2013.10.22

クーデタはエジプトに何をもたらしたか?

横田貴之 現代エジプト政治

国際 #クーデター#アラブの春#エジプト#ムルシー#イスラーム主義

2013年7月3日、アブドゥルファッターフ・スィースィー国防相兼エジプト軍最高評議会(SCAF)議長は、軍部隊を市中に展開し、憲法停止とムハンマド・ムルシー大統領の解任を発表した。このクーデタにより、エジプト史上初の自由な大統領選挙で選出されたムルシーは、就任から1年余りで失脚することとなった。カイロ市中心部のタハリール広場に集結した百万ともいわれる市民は、ムルシー政権崩壊をもたらしたクーデタを称賛した。

現在、エジプトでは、軍の影響下で暫定政権が発足し、2014年までの民政移行に向けて政治日程が進められている。しかし、ムルシー支持派による抗議デモと治安部隊との激しい衝突が頻発する事態になっており、いまだ混乱状態から脱していない。

2011年にホスニー・ムバーラク政権を崩壊させた「1月25日革命」以降、エジプトでは混乱をともないながらも議会選挙、大統領選挙、新憲法制定が行われ、新しい国づくりが進められてきた。しかし、今回のクーデタによって、振り出し地点に再び戻ることとなった。しかも、それはムバーラク政権崩壊時よりも複雑な問題を抱えながらの再出発と考えられる。本稿では、エジプト国内に焦点を定め、クーデタの背景を検討した上で、エジプト政治の現状を概観し、クーデタがエジプトにもたらした諸問題について考察する。

クーデタと軍の思惑

2013年6月下旬、ムルシー大統領就任1周年を間近に控えたエジプトでは、ムルシー政権打倒を標榜する抗議行動が活発化した。その中心的な役割を担ったのが都市部青年層を中心とする緩やかな反政府組織の「反抗(タマッルド)」であった。彼らは、ムルシー大統領の辞任を求め、6月30日までに1,500万人の署名を集める活動を行っていた。6月30日までに、彼らは2,200万を超える署名を集めたといわれる。

6月末、大統領辞任を求める多数の国民の声に後押しされたタマッルドは、タハリール広場で大規模な反ムルシー・デモを組織した。この抗議行動はエジプト各地へ波及し、全土で数百万人が反ムルシー・デモに加わったとされる。ムルシー政権および同大統領の出身母体ムスリム同胞団に批判的な世俗主義・リベラル派の野党・政治勢力もこの動きに合流した。ムルシー政権下で周縁化されていた野党にとって、市民による政権打倒の声に乗じることは当然の選択であった。

エジプト軍も反ムルシー・デモの拡大にともない、政権から明確に距離を取った。7月1日、スィースィー国防相は、ムルシー大統領に対して48時間以内の事態収拾を求める「最後通告」を行った。また、収拾がかなわない場合、新たな政治プロセスを軍独自の「行程表」でしめす用意があるとした。これに対して、ムルシー大統領は軍の不当な政治介入としてこれを批判し、選挙によって選出された自らの正統性を主張した。同大統領は事態収拾へ向けた対話を試みたが、反ムルシー派はそれに応じなかった。結局、ムルシーは期限内に事態を収拾することはできなかった。

7月3日、クーデタによってムルシーは権限をはく奪された。軍部隊は大統領府周辺や同胞団系テレビ局などの要所に展開し、ムルシー支持派の行動を封じ込めた。スィースィー国防相は声明において、軍はエジプト国民の要求に従って今回の行動を取ったのであり、政治的な奪権の意図はないと強調した。軍はたびたびムルシー大統領に国民対話を要求してきたにもかかわらず、同大統領は「国民の要求に応じることができなかった」とし、軍は自らに課された責任を果たすために行動したと主張した。

タハリール広場に集結する市民からは、ムルシー政権の幕を引いた軍の行動に対して賞賛の声が上がった。他方、同胞団を中心とするムルシー支持派は、クーデタという不当な手段によって正統かつ民主的な政権が打倒されたと主張し、この「暴挙」に対して徹底的に抵抗すると反発した。

