2014.04.09

「民主化の成功」という国際評価の罠――インドネシアの政治から見えてくるもの

本名純 インドネシア政治・東南アジア地域研究・比較政治学

国際 #スハルト#国軍ドクトリン#ハビビ#選挙#メガワティ#民主主義#synodos#シノドス#インドネシア#ミャンマー#アラブの春#ユドヨノ

「お経」となった「インドネシアの民主化成功」

2011年に世界の注目を浴びた「アラブの春」から3年。私たちは各地で頓挫する民主化の行方を見てきた。また、過去10年に渡ってイラクやアフガニスタンでアメリカを中心に進められてきた国家再建や民主化といったプロジェクトも、順調というには程遠い状況にある。そんななか、国際社会はアジアの民主化に大きなラブコールを送る傾向にある。対象はミャンマーとインドネシア。東南アジアの2つの国である。

ミャンマーの軍政は、2010年以降、「上からの民主化」に乗り出し、民政移管の演出とアウンサンスーチー女史の政治参加により国際的な支持を集めてきた。過去20年以上、ミャンマーの軍事政権に批判的だったアメリカが、2012年に初の現職大統領のミャンマー訪問を実現させ、同国の民主化を賛美したことに象徴されるように、国際社会は同国の新しい政治に期待している。

それと同様、もしくはそれ以上に、熱い眼差しがインドネシアに注がれている。2009年4月にタイム誌は世界で最も影響力のある100人のうち、第9位にユドヨノ大統領を選び、インドネシアを「イスラム大国であるだけでなく、民主化して文化的な活力と経済的な繁栄を両立している」と称賛した。その翌年には米国のオバマ大統領がジャカルタを訪れ、国立インドネシア大学で講演を行ったが、彼がアピールしたのもインドネシアの宗教的な寛容と民主改革の成功であった。

2012年には、エコノミスト誌の「世界の民主主義度指標」が、日本・韓国・台湾に続くアジアで第4番目の民主主義国として、インドネシアの台頭を高く評価している。同年、英国キャメロン首相もジャカルタを訪問し、地元の大学での講演で「インドネシアの民主化の成功は、民主主義とイスラムが共に繁栄できることの証であり、エジプトを含め多くのイスラム国家の励みになっている」と絶賛した。

グローバルな金融コミュニティも、インドネシアを持ち上げる。同国をBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)と同列に扱うべきだという主張は珍しくない。ゴールドマンサックスのNEXT11、プライスウォーターハウス・クーパーズのE7(新興7カ国)、エコノミスト誌の CIVETS(コロンビア、インドネシア、ベトナム、エジプト、トルコ、南アフリカ)など、将来の有望国を特定しようとする試みの多くにインドネシアの名前が入る。ここでも、民主政治の安定と定着が経済成長の基盤として、明るい国際投資の展望がアピールされる。

このように国際的に称賛されるようになったインドネシアの民主化の定着であるが、面白いことに「なぜ定着しているのか」を問う議論は皆無に近い。世界の政治リーダーや金融界、エコノミストたちが賛美するのは「安定」や「定着」というキーワードで説明される民主政治の状況であり、どう安定しているのか、なぜ定着しているのか、という踏み込んだ部分には関心は示さない。

それはなぜか。簡単である。欧米の政治リーダーたちが強い関心を持っているのは「アラブの春」のその後であり、イラクやアフガニスタンの現状であり、決してインドネシアではない。こういった国々に直接介入して、政権を転覆して民主化させようとしてきたことの失敗を決して認めたくないのが欧米の政治リーダーたちであり、そのためにインドネシアの「成功例」が必要なのである。

つまり、「イスラムと民主主義は両立する」、「多民族・多宗教・多文化国家でも民主化は定着する」、「自由と民主主義は人類の普遍的な価値なので非西洋文明でも育つ」というファンタジーを「お経」のように唱えることで欧米の中東政策を正当化しようと試みてきた政治指導者たちとって、インドネシアの「民主化成功」は必要なフィクションとして、お経の一部にしっかり埋め込まれているのである。

