2013.04.27

不可解なテロと先入観

4月15日、アメリカのボストンにて、世界中が注目する国際マラソンにおいて発生した爆破事件は、犯人とされるアメリカ在住のチェチェン兄弟の兄が死亡し、弟が逮捕されたことで収束に向かっている。日本でもアメリカでも、チェチェン問題についてはあまり知られていないので、今回の事件は「チェチェン独立派の中の急進的なイスラーム思想を信仰する勢力が、『イスラームの敵』であるアメリカにおいてテロを行った」と理解されている印象を各種報道から受ける。筆者は、このような先入観をここで覆したい。

この問題はもっと複雑である。まず、チェチェン独立派はもはや武装勢力としてほとんど消滅しており、北コーカサスにおいてはその政治基盤すらない。実際に北コーカサスで闘争をつづけているのは、独立派から枝分かれした急進的イスラーム勢力である。しかし、この急進的イスラーム勢力は、その能力においても目的においても対露闘争を最優先事項としており、アメリカを直接の攻撃対象とみなしてこなかった。そして、チェチェンとアメリカの関係は、亡命したチェチェン独立派指導者がアメリカの政治勢力やロビーストと協力関係にあるなど、テロ事件が発生するまで、敵対的というよりもむしろ良好なものであったのである。

このような事実を踏まえると、今回のテロに対するわれわれの捉え方は変化する。このテロは本来、チェチェン人にとって何ら利益を生まない行為のように思えるからである。したがって、われわれにとってもっとも衝撃的な事実は、「アメリカがふたたびイスラーム過激主義者によって攻撃された」などという点にあるのではなく、「アメリカがチェチェン人によって初めて攻撃された」という点にあることに気がつくだろう。

現在も犯行の動機は明らかではなく、現状の限られた情報ではテロの動機や全容解明は困難である。しかもインターネット上では、民兵会社Craft Internationalの関与やFBI陰謀論も出てきており、今後もしばらく情報は錯綜しそうである。そこで、この小論ではテロの動機や全容解明ではなく、この事件を捉える際に押さえておかなければならない種々の事実 ――つまり、チェチェン紛争に対するアメリカの立場、チェチェン人とアメリカ社会の関係など―― を提示することで、冒頭にあげたようなこの事件への先入観を払拭することに重点をおきたい。

以下では、まず今回のテロの犯人とされるチェチェン人兄弟が持つ複雑な経歴を読み解きつつ、読者にとって馴染みのないチェチェン問題についても簡単に説明することからはじめたい。

ツァルナエフ兄弟が物語るチェチェン問題

筆者は現在、中央アジアのキルギス(クルグズ)共和国に滞在している。犯人とされるツァルナエフ兄弟のうち、兄のタメルランがこのキルギス出身だというニュースが流れたとき、少なからぬ驚きをおぼえた。しかし、すぐにこの兄弟はチェチェン人の歴史を体現しているのではないかと思うようになった。読者の中には、「なぜ中央アジア出身のキルギス市民(チェチェン人)がチェチェン紛争によってアメリカに逃れたのだろうか」と疑問を持つ方も多いだろう。

2009年の国勢調査によれば、現在、キルギス共和国には1875人のチェチェン人が居住している。人口が約540万の同国において、彼らは非常に小さな割合しか占めていないが、じつはもともとキルギス共和国にはチェチェン人は居住していなかった。彼らは、1944年にスターリンによって、「対独協力をした敵対民族」の汚名を着せられ、他の北コーカサスの民族とともに中央アジアに強制移住させられたのである。

強制移住は何の前触れもなく行われ、抵抗する者、身重や病気で動けない者は殺害された。そして集められた人々は、列車に詰め込まれ、休憩や食事も満足に与えられない劣悪な環境で長時間・長距離を移送されたため、多くの人々が命を失った。なお、彼らの自治共和国も廃止され、その領土は周辺の共和国に分割された。

このようにして中央アジアに強制移住させられたチェチェン人のほとんどは、フルシチョフが「スターリン批判」をした翌年(1957年)、復活したチェチェン・イングーシ自治共和国に帰還した。それでもカザフスタンやキルギスには少なからぬチェチェン人(1959年の国勢調査で前者には約13万人、後者には約2万5000人)が居住していた。今回のテロ事件の犯人とされるチェチェン人兄弟の兄(タメルラン)も、このような経緯からキルギスで生まれた。

