2013.09.12

スクオッターの生活実践 ―― マニラの貧困世界のダイナミズム

石岡丈昇 社会学・身体文化論

国際 #マニラ#スクオッター

フィリピン・マニラの貧困世界、その象徴がスクオッターである。スクオッターとは、私的所有権をもたない土地に定住する人びと、およびその集住地域のことを指す。こう言うと何だか小難しく聞こえるが、平たく言えば、空き地に自主建造された家屋に暮らす人びと、およびそのエリアのことだ。そこでは多くの住民が貧困線以下の暮らしを余儀なくされている。マニラ(正確には計17市町から構成されるマニラ首都圏)には、こうしたスクオッターが数多く存在し、その人びとの数はマニラの人口の三分の一を占めると言われる。

スクオッターは行政サービスからは取り残されたエリアである。選挙を控えた地元政治家が集票のために道路を整備するなどを除けば、生活基盤整備が施されることはまずない。たとえば熱帯特有の強い雨が降った際には、多くの家屋が床上浸水になる。また、台風の時期には、家ごと吹き飛ばされるケースも少なくない。スクオッターは、インフラ整備の面では、脆弱な場所なのである。

だが、スクオッターの内部を歩いてみると、そこでは脆弱な貧困地域というイメージを覆す数々の生活の機微に触れることができる。インフラ整備が施されないため、住民は自ら生活空間を創出する。排水路を整備し、街灯を設営し、祭りを開催し、固有の生活を創造していくのだ。たしかに貧しくはあるが、そこに息づく自前性・自律性の力は相当のものだ。ここでは、そうしたスクオッターのおびたただしい生活実践を紹介していこう。スクオッター住民の生活実践を見てみると、そこが社会的周辺地域ではなく、危機を生き延びる叡智の集積する先進地域であることが読み取れるはずだ。

スクオッターに住まう

私は、2005年4月からの一年間、マニラのスクオッターに隣接するボクシングジムで住み込み調査をおこなった。その成果は『ローカルボクサーと貧困世界』(世界思想社、2012年)という本にまとめたが、その間私がやっていたことは、ボクサーと一緒に練習をしながら、それが終わると彼らと一緒に近場をぶらつくというものだった。ボクサー(彼らもまたスクオッター住民である)と一緒にスクオッターを歩くというのは、私にとって大変刺激的なものだった。スクオッターには、私の思いも寄らないようなやり方で日常を成り立たせる仕掛けが溢れていたからである。

一枚の写真を見てもらおう。

リノタイプの一家屋(日ノ本一氏撮影)
リノタイプの一家屋(日ノ本一氏撮影)

これは私が最も出入りしていたスクオッターであるリノタイプ(マニラ首都圏パラニャーケ市)での写真である。このように壁画する住人の姿からは、スクオッター家屋が単なる雨露しのぎの器としてあるのではなく、住人の精神が根を下ろす場としてあることがわかるだろう。この写真を撮ってくれたのは、知人の日本人カメラマンだが、彼もこの家屋を目にするや否やシャッターを切っていた。それくらい、この家屋はインパクトのあるものだった。

日本に暮らす多くの人びとは、第三世界のスクオッター(あるいはスラム)と耳にすると、そこでの家屋を、何ら個性をもたない代替可能の容器と捉えがちである。しかしスクオッターの家屋には、それぞれの顔がある。作りの強度(レンガかベニヤか)や居住面積(一階建てか二階建てか)に関係なく、家屋にはそれぞれの住人の世界が宿っている。

スクオッターには、先人の立てた家屋を賃貸で借りる者もいるが、彼らにしても自分たちで手を加えることで住み良い空間を創り出す。スクオッターの家屋には、彼らの手の痕跡が刻み込まれているのである。この手の痕跡こそが、独自の空間を生み出す。スクオッターとは、自らの手先を動かしながら、生活の根拠を創出する人びとなのである。

こうした生活の根拠の創出は、個々人や単独の家族単位だけでなく、より広範な単位での共同によって、より確固としたものとなる。この共同の生活実践の例として、一風変わった葬儀の作法は外すことができない。それは、私がフィリピンで調査をする中で最も驚いたものだった。