今回のクーデタについて、エジプト軍が国民の声に従ってやむを得ず行動したと考えるのは、いささか表層的な見方であろう。軍がクーデタに動いた最大の要因は、ムルシー政権が軍の既得権益に挑戦しようとした経緯にある。

ナセルからの歴代政権下、エジプト軍は予算・人事などで政府や議会の監督・介入を受けない独立性を有してきた。また、軍は食品、建設、観光、警備などの多様な業種に及ぶ関連企業群を有している。諸説はあるが、軍関連企業は同国GDPの10~40%を占めるとされ、これら企業は軍のほぼ独占的な管理下にあるといわれる。エジプト軍は独立性を有する特権的な組織として既得権益を保持してきた。

ムルシーは自由かつ民主的な選挙で国民に選ばれた正統性を背景に、軍は国防に専念すべきと発言するなど、軍の既得権益へ挑戦する可能性を示唆した。また、昨年8月にムルシーがタンターウィー国防相兼SCAF議長(当時)を更迭し、軍の最高人事権に介入したことは、軍に危機感を抱かせた。ムルシー政権下で、軍の既得権益が制限される恐れが高まったが、軍は民意に支えられた大統領の排除に動くことはできなかった。

危機感を抱いた軍は、ムルシー政権の正統性の基盤、すなわち国民の支持が弱まるのを虎視眈々と待っていたのではなかろうか。反ムルシー・デモの急速な拡大は、軍にとって千載一遇の機会であったと考えられる。混乱が拡大し、ムルシー政権への支持が低下する中で国民の要求に応じるという構図は、軍が実力行使によってムルシーを排除する上で、必須かつ絶好の大義名分であった。

上述のように、エジプト軍はその物理的な力(軍事力)を背景に、大きな経済的特権と政治的独立性を維持してきた。軍出身者が大統領を務めた歴代政権下、軍はいわば不可侵の存在であった。しかし、「1月25日革命」後の政治変動の中で台頭した同胞団、およびそこから誕生したムルシー政権は、軍の既得権益への初めての挑戦者として登場した。既得権益の維持を図る軍と、それに挑戦しようとする同胞団・ムルシー政権は、遅かれ早かれ衝突する運命にあったともいえよう。また、エジプト社会で強固かつ広範な支持基盤を有する同胞団は、軍に対抗しうるほぼ唯一の政治的アクターである。軍にとって、反ムルシー・デモの高揚は最大の挑戦者である同胞団を弱体化させる機会であり、クーデタはさらなる同胞団弾圧の端緒でもあった。

市民の反ムルシー感情

クーデタの前触れとなった反ムルシー・デモは、市民の間から生じたとされる。1年前には多数の市民がタハリール広場でムルシーの大統領就任を熱狂的に祝福したにもかかわらず、わずか1年でその熱狂は政権打倒へと向かった。その理由は何か?

しばしば指摘されるように、政治的要因は重要な一因である。ムルシー政権下のエジプト政治では、同胞団の支持派と反対派が対立した。同胞団は国政選挙で勝利を収め、「数の論理」を背景に立法府と行政府の実権を握った。選挙で同胞団に対抗することのできない世俗主義・リベラル派の諸政党は、同胞団の権力独占に対抗するため、ムルシー政権との対話拒否を選択した。エルバラダイ国際原子力機関(IAEA)前事務局長らを中心に結成された「国民救済戦線」はその代表例である。彼らは新憲法制定プロセスからも脱退した。

このため、ムルシー政権は同胞団および少数の友好政党に依存せざるを得なくなった。そして、そのメンバー・支持者に歓迎されるよう政権がイスラーム色を強めた結果、同胞団支持派と同胞団反対派のさらなる政治的分極化(一般的には、「イスラーム主義と世俗主義の政治的分極化」と表現される)が生じることとなり、対話や協調に基づく政治は機能しなくなった。しかし、これは政治エリート間で見られた状況であり、一般市民が分極化した訳ではなかった。このような政治の機能不全が市民を失望させたことは疑いない。また、大統領権限は司法権を超越すると定めた「憲法宣言」(2012年11月)に代表されるように、ムルシーの強権的な行動も市民の強い批判を招いた。しかし、エジプトにおいて、世俗主義・リベラル派の諸野党に対する市民の支持は必ずしも強いものではない。政治的な要因のみでは、市民の反ムルシー感情の十分な理由とはならない。