兄のタメルランが生まれてすぐにソ連ではペレストロイカ、その後にはソ連の解体と連邦構成共和国の独立という激動の変化が生じたが、彼らの故郷のチェチェンでは民族主義的な勢力が政権を握り、ロシアからの独立を標榜した。キルギスに居住していたときの隣人の話では、ちょうどこの時期(92年頃)に彼らはチェチェンに帰国したようである。その後、第一次チェチェン紛争(1994〜96年)が近づくと身重の母はダゲスタンに逃れ、そこで弟のジョハルが生まれた。じつは、このジョハルという名前は、チェチェン(独立派)初代大統領・ドゥダーエフのファーストネームと同じである。ジョハル・ツァルナエフもその名前によって、彼らチェチェン人が当時おかれていた状況を物語っている。

アメリカに移住するまでのツァルナエフ兄弟の詳細な足取りは不明だが、彼らの移住は、2002年から03年頃とされている。じつは、この頃は第二次チェチェン紛争(1999年〜?)で苦戦を強いられていた独立派内部の過激派集団が、ロシアに対してテロ戦術を採り始めた時期であり、モスクワ劇場占拠事件をはじめ、チェチェン独立派の犯行とされるテロが頻発した。そして、これに対するロシア側の「テロリスト掃討作戦」も激しくなった。この頃、ロシアは、難民キャンプなどがテロリストや武装勢力の拠点となっているという理由で、チェチェンの隣国イングーシやダゲスタンにあった難民キャンプを閉鎖し、難民をチェチェンに強制送還し始めていた。こうしたこともあり、兄弟はアメリカに逃れたのだろう。

このようにしてアメリカに逃れたツァルナエフ兄弟は、なぜアメリカでテロを行うこととなったのであろうか。アメリカは、ある側面においてはチェチェン人たちの擁護者ですらあったのに、である。以下では、チェチェン問題とアメリカの関係に話を移したい。

チェチェン問題とアメリカ

1990年代にチェチェンで独立派政権が誕生し、ロシア連邦からの独立を掲げたとき、これを支援しようとする国は国際社会には存在しなかった。チェチェンの独立は、グルジアのガムサルフディア政権を除けばどの国にも承認されず、国際的に孤立した。アメリカは、第一次チェチェン紛争が始まっても「これはロシアの内政問題である」として、ロシア政府に一定の理解を示していた。このような国際的な環境は、現在に至っても変化していない。

イギリスの政治学者J. ヒューズは、西側諸国のチェチェンへの対応について、「コソヴォの独立路線をセルビアとの合意を無視してまでも進めながら、チェチェンの独立への道義的支援も物質的支援もせず、ロシアの国内問題だとすることは明確な二重基準である」と批判するが、チェチェン問題に対して「これはロシアの内政問題だ」とするアメリカの立場は終始一貫している。他方で、アメリカはチェチェン問題に何ら関与してこなかったとまでは言えない。

ひとつは、「人権問題」としての憂慮である。ソ連が解体し、ロシアにおいて民主的な政権が樹立されたと信じていたアメリカは、チェチェンという一地方に武力侵攻するロシア・エリツィン政権に衝撃を覚えた。とくに、一般人に多数の死者を出すロシアの作戦、あるいは武力紛争そのものに強く反対をした。このような人権問題の観点からアメリカ政府がロシア政府を批判し、一定の圧力を加え政策の変更を求めるという行為は、アメリカがIMFなどを通してロシアを支援していた90年代には行われていた。もちろん、それは実効的なものではなく、実際に効果もほとんどなかったが、それでも批判の表明や限定的行動はとっていたのである。

もうひとつは、アメリカとチェチェン独立派の間に一定の接触があったということである。あまり知られていないが、ドゥダーエフ大統領も、その後のマスハドフ大統領もアメリカを訪問している。いずれも私的な訪問で、たとえばマスハドフの訪米にあたっては彼の代理人がモスクワのアメリカ大使館でビザ申請をしなければならなかったが、他方でアメリカの政財界関係者と会談するなど接点は持っていた。マスハドフは97年から98年に二度、訪米し、ペンタゴンで国防省関係者と意見交換したり、セスタノヴィッチ国務長官特別顧問と会談したりした。

このようなチェチェン独立派とアメリカの政財界の接触は、第二次チェチェン紛争が発生した後も継続している。たとえば、アメリカにはマスハドフ政権期に外務大臣を努めたイリヤス・アフマドフが2004年に政治亡命している。このアフマドフはチェチェン問題の解決のために独自案を提示するなど、ロシア政権のチェチェン政策に批判的な人物である。彼はアメリカにおいて議会や世論に一定のロビーイング活動を行っており、彼の支援者にはブレジンスキーなどがいる。

アメリカにも1999年の創設された「チェチェンの平和のための委員会」(フリーダム・ハウスが運営)があり、上述のブレジンスキーに加え、アレキサンダー・ヘイグ元国務長官も生前この活動に参加していた。この組織は、400にもなる海外の活動家、ジャーナリスト、学者、NGOとネットワークを有しており、一定の政治的影響を有している(なお今回の事件に対する公式の反応は今のところない)。