ある日の夕方、私がいつも通りボクサーと一緒にスクオッターをぶらついていると、ある家屋に普段には無い灯りがついており、その灯りの向こうに人だかりができていた。その家屋は普段から目にしていたが、人が集まっているのは目にしたことが無かった。集まった人びとはその入り口で賭けトランプに興じていた。上半身裸で短パン、サンダル姿の男たちがたばこを吸いながら真剣なまなざしでカードを切る、それをさらに後ろから眺めているだけの者が「それじゃないだろ、切るのは」などと声を上げる。

ひとつのゲームが終わると、負けた者が「あ〜あ」といった様子で自分のカードをテーブルの上に投げ広げる。トランプがテーブルに落ちる際に生ずるバサッという音は、世界中どこで聞いても同じだ。私は、そんな賭けトランプに熱中する人びとを背伸びして後ろから見ていたが、ふと視線を逸らすとその先には予想だにしない光景があった。なんと、賭けトランプをしている場所の奥には棺が置かれてあり、その棺の前で何人かが祈りを捧げているのだ! 私はしばらくの間、なぜ賭けトランプと棺が共在しているのか、訳がわからなかった。

奥で静かに祈りを捧げる者と入り口付近で賭けに熱狂する者。静謐空間と喧噪空間。あまりのミスマッチに唖然としていると、隣にいたボクサーが教えてくれた。「トモ(筆者のこと)、これは通夜だよ」。それを聞いて、やはりこれは通夜だったのかと思うと同時に、そんな通夜の場面で賭けに興ずるというのは、さすがに不謹慎であるように感じた。

スクオッターで日常的に耳にするのは、人の笑い声と鶏の鳴き声である。ここでは、人も鶏も豪快だ。加えて、賭け事に熱中する人びとの声もよく耳にするものだ。しかし、いくら何でも、近隣住民の死に直面した夜ですら、人びとが寄って集って賭けをするのは、私にはまったく理解不能だった。だが私のこの感覚は、すぐに大きな修正を迫られた。続けて、隣のボクサーがこう教えてくれたからだ。「この賭けトランプで勝った者は、葬儀の費用を助けるために勝ち金のうちの15%を喪主に与えるのさ。それで葬儀の費用を助けるんだよ」。

なんと、彼らはあえて通夜で賭けをしていたのだ。そして、葬儀補填費を捻出することで、貧しい喪主であっても葬儀を開催できるようサポートしていたのである。この事実に私は驚愕するばかりだった。と同時に、通夜の場で賭けトランプに興じるということに彼らの生活の奥深さのようなものを実感した。喪に服すと言うと、神妙な面持ちで故人を偲び、遺族を慮る、そうした静謐さのみを私は思い描いて生きてきた。しかし、ここではそうではない。トランプの形式を借りて熱狂と笑いと罵声で死を受け入れつつ、なおかつ貧しい喪主が葬儀を無事に執りおこなえられるよう経済的な互助活動を展開しているのである。庶民生活の創造性というものを強烈に思い知らされた出来事だった。

スクオッターで食べる

スクオッターではさまざまなモノの貸し借りがおこなわれる。爪切り、ハサミ、金槌と、いろいろなものが貸し借りされるが、最も頻度の高いのはフライパンや包丁や調味料といった食事にまつわるモノである。

スクオッターに暮らす知人宅で何時間も雑談をしていると(特に用事もなく知人宅を訪れ何時間も居座るというのは、よくあることなのだ)、その家族と親交の深い近隣家族のありようが見えてくる。

あるとき、夕方近くに、隣に住む女性が「大きめのフライパンをひとつ貸してくれない?」とやってきたことがあった。各家庭にはフライパンはもちろん常備されているが、諸事情によりその数が足らない時などは近隣家族に借りるのだ。フライパンを貸してあげると、二時間くらい経って皿に入れられた焼飯がその女性から届けられる。「温かいうちに食べてよ」。それはフライパンを借りたことへのお礼でもある。そのフライパンは翌日に返却された。同様に、塩や胡椒、醤油などの調味料も、近隣の家族間で貸し借りされる。