市民がムルシー政権を拒絶するに至った経緯を検討するには、政治的要因に加えて経済的な要因、すなわち市民生活の悪化を考慮する必要がある。

ムルシー政権が直面した経済問題の根源は、「1月25日革命」以降のエジプトにおける治安悪化、政情不安であった。それは、エジプトを訪れる外国人観光客の足を鈍らせた。2011年の観光客数は、革命前の2010年の1,480万人から約30%減少したとされる。ムルシー政権下では緩やかな観光業の回復が見られたが、革命前の水準には達しなかった。また、エジプトでは外貨導入による経済開発政策が長らく進められていた。しかし、2008年の世界金融危機以降、外国直接投資(FDI)の流入は停滞した。「1月25日革命」以降、この傾向はさらに強まり、エジプトからのキャピタル・フライト(資本逃避)も進んだ。ムルシー政権下では、観光客収入とFDIという外貨収入の要が不調なままであった。

外貨収入不足は、エジプト政府の外貨準備高に直接的な影響を与えた。「1月25日革命」直前(2010年末)の外貨準備高は361億米ドルだったが、革命後は外貨収入不足を補うために外貨準備が切り崩された。その結果、ムルシー政権発足後まもなく、エジプトの外貨準備高は150億米ドルを割り込む事態となった。エジプトの1ヶ月あたりの輸入総額は約50億米ドルであり、一般的には外貨準備の適正水準は3ヶ月分(150億米ドル)とされる。クーデタ直前の6月末の外貨準備高は149.2億米ドルにまで減少した。ムルシー政権は、外貨不足に対処するために国際通貨基金(IMF)と48億米ドルの融資交渉を続けていたが、結果的に融資は実現しなかった。

外貨不足はエジプト・ポンド通貨の信用を揺らがせ、2012年12月以降、エジプト・ポンド安が急速に進んだ。2013年5月16日、エジプト・ポンドの対ドル為替レートは約10年ぶりとなる1米ドル=7エジプト・ポンドの水準に達した。エジプトは世界最大の小麦輸入国として知られるように、食料や燃料などの必需品を輸入に頼っている。エジプト・ポンド安は、輸入される生活必需品の不足・価格高騰に直結した。市中では食料品が高騰し、ガソリンスタンドでは給油を求める長い車列が現れた。また、2013年2月以降、インフレ率は7~8%の水準で推移し、一般庶民の生活を直撃した。さらに、ムルシーの大統領就任以降、失業率は12~13%の高い水準を維持し、若年層の就業は特に困難であった。

無論、ムルシーは政権発足直後から、治安や物価など市民生活の改善に向けた諸政策を実施したが、いずれも目標を達成できなかった。また、外貨不足改善のためにIMFからの融資を実現しようにも、その前提条件となる経済・財政改革に乗り出すことができなかった。国民の支持を正統性の根拠とするムルシー政権にとって、市民に痛みを強いる補助金や公務員の削減は選択肢となりえなかったのだ。また、軍関連企業の会計透明化により税収向上を目指す動きも同胞団内ではあったが、軍との対立を招くことが必至の政策は実行できなかった。結果的に、悪化する市民生活に対して、ムルシー政権は無為無策となってしまった。

こうしたムルシー政権の経済的・政治的失政など諸要因が相まって、市民の不満が高まり、世論が次第に反ムルシーへ傾いたと考えられる。こうした中で登場したのがタマッルドの反ムルシー署名活動であった。彼らは生活苦や政治的混乱など「諸悪の根源」はムルシー政権にあると集約化することで、市民の不満は反ムルシー・デモへと転化したと考えられる。

クーデタ後の暫定政権と同胞団弾圧

7月4日、最高憲法裁判所長官アドリー・マンスールが暫定大統領に就任した。8日、マンスールは、早期の憲法改正委員会の設立、年内の憲法改正国民投票の実施、そして2013年初めの議会選挙と大統領選挙という民政移行の行程表を示した。16日には、経済学者ハーズィム・ベブラーウィーを首相とするテクノクラート内閣が成立した。同胞団、および同胞団と友好的なイスラーム主義勢力を排除する形で、暫定政権は運営されている。