アメリカのチェチェン問題に対するこのような立場は、9.11同時多発テロが発生し、米露が大きく接近した期間に少し揺らいたが、それでも全面的に変わることはなかった。たしかに、ブッシュ政権はロシアが求めていた「チェチェン紛争は『テロとの闘い』である」という主張に理解を示したが、他方で依然としてロシアとの間には温度差が残っていた。たとえば国連の安保理決議にもとづき作成されたテロリストの資産凍結措置対象リストには、バサーエフやヤンダルビエフなどの過激派は加えられたが、穏健派のマスハドフは加えられなかった。アメリカは、穏健な独立派とは対話を通して紛争の解決を図るべきだという立場を継続していたのである。

このようにアメリカとチェチェンの関係は、敵対的というよりも良好なものであったが、その一方でチェチェン人はアメリカ社会でまったく問題にならないほどの少数派であり、その存在すら十分に認知されていない。今回のテロに対する誤解や先入観が生まれている背景に話を移したい。

アメリカ社会とチェチェン人

今回のテロが発生した後、多くのアメリカ人はチェチェンに対する十分な知識を持ち合わせていなかった。たとえば、テロが発生した直後、チェチェンとチェコと混同するマスコミや世論が少なからずあり、チェコ側が異例の反論をしていた。またアメリカではテロ後、アナリストたちがチェチェンと中東のイスラーム過激派勢力を同一視してこの事件を語る傾向にあるが、ここにもチェチェン問題に関するアメリカ社会の関心の薄さや誤解があるように思う。

現在、アメリカに何人のチェチェン人が居住しているか、その正確な数は不明だが、報道によれば250名以下とされている。このように在米チェチェン人の規模は非常に小さく、彼らを代表する公的な組織も存在しない。したがって、今回のテロが生じるまでチェチェン人は、アメリカ社会にその存在すら十分に認知されていなかっただろうと思われる。

アメリカの有力なシンクタンクであるジャームス・タウン基金は、今回の事件後、この問題に関するレポートを配信しつづけているが、その中に「アルカイーダ・チェチェン神話を打ち砕く」というものがある。第二次チェチェン紛争が始まって以降、「チェチェンにはアルカイーダの基地がある」というような主張が盛んになされるようになり、今回のテロもこのような「イスラーム・テロ・ネットワーク」の図式で語られる傾向があるが、この配信記事はこれに異論を唱えたものである(なお記事自体はもともと2003年に配信されたものを再送したもの)。

筆者も含め多くの研究者は、もともとアルカイーダとチェチェンの繋がりには懐疑的で、両者の間には精神的な連帯とか共感はあっても、武装人員の提供や訓練、武器や資金の供与、あるいは共同作戦の実施などという具体的な協力関係はほとんどないと考えている。アルカイーダとチェチェンの繋がりが指摘された背景には、アフガンで従軍経験のあるアラブ人部隊が第一次チェチェン紛争に少数ながらも参加したこと(彼らの司令官であるハッターブによればその数は250名程度)、そして第二次紛争の発生後(2000年)にチェチェンの独立をタリバン政権が承認したことに起因している。

だが、アルカイーダとチェチェンは、もともとその運動の目的も攻撃の対象も異なっている。チェチェン独立派はロシア連邦からの独立を掲げる政治勢力であり、闘争の相手はロシアであってアメリカではない。たしかに第一次紛争後から政治指導者が急進的イスラームを動員資源として活用して以後、第二次紛争の発生とともに独立派の中でも過激派が主導権を握るようになった。そして2005年に穏健派のマスハドフが殺害されると、2007年にチェチェン独立派は分裂した。それは、ロンドンを拠点としマスハドフ路線を支持するザカーエフのチェチェン独立派亡命政府と、北コーカサスにおけるイスラーム国家の樹立を掲げ、対露ジハードを行うウマーロフの「コーカサス首長国」である。

現在、北コーカサスで現実に武力闘争を行っているのは、「首長国」の方であり、彼らの主張はイスラーム過激主義的なものであるが、他方で彼らは近年、その勢力を低下させているともされる。2010年には古傷をかかえるウマーロフが引退を表明したという報道が流れ、直後に彼がこれを否定したが話題となった。また同年にロシア軍に殺害された「首長国」の幹部ブリヤーツキーは、もともと東シベリアのブリヤート共和国出身の仏教徒であった。この事件を受けて、わざわざ東シベリアから指導者となる人材を確保しなければならないほど「首長国」は切迫しているのではないかと分析する論者もいた。さらに昨年には、「反プーチン・デモ」がロシアで盛んに繰り広げられているのを見て、ウマーロフは自分たちの敵であるロシア政権に抗議するロシア市民に攻撃を加えるのは本意ではないとして、対露ジハードの休止を宣言していた。