そこには「なぜ安定しているか」、「どう定着しているか」という視点は必要とされない。むしろ邪魔である。大事なのはインドネシアの民主化は安定しているという一点である。それに沿って同国の政治が国際的に称賛されてきた。ここ10年はとくにそうである。では、その民主化の安定と定着はどのようにして実現されてきたのか。その実態をみることで、「成功」の秘訣を浮き彫りにしたい。

「成功」の秘訣を理解するのは、さほど難しくない。要は、不安定要因をどう管理したかを見ればよい。それは主に3つあった。第一に民主化前の強権政治のシンボルであった国軍の管理。第二に、自由な時代になって分離独立を叫ぶ地方の管理。第三に、民主化で表舞台に出てきた政党政治の管理である。以下にそれらを見ていくが、その前に、大事なポイントとして押さえておきたいのは、民主化の「きっかけ」である。具体的にはスハルト長期独裁政権(1966-98)の崩壊であり、まずその性格を理解することが重要である。

「勝つための民主化」

スハルト政権の崩壊は、1997-98年のアジア通貨危機の煽りで同国経済が瀕死となったことに端を発している。生活苦を背景に、各地で学生や市民団体がスハルト退陣を迫る大規模デモを展開し、その政治の混乱が都市での暴動にまで発展したことで、国軍も国会もスハルトの退陣しか打開策がないと判断した。スハルトもそれしかないと悟った。これがスハルト政権の崩壊であり、その後の「民主化時代」の政治の舵取りは、スハルト時代末期に権力の中枢にいた人たちの主導権で進められてきたのである。

その意味で、インドネシアの民主化は人民革命でもなければ、外国の武力攻撃に負けて、外から民主化が持ち込まれるというタイプとも違う。ここには、世間一般的にイメージされる民主化、すなわち、権力を独占している支配層が外部の圧力に負けて、権力を奪われ、支配が崩れて民衆の政治参加が進む、という力学は見られない。逆に、権力の中枢にいた人たちが、スハルトという長年にわたって忠誠を示してきた「親分」を見捨てて、民主化を演出することで既得権益の保持・拡大が可能になると考えた結果、政変が起きたのである。

もっと核心を言うならば、彼らは、民主化後に新興政治勢力が台頭して競争になったとしても、昔から権力に近い自分たちのほうが資本も政治インフラも強いので十分やっていけると判断し、民主化を実現させた。つまり支配エリートによる「勝つための民主化」であり、「敗北の証としての民主化」ではない。この実態は、世間一般、とくに国際社会の抱く民主化のイメージとは大きく異なる力学であり、その後の展開を理解する上で決定的に重要になってくる。

スハルト大統領©Tempo
スハルト大統領©Tempo

民主化しても維持される国軍の既得権益

では具体的にみていこう。まずは国軍の民主化適応である。スハルト時代、国軍は政治を支配してきた。「二重機能」という国軍ドクトリンを掲げ、軍人は独立戦争の担い手として、軍事のみならず政治に深く関与する義務があるとし、非軍事部門への介入を正統化してきた。

当時の将軍たちは、政治の安定こそが外資の誘致につながり、それが経済成長をもたらし国が豊かになるという開発独裁の論理を掲げることで、クーデターのような短期の政治介入ではなく、長期に渡る国軍の政治支配を正統化してきた。スハルト時代の30年の間、この「政治の安定」という名の下で、多くの反政府運動が弾圧され、沢山の人が殺されてきた。その意味で、国軍は抑圧時代のシンボルであり、民主化で真っ先に弱体化されるべき対象だと多くの国民が思っていた。

ところがスハルト後の民主化時代の政治指導者たちは、国軍に抜本的な改革を迫ることはしなかった。国軍の自発的な改革でよしとし、それ以上の圧力をかけてこなかった。なぜそうなのか。その理由は、「勝つための民主化」に国軍も加担しており、直接スハルト退陣に貢献しているからである。辞任の前日、スハルトは、自らの子飼いで当時の国軍司令官であるウィラント大将に、「大統領としてのスハルトはもう守れないが個人としてのスハルトはこれからも国軍が守る」と引導を渡された。これが辞任の決定打となった。その貢献があるため、民主化後も文民政治家は国軍の立場を尊重することになった。