調理道具だけでなく、料理そのものも近隣家族で頻繁に交換される。スクオッターは密集しており、家屋間も小径ひとつで分かたれただけである。そのため、料理をしていると、おいしそうな匂いが近隣を包み込む。住民は隣の家族のメニューを匂いで知ることができる距離で、互いに暮らしているのだ。

近接した居住空間(筆者撮影)
近接した居住空間(筆者撮影)

そんな匂いを醸し出す家の前を親交のある別の住民が通りかかった際には、料理中の者は必ず声をかけなければならない。「いまアドボを作っているから、できたら食べていかない?」といった具合に。アドボはフィリピンの代表料理で、スクオッターでも大人気のメニューだ。肉と醤油と酢の入り交じった甘い匂いは、スクオッターの路上ではこの上なく食欲を喚起する。誘いを受けた者は食べていくこともあるし、「さっき食べたばかりだから」と断ることもある。

食事提供をめぐる呼びかけと応答は、スクオッターで暮らす上でとても重要なものだ。スクオッターでは「我が家の料理は我が家だけのもの」というルールは通用しない。「我が家の料理であっても親交ある近隣住民とシェアするもの」というのが、そこでの規範なのである。おいしそうな匂いを醸し出しておいて、その前を通りかかった近隣住民に何も話を切り出さなければ、「あいつはケチ野郎だ」と陰口を言われかねない。

一方で、料理を作っている側からすれば、いつも近隣住民に分け与えていたのでは、自分たちの食べる物が少なくなってしまう。そのため、通りすがりの者は、適宜理由をつけて、食事提供を断るマナーが必要とされる。よってスクオッターでは、「食べていく?」「いや、さっき食べたばかりだから、よしておくよ」という会話が、よく聞かれることになる。料理をしている家族は、このように食事提供を断ってもらえると、我が家の食事を心おきなく楽しむことができるのだ。

食べ物をシェアするというのは、スクオッターだけでなく、フィリピン全土で見ることのできる振る舞いである。だが、スクオッターでは、その意味合いがより強くなる。なぜなら、スクオッターでは失業とそれが引き起こす貧困が慢性化しており、三度の飯を食べることが容易ではない家族も多々存在するからだ。食べ物がない家族は、「これ食べる?」と誘われた近隣家族の食卓に子供だけを行かせることもある。家族全員でそれを食べるのは気が引けるため、そのような行為を取るのだ。

ある時、そうして引き返しそうになった両親に対し、料理を作っていた側の家族が「今日は、親戚が遊びにくる予定だったら、多めに作ってたの。でも、来なくなったから、余ってて。ぜひ食べていって」と引き止める姿を目撃したことがある。もちろん、「親戚が遊びにくる」予定などは当初から無い。しかし、こうして理由づけをしてまで、困窮家族の自尊心に配慮をし、食卓を彼らにひらくその姿にこそ、スクオッター生活の核にある「共に生きる意志」が具現化されているのだ。

ここで「三度の飯を食べるのも厳しい」スクオッターの貧困の程度について記しておこう。2005年のデータになるが、筆者と親交の深かったあるスクオッター世帯の年間収入は、39,200ペソ(=約79,000円)だった。この額は2000年のマニラ全体の平均世帯収入である300,304ペソのわずか13%である。取り上げた世帯は、この地域のスクオッターで特別に困窮していたわけではない。当該地域のどの世帯もこの程度の経済生活を営んでいるというのが実態だった。この数字にはスクオッター生活を全般的に覆う圧倒的な貧困が現れている。

このような貧困をもたらす最たる要因は、失業である。そして失業は、貧困に加えて、家族生活の時間的予見をも奪い取る。それはすなわち、失業が収入「額」の低下と同時に、収入「間隔」の不規則さを生み出す点に起因する。スクオッターでは失業が慢性化しているため、人びとは現時点で収入があってもいつそれが打ち切られるか予見が立たない状況下を生活している。これは生活を極度に不安定にする。収入間隔が一定であれば、人びとは次の収入を予見しつつ、生活の展望を組織化できる。現在の経済事情が厳しくとも、それをいつまで辛抱すればよいのかという観点―これを時間的予見と呼んでおこう―を得ることができるからである。