現在のエジプトでは、民政移行に向けた政治日程が進行中である。7月20日、憲法改正委員会が発足し、行程表の具体化に向けた第一歩が踏み出された。軍・暫定政権は、民政移行の成果を具体的かつ早期に示すことで、自らの正統性を示そうとしている。ナビール・ファフミー外相が国連総会(2013年9月)において来春までの民生移行完了を明言するなど、政権閣僚からは民政移行に対する楽観的な発言も見られる。

しかし、エジプトの民政移行は依然として予断を許さない状況にある。その最大の要因が同胞団である。軍・暫定政権は、失脚したムルシーの出身母体である同胞団に対して、厳しい姿勢で臨んでいる。これまで、同胞団の最高指導者ムハンマド・バディーウ、第1副最高指導者ハイラト・シャーティルなど指導部をはじめ数千名が逮捕され、デモ参加者殺害指示の疑いなどで起訴されたメンバーも多い。同胞団は、選挙で選ばれたムルシー前大統領にこそ正統性があると主張し、クーデタをおこした軍および暫定政権に対して、「平和的デモ」で抵抗するようメンバー・支持者に訴えている。

スィースィー国防相は、抵抗を続ける同胞団とそのメンバー・支持者に対して、「テロリズム」や「テロリスト」という言葉を用いて批判し、軍・治安機関はテロリズムに対抗するための権限を国民から付与されていると主張している。7月24日、スィースィーは市民に対して、(実質的には反同胞団デモでもある)軍・暫定政権支持の街頭デモを行うよう呼びかけた。これは、強固な支持基盤を有する同胞団への対抗が目的である。なお、彼の大衆動員的な政治手法は、1950~60年代に同じく同胞団を弾圧したナセルの手法を想起させるものでもある。いずれにせよ、ここには、最大にして唯一の挑戦者である同胞団を徹底的に弱体化するという軍の意向が示されている。実際に、デモを継続する同胞団に対して、軍・暫定政権は流血の事態をいとわない取締りを行っている。8月14日の治安作戦はその端的な例であろう。この作戦では、カイロ市内でムルシー支持を掲げて籠城する同胞団メンバーが治安部隊によって排除され、死者約千名、負傷者数千名という惨事となった。同日には非常事態令が発令されるなど、軍・暫定政権は力による同胞団排除の姿勢を明確に示した。

また、同胞団に対する法的規制も活発に行われている。9月23日、カイロ緊急審判法廷は、同胞団、および同胞団から派生した団体・NGOの活動を禁ずる判決を下した。同胞団と協力関係がある団体や、資金援助を受けた団体にも、同様に活動禁止を命じた。また、同判決は暫定政権に対して、同胞団の資金・資産・建造物を凍結し、それらを管理する独立委員会を設立するよう命じた。これは、実質的に同胞団の解散を命じる判決といえよう。

9月24日には、同胞団の傘下政党「自由公正党」の機関紙『自由と公正』の編集部が当局によって閉鎖された。また、10月8日には、暫定政府が同胞団のNGO資格はく奪を決定する事態となっている。なお、同胞団は2013年3月にNGOとして登録され、長年の「非合法状態」に終止符を打ったばかりであった。今後も、軍・暫定政権は同胞団に対して、力による弾圧を継続しつつ、組織基盤を切り崩すための法的な規制強化にも積極的になるであろう。

軍・暫定政権による排除の動きに対して、同胞団は抗議活動を継続するなど強く反発している。その一方で、同胞団指導部は軍との全面対決には依然として慎重な姿勢を示している。もし軍と全面的な武力衝突になれば、組織存亡の危機に陥ると彼らは考えているからだ。それゆえ、「平和的」な抗議デモによって継続的に軍・暫定政権へ抵抗を続けている。弾圧により同胞団が暴発するのではないかという懸念もあるが、現在のところ、筆者は同胞団指導部が即座に武力闘争という選択肢を選ぶとは考えていない。短期的な成果が出ずとも、弾圧に対する忍従方針を堅持するのではないか。