1998年5月のスハルト退陣後、すぐに国軍指導部とハビビ新政権の間にある種の「協定」ができた。国軍は新政権を支持し、政治の前面から撤退して民主化に順応する態度を示す。そのかわり、ハビビ政権は国軍の自己改革を尊重する、自律性を妨げない。こういう暗黙の協定である。それに沿って、ウィラント率いる国軍は、「政治からの撤退」を宣言し、国会での軍人議員の廃止や選挙での中立、二重機能の廃止、国防への専念という計画を早々に打ち上げ、翌年には国軍から国家警察を独立させ、軍人にかわって警察官が国内治安を担当する制度を作った。

また、同年には文民統制ということで国防大臣に文民学者を起用し、「改革する国軍」を社会に印象づけていった。それ以降、今日に至るまで、インドネシアの国軍は冒険主義に走って文民政権を乗っ取るというようなことは一度も行っていない。隣国のタイやフィリピンでは、民主化後に頻繁に軍人のクーデター(未遂も含む)が起こり、政治が不安定化するが、インドネシアではそうならない。政軍関係が安定していると国際的に評価される所以である。

なぜ国軍は冒険しないのか。答えは単純で、おおかた満足しているからである。政治からの撤退は、実は国軍にとってさほど重要なことではなかった。より重要なことは、利権や特権を失わないことである。国会に議席を持っていようがいまいが、選挙に介入しようがしまいが、武力で市民を弾圧しようがしまいが、あまり組織として本質的な関心事ではなかったのである。

国軍エリートの関心は、様々な形態のビジネスを通じての経済利権であり、また国防政策を文民に口出しされないで自律的に決めていくことである。その維持ができれば「まずは良し」であり、民主化や文民政権は脅威にはならない。このビジョンを妨害されない限り、政治には関与せず、政党政治家のやることに注文をつけることもしない。これが国軍のスタンスである。

国軍の経済利権は多岐にわたり、不動産、建築、運輸、観光、通信などのビジネスを各地の軍管区で行ってきた。スハルト時代は、そのビジネスが国軍の自己調達資金となっており、憶測だと国防予算の3倍の額に上ると言われていた。国家公務員としての軍人の給与は安いが、このビジネスがあるため、中央でも地方でもエリート軍人は羽振りがよく、豪邸と数台の高級車を持つケースも少なくなかった。国軍の組織としての死活利益は、この利権システムの維持であり、政治的発言権ではない。国軍のビジネス活動は、年々規模が縮小しているように統計的には出てくるものの、資産を転売して間接的に運営するなど、手口の巧妙化が進んでいると同時に、より地下に潜って違法ビジネス、とくに資源の密輸への関与も増加している。

2004年に国民の直接選挙で大統領に選ばれたユドヨノは、国軍出身者であり、組織のビジネス利権のことをよくわかっている人物である。彼の政権になってからいままでを振り返っても、その国軍の利権を解体して組織の暗部にメスを入れるような改革の試みは皆無であった。だから現政権は国軍に支持され安定しているのである。

ユドヨノ政権の前のメガワティ政権(2001-2004)も、国軍の反発を買うようなことはしなかった。その前のワヒド政権(1999-2001)は、国軍を敵に回した。軍内人事を引っ掻き回したためである。その結果、国軍は大統領に面従腹背を決め、国会を後押ししてワヒドを弾劾に導いた。このことから分かるように、スハルト時代に権力の中枢にいた国軍の特権的な利権を民主化のプロセスで排除するのではなく、内部に包摂していくことで、国軍は民主化を脅威と認識せず、文民政権を支えて民主主義を持続させようという意欲が働いているのである。これは「ユドヨノ後」の政権においても同じであろう。今年、新大統領が誕生するが、国軍の利権にメスを入れるような政策イシューはほとんど存在しない。ここに「民主化の安定」の実態が見えてこよう。

