていると批判する声もありましたが、徐々に前進党の主張はバンコクのみならず地方でも、また若者だけではなく年長の有権者の間にも浸透してきました。 

今回総選挙の途中結果を見る限り、タイ貢献党と並んで、前進党が第1党を争っています。バンコクでは33議席全てを獲得したとの情報も入ってきました。前評判ではタイ貢献党が第1党になるとみられていただけに、タブーである不敬罪の改正を提唱する前進党が多数の議席を獲得しつつあるということは、タイでもようやく民主主義や法の支配といった価値観が有権者の間に浸透してきたことを意味します。

また同時に、近い将来、「国王を元首とする民主主義政体」が瓦解する可能性が高いことを示しています。総選挙の結果次第では、軍部の政治的影響を受けているといわれる選挙委員会が、何らかの動きに出る可能性があります。また、プラユット首相が任命した上院議員250名も首相の指名に参加できるため、総選挙後の政局について楽観は禁物です。しかし、多数の有権者が「国王を元首とする民主主義政体」を拒否しつつある事実が明確となりました。

〔編集部注〕2023年5月14日に行われたタイ総選挙の結果は以下の通りです。前進党が152議席と大躍進を遂げ、第一党となりました。タクシン元首相派のタイ貢献党は141議席で第二党、親軍部の国民国家の力党は41議席と大きく後退しました。75%をこえる過去最高の投票率を記録したタイ総選挙において、2019年総選挙で第1党だった国民国家の力党は、議席を大きく減らしました。

プロフィール

外山文子タイ政治、比較政治学

筑波大学人文社会系准教授、京都大学東南アジア地域研究研究所連携准教授。京都大学博士(地域研究)専門はタイ政治、比較政治学。早稲田大学政治経済学部卒政治学科卒、公務員を経て、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了(2013年)。主な論文に、「タイ立憲君主制とは何か―副署からの一考察」『年報 タイ研究』第16号、PP.61-80、日本タイ学会、2016年、「タイにおける体制変動―憲法、司法、クーデタに焦点をあてて」『体制転換/非転換の比較政治(日本比較政治学会年報第16号)』ミネルヴァ書房、PP. 155-178、2014年、「タイにおける汚職の創造:法規定を政治家批判」『東南アジア研究』51巻1号、PP. 109-138、京都大学東南アジア研究所、2013年など。

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