このように「コーカサス首長国」は、その宗教的・政治的立場がイスラーム過激派として位置づけられるという点においては、理論的にはアメリカを攻撃してもおかしくはないように思われるのだが、現実にはアメリカを攻撃しなければならない対象とみなしておらず、テロを行ったことも一度もない。そしてここ数年の彼らは、その目的においても能力においても、対露闘争以外に戦線を広げる余裕などなく、昨年にはその対露闘争すら休止していたのである。したがって、冒頭にあげたような「チェチェン独立派の中のイスラーム過激派が『イスラームの敵』であるアメリカを攻撃した」などという図式は当てはめることができないのである。

解けないパズル

以上のような事実を踏まえると、チェチェン人がアメリカに対してテロを行う大きな動機は存在しないように思われる。チェチェンとアメリカの関係は、一部の亡命独立派指導者とアメリカの政治勢力やNGOなどに限定されるものの良好な関係であり、チェチェン人がアメリカを攻撃しなければならない理由は、ここからは見当たらない。アメリカ社会とチェチェン人の関係については在米チェチェン人の規模が小さいため、トラブルなどを筆者は把握できていない。

もちろん、今回の兄弟もアメリカで庇護請求をしていた(難民としての保護を求めていた)ようなので、紛争状況下での心的ストレス、受入れ社会との言語や文化、価値観の違いや摩擦、仕事や収入の問題などを抱えていたのかもしれない。とくに兄のタメルランは「アメリカ人の友人はいない」と述べていたとされるので、相談できる相手がいないことで焦燥感を感じ、アメリカ社会との溝も深まったのかもしれない。そして自己防衛のために自らのアイデンティティを探し求め、急進的なイスラームに辿りついたのかもしれない。

仮にそうだとすると、今回のテロに対してアメリカ社会が抱いている先入観は、チェチェン人とアメリカ社会の関係を今後悪化させる可能性が高い。今回のテロでアメリカ社会がチェチェン出身者に対して偏見を伴った厳しい監視の目を向けることは容易に想像できるが、これがチェチェン人たちの新たな反発を生むことが予想されるからである。今回のテロがこのようなアメリカ社会とチェチェン人を取り巻く問題で生じたとアメリカが認識するのならば、これを改善することがテロの抑止につながるということも認識する必要があろう。

しかし、そもそもこのような経緯で本当にテロの動機が形成されたのかどうかも改めて問い直さなければならない。「孤立感から過激思想へ」などという理解は、逮捕されたジョハル・ツァルナエフから十分な動機が語られていない現状では推測の域をでない理解であるし、今までの議論を踏まえると十分に納得できるものでもない。なぜならば、兄弟がチェチェン紛争に強い関心をもち、急進的なイスラーム思想に傾倒していたのであれば、攻撃の対象は本来ロシアに向くはずであり、アメリカに向くようには思えないからである。アメリカを攻撃することは、チェチェン人に少なくとも理解のあるアメリカの政治勢力をチェチェンが失ってしまう恐れが高く、このことはチェチェン人にとって好ましいことではない。

もちろん組織的な関与はなかったと報道される現状は、「急進的なイスラーム思想を信仰するチェチェン人が同胞の苦難よりも他のムスリムのためにテロを行った」特異な事例としてこのテロを捉えることも可能かもしれない。いずれにしても、このテロに存在する「解けないパズル」の背景に一体なにがあるのか、ジョハルの口から明確な回答が語られることを期待したい。そのことがテロの犠牲者の冥福を祈るためにも欠かせないと筆者は考えている。

プロフィール

富樫耕介紛争研究 / 旧ソ連研究

1984年生まれ。横浜市立大学国際文化学部卒業、東北大学国際文化研究科博士前期課程修了、東京大学総合文化研究科博士後期課程修了(博士(学術))。外務省国際情報統括官組織専門分析員、ユーラシア研究所研究員、日本学術振興会特別研究員PDなどを経て、現在、東海大学教養学部国際学科講師。専門は、紛争研究、旧ソ連研究(とくにチェチェン紛争)。主要な業績として、『コーカサス』(2012年、東洋書店)、『チェチェン』(2015年、明石書店)、”Risks of Conflict Recurrence and Conditions for Prevention: The Paradox of Peacebuilding”, Asia Peacebuilding Initiatives (Aug. 2015 Osaka University)、「北コーカサスを理解するための分析視角」『ロシア・ユーラシアの経済と社会』第994号 (2015年、ユーラシア研究所)。

この執筆者の記事