インドネシア国軍 ©Tempo
インドネシア国軍 ©Tempo

地方をどう管理するか――利権の分権化と細分化

次に地方の問題を考えてみたい。スハルト時代の終わりは、中央集権時代の終わりでもあった。中央政府に権限を集中して、トップダウンで開発政策を策定・実施し、地方を従属的に扱う時代が長く続いた。スハルトの退陣と民主化の到来で、中央集権は過去の遺産となり、地方は中央政府への従属から開放され、地方自治が拡大する。このような国家パラダイムの転換が期待され、1999年に地方分権化に向けた法律が制定された。

当初、この地方分権化に対しては、進め方を間違えれば国家の不安定を招くという慎重論も多く、実際、中央政府に対する不満が地方の分離独立という動きに発展するケースや、地方政府の失敗によって社会秩序が崩れ、民族紛争や宗教紛争が勃発するケースが見られた。前者でいえばアチェ州やパプア州であり、後者であればマルク州や西カリマンタン州、中カリマンタン州、中スラウェシ州が顕著である。地方分権化によって紛争がエスカレートし、国家が不安定になり、最悪の場合、バルカン半島みたいになってしまわないか、という懸念が国際的に広まった。

アチェの分離独立運動 ©Tempo
アチェの分離独立運動 ©Tempo

しかし、民主化後、数年経って、2004年のユドヨノ政権の誕生以降、そういう国家の不安定に対する懸念はほぼ無くなった。この10年が政治安定の達成と称賛される一つの所以である。では、その安定はどのように作られ、どう維持されているのか。

結論からいえば、混乱の中和化に成功した秘訣は、利権の分権化と細分化である。まず、これまで中央政府が支配してきた国家開発の利権を地方自治体に大きく移譲し、州や県レベルの自治体が中央政府から得る補助金や地元の開発予算を自由に運用できるようにした。これが「利権の分権化」である。

当然、この新しい地方レベルの利権レジームを誰が制覇するかが各地方の政治エリートたちの最大の感心事となり、2005年に導入された地方首長の直接選挙が、新たなゲームのルールとなって、その利権を各地で独占するための競争の場となった。それまで中央に不満を持っていた地方名士たちも、目の前に地方利権を独占できるビジョンを示されれば、分離独立運動に走るよりも、まずはゲームに参加してみようという動機が先行する。選挙資金が豊富で、地元の有力者として大衆動員力のある候補者が、各地の首長選挙で次々と当選し、新たに生まれた地方経済利権を貪欲にむさぼるようになっていった。

こうなると、多くの地方ボスたちは、紛争などに明け暮れるよりも、開発事業を安定的に進めることが大事になり、そのために住民和解や社会調和が必要だという認識が強まる。この力学こそが、インドネシアという巨大国家を民主化の時代にどう舵取りしていくかの答えとなった。つまり、利権の地方化であり、封建的な地方ボスたちを選挙で競争させ、旨味を与えることで、地方の不満が中央に向けられる機会を最小化しているのである。こういう地方ボスたちが民主化時代を謳歌している。だから安定しているのである。

もちろん、全国各地の首長選挙で敗北する地方エリートたちがでてくる。こういう連中が排除されて不満を溜め込むと、国家の不安定につながりかねない。そこで「利権の細分化」という話になってくる。これは既存の地方自治体の分割による新自治体の設立である。つまり、自治体を細かく割っていくことで、有力な地方エリートが地元での競争で負けても、新たな県や市で支配を確立して利権にありつけるのである。

現在、インドネシアでは33の州と500弱の県・市があるが、この4割近い217の地方自治体が民主化後に新設されたものである。分離独立運動を抱えるパプア州などは、2州に分断され、30以上の県・市が新設された。当然、新自治体には予算も権限も与えられる。これだけ利権が細分化され、各地のローカル・リーダーたちが、その分捕り合戦に精を出すような状況になるにつれ、パプアのエリートが一丸となってインドネシアから独立するという政治運動は起きにくくなっている。その意味で国家の安定に貢献しているといえよう。