だが、失業によって収入間隔が一定ではない家族は、そうした展望を描くことが厳しい。フランスの社会学者ピエール・ブルデューが述べたように「生活が営まれる時間と空間の枠組みの体系は、規則的な労働が与えてくれる準拠点がなくては、つくることはできない」(P.ブルデュー『資本主義のハビトゥス』藤原書店,1993: 118)のである。多くのスクオッター家族は、失業によって、生活を展望する上で必須の時間的予見を奪われる。「今後」を構想する観点を奪われ、絶えざる「今」に縛り付けられるのだ。

時間的予見を喪失した住民の暮らしは、「出口なし」の状況を強いられる。しかしそれでも住民は生き抜く。所帯居候戦略はそのひとつだ。これは経済事情がいよいよ立ち行かなくなった際に、親密な別家族のところにまるごと居候するというものだ。そうすることで、家賃や光熱費などの基礎的な部分での消費を削減することができ、家族生活を立て直すことが可能になる。そうして一時的に身を寄せておいて、次の職にありつくことができれば―すなわち時間的予見を手にすることができれば―、再び独立して自分たちの家族で住み始めるのである。

このような困窮時の所帯居候戦略は、スクオッターでは共通に見られるものである。だが、居候戦略を取るには、それを可能にする別家族が存在しなければならない。それを見つけられなかった家族には、路上生活が待ち構えている。

スクオッターでうわさする

スクオッターでは住民が支え合うことで、厳しい経済状況下を生き抜いている。そこでは「自立した個人」では生活できない。比喩で言えば、他人が自分のドアを開き、自分も他人のドアを開く、そういった相互にドアを開き合う関係が、スクオッター生活を成り立たせるのだ。

だが、こうした支え合いは、当然、住民間のトラブルをもたらすこともある。多くの場合、トラブルは「チスミス(tsismis)」によって引き起こされる。フィリピン語でチスミスとは、うわさ話のことを指し、うわさ話ばかりをしている者は男性なら「チスモソ(tsismoso)」、女性なら「チスモサ(tsismosa)」と呼ばれる。スクオッターには、チスモソやチスモサがたくさんいる。

たとえば、私がマニラに暮らし始めた2005年4月頃、近くのスクオッターをボクサーと並んで歩くと、その翌日には私のことが辺り一帯で噂されていた。私の場合、「ボクシングジムに住んでいる日本人」という共通理解がされて何の問題も生じなかったが、スクオッターのチスミスで多く語られる不倫関係や金銭問題、さらには誰かに物事を出し抜かれた、といった話題の場合、チスミスから当事者住民間の大問題へと発展する。

私が出入りしていたスクオッターであるリノタイプには、およそ180世帯が暮らしているが(人口は1,000人ほど)、こうしたチスミスはほぼ全住民の耳に入る。チスミスで話題とされる住民は、四方八方で自分がネタにされている感覚に陥り、それは恐怖ですらある。そして、そのチスミスの発信源となった住民を怒り、恨むのだ。

チスミスはこのように特定の住民間を分断させるが、しかしながら、この分断は永続するわけではない。私が驚いたのは、チスミスによって、あれほどまでに文句を言い合っていたふたりの住民が、ある時にはそんなことがまるでなかったかのように助け合ったことだった。

それは2005年7月に大雨が降った時のことだった。リノタイプ周辺は洪水し、住民たちは「スイミングプールができ上がったぞ」と冗談を言うくらいひどいものだった。マニラの集中豪雨はものすごい強さで降り続ける。トタン屋根が破れんばかりの雷雨だ。降り出して20分もすれば路上が浸水し、まもなく家の中にも雨水が押し寄せる。まったなしで増水する模様は、水に人間が追いつめられる風景でもあり、体験した者にしかわからない恐怖である。このような集中豪雨の際、まず住民が対処しなければならないのは、家具や日用品をできるだけ濡らさないことと、乳幼児を高い場所に避難させることである。

ある家屋には18歳の母親と生後10ヶ月の息子がいた。彼女の夫は外出中で、彼女はひとりで対処せねばならなかった。なかなかうまく日用品の移動ができないでいると、ひとりの女性が入ってきて、作業を手伝ってくれた。その女性とこの18歳の母親は、男性関係をめぐるチスミスが原因で口もきかない仲になっていた。にもかかわらず、事態を目にしたその女性は、この母親を落ち着かせ、日用品の移動を手伝ったのである。さらにその女性は知り合いの男性を呼んで、彼が背の高さを活かして天井のハンモックを再調整し、そこに10ヶ月の息子を置いて、この危機を乗り切ったのである。