同胞団は社会奉仕活動を通じて、エジプト国内に広く社会的ネットワークを構築している。仮に政治活動が弾圧されたとしても、基盤となる社会的ネットワークが健在であれば、政治状況の変化に応じて復活できると彼らは考えている。また、ムルシー政権への国民の不満の原因となった経済問題を軍・暫定政権が速やかに解決できるとは考えにくい。いずれ暫定政権は行き詰まると同胞団は考えており、復活の時機まで耐え忍ぶのではないか。

しかし、同胞団への弾圧がより苛烈なものになると、一部メンバーの暴走が懸念される事態もありうる。今後の同胞団の動向を考える上で重要なのは、同胞団の非合法化の是非、そして非合法化されるならばその程度・範囲である。同胞団の組織基盤である社会奉仕活動もその対象となれば、一部急進的なメンバーが組織防衛のために過激な行動に走る可能性も否めない。しかし、エジプト国内に流出している武器の種類を考えれば、1990年代のアルジェリアや現在のリビアのような状況に短期間でなるとは考えにくい。

エジプトの直面する課題

クーデタによって、エジプトには新たな問題がもたらされた。また、クーデタ前の諸問題も、未解決のまま残存している。

第1に、政治的な問題として挙げられるのが、政治的分極化の深化、あるいは社会的亀裂の深刻化である。上述のように、これはムルシー政権下ですでに顕現化していたが、あくまでも政治的エリート間での問題であった。しかし、クーデタ後、同胞団支持派と同胞団反対派の政治的分極化は一般市民を巻き込むものとなってしまった。軍・暫定政権による反同胞団キャンペーンや、スィースィー国防相による軍支持・反同胞団デモの要請など大衆動員的な行動は、同胞団の是非をめぐる政治的分極化を国民レベルまで拡大した。同胞団側も、弾圧に抗議し対話の道を閉ざすとともに、抗議デモへメンバー・支持者を動員することによって、一般メンバー・支持者を軍・暫定政権と鋭く対立させることとなった。こうした双方の動きにより、エジプト社会の社会的亀裂は深刻化した。これは、「1月25日革命」直後にはなかった新たな問題である。

第2の政治的な問題としては、街頭政治(ストリート・ポリティクス)の優位が挙げられる。今回のクーデタにより、エジプトでは制度政治よりも街頭政治が市民の支持、あるいは正統性を得ていることが明らかとなった。ムルシー政権の崩壊は、選挙という民主的な手続きで選ばれた指導者に対しても、街頭行動で退陣に追い込めるという街頭政治の論理に、多くの市民が正統性を見出していることを示した。さらに、今回のクーデタを通じて、多数の市民による街頭政治の要求を実現するためであれば、クーデタという手段にも正統性が与えられた。これらは、今後のエジプト政治の為政者にとって、大きな制約になりかねない。つまり、為政者は常に街頭にいる市民の声を最優先せざるを得ない。大衆迎合的な政権では、増税や補助金廃止などの不人気政策を採用することは困難となろう。また、軍によるクーデタが正統性を得た以上、為政者は軍に対しても配慮せざるを得ず、軍の既得権益の改革は今後ますます困難となろう。改革すべき諸問題が山積するエジプトにおいて、街頭政治の優位は将来の新たな問題の火種になりかねない。

次いで、経済的な問題としては、第1に、エジプトの経済問題は未解決のまま残存している点を指摘できる。無論、クーデター後、サウジアラビアをはじめとする湾岸諸国3ヶ国による総額120億米ドル規模の支援で外貨繰りは改善し、エジプト経済と市民生活は一息をついている。しかし、こうした支援は無限に続くものではなく、あくまでも一時しのぎに過ぎない。エジプトの経済危機の原因である治安悪化や政情不安は、クーデタ後にさらに悪化している。同胞団の抗議デモにともなう衝突のみならず、シナイ半島での武装勢力の跋扈、宗派対立の激化、各地でのテロ事件など枚挙にいとまがない。このため、暫定政権の経済再建の努力にもかかわらず、観光業もFDIも回復が見られず、外貨収入は低調なままである。インフレ率や失業率も大幅な改善には至っていない。ムルシー政権が苦悩した経済問題は、そのまま現在も継続している。