しかし、その代償はパプアの地方ボスによる日常的な汚職の蔓延と、一般市民の貧困の拡大であり、地方行政など崩壊寸前のところも多いものの、中央政府は見て見ぬふりをしてきた。なぜか。パプア社会の利権エリートたちが反発して、分離独立とか言い出すと面倒だからである。このような利権の細分化が、インドネシアの地方に浸透していくことで、各地のエリートたちに恩恵が分配され、彼らの財と権力が強化される。それが地方の不満を中和化し、国家統一の維持や政治の安定に大きく貢献しているのである。

「政党政治の安定」とその代償

最後に政党政治について見てみよう。政党活動が自由化され、国会の役割が重要になってくると、イデオロギーを掲げて大衆動員に励む政党や、急進イスラム主義を唱えて国のイスラム化を煽る政党が活気づき、国会の紛糾が常態化して政治が不安定化するのではないか。こういう懸念が民主化後の数年、国内外で広く共有されていた。

実際にスハルト退陣の翌年1999年に行われた総選挙では、旧体制下で認められていた3政党に加え、45の新党が選挙に臨み、その結果20政党が国会で議席を保有することになった。多党制の時代に突入し、果たして多民族・多宗教国家のインドネシアは政治の安定を維持できるのか。こういう疑問が、よくメディアや知識人の間で議論されていた。

しかし、その後の展開が興味深い。政党を立ち上げて、政界に影響を及ぼしたいという動機を持つ人たちの共通の懸念は、政党の運営資金である。政党が支持者を増やし、持続的に活動していくためには日々の運営費が必要になる。これをどう捻出するか。大金持ちが党首であるケースは、「個人政党」として運営資金は党首に依存すればよい。そうでない場合はどうするか。一般党員の党費に頼れるほど民主主義が発展していない状況下で、期待されるのは企業献金か国の政党助成金である。

損得勘定で考える大企業、しかも華人系の大実業家が影響力を持つインドネシアで、急進イスラム主義政党や労働党のようなものに、まともに献金する企業はほとんどない。彼らが献金するのは、企業に優しく安定的で保守的な大政党に対してだけである。

こうして右でも左でも極端な政党はどんどん消えていき、それでも泡沫政党として生き残るためには政党助成金に頼りたいが、その額は雀の涙であり、あまり期待できない。そこで最後の砦となるのが汚職である。与党連立に加わることができれば大臣ポストを得られる。そうすれば、その担当省庁に絡む事業に党が関与して利権を捻出できる。党にとって閣僚は「打ち出の小槌」となる。ゆえに政権入りは大きな魅力となり、他党との争いに明け暮れるよりも、「平和共存」で一緒に政権に参加して利権のパイを分け合うほうが、政党エリートにとって大事となる。

この「みんなで与党」体制を上手に管理してきたのがユドヨノ大統領である。2004年から2009年までの第一次政権では8党で連立内閣を作り、大臣ポストを主要政党に分配してきた。2009年から現在までの第二次政権では6党の連立でやってきた。

photo4
ユドヨノ大統領(左)©Tempo

いまの野党は3党だけで、ウィラントが党首のハヌラ党、メガワティ元大統領が率いる闘争民主党、そしてスハルトの元娘婿で陸軍特殊部隊の司令官として1990年代半ばに軍内で君臨していたプラボウォを擁するグリンドラ党である。どれも個人政党しての性格が強く、ウィラントもプラボウォも資産家なので自己調達資金で党を運営できているが、そうでない6党は連立政権に参加し、各省庁に利権を発掘し、大臣をパイプ役にして各党の金庫に汚職で得る資金が流れ込む仕組みを作ってきた。

主要政党の圧倒的多数が、こういう利権システムに組み込まれていくなかで、国会運営も党を超えたエリート政治家同士の談合が当たり前のようになっていった。この談合体制こそが民主化時代の政党政治の安定に大きく貢献してきたのである。

このような政党政治の実態に対して、国民の不信感は大きい。世論調査では、いつでも汚職のシンボルとして国会が非難される。この国民の政党不信こそが、「政党政治の安定」の代償だといえよう。当然、既存の政党を通じての政治参加に限界を感じる市民社会勢力も少なくない。しかし、スハルト退陣運動の時に見せたような「市民社会の連帯」は、経済危機のような非常時でもない限り形成されにくい。