この出来事からわかるのは、チスミスは特定の住民間を分断するが、スクオッターで生活するためには、そのような分断を永久化するのではなく、状況によってはそれを「棚上げする」姿勢が要請されることである。

言い争いはスクオッターにつきものである。しかし、言い争いに固執していては、スクオッターでは生き延びることができない。「あれはあれ、これはこれ」と割り切る姿勢が重要なのだ。そうして、棚上げにしているうちに、両者の間には再び交流が芽生えてくる。チスミスが原因で言い争っても、スクオッター生活を成り立たせる上でその分断は時間とともに融解していく。そんな模様を私は幾度も目にしてきたし、上記の出来事もそれに当てはまるものだ。私はこの時以来、個々人の間の言い争いや好き嫌いなどは絶対的なものではなく、所詮、文脈次第で変わりうる程度のものだと考えるようになった。

スクオッターで歌う

スクオッターは眠らない。深夜にも路上に屋台があり、笑い声が聞こえてくる。それは、夜警やGRO(Guest Relations Officersの略で、ナイトクラブで働く女性のこと)として、夜に出勤する人びとが数多くいることと関係している。だが、スクオッターの夜がにぎやかなのは、何と言っても、近隣住民が集って酒を飲むからだ。そこではタガイタガイという飲み方が主流で、安いジンやウォッカを、粉末を溶かした甘いジュースで割って、それをひとつのコップで回し飲みするというものである。男同士で飲むことが多い。

酒を飲みながら、踊り、そして歌う。深夜、酒を飲みながら、スクオッターに暮らす自称ラップミュージシャンの歌に聞き入ることもある。

これは私がデジカメで撮った映像で、2009年3月のものである。中古の携帯電話(2000年以降のマニラの携帯電話の普及率は急激に高まった)を音源とし、それにミュージシャンのひとりが右手で器用に「プップッ」とリズムを取ることで、ラップが開始する。酒を飲みながら、皆で聞き入り、時には一緒に歌う、そんな時間は最高だ。このふたりのラッパーは地元では有名で、頼まれればどこの家屋にでも出かけていき、ラップを披露する。そこでチップをもらって、小銭を稼いでいる。

中古のMP3プレイヤーで音楽を聴きながら酒を飲み、語り合うこともある。ジョークが飛び交う空間であるが、こういう時だからこそ真剣な話題が口を衝いて出ることもある。2009年、私の知人のひとりが深刻な事態に直面していた。彼には妻子がいたが、妻がオーストラリアの裕福なビジネスマンに言い寄られ、その妻は彼との離婚を決意したのだった(彼女は翌2010年には子供ふたりを連れてオーストラリアに移住し、そのビジネスマンと再婚した。彼女は現地で一軒家に暮らし、マイカーを二台所有する暮らしを手に入れた)。

酒を飲みながら彼は言う。「子供のことを考えたら、オーストラリアに行くのが良いってわかってる。フィリピンには仕事がない、スクオッターには仕事がないし、学校にもやってやれない」。そう語って押し黙る。そこに集っていたのは10名くらいだったろうか、誰もが彼の窮状を知っていた。天井のトタンを眺める者、足を組み直す者、空のグラスを見つめる者。皆、酒に酔い、赤目になっているから、泣いているのかどうかはわからない。場は沈黙する。彼は静かに泣いた。

その時である。反対側に座っていたひとりが、声を上げて泣き真似を始めたのだ。「ウエ〜ン、ヒ〜」。目を擦りながらの渾身の演技である。それにつられて、もうひとりも、さらには別の者も、泣き真似を始める。みんなで泣き真似をすることで、その場を茶化し、彼が直面する事態とそれに伴う感情をやり過ごそうとしているのだ。泣き真似という方法の採用も、またその開始の絶妙のタイミングも、私の胸を深く打つものだった。その即興は、彼への共感と共苦に基づくものだった。泣き真似で茶化しても、彼の経済的困窮がもたらした悲惨が緩和されるわけではない。だが、泣き真似によって、悲惨を分散することはできる。悲惨を彼ひとりで背負うのではなく、共同化することでやり過ごすのだ。この光景は、その時MP3より流れていたエリック・クラプトンのワンダフル・トゥナイトのメロディと共に、私の中に深く刻み込まれている。