第2の経済的な問題としては、上述の政治的問題とも関わるが、暫定政権が経済問題の抜本的解決に乗り出せないことである。ムルシー政権も直面した問題であるが、エジプト経済の根本的な立て直しのためには、恒常的な財政赤字を減らすための経済・財政改革が必要である。特に、食料や燃料に支出される補助金は政府予算の約1/4を占めており、財政赤字の主因のひとつとなっている。また、エジプトでは総人口8,500万人に対して約700万人の公務員がいる。同国では雇用対策の一環として公共部門の就労者が多いが、その人件費は財政を圧迫している。経済・財政再建のためには、こうした支出を削減することが必須なのだが、いずれも市民生活に直接的な影響を与える問題であるため、これまで手つかずのままであった。現暫定政権は大衆迎合的にならざるを得ず、抜本的な経済・財政改革に踏み出すとは考えにくい。民政移行が実現したとしても、制度政治よりも街頭政治が優先する状況下では、新政権も同様の問題に直面するであろう。エジプト経済再建の見通しは、決して明るいものではない。

なお、同胞団が弾圧に対して忍従方針を堅持している理由の1つは、軍・暫定政権にとって諸問題の根源である経済問題の解決は困難であろうという読みがある。同胞団は、一向に改善しない経済状況に対して市民が再び街頭に繰り出す事態を想定し、その時に訪れるであろう復活の機会を窺っているのであろう。

おわりに

今回のクーデタによって、エジプトは「1月25日革命」直後よりも、さまざまな問題を抱えるに至った。本稿執筆現在も、エジプトでは同胞団の抗議デモが頻発している。それに対して、軍・暫定政権は力による同胞団の取り締りを継続し、治安維持に精力的に取り組んでいる。最近の司法判断を考えると、同胞団の非合法化という事態にまで進む可能性も否めない。エジプト社会における亀裂はますます深まっている。また、エジプトの治安・政情は安定せず、依然として経済再建の糸口も見出しにくい状況である。民政移行プロセスについては、憲法改正委員会が順調に作業を進めていると報じられているが、クーデタ後も活動を続けるヌール党などのイスラーム主義勢力は、イスラーム色を薄める改正案に強く反対の意を示している。先の憲法制定時と同様、憲法改正をめぐる対立も予想される。

エジプトが安定を取り戻すためには、上述の政治的・経済的諸問題を克服する必要がある。そのためには、街頭政治の「呪縛」を乗り越え、制度政治への復帰が必要となろう。また、エジプト最大の実力者である軍にとっては、実質的に唯一の挑戦者となりうる同胞団の復活を招きかねない事態は不都合である。同胞団を今後の政治プロセスに取り込むのか、あるいは排除するのかによって、エジプトの将来は大きく左右される。現在のところ、軍・暫定政権は力による同胞団排除を志向しているが、エジプト社会に一定の支持基盤を有する同胞団を完全に排除しつづけることは困難である。また、エジプトではクーデタ後、ムバーラク元大統領の保釈に見られるように、旧政権関係者の復活の傾向がみられる。こうした動きは、「1月25日革命」前への回帰とも指摘されており、今後のエジプト政治に影響を与える可能性が高い。

混迷の度合いを強めるエジプトにおいて、軍・暫定政権はどのような国づくりに向かうのか? そして、同胞団はどこまで忍従方針を堅持するのであろうか? エジプトの今後を注意深く見守る必要があろう。

サムネイル「0153-1107-Egypt-D-011」mbaudier

http://www.flickr.com/photos/mbaudier/6098242170/

プロフィール

横田貴之現代エジプト政治

日本大学 国際関係学部准教授。1971年、京都府生まれ。京都大学博士(地域研究)。早稲田大学政治経済学部政治学科卒(1995年)、北海道電力(株)勤務を経て、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了(2005年)。(財)日本国際問題研究所研究員を経て、2010年4月より現職。主な著書・論文に、『現代エジプトにおけるイスラームと大衆運動』(ナカニシヤ出版、2006年)、『原理主義の潮流―ムスリム同胞団』(山川出版社、2009年)など。

この執筆者の記事