近年、政治の安定を基に、毎年6%近い経済成長を実現している状況下で、市民社会組織の関心も、テーマごとに細分化する傾向が強い。労働問題、環境問題、人権問題、社会保障や貧困といった様々な分野でNGOが活動するが、彼らは彼らで民主化後に活動が自由になり、多忙な日々を送っている。とくに、数々の国際機関や中央・地方政府が「市民社会とのパートナーシップ」というトレンドを積極的に進めるなかで、大量のプロジェクトが各地の優秀なNGOに集中するようになっている。

各々の専門の活動が忙しくなり、「横の連帯」の大義名分を見い出しにくくなっているなか、市民社会勢力は断片化が進んでいる。「民主化すれば強化される」と当初考えられていた市民社会勢力の結束力と影響力は、専門化と細分化によって徐々に断片化され、政治勢力としての役割が限定化されていく。この皮肉な現実が、密やかに着々と進行しつつある。

国際評価の罠を超えるために

以上、3つの局面における政治管理のプロセスを見てきたが、何が問題かはもう明らかであろう。民主化の定着とか成功などという言葉で、インドネシアの政治が国際的に賛美される傾向が強まるなか、その恩恵を最大に受けているのが、例えば国軍であり、地方ボスであり、政党エリートといった、利権確保で特権的な地位を築いた勢力だということである。

スハルト独裁時代に恩恵を受けていた特権エリートたちを、民主化の過程で敵視して排除するのではなく、新しい政治ゲームのなかに包摂することで、システム全体をひっくり返そうという動機を持つ政治勢力を中性化する。それがうまくいっているから民主化が安定し、定着するのである。

しかし、その「安定」は様々な代償の上に成り立っている。とくに新旧の利権エリートたちが、民主主義という新しい政治体制下で「勝ち組」になれると認識していることは、一方で民主政治の安定化に貢献しているものの、その代償として、汚職に依存する非民主的勢力の拡大を招いている。そして、こういう「安定」が国際的な支持を得るほど、彼らは明るい展望を持つ。それは民主政治の更なる質の悪化を意味する。だとすれば、国際社会の無責任な民主化評価が非民主的な勢力の温存と強化に貢献しているともいえよう。

そう考えると、私たちに必要なことは、安易な「国際評価」や、欧米の政治リーダーの称賛を真に受けて、インドネシアを必要以上に持ち上げないことである。「安定」という光の部分が国際的にクローズアップされ、インドネシアの民主化の軌跡に正統性が与えられるほど、影の部分を牛耳る人たちが喜び、逆に質の良い政治に変えていこうと真剣に頑張っている人たちの絶望感を増す。

念のため断っておくが、私はもちろん「嫌インドネシア」ではない。自他共に認める猛烈な「インドネシア大好き人間」であり、今後、同国が大きく繁栄していく姿を夢見ている。それには民主主義の「質の向上」が不可欠だと思うし、そのために日々頑張っているインドネシアの改革派の軍人、政治家、地方首長を沢山知っている。

彼らの士気を下げ、利権エリートを喜ばすような国際評価は、百害あって一利なしである。その危うさを警告するためにも、なぜインドネシアで民主化が安定し、どういう力学で定着しているのかを国際的にきちっと伝える。地域研究には、そういう大事なミッションがあるはずだ。

プロフィール

本名純インドネシア政治・東南アジア地域研究・比較政治学

1967年生まれ。立命館大学国際関係学部教授。インドネシア政治・東南アジア地域研究・比較政治学。1999年、オーストラリア国立大学で博士号取得。2000年から現職。インドネシア戦略国際問題研究所客員研究員・在インドネシアJICA専門家・インドネシア大学社会政治学部連携教授などを歴任。著書に『民主化のパラドックス―インドネシアからみるアジア政治の深層』(岩波書店)、Military Politics and Democratization in Indonesia (Routledge)、『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望』(アジア経済研究所)(川村晃一との共編)などがある。

この執筆者の記事