歴史の消去としての強制撤去

以上、私がフィールドワークをする中で経験した出来事を断片的に記してきた。スクオッターは行政サービスから取り残された地域であるが、そこには住民たちの数々の生活実践が息づいていることがわかるだろう。スクオッターとは単なる法的に無権利の居住地帯なのではない。スクオッターという用語(squatter)がスクオット(squat:しゃがむ、根を下ろす)という動詞から派生しているように、そこは人びとの実践と相まって形作られる世界なのである。そのため、スクオッターには生活実践の累積としての住民の歴史が詰まっている。

最後に、今日のマニラのスクオッターを覆う危機に触れておきたい。近年、マニラのスクオッターでは、かつてない規模の強制撤去が頻発するようになった。2000年以降、マニラの世界都市化が進み、多国籍企業が相次いで参入するようになったが、それに応じて中心市街地の用地確保のためにスクオッターの強制撤去が急増した。具体的には、2001年に2,073家族であった強制撤去家族数が、2011年には14,744家族に急増した(The Urban Poor Associatesのデータ)。マニラのスクオッターの平均家族数は6名であることから、2011年だけでも単純計算で9万人近い人びとの住居が剥奪されたのである。

マニラのスクオッターは、未曾有の規模で地ならしされていっているのだ。撤去の補償として住民には5,000ペソ(=約1万1千円。2013年時点でのスクオッターの平均世帯月収の7割程度)の現金か、もしくはマニラから数十キロ離れた辺境の再居住地が与えられるかのどちらかである。本稿で記述したのはパラニャーケ市のスクオッターであるが、この自治体でも2012年4月に大規模な強制撤去が起こり、行政の実力行使に抵抗したひとりの住民が亡くなった。

スクオッターの強制撤去についてはさまざまな論点があるが、ひとつだけ言及しておくなら、それは単なる用地の確保を超えて、人びとの歴史を消去する実力行使である点だ。

強制撤去は土地を収奪すると同時に、本稿で記したような住民の生活実践とその累積としての歴史を消し去る。住居を消去し、濃密な社会関係を消去し、トランプと共に見送られた死者を消去するのだ。よって、強制撤去の反対運動は代替住宅などの補償問題のみへと矮小化されてはならない。そこに見据えられるべきは、歴史を強制的に消去する暴力である。スクオッターの生活実践を書くことは、彼らの歴史を目に見えるものにする実践であり、強制撤去に対してノーを突きつける基礎作業である。

あえて政策的論点まで書き添えるならば、スクオッターの生活を充実したものにするためには、インフラ整備の前に、まずは行政によって居住権が保障される必要がある。実際多くのスクオッターによる社会運動もその点を至上目標に据えている。

注意が必要なのは、そこで求められているのが居住の権利であって、住宅の権利ではないことだ。本稿で記述してきたように、居住とは、住むという実践を通じて、人びとがその土地や社会関係の中に根を下ろす営みのことである。居住権とは人びとがそこに根を下ろす中で形成されたホームを保障するものであって、単なる物理的住宅としてのハウスを保障するものではない。強制撤去によって数多のスクオッター住民がホームレスに陥り、生活実践の共同単位の喪失によってさらなる困窮化が進む今日、居住権の獲得と保障こそが住民の生活を充実させる基礎になるはずだ。

ハウスではなく、ホームを。

プロフィール

石岡丈昇社会学・身体文化論

北海道大学大学院教育学研究院准教授。1977年岡山市生まれ。2008年筑波大学大学院博士課程人間総合科学研究科単位取得退学。博士(学術)。単著に『ローカルボクサーと貧困世界——マニラのボクシングジムにみる身体文化』(世界思想社、2012年、日本社会学会第12回奨励賞)、訳書にロイック・ヴァカン『ボディ&ソウル—ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー』(新曜社、2013年)など。

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